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古城めぐり(富山) ブログトップ
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月岡野古戦場(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8065.JPG←古戦場跡の祠
 月岡野古戦場は、1578年10月4日に織田方の部将斎藤利治が上杉勢方の椎名小四郎(長尾景直)・河田長親と戦って大勝した古戦場である。その経緯は津毛城の項に記載する。尾張・美濃の織田軍を率いた斎藤勢が来攻すると、津毛城の上杉方城将椎名小四郎(長尾景直)・河田長親は、戦わずして津毛城を退去し、今泉城に撤退した。今泉城の守りは固く、攻めあぐねた利治は一計を案じ、夜半になって撤退を開始して上杉勢を城からおびき出した。この罠にかかって城から出た上杉勢は、複雑な地形の月岡野で逆襲に転じ、首級360を上げる大勝をあげた。この勝利によって越中の勢力図は塗り替えられ、上杉勢は一気に後退し、越中に織田方の勢力が扶植される画期となった。

 月岡野古戦場は、「月刊グッドラックとやま」の記事によれば、月岡野で討ち取られた首級は首塚に埋められ、その塚から出土した石仏が開発駅近くの県道43号線脇に祠として安置されているという。解説板も標柱もないが、祠だけが人知れず戦いの歴史を伝えている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.636356/137.242262/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


地図と読む 現代語訳 信長公記

地図と読む 現代語訳 信長公記

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/09/28
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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津毛城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8057.JPG←城址の現況
 津毛城は、越中に進出していた上杉氏が、飛騨方面からの織田勢の富山侵攻を食い止める前線拠点となった城である。確証はないが、元々の創築は南北朝期の武将桃井播磨守直常によると言われる。桃井氏の事績は桃井城の項に記載する。江戸時代の文書によれば「ツケノ城」「附之城」などと記されており、これが津毛城の本来の城名であったらしい。それによれば、飛騨の三木良頼の部将で戸川(栂尾)城主塩屋筑前守秋貞が、樫ノ木城を攻撃するために築いた付城であったとされている。その時期は、永禄・元亀年間(1558~73年)頃と推測されている。その後、越後の上杉謙信が越中に進出すると、上杉氏の家臣村田修理(縫殿助)が城将となり、上熊野城主二宮氏と頻りに交戦したと伝えられる。1578年に謙信が急死すると、その動揺の隙を突いて織田方の神保長住が飛騨から侵攻した。更に9月24日、織田方の部将斎藤利治が尾張・美濃の織田軍を率いて来援すると、津毛城の上杉方城将椎名小四郎(長尾景直)・河田長親は、戦わずして津毛城を退去し、今泉城に撤退した。上杉勢が退去した津毛城には、神保長住が入城した。10月4日、利治は月岡野で河田・椎名らの上杉勢と戦って大勝し、首級360を上げた。その後、織田方が富山城付近を確保するまでの間、津毛城も織田方の拠点として守られていたと推測されている。

 津毛城は、熊野川とその支流黒川の合流点に東から突き出た段丘先端部に築かれている。残念ながら1960年代後半に城跡は大規模な土砂採取によって消滅し、その後は福沢小学校などの校地に変貌している。従って遺構は全く残っていない。しかし昭和30年代後半の航空写真を見ると、東側を区画するクランクした空堀が畑地の中にはっきりと見え、クランク部に虎口の存在も確認できる。現在は、崖に囲まれた丘陵の地勢だけが城の名残を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.603169/137.257605/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 上杉謙信

図説 上杉謙信

  • 作者: 今福 匡
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/03/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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新宮山城(富山県立山町) [古城めぐり(富山)]

DSCN8000.JPG←参道側方の竪堀状の堀底道
 新宮山城は、1579年に長連龍が岩倉薩摩が籠城する岩倉城を攻め落としているが、この岩倉城のことと推測されている。

 新宮山城は、岩峅寺駅南東にある比高わずか35m程の丘陵先端部に築かれている。主郭には熊野神社が建っているので、参道が整備されており、何の苦もなく登ることができる。そんな城なので、全く期待せずに登っていたら、参道横に突然L字型の堀底道(竪堀)が現れた。完全に油断してたので、立派な遺構にびっくりした。この脇には2段の腰曲輪が築かれている。堀底道の横を抜けて登ると、上の腰曲輪には両側に土塁が築かれた虎口が開かれ、段を経由して登城路は屈曲していくので、枡形虎口を形成していたと考えられる。その上には主郭の切岸が立ちはだかっており、この部分の虎口構造は技巧的で、織豊系山城の先駆け的な様相を呈している。主郭には神社が建っているが、脇に土塁が残り、東に高台が張り出している。南斜面には小堀切と土壇が築かれている。以上が新宮山城の遺構で、小さい城であるが前面の虎口構造が特徴であり、織田武将である長連龍による攻略後の使用・改修が推測されるという佐伯哲也氏の説は首肯できる。
虎口→DSCN8023.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.605081/137.326645/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/11/12
  • メディア: 大型本


タグ:中世平山城
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池田城(富山県立山町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7880.JPG←5郭から見た竪堀と4郭
 池田城は、1569~70年に越中有数の国人であった寺島職定の居城であったと伝えられる。寺島氏は、越中の射水・婦負郡守護代神保氏の重臣であった。この時期、上杉謙信が越中に侵攻して松倉城の椎名氏を攻撃しており、寺島氏は反上杉方として芦峅寺衆徒らの力を借りて城の守りを固めている。寺島氏は、1577年には上杉氏に属した。1583年、佐々成政が弓庄城を攻撃した際には、池田城も戦場となったと言う。成政入国後は佐々氏に仕え、佐々氏が肥後へ移ると前田氏に仕えたとされる。また別説では金森中務が城主であったとも言われるが、判然としない。

