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古城めぐり(長野) ブログトップ
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小黒城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6543.JPG←三ノ郭から見た空堀と主郭
 小黒城は、歴史不詳の城である。春日城からわずか750m程しか離れておらず、その占地や構造に春日城との共通点が多いことから、春日城の支城として機能していたと推測されている。

 小黒城は、天竜川と小黒川の合流点の北西にある比高30m程の河岸段丘の南東端に築かれている。現在明確に遺構が残っているのは主郭だけだが、往時は主郭の北や西にも曲輪があったらしい。主郭は土塁で囲まれた方形の曲輪で、郭内は雑木林となっているが遺構は見やすい。北と西に虎口がある。主郭の北と西は空堀が穿たれているが、西の堀は道路に変貌している。主郭の北には二ノ郭があったが、現在は宅地となっていて遺構は残っていない。主郭の西には三ノ郭があり、現在は小さい神社のある雑木林となっている。三ノ郭の西に鉄塔があるが、これが往時の空堀跡で、南の縁にわずかに竪堀だけが残っている。三ノ郭と北の住宅地の間には、堀跡と思われる切通し道が通っている。これらのほかは、周囲は一面の住宅団地に変貌していて、往時の面影はない。住宅団地の隅に、異次元空間のように奇跡的に残った城である。解説板も何もないのが残念である。
土塁が取り巻く主郭→DSCN6559.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.829861/137.946997/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

  • 作者: 三浦 正幸
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2022/05/09
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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吉田本城・吉田古城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN6413.JPG←本城主郭の土塁
 吉田本城・吉田古城は、松岡城主松岡氏の家臣吉田一族が拠った城とされる。吉田氏では、1400年の大塔合戦や1440年の結城合戦に吉田玄蕃という武士が参陣していることが知られる。尚、ここから少し南に離れたところにも吉田南城があるが、これらがどの様に使い分けられていたのかは、判明していない。

 吉田本城・吉田古城は、天竜川西方の河岸段丘上に位置し、北に胡麻目川による深い浸食谷が入り込んだ段丘北東角に築かれている。東にある複郭の城が吉田本城、北にある単郭の城が吉田古城である。
 吉田本城は、先端に主郭、その南西に二ノ郭を置き、更に二ノ郭の南西に小規模な出曲輪を配置している。出曲輪の脇から二ノ郭を通過して主郭に至る散策路が整備されている。主郭は、断崖に面した東辺以外を低土塁で防御しており、末広がりの四角形の形状をしている。南西角に枡形虎口があり、土塁がわずかに屈曲している。また南東端の土塁上には稲荷社があるが、塁線がやや外に張り出しており、横矢を掛けている。主郭の西と南は空堀で二ノ郭と分断されている。主郭の東斜面には横堀が穿たれているが、ガサ薮で形状がわかりにくい。二ノ郭は竹林になっており、西と南に切通し状の道が下っており、空堀を兼ねていたと思われる。西の切通し道を降った先にはお姫様の井戸と呼ばれる井戸跡が窪みとなって残っている。出曲輪も西と南を空堀で囲んだ小さな曲輪であるが、外周部は荒れた竹林で空堀がほとんどわからない。
 一方、吉田古城は、方形の主郭から成る城で、西と南に空堀を穿っているが、南の堀はほとんど埋まってしまっている。しかし東に小道を下ると、主郭東斜面の横堀があり、外側に土塁が築かれている。この横堀・土塁は、北端近くで二重空堀と二重土塁となっている。『信濃の山城と館』の縄張図ではここまでしか描かれていないが、実は北斜面にも遺構が残っている。主郭西の堀は切通し道になっていて、これを下っていくと北側の横堀に至る。この横堀は、腰曲輪に近い形状の部分もあるが、北東角で主郭東斜面の横堀と合流し、合流点で竪堀となって斜面を下っている。この竪堀の付け根には土塁が突き出ており、物見台となっていた様である。
 以上が吉田本城・吉田古城の遺構で、小規模な城館ではあるが遺構がよく残っており、伊那谷に多い、天竜川河岸段丘に築かれた小規模城砦の典型例となっている。
本城のお姫様の井戸→DSCN6387.JPG
DSCN6466.JPG←古城東側の二重土塁・二重空堀
古城北東角の横堀合流点→DSCN6506.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【吉田本城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.562439/137.884619/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【吉田古城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.563399/137.883718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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古御屋城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN6336.JPG←二ノ郭
 古御屋城は、単に古御屋とも呼ばれ、松岡城主松岡氏の支城と考えられている。一説には、松岡氏の古い居館があった所とも伝わる。

 古御屋城は、松岡城から東北東800m程の段丘先端部に築かれている。城内は堀切で、大きく北曲輪と南曲輪の2つに分かれている。北曲輪は西半分が宅地となって破壊されているが、東半分は遺構が現存しており、外周に土塁と腰曲輪(空堀跡?)が残っている。南曲輪は更に3つの曲輪に分かれており、最上段に主郭があり、高さ3m程のL字型の土塁で背後を防衛している。その東下方には二ノ郭があり、低土塁が築かれ、「お姫様の化粧水」と呼ばれる井戸跡がある。また二ノ郭の南に更に1段下がって小さな3郭がある。古御屋城は、小規模な城砦であるが、郭内に神社が祀られているせいもあって、南曲輪は薮払いされており、遺構がよく残っている。
南北を分断する堀切→DSCN6309.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.547914/137.872753/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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松岡南城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN6262.JPG←主郭先端の堀切
 松岡南城は、小城とも呼ばれ、谷を挟んで松岡城と対峙する位置にある。台地先端部ではなく、台地基部の少しくびれた部分に築かれているため、松岡城より小型の城となっている。本来なら先端部に置かれるべき主郭がかなり退いて築かれているなど、その特異な構造から隠居城として築かれたとも言われている。いずれにしても本城の松岡城と深い関連を持っていた城であることは間違いないだろう。

 松岡南城は、前述の通り松岡城から浸食谷を挟んで南西に築かれている。両城の距離はわずか300m程に過ぎない。松岡城と同様に台地を堀切で分断した連郭式の城であるが、堀切の規模は松岡城と比べるとかなり小さく、防御構造もささやかである。北から順に三ノ郭・二ノ郭・主郭・4郭(出郭)を配置している。三ノ郭・二ノ郭はいずれも耕地化で改変を受けており、切岸や堀切の名残を残すが、切岸も堀切も往時の規模ではないようである。三ノ郭の西斜面には、数本の竪堀が斜めに合流して落ちており、この部分だけやや複雑な防御構造を残している。主郭は前後に堀切が穿たれた長方形に近い曲輪で、外周一部に低土塁が見られる。主郭には城址標柱と解説板が立っている。4郭は主郭との間を深い堀切で分断された横長の曲輪であるが、郭内は薮でほとんど形状がわからない。4郭の先端も堀切が穿たれている。4郭の南には広大な三角形の平地が広がっている様だが、薮がひどくて踏査不能である。松岡南城は、松岡城とは規模も構造も異なっており、役割の違いが縄張りに現れたものと考えられる。
三ノ郭西の竪堀→DSCN6210.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.544999/137.860672/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史 (県史)

