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中野長者屋敷(東京都中野区) [古城めぐり(東京)]

DSC03924.JPG←山手通り沿いの成願寺
 中野長者屋敷は、中野長者と呼ばれた鈴木九郎の屋敷とされている。鈴木九郎については伝説的な色彩が強く、その真偽は定かではないが、その先祖は古代の貴族穂積氏を元とし、紀伊熊野神社の別当を務め、後に武家となったと言う。一族には、源義経に従って赤間ヶ関や衣川で戦った重家、重清兄弟がいた。九郎は室町時代に中野に移り、この地で財を成した。その他の歴史ははっきりしないようだ。
 中野長者屋敷は、現在成願寺となっている。この地は南に神田川が流れ、往時は外堀として機能したのだろう。全くの都市部なので遺構は望むべくもなく、成願寺境内に鈴木九郎の墓と、蓮池鍋島家の墓所が残っているだけである。境内には「中野長者ものがたり」と言う鈴木九郎の伝説を漫画入りで書いた看板があり、読むとなかなか面白い。富を守るために人を殺し、その罪業ゆえに娘の小笹が蛇になってしまったことが書かれている。略年譜の箇所に、「応永31年(1424)娘蛇に化身す」と何気なく書かれているのがとても面白い。いずれにしても、この地の豪族か大地主の屋敷跡であったのだろう。現在は首都高中央環状線のインターに「中野長者橋」として名前が残る。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.694075/139.681635/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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烏山塁(東京都世田谷区) [古城めぐり(東京)]

DSC03892.JPG←道路沿いの気になる土盛り
 烏山塁は、烏山砦とも呼ばれ、小田原北条氏の築いた砦である。北条氏2代氏綱の家臣で雲見上の山城主高橋民部少輔氏高が、その兄北条治部少輔綱種(本氏高橋将監種政)の牟礼砦と共に扇谷上杉氏の築いた深大寺城に対抗して築いた砦である。その経緯については牟礼砦の項に記載する。元々この地には世田谷城主吉良頼高によって菩提寺として泉沢寺が創建され、当時から城砦化されていた様であるが、天文年間(1532~55年)に泉沢寺が橘樹郡小田中村(現在の川崎市中原区)に移った後、その跡地に砦が築かれた。高橋民部少輔氏高が守将であった為、この地は「民部谷」と呼ばれたと言う。深大寺城が陥ちると烏山塁も廃されたと思われる。
 烏山塁の地は、現在はウテナ本社やマンションが建てられ、完全に市街化し遺構は湮滅している。国土変遷アーカイブの昭和20年代の航空写真を見ると、この地は烏山川という小河川沿いの低地帯に面した台地の先端にあったことがわかる。現在でも緩やかな丘の上に位置しているが、烏山川は既に暗渠化されており、往時の姿は見る影もない。ただ砦のあったとされる付近の道路沿いに土盛りがあり、古い石碑が建てられているので、もしかしたら往時の土塁跡かもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.667931/139.608228/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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赤堤塁(東京都世田谷区) [古城めぐり(東京)]

DSC03881.JPG←周囲よりやや高い六所神社境内
 赤堤塁は、世田谷城の北北東約1㎞の地に世田谷吉良氏が築いた砦跡である。赤堤村は戦国時代の吉良氏の頃から開発されていて、世田谷城の北方を守る為に砦を築いたと伝わっている。
 赤堤塁があったとされる場所には、現在六所神社が置かれている。周囲は完全に市街化され、神社西側を東急世田谷線が通っているので、遺構もなく砦らしさを全く感じさせない。ただ、神社境内は周囲よりわずかな微高地となっていて、往時は砦を築いて物見とするのに適した地勢であったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.658517/139.643226/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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大蔵館(東京都世田谷区) [古城めぐり(東京)]

DSC03858.JPG←殿山の第六天神社
 大蔵館は、木曽義仲の父で同じ源氏一門の悪源太義平に討たれた源義賢の館跡と伝わっている。時代は下って大永年間(1521~28年)には、京より石井良寛という者がこの地に移り住んだ。現在この地に置かれている第六天神社は、この良寛を祀った社と言う。石井氏は世田谷城の世田谷吉良氏に仕え、1590年に小田原北条氏が滅んで徳川家康が関東に入部すると、土着してこの地の名主となったと言う。

 大蔵館の地は殿山と呼ばれ、周囲より15~20m程の高台となっていて眺望に優れている。大蔵館と伝わる場所は埼玉県にもあり、そちらの方が土塁などの明確な遺構の他、木曽義仲にまつわる史跡も周辺に多く残っているので、信憑性が高い。一方、東京の大蔵館はその地勢以外に遺構は全くなく、しかも現在は殿山のすぐ北西側を東名高速が貫通していて、景観は変貌している。ただ、この近くの清水氏の邸内に大将塚と呼ばれる義賢の墓が残るそうで、しかもこの清水氏は義仲の子、清水冠者義高の後裔と伝わっているそうなので、義賢にまつわる伝承も一概に無視できるものではないかもしれない。いずれにしても東京都の遺跡地図にも記載があるので、日本城郭大系に記す通り、大蔵館は眺望の利く絶好の砦として、多摩川東岸に築かれた吉良氏の城砦群の一環を構成していたものであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.626710/139.609194/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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喜多見屋敷(東京都世田谷区) [古城めぐり(東京)]