 池田城は、池田集落の南にある標高375mの城山に築かれている。北麓の林道脇に解説板があり、ここから登道が整備されている。登道は、釜池の東の尾根に至り、尾根沿いに登っていく。城域までは結構距離があり、山間にある山奥の城である。10分ほど登ると「櫓」と標柱がある高台に至る。高台上には「のろし台跡」と手書きの標柱があり、その後部には長い一騎駆けの土橋がある。これらの遺構は、現地解説板にある佐伯氏の縄張図には描かれていない。その先は堀底状通路があり、土橋が架かった幅広の堀切が穿たれ、その上に前衛の物見台が築かれている。その先も再び堀底状通路があり、その先に堀切が穿たれ、その上に主城部がある。堀切の上は大きな段差の切岸になっていて、アルミ梯子が設置されている。その上に5段の曲輪群が連郭式に築かれている。現地標柱では、下から順に5郭・4郭・3郭・2郭とあり、最上段が主郭で最も広い。5・4・3・2郭の間は比較的大きな段差で区画されているが、2郭と主郭の間の段差は小さく、2郭は主郭に付随する性格が強い曲輪であった様である。これらの内、5郭・4郭の側方にL字に湾曲した竪堀が穿たれている。主郭は中央に土壇があり、その南東部は低くなって腰曲輪状を呈している。主郭は縦長だが南西側に大きく張り出した形状で、南西尾根に腰曲輪2段を築き、その先に幅広の堀切を穿ち、更に尾根の先にもう1本土橋が架かった堀切を穿って背後を遮断している。また主郭の東側には腰曲輪が築かれ、3郭との間に大竪堀を穿って導線を遮断している。往時はここに木橋を架けて曲輪間を連絡していたのだろう。この他、5郭手前の堀切から西側に進むと千畳敷と呼ばれる区画に出る。最上段は普通の腰曲輪であるが、下方に大きな平場がある。しかし薮だらけなので、踏査はしていない。千畳敷最上段の腰曲輪の先には大竪堀が穿たれ、その先に物見台の土壇と堀切状の通路があり、その先にも腰曲輪が続いている。以上が池田城の遺構で、幅広の堀切・竪堀を使って各部を防御した城である。
5郭切岸と堀切→DSCN7858.JPG
DSCN7933.JPG←南西尾根の幅広の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.609163/137.360280/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城館調査の手引き

城館調査の手引き

  • 作者: 中井 均
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2016/08/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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郷田砦(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7785.JPG←土橋
 郷田砦は、弓庄城の至近にある城砦である。築城については3つの説があり、(1)上杉謙信との合戦の際に弓庄城主土肥美作守政繁が出城として築いた(家老の桂田善左衛門が守将)、(2)上杉謙信が弓庄城攻撃の際に向城として築いた、(3)1583年に佐々成政が弓庄土肥氏を攻撃した際の陣城、などである。『日本城郭大系』では、初め土肥氏の出城であったものを、佐々成政が奪って向城として利用したのではないかと推測している。

 郷田砦は、弓庄城の東方600mにある、比高30mの丘陵先端部に築かれている。丘陵基部は鞍部となっており、なかば独立丘陵の体をなしている。鞍部に小道が通り、その脇に墓地があるが、これも往時の曲輪跡と考えられている。城はその北に遺構が残っているが、全域劇薮で踏査は困難を極める。それでも薮をかき分けて進むと、南の主郭虎口には土橋と堀切があるのが辛うじて確認できる。主郭は西辺以外を土塁で囲んでいるようだが、薮が酷すぎてほとんど確認できない。また薮がやや少ない西の腰曲輪を経由して北側に回り込むと、主郭北に坂虎口があるのが確認できた。主郭周囲は、2~3段の腰曲輪で取り巻いている。簡素で小規模な城砦で、いかにも戦時に一時的に築かれた砦という趣である。
主郭切岸と腰曲輪→DSCN7802.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.675570/137.368991/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の名城を歩く 富山編

北陸の名城を歩く 富山編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2022/09/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣城
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柿沢城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7722.JPG←二ノ郭腰曲輪の三重竪堀
 柿沢城は、弓庄城主土肥氏の支城である。弓庄系土肥氏は、白岩川・大岩川流域に高原城-弓庄城-柿沢城-茗荷谷山城という城館群を築いており、これらは弓庄城を本拠とし、その支城群と捉えられる。柿沢城主は弓庄城主土肥美作守の兼帯、または美作守の家老桂田善左衛門と伝えられている。位置関係から本城の弓庄城と詰城の茗荷谷山城とを結ぶ繋ぎの城であったと推測されている。

 柿沢城は、大岩川東方の標高169.5m、比高110mの山上に築かれている。明確な登道はなく、尾根への取り付き方もよく分からず、結局北西の谷地に入り込み、尾根を目指して直登した。縄張図によれば、山頂の主郭までの間の尾根上に5つの曲輪を連ねた連郭式の城としているが、一部の曲輪を除いて普請は大雑把で塁線がはっきりせず、そのため縄張図のどこを歩いているのか分かりづらかった。遺構がはっきりしてくるのは、北西から3つ目の曲輪で、三ノ郭に当たると思われる。後部に櫓台を築き、その背後に堀切を穿っている。堀切の上には二ノ郭が築かれている。二ノ郭自体は単なる平場であるが、西側に腰曲輪を築き、そこには三重竪堀が穿たれている。二ノ郭の東には繋ぎの曲輪があり、その東に四角形の主郭がある。主郭はL字型の土塁を築いて後方を防御し、土塁のない切岸には浅い畝状竪堀が穿たれている。柿沢城は、全体的に大雑把な普請の城であるが、畝状竪堀や三重竪堀で防御を固めているのは特徴的である。能登・越中の城で畝状竪堀と言うと上杉氏勢力が介在した城の代名詞であるので、この城も弓庄系土肥氏が上杉氏に属していた時期に、上杉氏勢力の改修を受けたのかもしれない。
二ノ郭手前の堀切→DSCN7702.JPG
DSCN7753.JPG←主郭切岸の畝状竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.678495/137.376920/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
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茗荷谷山城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7618.JPG←主郭
 茗荷谷山城は、弓庄城主土肥氏の支城である。弓庄系土肥氏は、白岩川・大岩川流域に高原城-弓庄城-柿沢城-茗荷谷山城という城館群を築いており、これらは弓庄城を本拠とし、その支城群と捉えられる。茗荷谷山城は弓庄城主土肥美作守政繁の「奥城」で、城主は政繁が兼帯していたとも言われる。或いは土肥左衛門の名も伝わっている。弓庄城系統の城館群では最奥の最高所に築かれており、最終的に籠城するべく築かれた城と推測される。しかし弓庄系土肥氏は、1582~3年に佐々成政の攻撃を受けた際、平地の弓庄城に籠城し、遂に茗荷谷山の奥城に拠ることなく、成政と和を結んで越後へ退去した。

