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古城めぐり(長野) ブログトップ
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久米ヶ城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5381.JPG←主郭中央の土壇
 久米ヶ城は、信濃守護小笠原氏の居城松尾城の支城である。南北朝期の貞和年間(1345~50年)に、北朝方の信濃守護小笠原貞宗の弟貞長が久米ヶ城を築いて居城とした。東平の麦種城、西平の城山(西平城)を支城とし、約200年間にわたって続いたが、戦国中期に小笠原氏の内訌により、松尾城と共に落城したと言われている。

 久米ヶ城は、久米川の南にそびえる標高736mの城山に築かれている。山頂の主郭を中心に南に二ノ郭・三ノ郭を連ねている。主郭・二ノ郭・三ノ郭は公園化されており、車道が敷設されているため、遺構の一部が改変されている。主郭には中央に土壇があり、段差で区画された東西2段の平場で構成されている。主郭と二ノ郭の間には堀切があったが、車道で破壊を受けている。二ノ郭・三ノ郭は段差だけで区画されているが、以前は建物があったらしく、改変を受けているので、往時の形態はよくわからない。これら中心部の曲輪から北東・北・西・南西・南に派生する各尾根に、広範囲に曲輪群を築いている。まず主郭の北には堀切が穿たれ、その先にそれぞれ基部に堀切を穿った北東曲輪群と北曲輪群がある。いずれも小郭群で構成されているが、北曲輪群の先端にはやや大きめの平場があり、蔵屋敷の名が残る。その北西には土橋の架かった小堀切がある。次に主郭の西には西曲輪群があり、小郭群と3つの堀切がある。二ノ郭の西には南西曲輪群があり、堀切と小郭数個があるだけである。三ノ郭の南には南曲輪群がある。車道が貫通している部分は堀切跡らしく、その先に櫓台状の土壇があり、車道脇から側方斜面に竪堀が落ちている。細尾根の南に堀切があり、その先には4郭があり鍛冶ヶ城の名が残っている。本城域からやや独立した出城的な曲輪群だったのだろう。4郭には西辺にだけ土塁が築かれている。その先にも細尾根上の曲輪と腰曲輪、堀切数本が見られる。以上が久米ヶ城の遺構で、城域は広いが堀切はあまり大きくなく、縄張り的にも特色が少なくパッとしない城である。
主郭北側の堀切→DSCN5390.JPG
DSCN5537.JPG←堀切と4郭

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.462828/137.781236/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

  • 作者: 花岡康隆
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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駒場城(長野県阿智村) [古城めぐり(長野)]

DSCN5261.JPG←主郭背後から南に落ちる竪堀
 駒場城は、歴史不詳の城である。伝承では、応永年間(1394~1428年)頃に林氏によって築かれたとされるが、仔細は不明。その後、天文年間(1532~55年)に伊那谷が甲斐武田氏の支配下に入ると、武田氏が修築したと考えられている。1573年、西上戦を開始した武田信玄は、三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝するなど着々とその兵馬を進めたが、進軍途上で病の為に甲斐へ撤退を開始し、その途中この駒場にて病没したと伝えられる。その後、1582年2月、織田信長は木曽義昌の離反を機に武田征伐を開始した。信長の嫡男信忠を総大将とする本軍が伊那谷に侵攻すると、伊那谷の諸将は相次いで織田方に帰順、もしくは城を捨てて逃走した。信長は武田勝頼の反撃を恐れており、軍監の河尻秀隆に書状を送り、安易に武田領国に深入りせず、繋ぎ城を数ヶ所築いて警護を固めるよう厳命している。この時繋ぎ城として取り立てるべき城の一つとして駒場城の名が上がっていることから、駒場城は織田勢によって修築されたと推測されている。

 駒場城は、阿智川南岸にそびえる標高650m、比高120mの山稜上に築かれている。主郭を中心に、東西の尾根に曲輪を連ね、要所を堀切で分断した典型的な連郭式山城の縄張りである。城内は公園化されており、山道の敷設で一部の遺構が損壊を受けているが、概ねの遺構はよく残っている。主郭は長円形で土塁はなく、南北の斜面に腰曲輪群を築いている。特に北斜面の腰曲輪群はかなり下方まで連なっており、多数に及ぶ。主郭の東尾根の曲輪群は、段々に連なっているが、山道による改変と薮で形状がわかりにくい。途中には2ヶ所、尾根両側に落ちる堀切がある。その下方に暗部の平場があり、その東には一段高く東郭があり、神社が建っている。東郭の先は尾根が東と南東にY字型に分かれ、それぞれ尾根の付け根に堀切を穿ち、その先に小郭を置いている。一方、主郭背後には堀切が穿たれ、南北の斜面に竪堀が長く落ちている。特に南側の竪堀は、両翼に腰曲輪群が段状に連なっており、竪堀沿いに登ってくる敵を迎撃できるようにしている。主郭背後の堀切の西には小さな二ノ郭があり、その西に三重堀切が穿たれ、細尾根の曲輪を挟んで西端の堀切が穿たれて城域が終わっている。主郭西側にある堀切群は、主郭背後のものは大きいが、その他の堀切は小規模である。二ノ郭の南北にも腰曲輪があり、北斜面には竪堀が落ちている。以上が駒場城の遺構で、多重堀切がある以外は特色に乏しく、あまり武田氏・織田氏らしい城の痕跡が見られないので、武田氏以降にどの程度使用された城だったのか、検討の余地がありそうである。
主郭背後の堀切→DSCN5291.JPG
DSCN5253.JPG←主郭南斜面の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.441504/137.738643/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 武田信玄