長野県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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松岡城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN6002.JPG←二ノ郭~三ノ郭間の堀切
 松岡城は、市田城とも呼ばれ、市田郷を本拠とした豪族松岡氏の居城である。築城は南北朝時代と言われ、戦国時代を通して改修の手が加えられたと考えられている。松岡氏は、1400年に信濃守護小笠原長秀が信濃の国人領主連合軍に敗れた大塔合戦の際、小笠原氏に従って戦った。また1440年7月の結城合戦にも参陣している。1554年、武田信玄が伊那に侵攻し、鈴岡城主小笠原氏と神之峰城主知久氏を制圧すると、それを見た松岡氏は抵抗は無理と判断し武田氏の軍門に降った。以後伊那衆として50騎を率いて飯富三郎兵衛(山県昌景)の配下に属した。1582年、織田信長が武田征伐を開始すると、松岡兵部大輔頼貞は織田軍に降り、本領を安堵された。しかし武田氏滅亡のわずか3ヶ月後に本能寺で信長が横死し、北条・徳川両氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」を経て伊那谷が徳川家康の支配下となると、松岡氏は徳川氏に従った。1585年、松本の小笠原貞慶が徳川方から豊臣方に変心し、徳川方の保科氏が守る高遠城を攻撃した。この時、松岡右衛門佐貞利は徳川家康に臣服を約していながら、小笠原氏に味方して高遠城攻撃に向かったが、形勢不利と見て引き返した。その後、このことを家臣の座光寺次郎右衛門為時が伊那郡司菅沼定利に密告し、1588年に家康から改易を命じられて、井伊直政にお預けとなった。これは、今は亡き直政の父直親が今川義元に命を狙われた際、信州に逃れてきた直親を松岡氏が庇護したことから、その恩義に報いるため直政が必死に取りなしたことによると言う。直政は、貞利を500石の禄で家臣の列に加え、以後松岡氏は井伊氏の家臣となって存続した。一方、松岡城は松岡氏改易により廃城となった。

 松岡城は、天竜川西方の比高100m程の河岸段丘上に築かれている。両側に浸食谷が入り込んだ舌状台地を堀切で分断した連郭式の城で、城内は公園化されているが改変は少なく、遺構がよく残っている。先端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭が直線的に配置されている。主郭は三角形に近い縦長台形状の曲輪で、先端に一段低い腰曲輪、後部には土塁を築いている。二ノ郭は[型の曲輪で、主郭とは堀切で区画され、両端が突出して主郭側方まで回り込んでいる。三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭は、いずれも横長の曲輪で直線的な堀切で分断されているが、四ノ郭だけは北側が三ノ郭の側方まで突出して横矢が掛かっている。また四ノ郭~五ノ郭間の堀切は、現在五ノ郭にある松源寺の門前に当たるが、側方の竪堀以外はほとんど埋められてしまっている。松源寺の裏手には土塁が残っている。これらの主要な曲輪の側面にも防御構造が施されている。四ノ郭の北斜面には横堀が穿たれ、この横堀は東側が斜めに斜面を降って先端で折れ曲がり、竪堀となって落ちている。主郭の南から東にかけても横堀が穿たれている。更に主郭の南から南東に広がる斜面には、南尾根を中心としてV字型の斜面に多数の帯曲輪群が構築され、腰曲輪群の最下段には横堀が構築されて、斜面下からの敵の接近に対する防御線となっている。この横堀は、斜面に沿って曲がりながら北端まで掘り切っている。この他、城全体を囲む北と南の斜面には、薮でわかりにくいが竪土塁が何本か築かれている。現在の形状を見る限り、竪堀でなく竪土塁による斜面防御の構造で、初めて見る形態である。以上が松岡城の構造で、雄族の居城だけあって、規模が大きく見応えがある。
 尚、松岡城の南には谷戸を挟んで松岡南城(小城)が隣接している。
四ノ郭北側の横堀→DSCN5966.JPG
DSCN6104.JPG←主郭南東斜面の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.545714/137.864385/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史散歩

長野県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/11/01
  • メディア: 単行本


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上野南本城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5916.JPG←南西曲輪群の長い竪堀
 上野南本城は、座光寺南本城とも呼ばれ、歴史不詳の城である。この地の国人、座光寺氏が築いた城と推測されている。伝承では、鎌倉前期に隣接する上野北本城が築かれ、応永年間(1394~1428年)に上野南本城が築かれたが、1582年の織田信長による武田征伐で落城したと言われている。座光寺氏は、諏訪大社大祝家の一族神(みわ)氏の出自と考えられ、戦国前期に神之峰城を本拠とする知久氏が勢力を拡大すると、座光寺氏も知久氏に服属した。その後、武田信玄が伊那に侵攻すると、座光寺氏も武田氏に従ったと言う。1573年には、武田氏重臣の秋山虎繁(信友)と共に、美濃岩村城に在城した。1575年11月、織田勢に攻められ降伏した座光寺氏らは長良川で磔にされた。1582年、織田信長によって武田氏が滅ぼされ、そのわずか3ヶ月後に信長も本能寺で横死し、武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が勃発すると、座光寺氏の一族為清は徳川家康に服属した。為清の子為真(為時)は、松岡城主松岡右衛門佐貞利が徳川方の高遠城攻撃に動いていたことを徳川方に密告し、その功で上州大竹の知行を与えられて旗本となり、1602年に封千石で山吹に陣屋を構えた。

 一方、現在残る遺構の規模と構造から、上野南本城は国人クラスではなく戦国大名クラスの勢力が介在した城ではないかとの指摘がある。具体的には以下の4説が提唱されているらしい。
①1572~82年にかけての時期に、徳川氏・織田氏と対立した武田氏が関与した
②1582年の武田征伐の際に、織田氏の軍勢が築いた
③1582年の天正壬午の乱の中で、下伊那で衝突した徳川勢・北条勢のいずれかが築いた
④1583~85年に対立した徳川家康・豊臣秀吉のいずれかの配下が築いた
いずれが有力なのか、結論は出ていない。

 上野南本城は、麻績神社の背後にある比高80m程の丘陵上に築かれている。麻績神社から散策路が整備されており、広大な山城にも関わらず城の主要部だけでなく周辺の腰曲輪に到るまで、かなり広範囲に整備されている。現地でパンフレットが入手できるので、参考にするとよいだろう。城内は、主尾根に穿たれた2つの堀切で、南北に大きく3つの区画に分かれている。南が主城部で、土塁を築いた広い主郭を持ち、そこから南東と南西に伸びる尾根に曲輪群を築いている。2つの尾根の曲輪群は、いずれも途中に2本の堀切を穿ち、側方に長い竪堀となって落ちている。特に2つの尾根に挟まれた中央の谷戸に、いずれの竪堀も落ちてきていて、大手道の存在を伺わせる。南西の曲輪群では馬蹄形の曲輪と尾根上の細長い曲輪から構成されるが、南東の曲輪群では堀切前面の小郭から南・南東の斜面に腰曲輪群を何段も築いている。南東曲輪群の南下方には城道を兼ねたと思われる横堀も構築されている。一方、南西曲輪群の西面には横堀が穿たれているが、ここだけは薮が多くて形状がわかりにくい。この他、主郭の西には3段の腰曲輪群、東には古賀比神社のある馬蹄形の広い曲輪が置かれている。主郭の背後には堀切が穿たれているが、自然の鞍部を多少加工した程度で、両側に落ちる竪堀ははっきりしているものの、肝心の主郭背後の部分は余り鋭さがなくのっぺりした堀切である。
 この堀切の北にあるのが、3つの区画の内、真ん中に当たる北郭群で、西に向かって段々に下る形で、平場群が置かれている。北郭群の外周には低土塁が築かれ、郭群の頂部にはF字型の土塁が見られる。しかしこの頂部の遺構は作りがやや大味である。
 北郭群の北には明瞭な堀切が穿たれ、その先に3つの区画の北端に当たる遺構群が存在する。ここには物見台状の小さい堡塁が南北に2つ置かれ、いずれも背後に竪堀を落としている。北のものではこの竪堀は下方でL字に曲がって横堀に変化している。これらの堡塁の西側にも遺構らしい地形があるが、作りが大味で構造がわかりにくい。これらの北端の遺構群は、『信州の山城』(信濃史学会編)では二重馬出しとしているが、それほど形が明瞭ではない。以上が上野南本城の遺構で、城域は広く、しっかりした遺構が残っているが、部分的に作りが大味な城である。