 茗荷谷山城は、標高446.5mの峻険な城ヶ平山に築かれている。トレッキングで有名な山らしく、登山者が多数おり、西麓の日石寺付近にある駐車場は車が入り切らず路肩駐車している車が多数あった。山頂の主郭までの比高は312mもあるが、登山道が整備されているので、時間は掛かるが迷わず登ることができる。登り始めてしばらくすると、西向きの緩斜面に段々の平場が残っている。石積みもあり、昔の畑跡と思われるが、木戸口の様な部分や平場手前の横堀の様な地形があり、往時の遺構である可能性も捨てきれない。登り始めて25分ほどすると、南西尾根に穿たれた最初の堀切に行き当たる。中規模で、しっかりした普請がされている。その先には散発的に堀切や曲輪らしい平場が現れるが、やや不明瞭である。主郭手前は急登の連続となり、数段の段曲輪を経てようやく主郭に至る。主郭はトレッキングの山らしく、全周の眺望がひらけ、富山湾が一望できる他、剱岳もよく見える。しかし曲輪としては削平が甘く、塁線もはっきりせず、ほとんど自然地形に近い。主郭の北には堀切を挟んで平場があり、その先で尾根は東と北に分かれる。登山道は東尾根に続いており、これを降っていくと、2本の堀切が間隔を空けて穿たれている。ここの堀切も中規模でしっかり穿たれている。一方、北尾根の方は未整備の劇薮で、堀切はかろうじて分かる程度であるが北端に物見台があるのが確認できる。以上が、茗荷谷山城の遺構で、堀切などが広範囲に散在し、求心性のない縄張りであるが、それは山の地形自体を最大の武器としているからだろう。眺望が素晴らしいので、天気の良い日に登りたい城である。
南西尾根の堀切→DSCN7567.JPG
DSCN7635.JPG←東尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.666156/137.402637/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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千石山城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7457.JPG←南東尾根の2本目の堀切
 千石山城は、堀江城主土肥氏の支城である。堀江系土肥氏は、上市川流域に有金館-堀江城-郷柿沢館稲村城-千石山城という城館群を築いており、これらは堀江城を本拠とし、その支城群と捉えられる。千石山城は堀江城の「奥城」と伝えられ、上市川流域の城館群では最奥の最高所に築かれており、最終的に籠城するべく築かれた城と推測される。1583年に土肥氏が佐々成政との抗争に備えて構築した可能性が指摘されている。

 千石山城は、標高757.6mの千石城山に築かれている。まともに麓から登ったら大変な山だが、幸い南東の尾根まで車道があり、大した苦労をせずに登ることができる。車道のヘアピンカーブの脇から登山道が整備されている。登り口から城域到達までは思ったより遠く、最初の堀切まで15分ほど掛かる。この南東尾根には合計3本の堀切が距離を隔てて穿たれている。その先に主郭がある。主郭は広いが、やや起伏のある曲輪で、西から北にかけて腰曲輪を伴っている。主郭は整備されており、ベンチや解説板があるが、周りに木々があって眺望は良くない。腰曲輪は薮が酷いが、竪堀が穿たれているのが確認できる。また北西の尾根を降っていくと、二重堀切が穿たれている。堀切は、この北西尾根のものも前述の南東尾根のものも、中規模でしっかりした普請がされている。この他、縄張図には描かれていないが、南東尾根で城域から離れた所に幅広の横堀(堀切)状地形があり、これも遺構であった可能性があるが、薮が多くて判然としない。以上が千石山城の遺構で、峻険な地形に更に多重堀切で防御を固めた、いかにも最後の砦らしい城である。
主郭→DSCN7473.JPG
DSCN7501.JPG←北西尾根の二重堀切の外堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.669185/137.453288/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/10/25
  • メディア: 大型本


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稲村城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7403.JPG←主郭の物見台
 稲村城は、堀江城主土肥氏の支城である。城主は土肥源七郎、土肥左衛門等と伝えられる。堀江の奥城であったと言われることから、堀江城の詰城として機能していたと推測される。

 稲村城は、上市川ダムの北にそびえる標高348mの城山に築かれている。東麓の車道に登り口の案内板が出ているが、肝心の登り口には表示がないので、少々面食らう。しかし墓地脇から奥の林に入ればよい。山頂までは尾根筋を上がっていく登道が整備されているが、斜度のきつい尾根道である。山頂近くになると、東郭が現れる。先端が櫓台状となり、その背後に小堀切が穿たれている。その後ろに尾根上の曲輪があり、その後部にもう1本の堀切、曲輪の側方には腰曲輪を築いている。ここからさらに登ると、山頂の主郭に至る。綺麗に削平された広い曲輪で、北西端には物見台が築かれている。主郭の内部には穴が開いているが、『日本城郭大系』によると立山寺に通じていたとの伝承がある抜け穴の跡とされる。現存する抜け穴遺構は極めて珍しい。主郭の西尾根には小さな二ノ郭があり、3段程の平場に分かれている。この他、主郭の北東の尾根にも小郭と堀切がある。以上が稲村城の遺構で、比較的小規模な詰城である。
主郭の抜け穴→DSCN7418.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.681800/137.417164/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の名城を歩く 富山編

北陸の名城を歩く 富山編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2022/09/01
  • メディア: 単行本


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高山城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6457.JPG←三ノ郭群の北の堀切
 高山城は、射水・婦負郡守護代神保氏の重臣寺島牛助(牛之助とも)が築いたと伝えられる。小島城主小島甚助は、牛助の弟である。両人の事績は小島城の項に記載する。

 高山城は、山田川東岸の標高190mの山上に築かれている。史跡指定はないが北西麓から登道が整備され、解説板も設置されている。解説板の奥を台地上に登ると、山麓居館・家臣団屋敷地らしい平場群が展開している。ここは町ヶ平・法華坊・的場などの地名が残っている。平場群は明確だが、大半が耕作放棄地の薮に埋もれている。平場群を通過すると、道は尾根を南東に登っていき、やがて主郭に至る。主郭は南北に長い曲輪で、北東角に櫓台、南端にも大きな土壇があり鐘突堂と呼ばれる。主郭中央部の平場は倉跡とされる。登ってきた道はかつての大手と推測され、主郭の北西に多数の帯曲輪群が築かれて大手筋を固めている。ただこの帯曲輪群は、近世の段々畑だった可能性もある。主郭から北に伸びる細尾根には間隔をあけて3本の堀切が穿たれている。これらの堀切群の北には二ノ郭がある。二ノ郭は、細長く伸びた曲輪で2段に分かれ、南の細長く高台となった平場は物見台であったらしい。ここだけ木が伐採されていて、北西麓への眺望が開けている。下段の平場は細長い菱形状で、南東に土塁が築かれている。二ノ郭の北には細尾根・小郭・細尾根と降っていき、三ノ郭に至る。三ノ郭はくの字型をした広い平場で、周囲に腰曲輪を伴っている。三ノ郭の南西端には土塁を兼ねた小郭が築かれて南限を区画している。三ノ郭の北東には三角形の腰曲輪があり、その先端を城内最大の堀切で分断している。その北に細尾根が伸び、その先を小堀切で区画して城域が終わっている。一方、主郭の後部にも堀切が穿たれ、南に細尾根が伸びている。この細尾根は小ピークで分岐してY字型になっている。南と、北の三角点のある峰の先に、それぞれ小堀切が穿たれている。以上が高山城の遺構で、それほど技巧的な縄張りではないが、城域は広く、堀切も中規模のものもあって、中々守りを固めた城であったことがうかがわれる。
二ノ郭の土塁→DSCN6421.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.614503/137.093024/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/03/31
  • メディア: 大型本