図説 武田信玄

  • 作者: 平山優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/02/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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霞ヶ城(長野県下諏訪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN5085.JPG←秋宮から見た館跡の高台
 霞ヶ城は、諏訪大社下社の大祝であった金刺氏の一族手塚別当金刺光盛の居城と伝えられる。光盛は、大祝金刺盛澄の弟で、治承寿永の乱(いわゆる源平合戦)の際、木曽義仲に従って倶利伽羅峠の戦いなど数々の戦いで軍功を挙げた。加賀篠原の戦いでは、敗走する平家軍の中にあってただ一騎踏みとどまって奮戦した斎藤別当実盛を一騎打ちの末に討ち取った。その後、義仲に最後まで従い、粟津ヶ原で討死した。

 霞ヶ城は、諏訪大社下社秋宮の南に隣接する高台の上に築かれている。またすぐ西の眼下には大祝の居館神殿(ごうどの)がある(現在の下諏訪中学校の校地)。以前はホテルが建っていたらしいが、現在建物は取り壊され、空き地・駐車場となっている。外周には腰曲輪状の平場が見られるが、遺構かどうかは不明。また秋宮境内との間には堀跡のような切通しの車道が通っているが、『信濃の山城と館』によれば昭和初期に公園化に伴って開削されたもので、往古は秋宮境内と続いていたらしい。明確な遺構はなく、残っているのは地勢だけであるが、館跡には金刺盛澄の銅像と解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.073791/138.090441/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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花岡城(長野県岡谷市) [古城めぐり(長野)]

DSCN4924.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 花岡城は、天竜川沿いに遡行してきた街道が諏訪盆地に入った地点の交通の要衝に築かれた城である。城主については、承久年間(1219〜22年)頃は有賀四郎、応永年間(1394~1428年)には有賀美濃入道性存の子豊後守、天文年間(1532~55年)には有賀備後守の名が伝わる。その他にも花岡氏・小坂氏・浜氏などの名が伝わり、天文年間(1532~55年)頃に武田信玄の弟左馬介信繁の勢500人がこの城を守ったとの伝承もある。

 花岡城は、諏訪湖の水が天竜川に流れ出す釜口水門の西に突き出た、標高810.9m、比高50m程の小山に築かれている。公園化されているので、破壊を受けている部分もあるが、大体の遺構は残っている。後部に土塁を築いた長円形の主郭を中心に、堀切を挟んで西に土塁のある二ノ郭を置き、北西尾根や主郭外周に何段もの腰曲輪群を築いている。主郭の東側は改変が多いが、北西尾根の曲輪群は遺構が明瞭である。別段、縄張りに特徴はなく、幾重にも連ねた腰曲輪群を防御の主体とした城だった様である。
主郭前面の腰曲輪群→DSCN4875.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.052699/138.050959/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史散歩

長野県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/11/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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桜城(長野県下諏訪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4822.JPG←主郭南の腰曲輪
 桜城は、諏訪大社下社の大祝であった金刺氏の本城とされている。金刺氏は、金刺舎人を祖とし、科野国造家から分かれた一族と伝わる。平安後期には武士化し、下社秋宮に隣接する地に霞ヶ城を築いて居城とした。金刺盛澄は弓馬の達人として知られ、源頼朝からの出頭の命令に遅れたことで処刑されそうになったが、梶原景時の取り成しで御前で流鏑馬の技を披露し、その技の見事さに頼朝の怒りは解け、鎌倉幕府の御家人となった。建武の新政期には、諏訪大社上社の諏訪氏と共に最後の得宗北条高時の遺児時行を奉じて挙兵し、中先代の乱を起こした。乱が足利尊氏によって鎮圧された後、成長した北条時行が南朝方として活動すると、金刺氏も信濃南朝方の一翼を担った。しかしその後南朝勢力は頽勢に傾き、金刺氏も北朝方の信濃守護小笠原氏に属した。鎌倉末期から室町前期にかけての戦乱の中で、桜城が築かれたものと推測されている。その後、金刺氏は上社諏訪氏との間で対立を深めていき、1449年、遂に上社と下社は武力衝突し、上社勢が下社を攻め、社殿を焼き払う結果となった。その後も両者の対立は続いたが、概ね下社の劣勢であり、衰退の一途を辿った。1483年の上社諏訪氏の惣領家と大祝家との内訌の時には、金刺遠江守興春は大祝継満に味方して挙兵し、上社領を攻撃した。上社勢は桑原氏らが高鳥屋城(桑原城)から討って出て、湯の脇の合戦でこれを討ち破り、興春を討取り、その首を大熊城に2夜晒したと言う。上社勢はそのまま下社に討ち入り、社殿を焼き払った。後に上社の分裂内訌は諏訪頼満によって統一され、1518年、頼満は金刺昌春が籠城していた萩倉の要害(山吹城か?)を攻撃した。萩倉要害は自落し、金刺氏は断絶、没落したと言う。1542年、甲斐の武田信玄が諏訪を制圧すると、翌43年に上原城と共に「下宮の城」を修築した。この下宮の城が桜城のことと考えられている。その後の歴史は不明である。