 ここで上野南本城に関わった可能性がある戦国大名勢力について考察してみたい。織田・豊臣勢力の城では、塁線が直線的で複雑な枡形虎口があるのが特徴であるが、上野南本城ではそれらは見られない。また武田氏の城では、曲輪外周を巡る横堀・放射状竪堀・馬出・枡形虎口などの特徴があるが、上野南本城ではこれも見られない。北条・徳川の城の特徴も余り感じられず、結局どういう勢力が介在した城だったのか、結論は得られなかった。
広い主郭→DSCN5761.JPG
DSCN5781.JPG←主郭背後の堀切
北郭群の北の堀切→DSCN5836.JPG
DSCN5849.JPG←竪堀と堡塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.535535/137.852218/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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北原城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5648.JPG←主郭の土塁
 北原城は、この地の豪族知久氏の居城神之峰城の支城である。平沢藤左衛門が拠ったと伝えられる。別説では、平沢備前守道正の城とも伝えられるらしい。

 北原城は、天竜川東岸の河岸段丘先端部に築かれている。北東の台地から小道を進むと、その先に堀切状の窪地があり、その南西に主郭がそびえている。小規模な城で、公園化などで改変を受けたため往時の形状が明確でない部分もあるが、3つの曲輪で構成されていたらしい。前述の通り、堀切状窪地の南西にあるのが主郭で、平行四辺形の様な形をしており、後部に土塁を築いている。主郭の西から南にある平場が二ノ郭であるが、最も改変されている部分である。二ノ郭の南には蟻の戸渡り状の細尾根が薮の中にあり、それを突破すると出丸状の三ノ郭がある。三角形の小さな曲輪で、後部に土塁を築き、西から南にかけて帯曲輪を廻らしている。いかにも物見台という感じの曲輪である。以上が北原城の遺構で、天竜川西岸に睨みを効かせた物見の城であったと思われる。
尚、三ノ郭は幅1mに満たない細尾根の先にあるので、滑落の危険がある。踏査はお勧めできないが、行く人は自己責任でお願いしたい。
小さな三ノ郭→DSCN5664.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.494089/137.862990/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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兎城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5614.JPG←主郭の大土塁
 兎城(とじょう)は、この地の豪族知久氏の居城神之峰城の出城として15世紀後半に築かれた城である。城主は桃井氏であったが、武田氏によって滅ぼされるとそのまま廃城となったと言う。また現地解説板によれば、「謀反の心ありとの告げ口により、一夜に取り囲まれ一族40余名が斬首された」との伝承や、「西の久米ヶ城に対して東城と呼ばれていたのが、いつしか兎城となった」との伝承があるらしい。

 兎城は、天竜川と鼬(いたち)ヶ沢川の合流点に南から突き出た段丘先端部に築かれている。南北に曲輪を連ねた連郭式の縄張りとなっている。現在公園化されているので、一部改変や湮滅が見られるが、遺構は概ねよく残っている。南の公園入口にあるのが三ノ郭で、ただの空き地であるが外周に切岸が残っている。但し、三ノ郭付近は後世の改変がある可能性が高い。三ノ郭の北には、かなり埋まっているものの堀切跡が残り、「外濠跡」という石碑が立っている。わずかに土塁も残っている。その北が二ノ郭で、空き地と畑になっている。北辺に低土塁があり、そこに神社の祠と石碑が立っている。二ノ郭の北には一段腰曲輪があり、その北に大きな堀切が穿たれている。堀切の東には物見台状の土壇があり、祠が祀られている。大堀切の北が主郭で、公園となっているが、大堀切沿いに大土塁が築かれている。主郭は長方形の曲輪で、北辺にも低土塁が築かれている。その北の切岸下方に四ノ郭がある。四ノ郭の東西の斜面には竪堀が落ちている。おそらく主郭に通じる動線制約の為であろう。この他、二ノ郭の西側に帯曲輪群が数段確認できる。一方、主郭・二ノ郭・三ノ郭の東側は目隠し壁が立っていて、遺構がよくわからない。東下は廃棄物の最終処分場らしいのだが、訪城当日は地元のどんど焼きをやっていて、人が集まっている最中だったので、立入りを遠慮したため、東側の切岸は確認できなかった。兎城は大きな城ではないが、それにしては不釣り合いなほど主郭の土塁と堀切の規模が大きく、見応えがある。
二ノ郭~三ノ郭間の堀切跡→DSCN5590.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.463894/137.837123/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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干沢城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5563.JPG←二ノ郭西斜面の大竪堀
 干沢城は、樋沢城とも書かれ、諏訪氏の一族上社大祝家の詰城である。大祝家は、諏訪大社上社前宮の神殿(ごうとの)を居館としていた。干沢城の築城年代は不明であるが、諏訪氏の系譜は古く、16代諏訪為仲が源頼義・義家に従って前九年の役・後三年の役に参陣しており、その後も一族が保元の乱で源義朝の軍に参陣するなど、関東武士団の形成と歩みを同じくして諏訪氏も武士化した。その過程で居館の防衛や砦の構築を進めていたことが伺え、干沢城も早い時期から何らかの砦が築かれたと推測される。文献上、初めて干沢城が現れるのは、1483年である。古代以来諏訪氏では、幼少時に大祝として神に仕え、長じてからは惣領として武士団・政権を司る祭政一致の形態が取られていた。しかし中世の動乱の中で、神事の権威である大祝と、諏訪一門の棟梁である惣領という二重構造を強めた。1456年、惣領の安芸守信満とその弟で大祝の伊予守頼満との間で争いが起き、惣領信満は上原城に拠って宮川以東を領すると共に一門を率い、大祝頼満は前宮に残って宮川以西を領すると共に祭祀を司った。これ以後、惣領家と大祝家とは分裂状態となり、諏訪氏は祭政分離となった。頼満の子大祝継満は、1483年正月8日に信満の子で惣領の政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺し、惣領家の所領を奪って上社の祭政両権を握ろうとした。その後、同月15日継満は一族と共に干沢城に立て籠ったが、諏訪氏の一家眷属は継満の暴挙に激怒して同月19日夜、干沢城を攻撃し、継満は父頼満をはじめ一族に多数の犠牲者を出し、雪の中を妻の実家の高遠継宗を頼って伊那高遠に落ち延びた。翌84年5月3日、小笠原政貞ら伊那諸豪の援助を得た継満は、杖突峠を越えて諏訪に侵入し、片山古城(武居城)を取り立てて干沢城と対峙したが、惣領勢に攻められて退去した。同年12月、先に継満に殺害された政満の2男頼満が上社大祝職に就き、以後、祭政一致に戻った諏訪惣領家が諏訪郡を支配した。一方、継満は1486年、大熊に新城(大熊荒城)を築き、諏訪氏と継満一派との戦いは繰り返されたが、間もなく継満の死により頼満の家系は断絶した。1542年には、武田信玄は諏訪氏の家督を狙う高遠頼継と連携して諏訪に侵攻し、干沢城も攻撃を受けた。その後惣領家の諏訪頼重を自刃させた武田氏は諏訪を支配下に置いた。その後の干沢城の存廃は不明である。