DSC03837.JPG←慶元寺の参道
 喜多見屋敷は、江戸氏の末裔である喜多見氏3代の陣屋跡である。鎌倉時代初期に江戸太郎重長の次男武重が木田見の姓を名乗り、木田見郷に居館を築いて江戸防衛の第一線としていた様である。江戸氏は南北朝期の1368年、平一揆の乱に敗れて没落し、更に室町中期には太田道灌によって江戸を追われ、上杉氏の勢力を避けて木田見に移住したと考えられる。戦国時代に入り、天文の頃から喜多見江戸氏は世田谷城主吉良氏の重臣となって活躍したが、1590年に小田原北条氏が滅亡すると、姓を喜多見氏と改めた喜多見勝忠は、徳川家康に仕えてその旗本となった。重恒を経て重政の代には、側用人に登用されて2万石の大名となったが、1689年に改易となり、陣屋は廃された。
 喜多見屋敷は現在、慶元寺となっており、境内には喜多見古墳群が残っている。往時にはおそらく物見として利用したものであろうか。それ以外には遺構らしいものはない。また、江戸太郎重長の銅像が建ち、江戸氏歴代の墓も残っている。江戸氏の所縁を伝える寺である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.627146/139.594538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:陣屋
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狛江入道館(東京都調布市) [古城めぐり(東京)]

DSC03827.JPG←稲荷社付近の土塁らしい地形
 狛江入道館は、西党の一流、狛江入道増西の居館である。狛江入道に関しては、鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」に、1208年に狛江入道が50余人の悪党(郎党)を率いて、武蔵国威光寺の寺領に乱入し苅田狼藉に及び訴えられた記録が残っているという。その狛江入道の館跡と伝えられるが確証は無い様だ。「新編武蔵国風土記稿」に拠れば、かつては空堀や櫓台跡などが残っていたようである。
 現在、狛江入道館とされる場所にはマリア修道院晃華学園が建ち、不用意に中に入ることはできない。構内には、狛江入道の碑が建っているらしい。もしかしたら平日にきちんと話を通せば、案内してもらえる可能性はあるが、今回は日曜でもあり、外回りから眺めただけにとどめた。学園の南西側に「里の稲荷」と呼ばれる社があり、その付近に土塁らしい地形が見受けられた。もしかしたら現在でも土塁などの明確な遺構が残っている可能性がある。それにしても修道院や女子校は、城歩きには辛いところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.661707/139.559412/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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深大寺城(東京都調布市) [古城めぐり(東京)]

DSC03749.JPG←二ノ郭から見る主郭虎口と土塁
 深大寺城は扇谷上杉氏が小田原北条氏に対して築いた城である。1524年、北条氏綱は扇谷上杉朝興の江戸城を攻略し、武蔵に重要な橋頭堡を得た。扇谷上杉氏は河越城まで後退したが、1537年、上杉朝定は亡父朝興の遺志を継いで江戸城の奪還を企図し、深大寺城を「再興」して、老臣難波田弾正広宗を深大寺城の城将とした。(「再興」とある通り、元から城塞があったようだが、最初の築城者・築城時期は定かではない。)これは西から江戸城の側背を突く為であったろう。これに対して北条氏綱は、重臣の北条綱種(本氏高橋将監種政)・高橋氏高兄弟に命じて、深大寺城の東方に牟礼砦烏山砦を築いて対抗した。おそらく難波田氏の江戸城への進出を食い止め、来るべき河越城攻略戦を有利に展開する為であったと考えられる。この砦の構築が功を奏し、氏綱率いる本軍はまっすぐ河越城を攻め、同年7月15日、これを陥とした。上杉朝定は家臣上田氏の拠る松山城に敗走し、一方、河越城の失陥によって深大寺城の戦略的意味はなくなり、おのずから深大寺城周辺も北条氏の支配下となったと思われる。その後、深大寺城は廃城になったと思われる。

 深大寺城は、現在神代植物公園・水生植物園の一部として整備されている。戦国時代前期に役目を終えた比較的古い城であるが、縄張りが明確で、土塁・空堀などがよく残っている。低湿地帯に半島状に突き出た台地上に築かれた城で、先端に主郭を置き、主郭周囲には土塁・空堀を設け、その周囲に二ノ郭、更に土塁・空堀を跨いでその西側に三ノ郭を置いている。また主郭と二ノ郭には腰曲輪が設けられて防御性を高めている。各曲輪間を分断する空堀は最大でも深さ5m程で、一ヶ所ずつ屈曲して横矢が掛かり、主郭では屈曲部に櫓台が築かれて堀底の敵兵を迎撃できる様にしている。二ノ郭はかなりの広さを持ち、発掘調査の結果、建物跡の柱穴が見つかっている。三ノ郭は残念ながらテニススクールなどが置かれてかつての面影は失われているが、テニススクールに至る道は二ノ郭の空堀跡で、両側を土塁で囲まれている。

 関東の新旧勢力の交代劇を象徴する城で、遺構の残りも良い。しかも扇谷上杉氏が南武蔵に残した最後の城で、その後の修築がないため、扇谷上杉氏と北条氏の築城法を比較する上でも重要な城である。
二ノ郭外周の土塁→DSC03809.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.664531/139.551237/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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長沼城(東京都稲城市) [古城めぐり(東京)]

DSC03598.JPG←三沢川沿いの城址碑
 長沼城は、武蔵七党の一、西党日奉氏の庶流長沼氏の居城とされている。長沼五郎宗政は、源頼朝に仕えた御家人だった。また太平記の小手指ヶ原の合戦には、長沼判官の名が見えるという。地元では長沼城を長沼氏の城と伝えているが確証はないらしい。
 かつては三沢川の南岸、京王線稲城駅のある辺りに南の山地が峰続きにせり出した小山があり、その上に城があったそうだが、多摩ニュータウンの造成によって山ごと消滅した。現在は三沢川沿いに城址碑が立つのみである。ちなみに稲城駅の上に架かる高架橋は城址橋というそうだ。高度成長期に消えた数多くの城の中でも、山ごと消された悲惨なものの一つである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.638255/139.499180/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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高安寺館(東京都府中市) [古城めぐり(東京)]