 桜城は、諏訪大社下社秋宮の北方にある標高880m、比高100m程の丘陵上に築かれている。現在城の主要部は公園化されているが、遺構はよく残っている。主郭の南東下方まで車道が通っており、そこから竪堀の登道を登っていけば、主郭背後に至る。主郭は柵で閉鎖されているので勝手に入ってもよいのか迷うが、地元の人に聞いたら入って大丈夫とのことだったので、遠慮なく入らせていただいた。主郭は土塁のない長円形の曲輪で、南斜面に何段もの腰曲輪を築いている。主郭の西側には腰曲輪1段を挟んで半月型の二ノ郭が築かれている。二ノ郭の付け根から北斜面には、大きな竪堀が落ちている。二ノ郭の西側下方にも数段の腰曲輪が築かれ、その北辺部分にも竪堀が落ちている。一方、主郭の背後の尾根には三重堀切が穿たれ、竪堀が両側に長く落ちているが、笹薮で形状がはっきりしない。三重堀切の後ろには後郭があり、その背後も幅広の堀切で区画している。以上が桜城の遺構で、構造としては比較的単純であり、武田氏による改修の痕跡は三重堀切や竪堀の部分ぐらいにしか感じられない。
二ノ郭から落ちる竪堀→DSCN4855.JPG
DSCN4779.JPG←主郭背後の堀切群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.079237/138.091471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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山吹城(長野県下諏訪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4547.JPG←大城の主郭土塁
 山吹城は、諏訪大社下社の大祝であった金刺氏の詰城と考えられている。金刺氏の居城は、下社秋宮背後に築かれた桜城とされ、有事の際の詰城として山吹城が築かれたと推測されている。山吹城は、後方の大城と前方の小城の2つがあるが、それぞれの築城時期は定かではない。金刺氏は、南北朝期以来、中先代の乱・桔梗ヶ原の合戦・大塔合戦などの抗争を経て、諏訪大社上社の大祝であった諏訪氏との間で対立を深めていった。1449年、遂に上社と下社は武力衝突し、上社勢が下社を攻め、社殿を焼き払う結果となった。その後も両者の対立は続いたが、概ね下社の劣勢であり、衰退の一途を辿った。1483年の上社諏訪氏の惣領家と大祝家との内訌の時には、金刺遠江守興春は大祝継満に味方して挙兵し、上社領を攻撃した。上社勢は桑原氏らが高鳥屋城(桑原城)から討って出て、湯の脇の合戦でこれを討ち破り、興春を討取り、その首を大熊城に2夜晒したと言う。上社勢はそのまま下社に討ち入り、社殿を焼き払った。後に上社の分裂内訌は諏訪頼満によって統一され、1518年、頼満は金刺昌春が籠城していた萩倉の要害を攻撃した。萩倉要害は自落し、金刺氏は断絶、没落したと言う。この萩倉要害が、山吹城の大城のことと推測されている。

 山吹城は、前述の通り、大城と小城の2つがある。諏訪大社下社春宮の北方の山上にあり、前方の小城は標高940mに、後方の大城は標高1020mの峰に築かれている。清掃センター付近から両城までの登道が整備されており、誘導標識もあるので迷うことなく行くことができる。
小城の主郭背後の堀切→DSCN4412.JPG
 小城は、主郭・二ノ郭・三ノ郭が一直線に並んだ連郭式の城で、それぞれの曲輪は堀切で分断され、主郭背後にも城内最大の堀切が穿たれている。主郭は前面と後部に土塁を築いているが、郭内は削平が甘く傾斜している。また西側に腰曲輪を築いている。二ノ郭は細長い曲輪で、特に特徴はない。三ノ郭は円丘を何段かの平場に造成しているが、切岸が余りはっきりせず、平場内も傾斜しているので、全体の構造がわかりにくい。三ノ郭下方の南尾根に小堀切がある。
DSCN4439.JPG←小城の三ノ郭の堀切