 干沢城は、諏訪大社上社前宮の東にある北に向かって突き出た比高80m程の丘陵上に築かれている。北西麓から登道が整備され、城内も薮払いされて遺構がよく確認できる。南北に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、北から順に四ノ郭・三ノ郭・二ノ郭・主郭が配置されている。四ノ郭・三ノ郭は、切岸だけで区画された、いずれも馬蹄形の曲輪で、外周には幾重にも腰曲輪群が配置されている。三ノ郭の背後には堀切が穿たれ、二ノ郭が構えられている。二ノ郭は3段の平場に分かれ、郭内に鉄塔が建っている。二ノ郭と主郭の間は東半分を片堀切で穿っている。この堀切は東斜面に長い竪堀となって落ちている。二ノ郭も東西の斜面に腰曲輪群を築いており、西側下方では大きな竪堀が腰曲輪群を貫通して北に向かって落ちている。この竪堀は形状からすると、登城路だったと思われる。主郭も3段の平場に分かれ、外周に腰曲輪群を築いている。南東では堀切の先に馬蹄形の出曲輪が配置され、その下方の腰曲輪の横から竪堀が落ちている。また南の腰曲輪の一部では、わずかに土塁が築かれている。主郭の南西は大きな鞍部となっているが、後世の耕地化で改変されているらしい。その南に配水池の大きなタンクがあり、その南に干沢城の背後を防衛する長林砦が築かれている。
 長林砦は、南北2つの曲輪群で構成されている。北郭群は3段の小平場で構成され、背後に堀切がある。さらにその南に登った先にあるのが南郭群で、ここも3つの平場があり、2つ目の後ろに浅い堀切がある。しかし長林砦の堀切は、いずれもほとんど自然地形である。
 以上が、干沢城の遺構で、諏訪氏の山城の中ではかなり規模が大きい部類に入る。実戦が行われたことが文献に残る数少ない城の一つでもあり、遺構も見やすく、必見の城である。
四ノ郭から見た三ノ郭→DSCN5417.JPG
DSCN5437.JPG←三ノ郭~二ノ郭間の堀切
片堀切から落ちる竪堀→DSCN5478.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.988815/138.136768/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

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  • 出版社/メーカー: 信濃毎日新聞社
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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埴原田城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5329.JPG←二ノ郭から見た主郭
 埴原田城は、文明年間(1469~87年)に諏訪氏の一族埴原田小太郎行満が築いた城である。行満は諏訪氏惣領家の政満の弟で、惣領家と長く抗争状態にあった大祝家の大祝継満が1483年正月に政満を前宮の神殿に謀殺した際、兄政満・その子宮若丸・御内人10余人と共に殺害された。

 埴原田城は、永明寺山から東に伸びた尾根先端の茶臼山と呼ばれる比高40m程の小山に築かれている。東にある観音堂の脇から登道が付いており、簡単に登城できる。山頂に南北に並んだ主郭・二ノ郭を置き、周囲に多数の腰曲輪を廻らした城で、基本的に腰曲輪群だけで構成されている。主郭には祠が数基祀られ、「埴原田小太郎の碑」と伝えられる石碑も立っている。主郭背後の尾根には2つの堀切があるとされるが、自然地形の鞍部に近く、堀切と言うほど形は明瞭ではない。主郭・二ノ郭の土塁も、ささやかなものである。この他、南西に舌状に突き出た曲輪が確認できる。埴原田城は、地形的な要害性も低く、城の縄張りも単に曲輪群を連ねただけであり、居館的な趣の強い城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.015930/138.172216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


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鬼場城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5227.JPG←主郭背後の二重堀切
 鬼場城は、諏訪氏の庶流矢ヶ崎氏の城である。当初、齢松山城の支城として造られたが、位置の重要性とその堅固さから本支の逆転があり、後に鬼場城が本城となったと推測されている。天文年間(1532~55年)には、矢崎和泉守が鬼場城に拠って武田信玄に属したと伝えられる。山道を通して上原城とも簡単に連絡でき、北山浦一帯の交通路が集中する所であったため、交通の要衝であり、上原城防衛網の重要な支城であったと考えられている。

 鬼場城は、永明寺山から延びた支尾根が上川へ落ち込む先端の、標高905.5m、比高75mの峰に築かれている。城山団地の奥から北に伸びる車道があり、その脇から散策路が整備されており、そこから南東に進んでいけば、大した山道を登ることなく簡単に訪城できる。頂部に土塁囲みの主郭を置き、東側に虎口郭と堀切を挟んで二ノ郭(鉄塔が建つ)を築いている。主郭は小さく、土塁で囲まれてすり鉢状になっており、齢松山城のものより居住性がない。主郭・二ノ郭の周囲には数段の腰曲輪群が配置され、二ノ郭北の腰曲輪には大井戸の跡が残っている。主郭の南には小さな横堀が構築されている。主郭背後の尾根には二重堀切が穿たれ、その先に小さな三ノ郭がある。三ノ郭は削平が甘く、ほとんど自然地形に近いが、南北に腰曲輪群を配し、中央に堀切らしい窪地も見られる。三ノ郭の外側には、搦手筋を守る長さ100m余りに及ぶ土塁と空堀が築かれ、緩斜面の尾根を防御している。以上が鬼場城の遺構で、遺構はよく残っており、主郭と背後の尾根筋は薮払いされて見やすいが、腰曲輪や主郭の東側は笹薮に覆われてしまっている。
主郭南の横堀→DSCN5253.JPG
DSCN5273.JPG←腰曲輪に残る大井戸

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.004908/138.173311/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

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  • 作者: 中嶋豊
  • 出版社/メーカー: 信濃毎日新聞社
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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齢松山城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5185.JPG←主郭堀切から落ちる大竪堀
 齢松山城は、諏訪氏の庶流矢ヶ崎氏の居城と伝えられる。鬼場城と900m程しか離れておらず、鬼場城と深い関連があったと考えられ、地理的条件や縄張りから見て齢松山城の方が古く、やがて鬼場城へ本城が移ったと推測されている。

 齢松山城は、比高50m程の丘陵先端部に築かれている。南麓を巡る遊歩道があり、そこから適当に登りやすい斜面を直登して城に登った。主郭・二ノ郭と東西に配置された2郭から構成され、更に主郭の北と西に腰曲輪を配置している。主郭は北側以外の三方を土塁で防御し、背後には幅の広い堀切を穿っている。この堀切は北斜面に大きな竪堀となって降り、また南側は中央に物見台を設けて二重堀切の形態としている。二ノ郭は、削平の甘い曲輪で北に向かってなだらかに傾斜している。二ノ郭背後も堀切で分断している。また主郭北の腰曲輪から西に向かって竪堀が落ちている。小規模な城砦ではあるが、普請はしっかりしている。
腰曲輪から落ちる竪堀→DSCN5180.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.000863/138.165350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/08/26
  • メディア: 単行本


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先達城(長野県富士見町) [古城めぐり(長野)]