DSC13575.JPG←寺西側の斜面、空堀跡か?
 高安寺館は、足利尊氏が全国に建立した安国寺の一つで、中興開基となった寺である。元々は藤原秀郷の館跡とも言われるが定かではない。その後、この地には見性寺が建立されたが、荒廃した。1333年、新田義貞が鎌倉攻めを行った際には、分倍河原の戦いでこの地を本陣とした。尊氏が京都に幕府を開くと、見性寺を高安寺として中興した。その縁あってか鎌倉公方足利氏との所縁が強く、歴代鎌倉公方によって関東戦乱の際の陣所として用いられた。その為、鎌倉府の出城的存在となり、寺の周囲に土塁や空堀を廻らして城塞化していた。後には小田原北条氏の庇護も受けたが、度々の兵火によって衰退し、慶長年間になって再興された。

 館跡には現在でも高安寺が建ち、周囲の市街とは一線を画した閑静な寺域が広がっている。断崖上の台地に築かれた寺、兼、城塞で、鎌倉街道の要衝分倍河原を扼する戦略拠点であったことが、その地勢から伺われる。寺の南側の崖下にはJR南武線が走るが、これは往時の空堀だったのであろう。また西側も斜面となっていて、下方には弁慶所縁の硯の井が残る。また境内には、藤原秀郷を祀って当山鎮守とした秀郷稲荷もある。境内のあちこちに足利二引両が付けられ、足利氏と深い所縁があったことがわかる。城塞としての明確な遺構はないが、平安・鎌倉・室町・戦国と、歴史の変遷をそのまま寺の歴史に持った古刹である。以前、鎌倉街道を南下した義貞の進軍路を追って旅した際に、尊氏所縁の高安寺にも立ち寄ったが、今回、日本城郭大系にも記載された城館跡として改めて訪問した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.669343/139.471908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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田村氏館(東京都日野市) [古城めぐり(東京)]

DSC03552.JPG
 田村氏館は、西党日奉氏の一流田村氏の居館である。資料は残っていないが、伝承では日野市下田にある安養寺が居館跡とされる。また一説には、戦国末期に北条氏政の侍医田村安栖の居館があったとも言う。1590年、小田原の役で小田原北条氏が豊臣秀吉に開城・降伏すると、主戦派であった氏政・氏照兄弟は、小田原城下の田村安栖邸内で切腹した。
 現在、安養寺のすぐ南には国道20号線が通り、周辺は区画整理によって旧態は一変している。かつては寺の三方を用水路が流れ、居館らしい雰囲気を残していたようだが、現在では往時の姿は見る影もない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.670772/139.414680/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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島屋敷(東京都三鷹市) [古城めぐり(東京)]

DSC03461.JPG←島屋敷の外周部
 島屋敷は、伝承では武蔵七党の一、村山党の金子時光の居館で、天正年間(1573-92)まで時光の孫金子弾正が居住したと伝わっている。その後、江戸時代初期に柴田勝家の孫柴田三左衛門勝重が、徳川家康から旗本として召しかえられ、この地を与えられて陣屋を構えたと言う。1698年、柴田氏の三河転封に伴って陣屋は廃され、以後幕府の直轄領となったようである。
 島屋敷は、現在は新川団地となっている為、遺構は完全に湮滅しているが、仙川沿いにひしゃげた瓢箪型に島の様に浮かぶ台地の地勢はそのまま残っていて、道路の形にも明瞭に残っている。国土変遷アーカイブの昭和20年代前半の航空写真を見ると、団地周囲の住宅地は以前は全て仙川沿いの低湿地帯(水田)だったことが分かる。この低湿地帯を挟んで目の前の対岸には天神山砦があるが、島屋敷とはあまりに距離が近すぎるので、同時代には存在しなかっただろう。近世になって柴田氏が入部したが、まさか北陸で滅んだ柴田勝家の孫が三鷹にいたとは思わなかった。歴史の変転とはなんとも不思議なものである。
 尚、団地の建て替えに伴って平成3年より都によって発掘調査が行われ、旧石器時代から鎌倉・室町・江戸時代初期に至るまでの遺構が発見された。その内容は現地に立てられた解説板に記載されている。しかしこの解説板、表面保護の為に張ってある透明アクリル板が、経年劣化で透明度が悪くなり、しかも板面から浮いてしまっているので、読みづらいことこの上ない。折角の解説板だから改善して欲しいものだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.674555/139.572415/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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天神山砦(東京都三鷹市) [古城めぐり(東京)]

DSC03445.JPG←わずかに残る空堀跡
 天神山砦は、歴史不詳の砦である。蛇行する仙川で三方を囲まれた舌状台地の先端に築かれた砦で、北東側の地続きの部分に空堀跡が比較的明瞭に残っている。また川に面した砦周囲にはわずかに土塁らしい跡も残っている。位置的には小田原北条氏の築いた牟礼砦烏山砦より深大寺城に近く、向きとしては扇谷上杉氏の深大寺城の方を向いていることから、北条氏が深大寺城に対峙して築いた前進基地であったことが想定されるが、個人的な憶測の域を出ない。また仙川を挟んで向岸には島屋敷と呼ばれる城館があるので、それとの関係も考えられるが、これも不明である。
 天神山砦の周囲は完全に宅地化され、砦のすぐ脇には中央高速まで通るが、砦跡だけが奇跡的に公園化されて生き残っていて、生き残った土塁と空堀の遺構によってかなり砦らしい雰囲気を漂わせている。貴重な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.673596/139.575462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平城
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牟礼砦(東京都三鷹市) [古城めぐり(東京)]