大城の竪堀状虎口→DSCN4580.JPG
 大城は、小城のある尾根から沢を越えた西の峰にある。中心部はY字型に曲輪が配置されている。主尾根には主郭と二ノ郭が南北に並んでいる。主郭は土塁で四周を囲んだ横長長方形の小さな曲輪である。その北に浅い堀切を挟んで縦長長方形の二ノ郭が置かれている。主郭の南東には東曲輪が、南西には西曲輪が突き出すように築かれている。これらの曲輪の外周には何段もの腰曲輪が築かれており、特に西曲輪周辺には多数の腰曲輪群が築かれている。二ノ郭の北西には弓形になった尾根に沿って繋ぎの曲輪と北曲輪、更にその先に堀切を挟んで出曲輪が築かれている。繋ぎの曲輪の付け根北側には、竪堀状の虎口が築かれ、虎口を防御する土塁が築かれている。この虎口に繋がる城道は二ノ郭北側の腰曲輪に通じ、この腰曲輪の北東部には土塁が築かれ、二ノ郭との間に城内通路を兼ねた堀切を形成している。土塁の北には竪堀が穿たれ、長く東の谷に向かって落ちている。現在はこの竪堀のところに登山道が整備されている。また繋ぎの曲輪の北側には枡形虎口が形成され、仕切り土塁が残っている。出曲輪の北斜面には4段程の腰曲輪が築かれ、最下部を堀切で穿ち、腰曲輪群の東の平場に湧水が残る水の手がある。以上が大城の主要部であるが、出曲輪の南西の尾根筋にはずーっと下まで平場群が続いている。しかし『信濃の山城と館』では、「かつて全山工作されていたため、(中略)削平地が広範囲にわたっているので、城域の特定は難しい」とし、出曲輪の先は遺構とは認定していない。ただ途中には堀切のような地形もあり、舌状にきれいに削平された平地もあり、遺構と考えてもおかしくないようなところもある。気になるのは、この南西尾根の平場群にだけ一部に石積みが残っており、遺構であるならば何故ここにだけ石積みがあるのか、謎もある。
 以上が山吹城の遺構で、薮払いされているので遺構が見やすく、見応えがある。
DSCN4592.JPG←大城の出曲輪の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【小城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.088063/138.088059/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【大城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.091029/138.090420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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殿島城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3504.JPG←主郭北側の三重横堀の一部
 殿島城は、天文年間(1532~55年)に春日城主伊那部但馬守重成の次男、新左衛門がこの地に分封されて殿島大和守重国と称し、殿島城を築いたと伝えられる。1556年、甲斐の武田信玄が伊那に侵攻し、伊那の諸氏に降伏を迫ったが、重国らは武田氏に抵抗した。しかし多勢に無勢で重国ら8人衆は狐島で磔にされ、八人塚に葬られた。その後殿島城は、高遠城の支城となったとの説もある。

 殿島城は、天竜川東岸の比高40m程の段丘辺縁部に築かれている。南北に谷が深く入り込んだ段丘西辺の中央部に主郭を築き、南に二ノ郭、そしてこれらを取り巻くように東側に外郭を置いていたらしい。しかし現在主郭以外は住宅団地に変貌しており、二ノ郭・外郭の痕跡は断片的に過ぎない。主郭は公園化されており、四周を土塁で囲んだ曲輪がよく残っている。主郭の北と東には、三重横堀が見事に残っている。特に北側の堀・土塁は素晴らしく、ウネウネしているのがよく分かる。南側は二重の横堀が残っている。この他、西側の急斜面に入り込むと、主郭の西斜面には帯曲輪が築かれる他、二ノ郭西側の横堀が主郭南の二重横堀と直行している。また二ノ郭南端の空堀も、西端部の竪堀だけ斜面に残っている。段丘南端の谷部にも、谷に沿って横堀・帯曲輪が残っている。以上が殿島城の遺構で、伊那地域では珍しい三重横堀が見事である。
二ノ郭西側の横堀→DSCN3541.JPG
DSCN3567.JPG←谷沿いの南端部の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.805049/137.961524/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本の名城解剖図鑑

日本の名城解剖図鑑

  • 出版社/メーカー: エクスナレッジ
  • 発売日: 2014/12/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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的場城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3428.JPG←外周の横堀
 的場城は、歴史不詳の城である。甲斐武田氏による高遠城の築城以前から、的場城が何らかの形で存在していたと考えられている。室町・戦国期には諏訪氏の一族高遠氏が高遠を支配していたが、高遠氏の居館・居城がどこであったのか判明していない。そのため、高遠氏が築いた要害城であったとの説もある。武田氏が高遠を制圧し、高遠城を築いて上伊那統治の拠点とすると、高遠城防衛のために山田城守屋山城などと共に補強改修を受けたのではないかと推測されている。