DSCN5102.JPG←常昌寺に残る土塁
 先達城は、武田信虎が諏訪攻めの為に築いた城である。1528年8月、信虎は諏訪氏の庶流下社金刺氏を押し立てて諏訪氏攻撃の兵を甲信国境付近に進めた。同月22日に蘿木(つたき)郷の小東の新五郎屋敷を城に取り立てたと伝えられ、これが先達城のこととされる。同26日には諏訪安芸守頼満・嫡子頼隆と対陣し、同晦日に神戸・堺川で二度の合戦があり、朝には武田勢が、晩には諏訪勢が優勢であったが決着はつかず、その後も両者の交戦は続いた。1535年9月17日に武田・諏訪両氏は和睦した。1539年12月に頼満が病死すると、その跡を継いだ孫の頼重は武田氏との協調路線を取り、翌40年に信虎は3女禰々御料人を頼重に嫁がせた。この時、先達城は諏訪方の持城となった。しかし1541年6月、信虎は嫡子晴信(後の信玄)によって追放され、翌42年、晴信は諏訪氏の家督を狙う高遠頼継と連携して惣領家の頼重を攻撃して降し、甲府で自刃させた。その後、諏訪は武田氏と高遠氏に二分されたが、西側を領した高遠氏は間もなく甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかしすぐに武田氏の反撃によって高遠氏は敗れ、諏訪一円は武田氏の支配下となった。この後、武田氏の家臣多田淡路守常昌が先達城主となった。以後、多田氏の居城となったが、常昌が1575年の長篠合戦で討死すると、先達城は廃城となり、常昌寺が建てられた。

 先達城は、鹿野沢川東岸の河岸段丘上に築かれている。現在常昌寺が建っている場所が主郭とされ、寺の背後に土塁がL字型に残っている。寺の北には二ノ郭があり、西から北にかけて帯曲輪が巡らされている。主郭と二ノ郭の間は墓地となっており、その中には多田常昌の供養碑(新たに再建されたもの)がある。また主郭の南は一段低く三ノ郭があるが、現在は運動場となっており、西辺にわずかに土塁が残っている。その南の四ノ郭は民家となっていて進入不能である。城跡らしさはかなり失われおり、遺構もわずかではあるが、城址碑・解説板が設置されていて、城の歴史を伝えている。
多田常昌の供養碑→DSCN5122.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.880697/138.294182/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


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稲荷山城(長野県佐久市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1259.JPG←頂部の主郭跡
 稲荷山城は、勝間反の砦とも言い、本能寺の変の後の武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」で徳川方が取り立てた城である。1582年、徳川家康は佐久の平定を依田信蕃に命じ、更に同年8月柴田康忠を援軍として佐久に派遣し、中信諸将を集めて勝間反の砦を基地とし、築城の名手松平家忠に城の修築をさせた。徳川方の津金衆は、ここを基地として北条勢を岩崎砦で撃ち破った。1585年には、家康は真田昌幸の拠る上田城を攻撃したが敗退し、この城へ引き上げた。1590年、前山城で討死した伴野刑部の子や相木常林が挙兵した時には、討伐に出た小諸城主松平康国(信蕃の子)が稲荷山城で陣容を整えて相木へ向かったと言う。

 稲荷山城は、千曲川西岸の比高40m程の独立丘陵に築かれている。現在城跡の大半は稲荷山公園に変貌し、その他の部分も宅地などになっており、堀は埋められているなど遺構の大半が失われている。ただ地勢は健在で、公園頂部に建つコスモタワーからは、周囲の眺望に優れる地であることがよくわかる。遺構としては、曲輪跡の平場と切岸らしい地形が見られる程度で、縄張図を見ながらでないと、往時の城の姿を想像することも難しい。きちんと城址公園として整備されなかったことが悔やまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.192374/138.482537/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本


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田ノ口館(長野県佐久市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1226.JPG←田口城下の蕃松院
 田ノ口館は、田口城の山麓居館である。田口城を築いた田口氏が当初の館主であった。天文年間の末に田口氏が武田氏の佐久侵攻によって滅びると、武田氏の家臣相木常林が館主となった。1582年に武田勝頼、織田信長が相次いで滅びると、権力の空白地帯となった旧武田領を巡って北条・徳川・上杉による争奪戦が始まった(天正壬午の乱)。信長の重臣であった滝川一益を神流川合戦で撃破して上州を席巻した北条氏直が、碓氷峠を越えて佐久に進軍すると、佐久の国人衆は相次いで北条氏に臣従し、相木氏も北条氏に服属した。一方、徳川家康の元で織田方による武田遺臣狩りから匿われていた依田信蕃は、家康の命で佐久に戻り武田家の旧臣達を徳川方に付ける工作を始めていたが、佐久に侵攻してきた北条の大軍の前に衆寡敵せず、三澤小屋に籠城した。その後、徳川方の援軍を得て、新府城に拠る徳川方と対峙する若神子城の北条勢の後方を脅かし続けた。真田昌幸が徳川方に寝返って、佐久の国人衆が徳川方に付くようになると、信蕃は佐久の平定を押し進め、相木氏は田口城を放棄し、北条氏を頼って上州に逃亡した。その後、信蕃は春日城を奪還し、前山城に移り、更に田口城に入って城下に田ノ口館を構え、家臣を招いて祝宴を張ったと言う。その後、信蕃に抵抗する土豪達が大井氏の岩尾城に終結したため、信蕃はこれを攻撃したが難戦となり、実弟信幸と共に敵の銃撃を受けて討死した。その子康国は小諸城と松平姓を家康から与えられ、父の菩提を弔う為に館跡に接して蕃松院を創建した。

 田ノ口館は、前述の通り蕃松院が建っている。田口城の南麓に位置し、前面は石垣が築かれた立派な構えで、見るからに居館を置くに相応しい場所である。しかし明確な遺構ははっきりせず、どこまで往時の形を残しているかは不明である。寺の裏から田口城への登道があるが、盛夏なので登城しなかった。いずれ田口城に登る時に再訪することになるだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.199179/138.503137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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龍岡城(長野県佐久市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1159.JPG←稜堡式の水堀の屈曲
 龍岡城は、函館五稜郭と並ぶ幕末の稜堡式城郭である。三河奥殿藩は、信州佐久郡に12000石、三河に4000石の所領を持ち、宝永年間(1704~11年)以来、本拠を三河に置いていた。奥殿藩大給松平家最後の藩主となった松平乗謨(のりかた)は、1862年の参勤交代の緩和を機に、三河奥殿の城地の狭さと領地の大部分が佐久郡にあることを理由に、幕府の許可を得て本拠を佐久郡田野口村に移し、田野口藩と改名した。乗謨は、20歳代であったが学才識見に優れ、蘭学・フランス語にも精通した開明的な人物で、幕府の若年寄・陸軍奉行・老中格・陸軍総裁に就任した逸材で、他藩に先駆けてフランス式の兵制を採用していた。新城郭の建造にあたっては、17世紀フランスの築城家ヴォーバン元帥の考案した稜堡式城塞を採用し、1863年に縄張りを開始し、1867年に竣工した。しかし大給松平家は城を持つ資格のない「陣屋格」であったため、天守閣などの防備施設を建造することができず、政務と藩主住居を兼ねた御殿と台所、陣屋住み藩士の小屋、番屋、太鼓楼、火薬庫などが城内に建てられたが、既に幕末の動乱が世を覆っていて、堀などは全周しておらず未完の城となった。また乗謨は、明治元年に大給恒と改名し、佐野常民と共に日本赤十字社の前身博愛社を創設した。