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小島城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6320.JPG←主郭に残る土塁
 小島城は、射水・婦負郡守護代神保氏の重臣小島甚助が築いたと伝えられる。高山城主寺島牛助(牛之助とも)は、甚助の兄である。共に上杉勢によって元居た地を追われ、この地まで逃れてきて城を築いて居城とし、神保長職の旗本となったとの伝承がある。1563年、上杉勢の攻撃を受けて小島・高山両城は落城し、小島甚助・寺島牛助兄弟は「乱の穴」という洞窟に身を隠して危難を免れ、若狭城(大道城)に逃れて立て籠もったとされる。1581年、織田信長の部将佐々成政の進攻を受けて小島・寺島兄弟は抗戦しきれず、降伏して佐々氏に仕えた。佐々氏移封後は、加賀前田氏の家臣となったと言う。

 小島城は、山田川西岸にある城山という丘陵上に築かれている。丘陵上に鉄塔があるため、南尾根の小道から鉄塔保守道を登って登城可能である。この丘陵は、傾斜量図で見ると南西から北東に向かって全部で4段の平場があるが、どこまでが城域であったのかはよくわからない。しかし最上部にある南西の平場が主郭であろう。主郭は山林内に平場が広がっていて、南と西は断崖で囲まれている。北端には低土塁が見られる。その先は鉄塔の建つ2段目の平場であるが、薮が深く侵入が困難で、遺構が存在するかどうかよくわからない。また4段の平場の内、下の2段は畑となっている。結局、平場とわずかな土塁以外に明確な遺構は見られず、縄張りがよくわからない城だった。
 尚、小島城の西方約1kmの山中に小島甚助・寺島牛助兄弟が隠れた「乱の穴」が残っている。
乱の穴→DSCN6336.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.597346/137.081233/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

  • 出版社/メーカー: 丸善出版
  • 発売日: 2022/07/28
  • メディア: 単行本


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尾畑城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6208.JPG←西の堀切
 尾畑城は、歴史不詳の城である。城の西側には、飛騨街道と並び飛騨・越中を結ぶ重要街道・大長谷街道が通っており、この街道を眼下に見下ろせることなどから、街道を監視するために築かれたと推測されている。またその縄張りには、地元土豪が築いた周辺城砦と大きな違いがあり、外部勢力による築城との推測もされている。これらのことから1576年の上杉謙信の能登侵攻の際に飛騨口を守るために上杉氏が築いた城とも考えられているが、確証はない。

 尾畑城は、標高593mの奥地の山上に築かれている。市の史跡に指定されており、西麓の車道脇に標柱と解説板が立っており、そこから登道が整備されている。但し登道はあると言っても、かなり傾斜がきつく、場所によっては滑り落ちそうになるような尾根直登に近い山道なので、登るのはかなり大変である。小規模な城砦で、四方の尾根に堀切を穿ち、その手前に櫓台を配置して守りを固めている。南尾根以外の堀切は、この手の小城砦には不釣り合いなほど規模が大きい。また西・北の堀切は、間にある窪地状の平場で合流しており、更に北の堀切から東の堀切までの外周に武者走りが通じており、これらの堀切が城内通路を兼ねていたことがわかる。主郭は小さな櫓台状の高台で、周囲の腰曲輪は傾斜し、前後の櫓台との間は堀切状の鞍部となっている。また主郭の南下方には横堀が穿たれている。この他、北西の谷間には水の手が残っているが、藪が多くて形状が把握しづらい。以上が尾畑城の遺構で、少人数の番兵だけを置いて物見と烽火台を主任務とした城だったのだろう。
堀切状の鞍部と主郭→DSCN6227.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.514008/137.097402/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 上杉謙信

図説 上杉謙信

  • 作者: 今福 匡
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/03/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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高尾城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6194.JPG←主郭の現況
 高尾城は、歴史不詳の城である。高嶺城の北西わずか900m程の位置にあり、仁歩川と室牧川に挟まれた丘陵地内の標高250mの峰に築かれている。山頂近くには送電鉄塔が建っており、南麓から保守道があるので、それを登っていけば城まで行ける。山頂には2段の平場が確認でき、主郭と二ノ郭であろう。主郭は倒木だらけの上、草に覆われていて形状がわかりにくいが、中央に土壇が見られる。主郭の南には鉄塔が建つ二ノ郭があるが、ここも鉄塔付近以外は藪で覆われている。主郭の北には空堀と土橋が築かれ、腰曲輪が構築されている。その西には小道があり、朽ちたベンチも残っているので、以前は公園か何かになっていたらしい。いずれにしても小規模な城砦であるうえ、遺構にも見どころが少なく、あまり見応えのある城とは言えない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.565969/137.112540/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/10/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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高嶺城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6139.JPG←横堀と北東の櫓台
 高嶺城は、歴史不詳の城である。神保氏の部将が城主であったとも、或いは丹羽市右衛門という武士が城主であったが上杉氏に攻撃されて落城したとも伝えられる。

 高嶺城は、仁歩川西岸の南北に連なる丘陵上の、東側に突出した標高260mの峰に築かれている。この城へ登るには、南の水田地帯の道を登って南東中腹に至り、そこから斜面を直答するルートと、北尾根を貫通する市道から未舗装の林道に入り、林道伝いに城の直下までくるルートの2種類があるらしく、私は前者で訪城した。広い主郭を持つ単郭の城で、大まかには半月形をした曲輪形状となっている。北側半周には低土塁が築かれ、その外周に横堀が穿たれている。塁線は緩やかに凹凸のカーブを描いており、北東には張出しの櫓台、北西には出枡形の虎口が築かれている。また櫓台の西には虎口らしき土塁の切れ目があり、横堀をまたいで木橋で繋がっていたようである。櫓台は、この木橋に横矢を掛ける形となっている。櫓台東の横堀は、途中までは残っているが、重機で破壊を受けている。主郭内は削平の甘い地山で、内部が傾斜している。恒常的に使われたのではなく、陣城として一時的に使われた城だったように感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559972/137.119128/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/03/26
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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下笹原砦(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6051.JPG←主郭後部の土橋と空堀
 下笹原砦は、射水・婦負郡守護代神保氏の支城と伝えられる。『肯搆泉達録』に「越後より越中攻めの時、神保の将住す」とあることから、戦国時代に越後守護代長尾氏か上杉謙信が越中に侵攻した際、神保氏の城砦となっていたと推測される。

 下笹原砦は、茗ヶ原川屈曲部に東から突き出た断崖上に築かれている。ほぼ単郭の小規模な城砦で、崖端にある細長い主郭の東と南を空堀で穿って周囲の台地と分断している。この空堀は、この手の小城砦としては規模が大きく、主郭切岸もしっかりと切り立っている。主郭の先端近くには虎口があり、空堀に木橋が架かっていたと推測されている。主郭後部には土橋が架かり、その脇は堀切となっている。また主郭北面には腰曲輪が1段築かれ、前述の空堀はその横に落ちている。簡素な形態の城砦であり、他の城砦群と連携して守りを固めていたと推測される。
 尚、この城へは東の車道脇に案内板が出ており、小道が伸びているので、てっきりこの小道がそのまま城まで通じていると思ってしまうのだが、実際はこの小道をそのまま進んでしまうと城には辿り着けない。しばらく小道を進んでから、道のない山林を西に進まないといけないので、注意が必要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.572759/137.138536/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