 的場城は、高遠城を眼下に見下ろす標高910m、比高160mの城山に築かれている。登道はいくつかあるらしいが、蓮華寺背後の墓地裏から山腹を巡る水路に出て、水路沿いに東に半周したところから登道があり、それが一番わかり易いと思う。城は、北東から南西に伸びる尾根上に築かれている。南から順に、三ノ郭・繋ぎの曲輪・二ノ郭・主郭と連郭式に配置した縄張りであるが、主郭に向かうにつれて段々と曲輪の高度が上がっていく梯郭的な配置でもあり、主郭や二ノ郭からは下方の曲輪を睥睨できるように設計されている。そしてこれらの曲輪群の外周に横堀または帯曲輪をほぼ全周させ、所々に竪堀を合計10本以上も落としている。竪堀はいずれも形状がはっきりしており、放射状竪堀で知られる甲斐白山城よりも竪堀は大きい。三ノ郭は城内で最も広く、土塁囲みの台形状の曲輪で、いかにも先端部の防衛陣地という趣である。東と南に虎口が築かれている。三ノ郭の南尾根には土塁や竪堀による防御構造がある。三ノ郭の北にある繋ぎの曲輪は細長い平場で、その上に二ノ郭が置かれている。二ノ郭も低土塁で囲まれ、南東と西側中央に小型の枡形虎口が築かれている。特に西虎口は横堀に架かる坂土橋で横堀外周の土塁に連結している。二ノ郭の北には1段高く前郭があり、その上に主郭がある。前郭の西側には横堀を屈曲させ、そこから斜めに竪堀を落として虎口を形成し、その横にも竪堀を落として側方遮断した巧妙な構造があり、前郭はこの虎口や堀底に対して横矢を掛けており、絶好の迎撃ポイントを形成している。主郭は三角形をした狭小な曲輪で、南に小規模な枡形虎口が築かれている。この虎口への動線は横堀土塁から坂土橋で連結した形となっており、他の城でも時折見られる構造だが、主郭虎口ではあまり見ない形態である。主郭には居住性がなく、城全体を俯瞰できる位置にあることから、防衛指揮所的な場所だったと想像される。主郭の北にはなだらかな平坦地が広がっており、東辺に土塁を築いている。平坦地の北端は高台となり、その先の尾根の付け根に堀切が穿たれている。的場城は大きな城ではないが、かなりテクニカルな縄張りの城で、高遠城防衛の重要な城だったと推測される。しかしそれにしては、1582年の武田征伐で織田勢が高遠城を攻撃した際にその動向は現れず、当時どの様な形で管理されていたのか、謎も多い。
土塁囲みの三ノ郭→DSCN3282.JPG
DSCN3317.JPG←横堀に架かる土橋
横堀屈曲部から落ちる竪堀→DSCN3410.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.842230/138.064735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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高遠城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2974.JPG←三ノ丸の空堀
 高遠城は、武田信玄が築いた伊那の拠点城郭である。元々この地には諏訪氏の一族高遠氏が本拠を置いていたが、居館の位置は明確ではない。高遠の地名の初見は1482年の『守矢満実書留』で、天文年間(1532~55年)には高遠頼継の本拠であった。1542年、諏訪氏の家督を狙う頼継は、武田信玄と結んで諏訪頼重を攻撃して降し、甲府で自刃させた。その後、諏訪は武田氏と高遠氏に二分されたが、西側を領した高遠氏は間もなく甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかしすぐに武田氏の反撃によって高遠氏は敗れ、次いで本領の高遠も攻撃されて、武田氏に降った。この時、信玄は「高遠屋敷」に陣を置いたと伝えられるが、その場所は西高遠と考えられている。1547年3月、信玄は高遠城の築城(或いは大改修)を開始した。高遠城は、以後伊那谷経略の拠点となり、4男の諏訪四郎勝頼を置いた。1582年、織田信長による武田征伐が開始されると、伊那谷の諸将は相次いで織田氏に降り、勝頼の異母弟仁科五郎盛信、小山田備中守昌成らが拠る高遠城だけが徹底抗戦した。しかし織田信忠率いる織田勢の大軍の猛攻により、わずか1日で落城し、盛信以下の将兵は壮絶な戦いの後に全滅した。これが武田勢の組織的な戦いの最後となった。武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に織田信長が横死すると、北条・徳川両氏による旧武田領争奪戦「天正壬午の乱」が起き、その過程で武田旧臣の保科正直が上野箕輪城主内藤昌月(実は正直の実弟)と共に北条氏の支援の下、高遠城を確保した。その後、徳川方が優勢となると伊那谷の諸将は相次いで徳川方に転じ、保科氏も徳川方となって北条方の箕輪城主藤沢頼親を攻め滅ぼし、高遠城一帯の上伊那郡を制圧した。乱の終結後、伊那谷は徳川氏の支配下となり、高遠城にはそのまま保科氏を置いた。1590年に徳川氏が関東に移封となると、保科氏は下総多古に移った。高遠城は豊臣秀吉の支配下となり、飯田城主毛利氏及び京極氏の城代が居住したらしい。1600年の関ヶ原合戦後は、再び保科正光(正直の子)が高遠城主となり、2万5千石を領した。1636年、正光の養子正之(実は2代将軍徳川秀忠の隠し子)の時、兄の3代将軍家光に取り立てられて出羽山形藩20万石に加増転封となり、高遠城には入れ替わりで山形藩主鳥居忠春が3万石に減封されて移された。鳥居家2代の後、2年の天領期を経て、摂津富田藩主内藤清枚が高遠藩主となり、内藤家のまま明治維新を迎えた。