DSC03429.JPG←主郭に残る旗かけの松
 牟礼砦は、小田原北条氏2代氏綱の家臣北条治部少輔綱種(本氏高橋将監種政)が、扇谷上杉氏の深大寺城に対して、弟高橋氏高の築いた烏山砦と共に築いた砦である。高橋氏は、伊豆の雲見上の山城を本拠とし、伊勢宗瑞(北条早雲)以来の重臣であった。1524年、氏綱は扇谷上杉朝興の江戸城を攻略し、武蔵に重要な橋頭堡を得た。扇谷上杉氏は河越城まで後退したが、1537年、上杉朝定は亡父朝興の遺志を継いで江戸城の奪還を企図し、老臣難波田弾正を深大寺城に出陣させた。北条綱種は氏綱の命により江戸城を進発し、難波田弾正の籠もる深大寺城に対峙して、その北東4kmの地点に牟礼砦を築いた。おそらく難波田氏の江戸城への進出を食い止め、来るべき河越城攻略戦を有利に展開する為であったろう。この砦の構築が功を奏し、氏綱率いる本軍はまっすぐ河越城を攻め、同年7月15日、これを陥とした。上杉朝定は家臣上田氏の拠る松山城に敗走し、一方、河越城の失陥によって深大寺城の戦略的意味はなくなり、おのずから深大寺城周辺も北条氏の支配下となったと思われる。

 牟礼砦の地には、現在神明社が置かれている。社伝に拠れば、河越城攻略後の11月15日に北条綱種が陣内鎮護の為に、芝の飯倉神明宮の御心霊を勧進して当地に祀ったものだと言う。おそらくは、深大寺城から上杉方の勢力が一掃されて砦が不要となったので、戦没した将兵の霊を慰めたものであろうか。神明社周辺は完全に市街化しており、かつての遺構は全く残っていない。しかし神明社の置かれた地は、周囲より10m程の急崖で囲まれた高台となっており、砦の選地として申し分ない。境内内部は1m程の高低差で2段に分かれており、もしかしたら主郭と二ノ郭であったかも知れない。社殿の裏には旗かけの松と呼ばれる神木が立ち、その由来が書かれた石碑が建っている。それに拠れば、綱種が深大寺城に対峙した際、旗を掲げて本陣を誇示した松の古木であったと言う。小さな社地で遺構もないが、猛将北条綱種の遺蹟が残っており、その解説もしっかり書かれているので、非常に嬉しい。北条ファンならば必見の地である。

 お城評価(満点=五つ星):☆(城郭遺構としての評価)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.688289/139.583917/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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成宗城(東京都杉並区) [古城めぐり(東京)]

DSC03412.JPG←堀跡風の周辺道路
 成宗城は、歴史不詳の城である。伝承では鎌倉時代より陣屋櫓があり、その後室町時代になって太田道灌の支城となって家臣を入れて守らせたが、道灌が暗殺されると廃されたと言う。もしくは、成宗という者の柵跡とも言う。「北条氏所領役帳」には、この地に大橋氏が20貫の役高を有していたとあり、「新編武蔵国風土記稿」では大橋氏の名が成宗だったのではないかと推定していると言う。いずれにしても推測の域を出ない。
 成宗城があったとされる丘には、現在、共立女子学園の研修センターがある。また周囲は完全に宅地化されており、遺構は完全に湮滅し、城址を思わせるものは何もない。また時節柄、場所柄の両面で、不審者と間違われない為にはあまり写真を撮ることもできない。周囲を歩いて見ると、丘の周囲の道路は緩やかな弧を描いていて堀跡と見られないこともない。また城地の周辺には善福寺川が蛇行して流れていて、天然の外堀となっていたと考えられる。城地の南東には、城郭関係の名ブログの筆者るなさん曰く、「素敵な名前」の屋倉(矢倉)橋が架かっている。明らかに城郭に由来する名前であるので、何らかの城館があったことは間違いないのだろう。それにしても道が狭く駐車スペースもないので、車で行くのは避けた方がよい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.695661/139.629557/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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中野城山(東京都中野区) [古城めぐり(東京)]

DSC03402.JPG←かつての居館跡地
 中野城山は、歴史不詳の城館跡である。中野駅東南の中野一丁目付近は古来より城山と呼ばれ、昭和の初め迄は幅5.4m程の土塁等、城郭らしい遺構が残っていたと言う。実際、国土変遷アーカイブの昭和20年代前半の航空写真を見ると、現在の谷戸運動公園に当たる土地の周囲に、明確な土塁や堀跡と思われる沼地がはっきりと確認できる。1675年の村の古記録には、名主堀江卯右衛門の先祖からの屋敷地と記載され、1576年当時、小田原北条氏の下で中野五郷の代官に任じられた中野の土豪、堀江氏の居館であったと考えられている。おそらく小城砦を兼ねた土豪屋敷だったものと推定されている。堀江氏以前には、平忠常の城砦跡とも、或いは豊島氏と戦った太田道灌の陣地「道灌とりで」跡などとも言われているが明確ではない。また2003年には発掘調査が行われ、堀跡から障子堀が見つかったそうである。
 中野城山は、中野駅に近いこともあり、完全に市街化で遺構は湮滅しており、その地勢すら見る影もなく失われている。城址に立つ大型マンションは、高級車ばかりが駐車場に所狭しと並んでいる億ションで、城館遺構とは隔絶した状況である。おそらくここの住人は、自分の住んでいるところがかつての城館跡だとは露とも知らないことだろう。しかしそんな状況でも、解説板が設置されているのは唯一の救いである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.702631/139.675133/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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屋敷山(東京都練馬区) [古城めぐり(東京)]

DSC03373.JPG
 屋敷山は、右馬頭屋敷とも呼ばれ、歴史不詳の城館である。右馬頭と称される者の居館と伝えられるが定かではない。一説には豊島氏が築いた練馬城の出城である栗山城ともされる。栗山城は志野某の館で、家臣に馬術の訓練をしたと言われ、そこからこの地を練馬と呼ぶようになったとも言われている。
 屋敷山は現在、開進第二中学校の敷地となり、旧状は完全に失われている。しかし現在でも北と西を斜面で囲まれた高台で、練馬城を指呼の間に望むことができ、出城を築くに申し分のない地勢ではあったろう。遺構もなく歴史不詳なので何とも言いがたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.742925/139.652785/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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練馬城(東京都練馬区) [古城めぐり(東京)]