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  • 出版社/メーカー: 西東社
  • 発売日: 2022/11/07
  • メディア: 単行本


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舘本郷館(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6028.JPG←館跡の諏訪神社
 舘本郷館は、室町中期にこの地の土豪であった田中又四郎市正の居館と伝えられる。当初田中館を居館としていたが、後に舘本郷館に居館を移した。田中市正の事績については田中館の項に記載する。

 舘本郷館は、諏訪神社の境内付近にあったらしい。田中館同様、遺構は全く残っておらず、館跡の雰囲気も感じられず、ただの神社という感じである。ただ、神社の南南西260mの所の車道脇に田中市正の墓や一族のものと思われる数基の五輪塔、顕彰碑が立っている。
田中市正の墓→DSCN6029.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.614400/137.130361/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2022/03/10
  • メディア: 大型本


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田中館(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6025.JPG←館跡の西円寺
 田中館は、室町中期にこの地の土豪であった田中又四郎市正の居館と伝えられる。田中氏は、田中五保と称して田中・熊野道・水谷・上高善寺・高善寺・館・本郷の7ヶ村を領したと言う。後に舘本郷館へ居館を移した。また市正の末女「茶々女」は富崎城主神保長職の正室となったと言う。しかし越後上杉氏(長尾氏?)が越中に侵攻すると、館は落ち、田中氏一族は自害したらしい。1493年頃のことと言う。以上が舘本郷館の南にある、田中市正墓所に建つ顕彰碑の内容であるが、どうも時代が合わない。越後守護代の長尾氏が越中に侵攻するようになったのは1506年以降であり、神保長職は上杉謙信時代の武将であるので、田中市正も戦国中期の武士であったと思われる。

 田中館は、現在の西円寺境内にあったらしい。遺構は全く残っておらず、館跡の雰囲気も感じられず、ただのお寺という感じである。しかし田中館とする伝承は地元には残っているらしく、たまたま西円寺でお話した地元のご老人は、田中館のことをご存知であった。その方が仰るには、田中氏は元々近江(滋賀県)から移住した一族で、近江にも同族田中氏の居城田中城がある、姉川の戦いの前に織田信長が泊まったのが近江田中城であるとのことであった。事実とすれば、ひょんな所からひょんな所に歴史が繋がるものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.620238/137.139244/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

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  • 出版社/メーカー: 西東社
  • 発売日: 2022/11/07
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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鶴ヶ城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6022.JPG←城址推定地の現況
 鶴ヶ城は、羽根城とも言い、神保氏の部将大間知(大町)民部頭浄安の子兵庫政近が築いたと伝えられる。1538年に富崎城と共に落城した。1559年に神保氏が再び富崎城を築いた際、政近の子兵庫安政も鶴ヶ城を再築して居城とした。しかし1566年に上杉謙信の将上杉弥五郎が富崎城を攻略した時、鶴ヶ城も再び落城し、安政は羽根村に隠れ住んで帰農したと言う。

 鶴ヶ城は、井田川と山田川の合流点西側に広がる平地に築かれていたらしい。しかし遺構は既に完全に失われていて、その所在地も確定されていない。解説板は国道359号線 下邑口交差点の北側の車道脇にあるが、解説板にはそこから北方約500mと推定されると書かれており、富山県遺跡地図では羽根ピースフル公園の広いグラウンドが城跡とされている。いずれにしても既に失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.660785/137.143836/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


人生を豊かにしたい人のための日本の城 (マイナビ新書)

人生を豊かにしたい人のための日本の城 (マイナビ新書)

  • 作者: 小和田哲男
  • 出版社/メーカー: マイナビ出版
  • 発売日: 2021/05/26
  • メディア: Kindle版


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日宮城(富山県射水市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6018.JPG←北東の曲輪群の遠望
 日宮城は、火宮城とも記載され、射水・婦負郡守護代神保氏の重要拠点である。1560年、椎名氏救援のために越後守護代長尾景虎(上杉謙信)が越中に侵攻した際、神保長職は富山城を放棄して増山城へ逃れ、長尾勢の追撃を受けて再び落ちのびて行方知れずとなった後、1562年には再び増山城を居城としているが、その間の一時期、長職の居城となったとも言われる。また神保源七郎が城主であったとも伝わっている。その後、神保氏家中は親上杉派、反上杉派に分裂して争い、神保父子も長職は上杉方に、子の長住は反上杉方にと分裂した。この家中の争いの中で実権は徐々に親上杉派の小島職鎮に奪われて上杉方への従属化が進み、長職の死後には家臣の大部分が上杉氏の家臣となり、流浪の身となった神保長住は後に織田信長を頼った。1572年、上杉勢の最前線となった日宮城の守将であった神保覚広・小島職鎮ら神保氏旧臣4将は、加賀越中の一向一揆勢の猛攻を受け、和睦して開城し、石動山に退去した。その後日宮城は歴史から姿を消した。

 日宮城は、旧北陸道の南にある比高20m程の丘陵上に築かれている。起伏のある丘陵地で、大きく3つの丘陵に分かれ、それぞれに曲輪が築かれている。西に日宮社が建つ最も小さい曲輪があり、その東に谷を挟んで薬勝寺の境内となっている曲輪、その北東に山林などになっている曲輪がある。どれが主郭に当たるのかには諸説あるが、最高所に当たるのは北東の丘陵で、これが主郭に当たると思われる。しかしこの丘陵は立入禁止となっていて、内部の探索はできない。遠目に平場があるのが確認できるだけである。スーパー地形や佐伯氏の縄張図によると、3段の平場に分かれている様である。薬勝寺がある曲輪は、中央に小高い平場があり、東に坂土橋の様な土壇が張り出している。この小高い平場の南や西は腰曲輪らしいが、墓地となって改変されている。また薬勝寺の北東にも櫓台の様な土壇がある。その北には北東の丘陵との間を区切る谷があり、小道が貫通している。この谷は往時の堀切跡の可能性がある。日宮社がある曲輪は面積も小さく、物見台的な曲輪である。以上が日宮城の現況で、最も遺構が残っていると思われる部分には入れず、その他の部分は改変が多いので、ちょっと物足りなさを感じる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.704924/137.085214/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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古国府城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5864.JPG←境内西側の空堀・土塁
 古国府城は、射水・婦負2郡の守護代であった神保氏が築いた城と伝えられる。元々この付近には越中国府があった。神保氏は初め放生津城を居城としたが、1519年に越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)が越中に侵攻すると、神保慶宗は要害性の高い二上城に立て籠もって抗戦した。この時に二上城の出城として古国府城が機能したと考えられる。戦国後期には神保氏の庶流神保安芸守氏張は、守山城を居城とし、古国府城を出城とした。織田信長の部将佐々成政が越中に進出すると、氏張は成政の麾下に属して越中平定に活躍した。織田信長横死後の1584年、信長の後継者としての地歩を固めていた羽柴秀吉に対抗した成政は、隣国加賀・能登を支配した秀吉方の前田利家と交戦したが、その状況の中で越中一向宗衆を味方につけるため、坊舎を失っていた勝興寺の還住を許し、これを受けた氏張は古国府城を含む旧国府跡一帯を勝興寺に寄進した。これにより古国府城は廃城となったが、勝興寺時代にも戦国期城郭そのものの構造は改変を受けつつ維持されたらしい。