 龍岡城は、函館五稜郭と比べればかなり小型の城で、外周の堀や石垣もその気になれば簡単に乗り越えられそうな規模である。そもそも城の北側至近に田口城が築かれていた山があり、そこに砲台を築かれたら軍事的には全くの無力で、何のために築いたのか意味不明である。現地で入手したパンフレットには、「この星型稜堡を有する五稜郭は、(中略)山から遠く離れた平野の真ん中にあってこそ、その機能を十分に発揮できる平城」で、「乗謨の洋学知識では十分わかっていたはずなので、この築城は生涯に一度の夢を託したものであったといえる」とある。幕末の世情不穏な中、藩主の趣味で城などに大金を注ぎ込まれたら、家臣・領民としてはたまったものではないと思うのだが、怨嗟の的になったわけでもなく遺構は綺麗に残されている。前述の水堀・石垣の他、城内外周は土塁が残り、その他の現存遺構として城内に台所の建物や、城から少し北に離れて桝形石垣が残っている。また新海三社神社の近くの民家には、移築門が残っているが、なんとここには移築塀まで残っている!移築門はどこでもよくあるが、移築塀と言うのは初めてである。日本城郭史学会の方から「移築塀っていうのもあるんですよ」とは聞いていたが、これかぁ!と感嘆した。
珍しくも貴重な移築塀→IMG_1145.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.196010/138.501388/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


江戸全170城 最期の運命 幕末の動乱で消えた城、残った城 (知的発見! BOOKS 021)

江戸全170城 最期の運命 幕末の動乱で消えた城、残った城 (知的発見! BOOKS 021)

  • 作者: 八幡 和郎
  • 出版社/メーカー: イースト・プレス
  • 発売日: 2014/04/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:近世平城
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佐野堀之内館(長野県山ノ内町) [古城めぐり(長野)]

IMG_0916.JPG←館跡に残る宝塔など
 佐野堀之内館は、普通には小島氏佐野館と呼ばれ、高梨氏の庶流小島氏の一族の居館と考えられている。小島氏は南北朝期より須毛郷の地頭となり、宗家は須毛上郷の「菅の館」を本拠とし、文明年間(1469~87年)頃に景頼の弟景貞を下之郷(佐野)に分封した。1513年に須毛上郷の小島高盛は高梨氏へ反乱を企て、鎮圧されて滅亡した。しかし下之郷の分家は残り、武田信玄が北信濃に侵攻すると、いち早く武田氏に降り、高梨氏敗退の契機となった。高梨政頼が居館の中野小館を出て飯山城まで退くと、小島氏は中野小館に入った様である。1582年、武田氏滅亡と本能寺の変での織田信長の横死によって、権力の空白地帯となった北信濃に上杉景勝が進軍し、上杉氏に仕えていた高梨氏が信濃の旧領に戻ると、小島氏は中野小館を明け渡し、菅へ戻ったとされる。その後、上杉氏の会津移封に伴いこの地を去った。
 尚、『信濃の山城と館8』では、小島氏がこの地に居していた確証がないことから「佐野堀之内館」の呼称を採用しており、当ブログでもそれに従った。

 佐野堀之内館は、現在果樹園となり、周囲より一段高くはなっているが、明確な遺構は残っていない。館跡とされる果樹園の中程に宝塔・五輪塔等が残っているだけである。果樹園への立ち入りの許可を頂いた際に伺った話では、ここから南東の土蔵のある家が佐野小島氏の本家で、かつては近くの興隆寺に行く時には駕籠に乗っていたという程の名家であった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.736391/138.409292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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志久見館(内池館)(長野県栄村) [古城めぐり(長野)]

IMG_0904.JPG←内池八幡社の祠と館跡の石碑
 志久見館は、内池館とも言い、この地を本拠とした市河氏の館であったと推測されている。市河氏は、元は甲斐国市川郷を本貫とする土豪で、鎌倉中期以降に中野氏から志久見郷を手に入れた。1333年の新田義貞による鎌倉攻めの際には、志久見郷地頭の市河助房の代官として市河助泰が参陣したことが、義貞の証判を得た着到状によって知られている。その後、南北朝期から室町期にかけて勢力を拡大した。戦国期には当主市川藤若(市河房幸)が武田氏に仕えた。市河氏は、武田氏が滅亡すると上杉氏に服属し、上杉氏が会津に移封となると、それに従ってこの地を離れた。

 志久見館は、平坦な台地上の中程に位置している。台地上は現在一面の水田に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。僅かに内池八幡社の祠と館跡の石碑と解説板が立っているだけである。かつては土塁と堀で囲まれた2つの曲輪で構成されていたらしいが、往時の面影は微塵もない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.979089/138.581661/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

  • 作者: 鈴木 将典
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/07/26
  • メディア: 新書


タグ:居館
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平林館(長野県野沢温泉村) [古城めぐり(長野)]

IMG_0891.JPG←北西辺の土塁
 平林館は、市河弥六経高及びその子孫の平林氏の居館である。元々は市河盛房・助房などの総領家が相伝していたが、南北朝期の1343年に平林村は総領家から一族の経高に譲られた。その後経高は南朝に属したため、1356年に北朝方の攻撃を受けた。その後時代は下って天正年間(1573~92年)には、平林蔵人がこの地に拠り、上杉景勝に服属していた。1598年に上杉氏が会津に移封となると、平林氏もこの地を離れ、廃館となった。

 平林館は、千曲川南東の段丘上の小丘の上に築かれ、現在国中平神社の境内となっている。方形単郭居館で、現在も神社の周囲に土塁が残っている。野沢温泉村ではこれを「館城土塁」と称している。この土塁は、北西辺では二重土塁の様になっている。主郭の外周には一段低い平場が取り巻いており、腰曲輪となっていた様である。ささやかな遺構に過ぎないが、小丘頂部にあり城砦の雰囲気は残っている。尚、以前は境内に解説板があったらしいが、現在はなくなってしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.942363/138.432938/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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柏尾館(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0860.JPG←北東角の土塁・空堀跡
 柏尾館は、現地解説板では柏尾南館と表記され、高梨氏に関わる豪族の居館と考えられている。1392年の高梨朝高の史料に「柏尾郷」が高梨領と見え、高梨氏の支配領域となっていたことがわかる。また戦国期の記録には「柏尾ノ備中守殿」との記述があることから、この頃には高梨氏に関わる備中守と呼ばれた武士が居住していたと推測されている。戦国後期に甲斐武田氏の勢力がこの地域まで伸びてくると、高梨氏は上杉謙信を頼って越後に逃れ、高梨氏退転後は武田氏に服属した市河氏がこの地を支配した。武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、柏尾郷を含む北信4郡は上杉景勝が支配した。この武田氏支配時代から上杉氏支配時代にかけて柏尾館が存続していたかは不明である。いずれにしても1598年の上杉氏の会津移封後は廃館になっていたと考えられている。

 柏尾館は、千曲川東岸の緩斜面中腹に築かれた単郭方形居館である。現在郭内は農地となっているが、周囲には切岸・土塁が明瞭に残り、その外周の空堀はわずかに低い農地となって名残を留めている。農地化による改変があるものの、旧状をよく残しており、南西角には解説板も立てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.909017/138.405837/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


戦国大名と国衆 (角川選書)