DSC03362.JPG←石神井川を挟んで望む練馬城
 練馬城は、桓武平氏の裔で武蔵の豪族豊島氏の支城である。鎌倉時代末期に豊島景村によって築かれたと言われている。豊島氏は、本城の平塚城と支城の練馬城・石神井城を拠点に武蔵に勢力を扶植し、新田義貞の鎌倉攻めなどにも従軍して功を挙げた。1476年に生起した長尾景春の乱では、豊島氏は景春方に付いた為、乱の鎮定に当たった扇谷上杉定正の家宰太田道灌は豊島氏を討伐した。1477年、道灌の囲んだ平塚城を救援する為、練馬城・石神井城から出陣した豊島泰経の軍は、江古田原・沼袋ヶ原で道灌勢と激突し、一族150余名が討死する大敗を喫した。泰経は石神井城に敗走し立て籠もったが、道灌はこれを追って石神井城を攻撃し、これを落城させた。練馬城も、石神井城と相前後して落城したとされる。以後、練馬城は廃城になったと思われる。

 練馬城は、石神井川を天然の堀とし、その南の台地上に築かれた城である。その縄張は湮滅の為はっきりしないが、石神井川に臨んで方形の主郭を置き、その周囲に土塁と堀を廻らしていた様である。そしてその周囲には二ノ郭・三ノ郭があったとも言われている。城址は現在、遊園地の豊島園となってしまっており、そのため遺構のほとんどが壊滅してしまっている。わずかに石神井川に面して主郭北側の土塁が残っているだけである。石神井川もコンクリートで護岸が作られているので、その地勢以外にかつてを偲べるものはないが、向こう岸から城址を眺めると、土塁上に木が生い茂っていて城址の風情がわずかに残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.743674/139.646326/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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愛宕山塁(東京都練馬区) [古城めぐり(東京)]

DSC03335.JPG←塁跡の高台
 愛宕山塁は、太田道灌が築いた陣城である。1476年に生起した長尾景春の乱で、豊島氏は景春方に付いた為、乱の鎮定に当たった道灌は豊島氏を攻めた。その経緯は石神井城の項に記す。1477年、江古田原・沼袋ヶ原で豊島氏を破った道灌は、豊島泰経が逃げ込んだ石神井城を攻める為、城の南方愛宕山に陣城を築いた。臨時的な城塁であった為、石神井城が落城すると廃されたと思われる。
 愛宕山塁が築かれた場所は、かつては城山と呼ばれていたが、現在は早稲田高等学院に変貌している。石神井川を南から望む台地の突端にあり、遺構は全く残っていないが、石神井城を指呼の間に見渡すことができ、攻めるに好適な地勢であったことは想像に難くない。本格的な城ではないので、遺構が湮滅しているのも無理からぬことであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.732265/139.592553/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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石神井城(東京都練馬区) [古城めぐり(東京)]

DSC03285.JPG←主郭周囲の空堀
 石神井城は、武蔵東部の豪族豊島氏の築いた城である。豊島氏は、葛西・江戸両氏と共に秩父流平氏の一流で、平安末期から室町中期まで武蔵東部に蟠踞した豪族であった。豊島氏は平塚城を本拠とし、更に石神井城・練馬城を築いて一帯に勢力を築いていた。1476年に生起した長尾景春の乱では豊島泰経とその弟泰明は景春方に付いた為、山内上杉顕定方の扇谷上杉定正の家宰太田道灌に攻められることとなった。1477年4月13日、道灌は泰明の拠る平塚城を攻め、翌14日泰経はその救援の為、石神井・練馬両城から出兵し、江古田原・沼袋ヶ原で道灌方と闘ったが大敗し、泰明以下一族150余名が戦死した。泰経は石神井城に敗走し立て籠もったが、道灌はこれを追って城の南方愛宕山に陣を敷き、石神井城を攻撃した。4月18日には一旦、城を破却することで和平交渉が始められたが、泰経がそれを実行しなかった為、4月28日、遂に道灌は外郭を攻め取り、泰経以下城兵は夜陰にまぎれて敗走し、石神井城は落城した。敗走した泰経は平塚城に拠ったが、これも道灌に陥とされ、更に小机城に逃げ延びたが、これも陥とされて豊島宗家は没落した。石神井城は落城後、廃城となった。

 石神井城は、都内有数の公園である石神井公園の一角にある。北の三宝寺池に面した台地上に築かれた城で、南を流れる石神井川を天然の外堀としていたようである。主郭は台地北端に築かれ、北は三宝寺池の湧水に浸食された急崖をなし天然の要害となっているものの、南は石神井川の小流で隔てられる以外は地続きの地形で、道灌が南に陣を構えて南側から攻撃を仕掛けたのは当然であろう。現在山林となった主郭周囲には土塁と空堀が残り、周囲の住宅地の中にも土塁の遺構が散見される。主郭周囲の空堀は横矢が掛かり、現在はかなり埋もれてしまっているものの堀幅は10m程もあって、往時は6mの深さの箱掘であったことが発掘調査で分かっている。主郭は周囲をフェンスで囲まれて侵入禁止になっており、普段は中を見ることはできないが、年に一度、11月に東京文化財ウィークが開催され、その期間だけは特別公開されるそうである。そのほか、城の周囲の道場寺や氷川神社には豊島氏の足跡が残るほか、石神井公園内には落城悲話にまつわる殿塚・姫塚がある。

 主郭は侵入禁止でも周囲の遺構だけでもなかなか見応えがあり、都区部では有数の中世城郭遺構であろう。来月には2010年の東京文化財ウィークが開催されるので、その時には主郭に入ってみたいと思っている。
住宅地に残る土塁跡→DSC03306.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.736951/139.597017/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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江戸城 その2(東京都千代田区) [古城めぐり(東京)]