 古国府城は、前述の通り勝興寺の境内となっている。境内周囲には土塁・空堀が残る他、唐門の前には水堀があり、その傍には城の望楼を思わせる鼓楼が建っていて、城跡らしさを感じさせる。西側の土塁・空堀には横矢のクランクが設けられている。草木が茂っているので確認しづらい部分もあるが、西側外周には「椿の道」という林の中の散策路があり、そこを歩くと傍らには空堀と土塁をよく見ることができる。また城の遺構もさることながら、勝興寺の伽藍も凄い。昨年、新たに国宝に指定された本堂等の他にも重要文化財の建物が多数あり、寺巡りとしても十分楽しめる。いろいろな楽しみ方が出来る城である。
水堀と望楼風の鼓楼→DSCN5732.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.792610/137.052931/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/03/13
  • メディア: 大型本


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大峪城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5721.JPG←主郭の切岸
 大峪城は、1585年に豊臣秀吉が越中の佐々成政を討伐した富山の役に築かれた城である。初め白鳥城に拠っていた前田利家の家臣片山伊賀守延高は、白鳥城が秀吉の本陣となったため、大峪城に移されて城を守った。同じく白鳥城にいた岡嶋一吉も安田城に移されており、両城ともこの時点で秀吉の本陣となった白鳥城の出城として機能したとみられる。片山氏の後は前田氏の旗本が入城したと伝えられる。

 大峪城は、かつては井田川北岸の段丘に築かれた城であったが、現在井田川の流路は変更されており、その名残の水路が流れている。周囲は住宅地などに変貌されているが、台形状の主郭が高台となって残っている。しかしその主郭も、以前は五福小学校が建てられ、現在は五福芝生スポーツ広場に変貌してしまっており、大きく改変されている。主郭周囲は往時の切岸と思われる急斜面で囲まれている。その外側には水堀や外郭が広がっていたらしいが、現在は改変しつくされており、わずかな段差が東側に残る以外は城の名残は全くない。しかも、以前はあった城の解説板が、スポーツ広場になったらなくなってしまっているではないか!各地で城跡を整備しているこのご時世に、富山市は一体何を考えているんだ!と思わず叫んでしまいそうになる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.697853/137.182835/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


秀吉の天下統一戦争 (戦争の日本史)

秀吉の天下統一戦争 (戦争の日本史)

  • 作者: 小和田 哲男
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2006/09/01
  • メディア: 単行本


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平榎城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5688.JPG←比定地の現況
 平榎城は、1443年まで河内国枚方城主であった埜崎(野崎)政光の子、筑前守政彌が1504年8月に築いた城である。その後、天正年間(1573~92年)の初め頃に越中に侵攻した上杉謙信の攻撃を受けて落城したと伝えられる。しかし史料にわずかに出てくるだけで、実態が明らかでない幻の城とされている。また城がある常願寺川流域は、1580年から幕末にかけての約280年間に24回もの洪水などの土砂災害を受けており、平榎城は土砂災害によって消失したと考えられている。尚、この地は、新川郡守護代椎名氏、射水・婦負郡守護代神保氏の支配領域の中間地点に当たり、常願寺川河口の海岸線や常願寺川沿いの街道などを扼する交通の要所であった。発掘調査の結果、平榎城のものと思われる堀跡が検出されており、平榎城はこうした交通・軍事の要地を押さえた城館で、規模は不明ながら堀を巡らし、家臣の屋敷地が周囲を固めた城であったと推測されている。

 平榎城は、平榎亀田遺跡周辺に比定されている。前述の通り、表面観察できる遺構は全く無く、一面の水田地帯が広がっているだけである。解説板も何もなく、今でも幻の城のままである。農地整備事業の記念碑(解説板)を立てるぐらいなら、城についての標柱や解説板を立てても良さそうなものなのに、非常に残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.743037/137.284030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上杉謙信 人物叢書

上杉謙信 人物叢書

  • 作者: 山田邦明
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/11/01
  • メディア: Kindle版


タグ:中世平城
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蓑輪城(富山県滑川市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5652.JPG←主郭背後の堀切
 簑輪城は、護摩堂城とも呼ばれ、椎名氏の居城松倉城の出城と推測されている。城主には諸説あり、簑輪平左衛門尉、簑輪平太左衛門、簑輪五郎左衛門、三浦五郎左衛門などの名が伝わっている。この内、三浦五郎左衛門は椎名右衛門尉の家老であったと伝えられる。

 簑輪城は、早月川西岸にそびえる標高490mの山上に築かれている。城内に鉄塔があるので、西麓の護摩堂八幡社付近から鉄塔保守道が付いており、伊折30番鉄塔を目指して登れば良い。しかし城内は、鉄塔付近以外は未整備の藪に覆われており、それでも城域の北半分は踏査しやすいが、主郭の南半分から南はかなり踏査が難しい。山頂の主郭には鉄塔が立っているが、南東端に土壇があり櫓台であった様である。主郭の南西には3段程の腰曲輪があるが、藪であまりはっきりとはわからない。主郭の北西尾根に小さな城址碑があり、その先に物見台と小掘切があり、更に細尾根が伸びて、先端に三角点のある小さい平場があって、その下にも堀切があって城域が終わっている。一方、主郭背後には規模の大きな堀切が穿たれているが、藪に埋もれてしまっている。その南はひたすら藪の細尾根で、城域南端は出丸と二重堀切で終わっている。一応、富山城郭カードの配布対象になっている城なのだが、藪がひどいのには辟易した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.720233/137.436347/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の名城を歩く 富山編

北陸の名城を歩く 富山編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2022/09/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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水尾南城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5591.JPG←神社本殿が建つ主郭
 水尾南城は、松倉城の支城群の一つである。『得田文書』によると、南北朝期の1346年7月に、北朝方の能登守護吉見頼隆の軍勢が、前越中守護普門(井上)俊清討伐のために水尾南山要害(水尾南城)と水尾城を攻めたと記載されている。その後の歴史は不明である。