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  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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大倉崎館(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0840.JPG←外周の空堀
 大倉崎館は、上野の館跡とも呼ばれ、歴史不詳の城館である。伝承では竹内源内の居館とも言うが、詳細は不明。昭和63年に常磐大橋建設の為に行われた発掘調査の結果、多数の貴重な陶磁器が見つかったことから、14~5世紀頃に有力な豪族の居館であったと推測されている。またその多くが火を受けて溶変し、焼土や炭も多量に見つかっていることから、戦火に遭った城館であるらしい。戦国後期の甲越両軍の抗争期に水運を扼する要害であった可能性もあるだろう。

 大倉崎館は、千曲川西岸に面した段丘端に築かれている。現在は南北に細長い長方形の城館となっているが、これは幾度もの氾濫で川岸が削られた為であろう。往時はもっと方形に近い形状であったと思われる。川に面した東側以外の三方を土塁と空堀で囲んだ構造で、中央部を東西に国道117号線が貫通して破壊を受けている。そのせいもあって、虎口は残っていない。北側半分だけは一応公園化されていて、辛うじて夏でも訪城は可能である。土塁と空堀は明瞭に残っているが、それ以外には目立った特徴のない、よくある単郭方形居館の一部である。それにしても貴重な遺構なのだから、全壊は免れたにしてもわざわざ遺構の中心に道路を建設しなくても良さそうなものだが、土建関係の役所の文化財に対する意識の低さはどうしようもない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.902377/138.398026/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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尾崎城(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0820.JPG←水田地帯の中に建つ城址碑
 尾崎城は、1183年に泉小次郎親衡が築いたと伝承される城である。親衡の伝承は飯山城にも残っている。親衡は、1213年に執権北条氏の専横に抗したが敗れて、信濃飯山へ逃れ、その子孫が尾崎氏を称したと言われている。泉重治の時、9人の子を分封して上倉氏・今清水氏・上境氏・大滝氏・中曽根氏・岩井氏・奈良沢氏の庶家とし、嫡流の尾崎氏と合わせて尾崎八家(或いは泉八家とも)と称された。永禄年間(1558~70年)には、武田氏の圧迫によって各家は上杉氏に服属し、外様十人衆となったとされる。その後、1598年に上杉氏が会津に移封となると、尾崎八家もこの地を離れたと言う。但し以上の歴史には不明点も多く、『信濃の山城と館 8』では尾崎城を泉氏の居城とすることに疑問を呈している。

 尾崎城は、広井川沿いの平地にあったらしいが、現在は一面の水田となっており、遺構は完全に湮滅している。川沿いにぽつんと城址碑と解説文を刻んだ石碑があるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.903440/138.371247/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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中条館(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0817.JPG←館跡の水田
 中条館は、中条城主今清水氏の居館である。今清水氏は、南北朝期頃にこの地に土着したと推測されている。戦国後期には上杉氏に属し、飯山城の守りに就くこともあったが、富倉峠・北峠・平丸峠の守備のために中条城を守り、「たての内(中条館)」に居住していたと推測されている。1598年に上杉氏が会津に移封となると、今清水氏も会津に移ったと言う。
 中条館は、中条城の南麓に広がる傾斜地中腹に位置している。館跡とされる場所は、三方を切岸で囲まれた方形の高台となっているが、内部は水田に変貌しており、残念ながら地勢以外に見るべきものはない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.892321/138.352901/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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飯山城(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0731.JPG←本丸の石垣と枡形虎口
 飯山城は、上杉謙信が築いた北信と春日山城防衛の拠点である。元々は常岩牧一帯を所領とした小土豪の泉氏の居城であった。泉氏の祖は、鎌倉前期の1213年に執権北条氏の専横に抗したが敗れて、信濃飯山へ逃れた泉小次郎親衡とも言われる。戦国中期に武田信玄が北信に侵攻すると、北信の土豪達は武田氏に降る者と抵抗して越後の上杉謙信を頼る者とに二分され、泉氏は上杉氏に属し、更に中野に勢力を誇った高梨政頼も武田氏の圧迫により飯山城に退去した。1561年の第4次川中島合戦の後、戦略に長けた信玄は奥信濃に深く侵入し、上杉方の防衛線は飯山付近を残すだけとなった。そこで1564年頃、謙信は武田氏の侵攻に備える重要拠点として飯山城を大改修し、また上杉氏の信濃出陣の拠点ともなった。その後、信玄は長沼城を拠点として飯山城攻略を目指したが、上杉方は飯山城を死守した。その後、謙信が急死し、その後継を巡って御館の乱が起きると、武田勝頼は上杉景勝と同盟し、見返りとして飯山地方を割譲され、武田氏の属城となった。1582年に武田氏が滅亡すると北信4郡は織田信長の部将森長可に与えられ、飯山城も森氏の手勢が占拠したが、間もなく本能寺の変が起きて織田勢が信濃から撤退すると北信4郡は上杉景勝が占拠し、山口城主であった家臣岩井備中守信能を城代に任じて本格的な整備を行った。1598年に豊臣秀吉の命で上杉氏が会津に移封になると、岩井氏も会津に移った。その後は、江戸時代を通して関・皆川・堀・佐久間・松平・永井・青山・本多と多くの大名が相次いで城主となり、幕末まで存続した。

 飯山城は、千曲川西岸の標高340m、比高25m程の独立丘陵上に築かれている。城内は公園化されているので、夏でも訪城可能である。丘陵全体を城塞化した城で、この地域では矢筒城の縄張りに類似している。南東端の丘陵頂部に本丸を置き、その北側に切岸だけで区画された二ノ丸・三ノ丸を連ね、西側には帯曲輪と2段に分かれた西曲輪を置き、三ノ丸の北側にも外郭を築いている。城内に堀切はないが、北中門から三ノ丸に至る城内通路は横堀を兼ねており、通路外側には大きな土塁が築かれている。また城全体を囲んで水堀が廻らされていたらしい。この堀跡は湮滅が進んでいるが、東側と南側は低地となって名残を留めている。本丸の北辺にはしっかりした石垣が残り、大型の出枡形の虎口が構築され、この城の大きな特徴となっている。これらは近世初頭の構築と考えられている。二ノ丸の北辺には土塁が築かれ、三ノ丸からの動線はこの土塁を迂回してつけられている。三ノ丸と外郭との間にはL字型の水堀が穿たれていたが、現在はグラウンドに変貌して湮滅している。現地解説板には「三日月堀」とあり、江戸時代からの呼称と思われるが、武田氏が関係した城にはすぐに「三日月堀」と名付けたがるのは、「甲州流軍学」という架空の兵学に捕われた悪しき風習である。技巧性のある縄張りではなく、現在の姿からはそれほど要害性が高い城とも思われないが、往時は全周を水堀で囲まれ、多数の兵で防衛した屈指の要塞だったのだろう。甲越両軍の抗争を語る上で、避けては通れない城である。
三ノ丸西側の横堀兼用の通路→IMG_0688.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.856051/138.366483/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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中御所守護館(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0609.JPG←館跡に建つ御所天満宮
 中御所守護館は、漆田館とも呼ばれる。1198年に源頼朝が善光寺に参詣した際の宿跡と言われ、またこの地の土豪漆田氏の居館であったと推測されている。また「中御所」と言う地名から、信濃守護小笠原氏の守護所かそれに関連した城館とする説もある。1400年の大塔合戦で守護小笠原長秀が敗退した後、その弟の政康は上杉禅秀の乱の討伐で軍功を挙げたことで再び信濃守護に補任され、中御所に守護所を置き、信濃国内を統一して権勢を誇った。1442年に政康が亡くなると、子の宗康と従兄弟の持長との間で家督争いになり、1446年、漆田原で両軍は激突した。この漆田合戦も守護館付近で行われたとされる。この戦いで、持長は守護館を攻め、宗康を滅ぼした。宗康滅亡後に守護館は廃され、持長は府中(現在の松本市)に移ったと言う。応仁・文明年間(1467~87年)には、この地を支配した漆田氏が砦を構えたとされる。漆田氏は秀興・秀豊・貞秀の3代が確認されており、往時は漆田城と呼ばれて栗田氏など周辺土豪層と抗争を繰り返す中で防備を固めていた様である。しかし3代の後の漆田氏の動向は不明であり、またこの漆田氏が鎌倉時代の漆田氏と同じ一族かどうかも不明である。