DSC12935.JPG←初めて表から間近に見る富士見櫓
 もう4ヶ月も前のことになるが、かねて念願であった江戸城の一般参観に行った。この一般参観では、通常は近づくことのできない富士見櫓と伏見櫓を間近に望むことができるのである。(富士見櫓は、裏側だけなら一般開放されている東御苑から間近に見れる。)この一般参観は完全予約制だが無料であり、しかも宮内庁のガイド付きである。最初にガイダンスホールで皇居の案内ビデオを見て、それから規定のルートに沿って西ノ丸まで入ることができる。ここで注意が一つ。ガイダンスホールにはおみやげを売っている売店があるが、一旦参観に出てしまうと戻って来れないので、おみやげを買う場合にはビデオ放映前か放映中に買ってしまわなくてはならない。私はそれを知らなかったので、売店を見ることすらできなかった。

 さて、普段入ることのできない道を通って、富士見櫓を眺め、宮内庁前を通過して坂下門を内側から眺め、新宮殿前を通って二重橋から伏見櫓を眺めた。そこからの帰りは宮内庁の裏側の山下通りを通って戻るが、残念なのは西ノ丸にある道灌掘を見ることができなかったのと、西桔橋門を間近で見ることができなかったことである。こちらへ行くには、正月の一般参賀など特別行事の時に来るしか手はなさそうである。しかし、好天に恵まれたせいもあって、白く輝く現存櫓を堪能できた。
壮麗な伏見櫓→DSC12970.JPG
DSC12973.JPG←伏見櫓前の水堀
西ノ丸に面した本丸石垣と水堀→DSC12997.JPG

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世田谷城(東京都世田谷区) [古城めぐり(東京)]

DSC02545.JPG←団地裏に残る空堀と土塁
 世田谷城は、足利氏に連なる名族、武蔵吉良氏の居城である。吉良氏は、斯波氏などと並び足利一門の中でも家格の高い一族であった。その為、足利尊氏が室町幕府を開くと、「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われるほどの家格を誇った。その吉良氏の庶流東条吉良氏は、奥州管領となって奥州に下り、足利家の内紛である観応の擾乱では岩切城の戦いで活躍した。後に奥州での勢力を弱めると鎌倉公方に仕えて武蔵に入部し、14世紀後半に吉良治家が世田谷に本拠を置いたと言う。世田谷城はこの頃から15世紀前半に懸けての時期に築かれたと思われる。吉良氏は足利一門の名家として、鎌倉府より格別の処遇を受けた。その後、関東に永享の乱に始まる動乱の時代が訪れると、吉良氏は扇谷上杉氏との結び付きを強め、扇谷上杉氏の家宰太田道灌の有力な与党となった。

 戦国時代に入って、新興勢力の小田原北条氏が武蔵に勢力を伸ばし始めると、吉良頼康は北条氏綱の娘を娶り、北条氏の姻戚となった。勿論これは、関東に何らの地盤も持たない北条氏が、自らに箔を付ける為に名門吉良氏を懐柔したものであろう。そして、これを契機に吉良氏は北条氏に徐々に吸収され、頼康の晩年には江戸氏・大平氏以下の吉良氏の重臣層は皆、北条氏に直属し、吉良氏の存在は有名無実化した。また頼康は、戦国時代のある時期からもう一つの居城蒔田城に移り、そちらを本城とした様で、蒔田御所と尊称されている。最終的には1590年の北条氏滅亡と運命を共にし、武蔵吉良氏は没落し、世田谷城も廃城となった。しかしかろうじて命脈を保ち、蒔田氏と改称して高家として江戸時代にも存続した。

 世田谷城は、目黒川の支流烏山川が大きく蛇行する地点の北側、三方を川に囲まれ南に突き出した舌状台地上に築かれた城である。城域は現在の豪徳寺の地を中心としており、豪徳寺から南側にやや離れて世田谷城址公園が整備されている。このことから分かるように、かつては規模の大きな城だったようである。本郭は、前述の通り豪徳寺となって遺構は湮滅しているが、かつてここには吉良氏の館があったと言われている。豪徳寺南の団地・住宅地から城址公園に至る部分が外郭に当たり、居館に対する詰城に相当したようである。ほとんどの遺構は湮滅しているが、城址公園や団地の裏には土塁と空堀の一部が残っている。全体からすれば部分的な遺構に過ぎないが、それでも土塁は5m以上の高さがあり、堀幅も10m程もあって、規模が大きく見事である。また豪徳寺の参道に沿った土盛もかつての土塁であろう。遺構はかなり失われているのは残念だが、それでも名門の武家の城の規模を想像することのできる立派な遺構である。
住宅地の合間に見える土塁→DSC02536.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.648753/139.647464/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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瀬田城(東京都世田谷区) [古城めぐり(東京)]

DSC02446.JPG←行善寺西側の断崖
 瀬田城は、長崎館とも呼ばれ、長崎伊予守重光の築いた城である。重光は小田原北条氏の家臣で、天文年間(1532~54年)に功によってこの地に入部し、現在行善寺が置かれている丘の上に城を築いた。この時、重光は小田原にあった行善寺を現在地に移したと言われている。重光は後に入道して行善と号し、1552年に没した。重光の死後、瀬田城は隠岐守重高、四郎兵衛重次と子孫に受け継がれたが、1590年の小田原の役で北条氏が滅びると、長崎氏はそのまま土着し、代々名主を務めたと言う。