 水尾南城は、水尾城の南東の尾根続きにあり、両城は700m程隔たっている。南北に並んだ主郭・二ノ郭から構成されているが、二ノ郭に松尾神社の拝殿があり、そこまで未舗装の車道が延びている。しかし道が荒れているので、最低地上高の高い車でないと途中までしか行けない状態である。二ノ郭は神社境内なので、平坦で広く、明確な遺構は確認できない。二ノ郭の南にはわずかな鞍部の先に高台となった主郭がある。主郭には神社本殿と鉄塔が建ち、改変を受けている上、ほとんど藪で埋もれている。主郭に登る途中には、模擬城門が建っていて、水尾南城門と書かれている。主郭の南尾根に小堀切があるようだが、藪がひどすぎて踏査できなかった。結局遺構の改変が多く、あまり城跡らしさを感じられなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.746011/137.432721/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

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  • 出版社/メーカー: 西東社
  • 発売日: 2022/11/07
  • メディア: 単行本


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焼山砦(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5557.JPG←南西尾根の堀切
 焼山砦は、松倉城の支城群の一つである。「寺屋敷」の地名が残ることから、寺院跡との推測もある。

 焼山砦は、松倉城北西にある比高90m程の半独立状の小山に築かれている。私は南の台地上の畑道の脇からアプローチした。南斜面にいくつかの平場があるが、これらは耕作地であった可能性が高い。そこから西上に登っていく小道があり、山上の平場に至る。広大な平坦地になっており、主郭と思われ、南西端に櫓台らしき土壇が築かれている。この土壇の東にも低地を挟んで土壇があり、櫓門形式の虎口が築かれていた可能性がある。主郭の東には小山が地山のまま残っており、そこから前述の土壇に向かって細尾根が降っている。小山にも細尾根にも、明確な遺構は確認できない。一方、主郭の南西に伸びる尾根には堀切が2本穿たれ、側方には横堀も構築されている。この辺りはいかにも城砦らしい雰囲気を残すが、2本目の堀切や横堀の一部には水路が通るなど、不自然な部分が見られる。また横堀に土橋が架かっているが、土橋の先には郭がなく、これも不自然である。結局、本当に城砦だったのか、寺跡だったのか、よくわからなかった。ただ1本目の堀切は明確であり、出城として城砦化された寺院だったのかもしれない。
主郭の平場→DSCN5537.JPG
DSCN5562.JPG←南西尾根の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.765541/137.430403/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世寺院社会と民衆

中世寺院社会と民衆

  • 作者: 下坂 守
  • 出版社/メーカー: 思文閣出版
  • 発売日: 2014/11/25
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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北山城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5415.JPG←北端の櫓台
 北山城は、松倉城を取り巻く支城群の一つである。『越中古城記』などによれば、椎名小八郎が城主であったと伝えられると言う。椎名小八郎の事績は不明であるが、魚津市の『松倉城郭群調査概要』では、永禄年間(1558~70年)に椎名康胤の養子として上杉謙信から送り込まれた長尾小四郎景直の誤伝ではないかと推測している。また北山城が上杉謙信に攻められて落城したとの伝承もあるらしい。いずれにしても、松倉城砦群の一という以外、詳細な歴史は不明である。

 北山城は、松倉城の北方約2.2kmの山上に築かれている。城内は公園化されており、車で直下の駐車場まで行くことができる。くの字になった幅の広い尾根上に主軸の曲輪を置き、東側の斜面に腰曲輪群を配している。ただいずれの曲輪もわずかな段差で区画されているだけで、堀切もなく、あまり明確な区分はない。曲輪の高さ関係から考えて。北半分が二ノ郭、南半分が主郭と考えられる。二ノ郭は北端に一段高い櫓台を置き、西に向かって緩やかに傾斜しており、そこに腰曲輪群がある。櫓台からは眺望がひらけ、富山湾が一望でき、遠くには能登半島が見える。櫓台の北側下方には堀切と土壇が置かれ、北の尾根筋を防御している。主郭はくの字に折れ曲がった曲輪で、削平が甘く、中央部の最高所から北と南西に向かって緩やかに傾斜している。くの字の主郭の内側(西側)に傾斜した平場群が配置されている。また主郭の南端にも堀切と土壇が築かれ、この防御構造は北端部と同じ形態となっている。主郭の東外周は防備が厳重で、しっかりした切岸の下に帯曲輪が構築され、間隔をおいて5本の竪堀が落ちている。主郭東には、やや形状がはっきりしないものの内枡形虎口が築かれており、帯曲輪に城道が通じ、その先では竪堀で動線遮断の処置をしている。北山城の遺構は以上で、佐伯氏が指摘している通り古いパターンの縄張りであるが、主郭東側だけ防備が厳重で、この辺りだけ戦国期に防備が増強されているように感じられた。
竪堀→DSCN5462.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.774032/137.442291/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本


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坪野城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5308.JPG←堀切から落ちる竪堀
 坪野城は、松倉城を取り囲む支城群の一つと推測される城である。城主は松倉城主椎名氏の家老、あるいは家臣であったとも、上杉氏の家臣が在城したとも言われる。また上杉謙信が松倉城攻めの際に本陣を置いたという伝承もあるようだ。

 坪野城は、松倉城の北東3kmの位置にある、標高460mの小山に築かれている。城の東中腹に鉄塔があり、北東麓から鉄塔保守道が整備されているので、これを利用すれば城に登ることができる。登り口は北東にある大菅沼集落の奥、溜池沿いの車道の脇にある。ここから柳河原線72番鉄塔を目指せばよい。この鉄塔は、百間馬場と呼ばれる平場にあり、謙信の本陣であったとか馬揃えをしたとの伝承がある。鉄塔の奥にあたる南に小道が伸びており、この道から城に登れるが、この道は藪に埋もれつつあり、数年後には消失している可能性がある。というのも、以前は主郭にも鉄塔があったのだが、現在は鉄塔が撤去されてしまっているのである。従って今は主郭も未整備となってしまい、藪に覆われてしまっている。前述の小道を進むと、湧水がある谷地形に至り、その右手に竪堀が落ちてきている。これが南の堀切から落ちている竪堀で、登城路を兼ねていたことが想定される。この竪堀道を登っていけば本城域に入る。山の頂部に主郭を置き、東西に腰曲輪を配置している。主郭の北側には土塁が築かれているようだが、藪がひどくて形状がよくわからない。主郭の北端近くの土塁上には小さな城址石碑があるが、藪に埋もれてしまっている。また主郭の南西北の三方に堀切を穿っている。南の堀切は小郭を挟んで2本穿たれ、北のものは細尾根にやや離れて2本穿たれている。南の1本目の堀切は、東側が東腰曲輪に通じており、同様に西の堀切も西腰曲輪に繋がっている。北尾根は、2本の堀切の先に鞍部があり、虎口とされている。その東側には横堀が伸びている。辛うじて縄張図を元にして踏査できたが、全体に藪がひどくて踏査が大変である。主郭の鉄塔がなくなった今、このまま藪に埋もれる運命なのであろうか。
主郭の現況→DSCN5322.JPG
DSCN5328.JPG←西の堀切
城址碑→DSCN5338.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.772399/137.462279/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 上杉謙信