 高遠城は、三峰川と藤沢川の合流点東の比高50m程の段丘上に築かれている。城内は大きく2段に分かれ、北西部が城の中心部に対して1段低くなっている。高い方の段の辺縁部中央付近に方形の本丸を置き、その南に一回り小さな方形の南曲輪、これらの東側に二ノ丸、更にその外周に三ノ丸を配している。それぞれの曲輪周囲の台地続きの部分には深い空堀が穿たれている。南曲輪と二ノ丸の間は土橋で連結されている。本丸と南曲輪の間は、現在は土橋が架かっているが、これは後世の改変らしい。本丸と二ノ丸の間には木橋が架かり、石垣が残っている。また南曲輪の南側には、馬出し状の法幢院曲輪が置かれ、本丸・二ノ丸の西には、一段低く勘助曲輪が置かれている。武田時代の大手は東側にあったと思われるが、江戸時代の大手は西側に付け替えられ、その脇の坂には石垣が残っている。土塁は、本丸と二ノ丸の外周に見られる。公園化されているので、改変されている部分も多く、どこまで往時のままかわかりにくい部分もあるが、拠点城郭としては小ぶり、近世城郭としても小さい部類の城である。
 高遠城は、何よりも桜の名所として知られているが、今回満を持して桜満開のタイミングで訪城した。車中泊で前泊し、7時に朝駆けして車を北東下の城外駐車場を利用した結果、人混みはあったが渋滞と行列知らずで城を回ることができた。
二ノ丸の土塁と空堀→DSCN2995.JPG
DSCN3016.JPG←本丸空堀に架かる木橋

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.833254/138.062396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


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保谷沢城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2443.JPG←5郭堀切と主郭切岸
 保谷沢城は、歴史不詳の城である。城下の田原集落は、元々殿島の分村であったことから、殿島氏が南方に備えて築いた支城ではないかとの説がある。また周囲の城との位置関係から、伊那谷の急を知らせる狼煙台であったとの説もある。

 保谷沢城は、天竜川東方の比高60m程の段丘先端部に築かれている。南西麓から鉄塔保守道(春近高遠線No.3鉄塔)があり、それを使って登ることができる。土塁囲みの五角形の主郭と、南の尾根上に2郭・3郭・4郭を堀切を介して連ね、東には5郭を配置している。鉄塔保守道を登っていくと細尾根上に至り、尾根上を歩いていくと鉄塔の立つ4郭に至る。鉄塔背後に土塁と小堀切があり、その北に3郭がある。3郭は先端に土塁が築かれ、後部に墓地がある。3郭の北には幅広の堀切が穿たれ、その北が2郭となる。2郭は幅が狭いが、後部に方形の土壇を築き、その裏に主郭との間を区画する堀切が穿たれている。2郭からは主郭西側の腰曲輪に道が繋がっている。腰曲輪から主郭に登る道がついているが、これは後世の改変であるらしい。主郭の大手虎口は、現状ではあまりはっきりしないが南にあったとされており、そうなると2郭後部の方形の土壇は、主郭虎口に繋がる橋台であったかもしれない。主郭は現在空き地となっていて、解説板が立っている。主郭の東には城内最大の堀切が穿たれ、その先が5郭である。5郭は舌状の曲輪で、先端も小堀切で分断されている。主郭・5郭の北には畑が広がっているが、ここに外郭があった可能性があり、東西の斜面に堀型が残っている。保谷沢城は、鉄塔が建てられたりして改変を受けているものの、全体としては遺構がよく残っている。
2郭堀切と3郭→DSCN2394.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.784534/137.967103/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史 (県史)

長野県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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北の城・下の城(長野県宮田村) [古城めぐり(長野)]

DSCN2271.JPG←北の城主郭の土塁と空堀
 北の城・下の城は、歴史不詳の城である。中世に中越の地頭職であった中越氏に関係する城であったと推測されている。中越氏は、1400年の大塔合戦に参陣していることが知られる。戦国時代に甲斐の武田信玄が伊那を制圧すると、1561年に高遠之新衆として武田氏に属した者の中に中越与次郎の名が見える。

 北の城・下の城は、天竜川に望む西の段丘辺縁部に築かれている。まず北の城は、天竜川沿いの氾濫原が途切れて、川筋が狭まった部分の北端にある。現在主郭は公園に、外郭は畑に変貌している。主郭は目の形をした曲輪で、外周に土塁を築き、外側に空堀を廻らしている。主郭の南部を車道が貫通し、また公園化による改変を受けているが、西側に虎口が残っている。西には西曲輪、南には南曲輪があったとされるが、耕地化による改変でどこまでが城域だったのか判然としない。
 次に下の城であるが、北の城の南に大沢川を挟んで築かれている。天竜川に沿って南北に3つの曲輪が並んでいる。中央が主郭で、台形に近い形をしており、外周に土塁が築かれ、西と南に空堀が穿たれている。虎口は西側中央に開かれている。主郭の北には帯曲輪が一段築かれ、その下方に三ノ郭がある。三ノ郭は内部が東西2段に分かれ、北に腰曲輪を築いている。腰曲輪の北辺は大沢川に望む急崖となっているが、竪堀地形が3つある。また主郭の南には空堀を挟んで二ノ郭がある。下の城は全域が山林となっているが、冬期であれば薮はそれほど酷くはない。西には外郭があったと思われるが、畑になっているので、往時の形態はわからない。
 以上が北の城・下の城で、小規模な城砦であるが、それぞれ形態が異なり、詰城と館城という役割の違いを示しているように思われる。
下の城主郭の土塁→DSCN2329.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【北の城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.772483/137.960172/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【下の城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.770133/137.960064/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野「地理・地名・地図」の謎 - 意外と知らない“信州