 深沢城は北条氏の家臣が世田谷城周辺に入部して築いた城であったが、程近いこの瀬田城も同様で、世田谷城に本拠を置く武蔵吉良氏に対する支援と監視の役を負っていたのであろう。瀬田城があったという行善寺の西側は、現在でも切り立った断崖に臨んでいる。周辺の台地は急崖で囲まれた台地上に位置しており、市街化によって遺構は湮滅しているものの、その地勢は現在でも城地として優れていたことが良くわかる。ここからの眺望は素晴らしく、往時は物見として好適の地であったろう。行善寺近くの台地下には丸子川が流れているが、かつては瀬田城の天然の外堀として機能していたのだろう。往時の面影を失っているものの、近くのゴルフ練習場(瀬田モダンゴルフ)に「長崎館跡」の小さな石碑が建っており、ここが城であったことをわずかに伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.616052/139.629503/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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兎々呂城(東京都世田谷区) [古城めぐり(東京)]

DSC02421.JPG←園芸高校西側の傾斜地
 兎々呂城は、小田原北条氏の配下伊豆衆の一人、南条右京亮重長が、深沢城の出城として築いた城である。その経緯は深沢城の項に記す。深沢村を与えられた南条氏は、村の東端に本城の深沢城を築き、出丸を兎々呂城に置いたと言われている。
 兎々呂城は、小さな石碑が都立園芸高校の正門前に建っている。(後で知ったが、校内にはもっと立派な石碑があるらしい。)深沢城の位置は明確ではなく、一説には園芸高校付近とも言われているので、もしかしたら出丸としての兎々呂城ではなく、深沢城址としてこの石碑が建っているのかもしれない。いずれにしても、周囲は完全に市街化しており、城らしい痕跡はほとんどない。ただ、園芸高校の西側は大きな傾斜地になっていて、城の選地としては玉川警察署付近より余程好適に思える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.618460/139.647571/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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深沢城(東京都世田谷区) [古城めぐり(東京)]

DSC02414.JPG←緩やかな傾斜地に建つ玉川警察署
 深沢城は、南条氏の築いた城である。深沢村の名主谷岡氏の祖、南条右京亮重長は小田原北条氏の配下伊豆衆の一人で、1564年の第二次国府台合戦に於いて武功を挙げ、北条氏康から感状を授けられて、深沢村兎々呂城(等々力の古名?)を賜った。これは、世田谷城主吉良氏の支配に対して氏康が打った楔であったとされる。この時、南条氏は村の東端に本城の深沢城を築き、出丸を兎々呂城に置いたと言われている。1590年の小田原の役で北条氏が滅びると、重長は城を壊して平地とし、そのままこの地に蟄居した。
 深沢城の位置には諸説あり、玉川警察署付近とも都立園芸高校付近とも言われているが、東京都の遺跡地図では前者を城址としている。玉川警察署付近の地は、緩やかな傾斜を成して周囲よりやや高くなった高台に位置している。しかし完全に市街化しており、城跡らしさを感じさせるものは微塵もない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.613383/139.647528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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奥沢城(東京都世田谷区) [古城めぐり(東京)]

DSC02359.JPG←山門脇に残る土塁
 奥沢城は、世田谷城を本拠としていた武蔵吉良氏の老臣大平左馬(出羽守)の居城である。低湿地帯に南から北へ突き出した比高5~6mの舌状台地の上に、世田谷城の出城として吉良頼康が築いたものと伝えられている。頼康の時代、関東には既に小田原北条氏の勢力が伸張しつつあり、頼康も北条氏2代氏綱の娘を室として迎えていた。そんな中で築かれた奥沢城は、おそらく北条氏の武蔵経営の一翼を担うために北条氏の後援によって築かれたか、若しくは北条氏と一定の緊張状態にあった吉良氏が北条氏への備えとして築いたものであったろう。1590年の小田原の役で北条氏が滅びると、奥沢城も廃城となったが、後、徳川4代将軍家綱の時、珂碩上人が奥沢城址の地を賜り九品山浄真寺を開創した。

 奥沢城は現在、九品仏の駅名で知られる浄真寺に変貌しているが、境内には方形の土塁が良好に残っている。土塁は一部、山門を建てる為に切り開かれたり、墓地造営の為改変を受けているものの、四隅の櫓跡の高まりなどが明瞭である。寺域には古木が多く、特に天然記念物になっているカヤの大木は推定樹齢700年以上ということなので、奥沢城の築城以前からの歴史を見守ってきたということになる。土塁の周囲は市街化によって全く旧態を失っているが、国土変遷アーカイブの昭和20年代の写真を見ると、低湿地帯に臨む方形土塁の周囲の台地も、曲輪となっていたことがわかる。当時はまだ、奥沢城外郭北側の低地に大沼という沼が広がり、それ以外の低地は水田が広がっていて、往時の要害地形の面影を残していたようだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.608133/139.660832/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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等々力城(東京都世田谷区) [古城めぐり(東京)]

DSC02352.JPG←城址とされる奥沢小学校
 等々力城は、東京都の遺跡地図では大平砦と呼ばれ、世田谷城主吉良氏の家臣であった奥沢城主大平氏の築いた出城と言われている。「出張」という小字が残っている奥沢小学校付近にあったとされている。
 現在は完全に市街化され、遺構は湮滅している。周囲には若干の緩やかな高低差が残っているが、急峻な地形ではなく、城跡を感じさせるものはない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.599636/139.674908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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道灌山(東京都荒川区) [古城めぐり(東京)]

DSC02334.JPG←西日暮里公園のある高台
 道灌山は、西日暮里駅の西側の高台である。太田道灌の築いた砦跡であるとして道灌山と呼ばれるようになったというが、一説には小田原北条氏時代の関道閑という者の屋敷跡ともされ、近くに道灌の築いた物見塚があったとされたこともあって、道閑が道灌にすり替わったものとも考えられる。関道閑は、関小次郎長耀入道道閑と言い、この地を領有して谷中感応寺や根岸善性寺の開基であったと言う。
 西日暮里駅の西側に連なる高台一帯が道灌山とかひぐらしの里と呼ばれていたようであるが、東京都の遺跡地図によると、開成学園高校と西日暮里駅の間にまたがる台地上に遺跡が発掘されたようである。現在は市街化によって湮滅している。すぐ西隣の開成高校の敷地を中心にして、道灌山とかひぐらしの里一帯の大半は、江戸時代に秋田佐竹氏の下屋敷が置かれていたらしいので、江戸時代にすでに改変を受けていたものと考えられる。佐竹氏下屋敷の東側の崖際は、江戸時代景勝の地として人々の行楽地として有名であったという。道灌通りをはさんで南側の高台は西日暮里公園となっていて、道灌山にまつわる解説板が設置されている。尚、現在の道灌通りは切通し道か堀切跡のように見えるが、どんなものであろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.732457/139.765888/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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道灌物見塚(東京都荒川区) [古城めぐり(東京)]