図説 上杉謙信

  • 作者: 今福 匡
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/03/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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嘉例沢城(富山県黒部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5297.JPG←駒洗い池
 嘉例沢城は、歴史不明の城である。現地にある駒洗い池の解説板では、胸ヶ平城と記載され、南北朝時代の城とある。また近江源氏の佐々木四郎高綱が城を築いたとあるが、高綱は鎌倉幕府草創の功臣であり、時代が合わない。そもそもこの解説板、近江源氏を間違って「近衛」源氏と書いてあり、少々信頼性に難がある。いずれにしても、その歴史はよく伝わっていない様である。

 嘉例沢城は、『日本城郭大系』によれば嘉例沢森林公園の管理棟付近にあったとされる。鋲ヶ岳の西の中腹で、車道が通るなど改変を受けており、明確な遺構は見られない。しかし『三州志』にもある「駒冷し場」(馬洗池)が、駐車場跡下方の窪地の中に残っている。城に関係する遺構とされ、現地解説板では前述の通り「駒洗い池」と書かれている。佐々木高綱がこの城を築いた時に自らの馬を池に引き入れて洗った池と伝えられていると言う。嘉例沢城にまつわる唯一の遺構であり、貴重である。
 尚、嘉例沢城の東の山上には鋲ヶ岳城があり、この城との関係が注目される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.828034/137.545674/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


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鋲ヶ岳城(富山県黒部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5263.JPG←北端の堀切
 鋲ヶ岳城は、歴史不明の城である。位置的に嘉例沢城の東にそびえる山上にあることから、嘉例沢城の詰城か物見の砦ではなかったかと思われる。

 鋲ヶ岳城は、標高861.0mの鋲ヶ岳山頂に築かれている。西の中腹に嘉例沢森林公園があり、そこまで車で登ってくることができる。また公園から鋲ヶ岳まで登山道が整備されており、迷うことなく登ることができる。南北に細長い尾根上に築かれており、山頂の四阿のある平場が主郭であろう。しかしそれ以外に明確な曲輪は見られない。一方、主郭の北端にある三角点の北に浅い堀切が穿たれ、更にその北にももう1本堀切が穿たれている。この堀切は、小さいが鋭い薬研堀で、一番はっきりした遺構である。主郭の南の尾根にも堀切が1本穿たれているが、かなり浅いものである。遺構としては以上で、城郭遺構としては大したことないが、頂上からの眺望に優れ、富山平野・日本海・宇奈月温泉などを一望できる。物見としては好適な城砦であったことがよく分かる。
主郭→DSCN5281.JPG
DSCN5282.JPG←南の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.827450/137.549386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
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タグ:中世山城
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天神山城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN1952.JPG←主郭の櫓台
 天神山城は、魚津城攻防戦の際に上杉景勝が後詰に入った城として知られる。元々、1554年に上杉謙信が松倉城の支城として築城したとされる。史料上では1572年から天神山の名が見えている(『上杉家文書』)。この年、越中・加賀の一向一揆が砺波郡より東進して、上杉方の最前線日宮城を攻め落とし、更に富山城をも占拠した。この時、上杉諸将間の緊迫した往復文書の中に「天神山」が度々現れ、天神山城が新庄城と共に上杉方の重要な中継拠点であったことが知られている。当時、天神山城には上杉氏重臣直江景綱が、新庄城には鰺坂長実が在城し、日宮城将からの注進は、最初に新庄城の鰺坂氏に、次いで天神山城の直江氏へ伝えられ、そこから越後春日山城へと伝達されている。次に天神山城が歴史に現れるのは、1582年の魚津城攻防戦の時である。謙信没後の内訌「御館の乱」で大きく勢力を減退させた上杉氏に対して、柴田勝家を総大将とする織田勢の北陸方面軍は加賀・能登を攻略、更に越中に進撃した。1582年3月下旬頃、松倉城と並ぶ越中東部の上杉方の一大拠点で、中条景泰ら12人の武将が立て籠もった魚津城を織田方の柴田勝家・佐々成政・前田利家らが攻撃し、以後激しい攻防が数ヶ月にわたって繰り広げられた。しかし揚北衆の新発田重家の反乱で苦境にあった上杉景勝は、なかなか援軍を出すことができず、4月23日に魚津城将12人が景勝の執政直江兼続に送った決別の書状を見るに及んで、不利を承知で5000余人を率いて出陣し、5月15日に天神山城に後詰として着陣した。この動きを知った織田方は5月下旬、旧武田領の上野を支配した滝川一益と、信濃川中島4郡を支配した森長可とが、それぞれ越後への侵攻を開始した。特に森軍は景勝の本拠春日山城を目指して進軍しており、急報を受けた景勝は5月27日、やむを得ず春日山城に向けて撤退した。魚津城の城将12人は、降伏を肯んぜず、織田勢の猛攻に力戦して一人残さず討死し、6月3日に魚津城は落城した。それは、本能寺の変の翌日のことであった。その後の天神山城の歴史は不明である。

 天神山城は、片貝川北岸の河岸段丘上の独立丘陵、標高162.9mの天神山に築かれている。現在城内は公園化され、また城内に魚津歴史民俗博物館が立てられ、車道が敷設されるなど、大きく改変を受けている。山頂に東西に長い主郭を置き、その西側に一段低く二ノ郭を配置している。主郭の南辺には櫓台とそれに続く長い土塁が築かれている。主郭の東側は尾っぽのように長く伸びて降り、駐車場となっている平場に繋がっているが、改変があるため往時の形状は不明である。二ノ郭の北から西にかけて数段の腰曲輪がある。また主郭・二ノ郭の北側斜面には散発的に竪堀が穿たれている。北東の車道下の草木に覆われた斜面には多数の腰曲輪群が築かれ、それらの西端部を画する様に竪堀が落ちている。この竪堀は、途中で一度横堀に変化し、更にまた竪堀に変化して落ちている。この他、東尾根と南斜面にも腰曲輪群がある様だが、当日は天候不順かつ凍えるような寒さだったので、踏査しなかった。これらについてはまた機会を改めて確認してみたい。
 天神山城は、概ねの遺構はよく残っているものの、残念ながら改変のため、どこまで往時の形を残しているのか不明な部分も多く、少々残念な状態である。
竪堀→DSCN1971.JPG
DSCN1921.JPG←北東斜面の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.825200/137.450230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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