長野「地理・地名・地図」の謎 - 意外と知らない“信州"の歴史を読み解く! (じっぴコンパクト新書)

  • 作者: 原 智子
  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2014/11/06
  • メディア: 新書


タグ:中世崖端城
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表木城(長野県宮田村) [古城めぐり(長野)]

DSCN2211.JPG←空堀と主郭切岸
 表木城は、歴史不詳の城である。一説には面木(表木)氏の城であったとも、別説では、古くは勘林喜兵衛尉忠重、天文年間(1532~55年)には唐澤右衛門尉美久が居住したとも言う。面木(表木)氏は、1487年に高遠の諏訪継宗が伊那勢を率いて諏訪に攻め込んだ合戦で、真木氏・福島氏・高見氏らと共に討死している。また表木主膳は18貫文を有して表木に居住し、世々高遠城に属して天正年間(1573~92年)に家名を失ったとある。いずれにしても、表木城は室町前期頃にその母胎が築かれ、戦国期に武田信玄が伊那を制圧してこの地を支配した時期に城主は滅亡したと推測されている。

 表木城は、天竜川西岸の河岸段丘辺縁部に築かれた城である。城の東辺部をJR飯田線が貫通していて、やや破壊を受けている。空堀で外周をコの字に囲んだ長方形の主郭を中心に、北に二ノ郭、南に三ノ郭を配している。二ノ郭の北と三ノ郭の南も、それぞれ空堀で周囲の台地と分断している。主郭は土塁で東以外の三方を囲んでいるが、線路で破壊された東辺にも土塁があった可能性がある。虎口は西側中央に築かれている。主郭周囲の空堀は規模が大きいが、薮だらけである。主郭内も薮で覆われている。三ノ郭は、内部が何段かに分かれ、土塁も築かれている。また線路の向こうにも三ノ郭の遺構が残り、東斜面に横堀が穿たれ、横堀は南側で折れて竪堀となって落ちている。以上が表木城の遺構で、土豪が築いた小規模な館城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.785783/137.945087/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


男の隠れ家 特別編集 日本の名城を訪ねて

男の隠れ家 特別編集 日本の名城を訪ねて

  • 作者: 三栄
  • 出版社/メーカー: 三栄
  • 発売日: 2020/03/17
  • メディア: Kindle版


タグ:中世崖端城
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宮田城(長野県宮田村) [古城めぐり(長野)]

DSCN2048.JPG←長大な竪堀
 宮田城は、宮田郷の地頭であった宮田氏の要害城と考えられている。宮田氏の名の初見は、鎌倉末期の1329年の鎌倉幕府の下知状である。室町時代には、信濃守護小笠原氏に属して結城合戦にも参戦している。戦国時代になると、諏訪を攻略した甲斐の武田信玄は、伊那への侵攻を開始した。宮田氏は、下伊那の鈴岡城主小笠原信貞に従って福与城や塩尻峠の戦いに参戦し、武田氏に最後まで抵抗した。そして遂に1556年、宮田左近正親房は狐島で処刑され、長谷村の八人塚の一人として葬られた。しかし宮田氏の中でも武田氏に従った一族があり、天正年間(1573~92年)に宮田左衛門尉や宮田之孫右衛門尉などの名が見えると言う。

 宮田城は、宮田市街地西方の標高850m、比高140m程の山上に築かれている。村の史跡に指定されているので、東麓から登道が整備されている。土塁囲みの主郭を中心に、外周に何段もの帯曲輪群を築いている。特に東斜面では、帯曲輪は10段ほどにも及ぶ。また東斜面には2本の長い竪堀が穿たれており、麓近くまで続いている。主郭背後には複雑な形の多重堀切が穿たれている。基本は三重堀切であるが、中間土塁の途中から更に竪堀が穿たれるなど、背後の守りをかなり意識している。北に続く背後の尾根を登っていくと、ここにも小郭と二重堀切があり、更にその上方にもやや離れて堀切が穿たれている。これら主郭後部の堀切群はいずれも東に向かって竪堀が長く落ちている。また堀切の規模もしっかりしている。北尾根の先は林道に至るが、その付近にも堀状地形が多く見られる。これは古道跡かもしれない。宮田城は土豪の城であるが、多重堀切と長大な竪堀群が特徴的で、見応えのある城である。
土塁囲みの主郭→DSCN2107.JPG
DSCN2115.JPG←主郭背後の多重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.768792/137.919424/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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義信城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2011.JPG←前面の放射状竪堀の一つ
 義信城は、歴史不詳の城である。城名の由来も不明であるが、義信というのは人名であるらしい。高遠氏の出自に木曽氏説があり、それによれば2代目が高遠太郎義信と言うので、高遠義信に関連した城との説もある。