DSC02289.JPG←本行寺境内に残る道灌丘碑
 道灌物見塚は、太田道灌が1457年に江戸城を築いた際、眺めの良い高台に築いた斥候台とされている。塚自体は鉄道敷設で湮滅し、現在は本行寺(太田道灌の孫、大和守資高が開基)の境内に1750年に建てられた道灌丘碑が残っているだけである。ここから北西に500m程離れた場所には道灌山があるが、物見塚との関係はよく分からない。道灌山は太田道灌とは関係ないという説もあるので、江戸時代に物見塚と混同されて道灌山と呼ばれるようになったのかもしれない。いずれにしても、こうしたちょっとした道灌所縁の史跡が残っているだけでも、ちょっと嬉しくなる。特に今回は、存在を知らずに日暮里駅から道灌山に行く際にたまたま通り掛かって見つけた史跡だったので、余計に嬉しかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.728398/139.769300/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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江戸城外郭 その3(東京都) [古城めぐり(東京)]

DSC02186.JPG←お茶の水橋から見る外堀(神田川)
 5月後半に都内に行く出張があり、ついでに江戸城外郭の内、昌平橋~御茶ノ水~水道橋に至る区間を訪れた。この区間は、外堀を兼ねた神田川以外には遺構らしい遺構はないので、ただの史跡めぐりのようになってしまっている。尚たまたまであるが、ここ数年、毎年5月になると江戸城外郭を歩いている気がする・・・。

<筋違御門>
 秋葉原の昌平橋と万世橋の間には、かつて筋違御門という城門があった。他の城門と同様、石垣で枡形が築かれた立派な城門だったと想像されるが、現在では市街化によって完全に湮滅し、それらしき遺構はない。ただ神田川の流れが残るだけである。解説板が立っているが、それに拠ればこの門を通る道は「御成道」と呼ばれ、徳川将軍が寛永寺への墓参りの際に通った道だという。
DSC02172.JPG←昌平橋から見る筋違御門付近

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.697926/139.769622/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<昌平橋>
 古くから掛けられた橋で、その架設は寛永年間(1624~44年)と伝えられている。江戸を将軍の御座所である中心都市として大々的に整備した中で掛けられた橋だったのだろう。しかし筋違御門とは50m程しか離れておらず、筋違御門との関係はどうなっていたのだろう・・・?
昌平橋の解説板→DSC02173.JPG

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.698467/139.768850/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<御茶の水>
 JR御茶ノ水駅のすぐ西隣、お茶の水橋たもとの交番脇に「御茶の水」の湧き水と石碑が残る。こんなところ、今まで何度も通っているのにこんな石碑があるのは知らなかった。慶長の頃に良い湧き水が出るということで、近くにあった高林寺という禅寺で供されたと言う。
DSC02265.JPG←お茶の水の湧き水跡

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.699895/139.763185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<神田上水懸樋跡>
 江戸時代、神田川に木製の樋を架けて神田上水の水を通し、神田・日本橋方面に給水していた。日本最古の都市水道である。水道橋の名の由来であり、神田川沿いに石碑が残っている。
神田上水懸樋の石碑→DSC02256.JPG

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.701812/139.756984/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

※過去の江戸城外郭めぐりについては、こちらこちら
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今井城(東京都青梅市) [古城めぐり(東京)]

DSC08310.JPG←主郭周囲の空堀
 今井城は、歴史不詳の城である。わずかに今井四郎左衛門尉経家の子孫の宗家ら数代の者が伝領したが、天正年間(1573~92年)に断絶したと伝えるだけと言う。

 今井城は、藤橋城から北東にわずか1.5kmの位置にあるが、藤橋城より余程中世城郭らしい良好な遺構の残る城である。それほど大規模な城ではないが、台地先端を空堀で3つの曲輪に分断した連郭式の縄張で、各曲輪周囲の土塁と空堀が非常によく残り、土橋も明瞭である。しかし堀はそれほど大きなものではなく、一番深いところでも5m程で、あまり横矢は掛かっておらず直線的な堀の造りである。

 日本城郭大系によれば、今井城の土塁を発掘したところ、主郭西北隅の土塁中から整然と並んだ墓所が出現し、墓に付随して多数の板碑や骨壷・火葬骨等が散乱した状態で発掘されたことから、元は屋敷墓という信仰・祭祀の場所を無残に打ち砕いて城を築き直した想像されると言う。このことから、血の繋がる一族による城の改変と言うより、戦国社会の強い外からの力が加わってできた城ではないか?と大系では考えている。勢力圏としては山内上杉氏か小田原北条氏のいずれかとなるが、堀に横矢が掛かっていないところから考えると、北条氏の線は薄いように思われる。もしかしたら勝沼城に本拠を置いた三田氏の支城で、三田氏が辛垣城に退去した前後に打ち捨てられて、そのまま北条氏にも使われることなく廃城になったものかもしれない。

 いずれにしても、青梅の住宅地の一角にほぼ原形をとどめた中世城郭が丸ごと残っていること自体が奇跡に近い。冬場ならば草刈されて整備されているので、遺構の確認が非常にしやすい、お勧めの城である。青梅市の城はどこも保存状態がよく、素晴らしいと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.810366/139.314483/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世崖端城
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