 中御所守護館は、JR長野駅から南に500m程の位置にある。この地域は近年区画整理されて大きく改変されており、元々市街化の波に飲まれて遺構は湮滅していたが、新興住宅街となっていて往時の雰囲気は微塵もない。館跡の北辺部に御所天満宮が鎮座し、その名にわずかに名残を留めているに過ぎない。尚、区画整理事業に伴う発掘調査で、堀や土塁が検出されている他、輸入陶磁器の破片などが見つかっていると、現地解説板に記載されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.639016/138.186775/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

  • 作者: 花岡康隆
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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平林城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0604.JPG←城址の石碑と堀跡?の水路
 平林城は、歴史不詳の城である。永禄年間(1558~69年)に武田氏の重臣原美濃守の居城であったと言われるが、詳細は不明。近くの宝樹院には城主奥方の位牌が安置されているらしい。
 平林城は、現在城跡の大半がJR東日本長野総合車両センターの敷地となり、残りの部分も市街化で遺構は完全に湮滅している。わずかに堀跡の名残と思われる水路が、南辺に流れているだけである。昭和20年代前半の航空写真を見ると、周囲を堀で囲まれ、東西に長方形の2郭を並べた縄張りだったらしい。現在は城址南東角に石碑が立っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.654872/138.211817/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

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  • 作者: 鈴木 将典
  • 出版社/メーカー: 講談社
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タグ:中世平城
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尾張城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0599.JPG←城址碑と城址公園
 尾張城は、歴史不詳の城である。伝承によれば、天正年間(1573年~1592年)に尾張備中の居城であったとも、或いは尾張部三郎の居城であったが永禄年間(1558年~1570年)初頭に武田氏に降って城館を引き払ったとも伝えられるが、確証はない。
 尾張城は、現在は宅地化され、遺構は完全に湮滅している。僅かに城跡中心付近に城址公園があり、入口脇に城址碑が建っているだけである。かつては二重の濠で囲まれた城であったらしく、馬出しも備えていたらしい。発掘調査では、多くの建物跡や多量の陶磁器類が見つかったと言う。昭和20年代前半の航空写真では水田地帯にはっきりと堀跡が確認できるが、今では残念ながら失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.647229/138.230034/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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清野氏居館(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0326.JPG←古峰神社の建つ平場
 清野氏居館は、清野屋敷とも呼ばれ、この地の土豪清野氏の屋敷があったと伝えられる。清野氏は北信の雄、村上氏の一族で、数代この地に居したが、後に海津館(海津城の前身)を築いて移り、この地には蔵を置いたらしい。以後、禽敖屋敷と呼ばれるようになった。戦国中期に武田信玄がこの地に侵攻すると、1553年8月、武田氏に敗れた清野山城守清重(清寿軒)は村上義清と共に越後上杉氏を頼って落ち延びた。1582年に武田勝頼、織田信長が相次いで滅びると、武田遺領をめぐって周辺諸勢力が争奪戦を繰り広げ、北信四郡は上杉景勝の支配下となり、その家臣清野左衛門尉はこの地に居住したとも、或いは猿が馬場峠の隣地、竜王城に入ったとも伝えられる。江戸時代になると真田氏の所領となり、寛永年間に焼亡したと言う。

 清野屋敷は、古峯神社の建っている尾根先端部にあったと伝えられている。神社がある平場は比較的小規模で、屋敷を建てるには少々狭い。その一段上に畑になっている平場があり、そこならばもう少し大きな屋敷が建てられそうである。その上にも小さい平場があり、観音堂が建っている。そこは高源寺跡とされ(現在は廃絶)、かつての境内にあった真田信之と真田大学(松代藩2代藩主真田信政の3男)の供養塔がある。いずれにしても土豪の居館にしても小さすぎ、蔵か何かしかなかったものが屋敷地として伝承されてしまったのではないだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.554982/138.180639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


川中島合戦:戦略で分析する古戦史

川中島合戦:戦略で分析する古戦史

  • 作者: 海上 知明
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2016/11/21
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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生仁館(長野県千曲市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0311.JPG←堀跡を思わせる水路
 生仁館は、唐崎城に対する平時の居館と考えられている。応永年間(1394~1427年)の館主は生仁(身)大和守とされ、雨宮摂津守の弟であったとも言われている。事績については唐崎城の項に記載する。
 生仁館は、唐崎城西麓の平地にある。沢山川に五十里堰(生仁川)が合流する地点の南に当たる。往時は方形の堀で囲まれていたと言うが、宅地化で遺構は完全に湮滅している。しかし屋敷地は周囲よりわずかに高くなっており、また東側には堀跡の名残を思わせる水路が流れている。いずれにしても、今となっては失われた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.544829/138.149096/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


和本影印,大塔物語・大塔軍記 (長野電波技術研究所)

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  • 発売日: 2018/11/16
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タグ:居館
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大塔城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_0305.JPG←大当集落の遠望
 大塔城は、古書『大塔物語』に「大塔の古要害」と記載され、室町中期に信濃で生起した大塔合戦の主戦場である。大塔合戦は、信濃守護に復帰した小笠原長秀に対して有力国人衆が大文字一揆を結んで挙兵したもので、その経緯については二ツ柳城の項に記載する。『大塔物語』によれば、大塔合戦以前から古い要害があったが、当時は廃されていたと伝えられる。四宮河原で敗れた長秀は、深手を負って塩崎城に辛うじて逃げこんだが、逃げ遅れた坂西長国ら300騎は大塔の古要害(大塔城)に逃げ込んだ。大塔城に拠る劣勢の小笠原勢は、国人一揆の重囲の中で20日間にわたって籠城して抗戦したが、最後は食糧が尽きて全滅したと言う。その後、長秀は一族の大井光矩の仲介で和睦し、京都に逃げ帰った。従来は大当の地が大塔城と考えられてきたが、近年では二ツ柳城であったという説が有力視されているものの、未だに定説を見ない。

 大塔城は、岡田川東岸の大当集落にあったと言われている。『日本城郭大系』によれば、戦前まで一部に堀が残っていたらしい。現在は明確な遺構は全く見られない。川沿いの低湿地に築かれた平城なので、20日間の籠城戦を行った城址とするには不適と言うのが二ツ柳城説の根拠であるが、近代以前より集落があるということは、逆に低湿地帯に囲まれた要害であったとも推測される。現に結城城なども、現在の地勢からすれば大した要害性を持たない様に見えるが、実際には幕府の大軍を前にして1年近くにわたる籠城戦を展開している(結城合戦)。従って往時は、現在考えられるよりも全く異なる様相を呈していた可能性も考えられる。いずれにしても、今後の考究が待たれる。尚、岡田川対岸の大当公民館脇に解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.567546/138.131887/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

  • 作者: 花岡康隆
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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