 義信城は、標高1200m、比高200mの山稜上に築かれている。私は鳩吹城から西に山道を辿り(1/25000地形図に描かれている点線の山道)、途中から南東に逸れて降っていき、城の背後の尾根から訪城した。幅の狭い細尾根を降っていくと、竪堀や二重堀切が現れ、ここからが城域となる。二重堀切の先も細尾根だが、西側下方に腰曲輪が築かれている。この腰曲輪は薮で覆われているが、西辺に土塁が築かれ、幅広の横堀のような形となっている。細尾根の先には大堀切が穿たれ、その上に主郭がそびえている。この大堀切は鋭く、南西に竪堀となって落ちている。またこの竪堀の脇にも竪堀が落ち、二重竪堀となっている。主郭は背後に土塁を築いた曲輪で、前面には段差だけで区画された二ノ郭を伴っている。二ノ郭は細長い曲輪で、郭内が尾根に沿って緩く傾斜している。二ノ郭の南西から南東にかけて帯曲輪が築かれているが、ここに放射状竪堀が穿たれている。主郭までは薮が多いのだが、二ノ郭と放射状竪堀にはなぜか薮がなく、お陰でものすごく形がわかりやすい。この前面の放射状竪堀は密度が高いため、畝状竪堀のように見える。また竪堀の規模が大きく、形状がはっきりと分かる。
 以上が義信城の本体であるが、背後の尾根の先に広い窪地がある。井戸らしい跡や倉などが置かれたらしい平場が確認できる。後世の耕地化によるものとも考えられるが、もしこれも城郭遺構だとすると義信城の後方にあって、城兵の駐屯や軍需物資を貯蔵していた施設があった可能性も考えられる。またこの窪地の南西に突き出た尾根には、義信城上の城〔仮称〕がある。

 義信城は小さい城でありながら、竪堀・堀切など各パーツが充実しており、見応えがある。その遺構には大名系城郭にも通じるものがあり、武田氏勢力の介在の可能性もある。それにしては少し奥まった場所に築かれているなど、謎も多い。
背後の尾根の二重堀切→DSCN1976.JPG
DSCN2023.JPG←大堀切と主郭切岸
大堀切脇の二重竪堀→DSCN2024.JPG
DSCN2021.JPG←前面の放射状竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.836803/137.879051/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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義信城上の城〔仮称〕(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1957.JPG←最後部の堀切
 義信城上の城〔仮称〕は、義信城へ行く途中で私がたまたま見つけた城である。鳩吹城に行った後、背後の尾根から南東に義信城のある尾根へと降っていく際に、右手に堀切っぽい地形があったので探索した結果、小規模だが城郭遺構と判断した。小規模な遺構から推測して、義信城の背後にあって、より高所から物見や烽火台として機能していたのではないかと考えられる。

 義信城上の城〔仮称〕は、義信城の北西250m程の位置にあり、南に向かって突き出た標高1260mの尾根に築かれている。3段程の小さな段曲輪群から成り、最後部とその手前と2本の堀切が穿たれている。小郭群の前面は絶壁となっており、南下方からの接近は困難である。
 尚、この小城砦の北東には広い窪地があり、井戸らしい跡や倉などが置かれたらしい平場が確認できる。後世の耕地化によるものとも考えられるが、もしこれも城郭遺構だとすると義信城の後方にあって、城兵の駐屯や軍需物資を貯蔵していた施設があった可能性も考えられる。義信城上の城は、この施設を防備する砦であった可能性もある。
段曲輪群→DSCN1966.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.838125/137.876830/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世山城
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鳩吹城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1932.JPG←主郭
 鳩吹城は、戦国前期の天文年間(1532~55年)に倉田将監安光が居城したと言われている。倉田氏は鎌倉の出であり、最初は横山に住み、木曽義康と余地原で戦って敗れ、北殿の倉田城に移り、福与城の藤沢氏に属したと伝えられる。また鳩吹城は、南北朝期に南朝方の北条時行が立て籠もって北朝方の信濃守護小笠原貞宗の軍勢と戦った、所在不明の大徳王寺城の候補地でもあるらしい。

 鳩吹城は、標高1320.4m、比高400m程の大田山山頂に築かれている。まともに下から登ったらなかなか大変な山だが、城跡の一部がパラグライダーの出発台となっているので、城近くまで未舗装の林道がある。この林道を使えば車で間近まで行けると思っていたが、訪城した3月下旬はまだ日影に残雪があり、途中で車が残雪にハマってスタックしてしまい、危うく脱出不能になるところだった!手で雪かきして何とか脱出できたので、ちょっと戻って多少スペースのある路肩に車を駐めて、そこから歩いて訪城した。山の西尾根の鞍部は削平されて駐車場になっており、ここから登道が付いている。登道は2つあり、普通の尾根道の他に幅広の道も斜面を削って上まで通されているので、一部遺構が損壊している。但し、概ねの遺構は残っている。西尾根に細尾根上の小郭と堀切があり、それを越えて登っていくと、明確な堀切が穿たれ、その上に主郭がある。主郭には城址標柱が立ち、曲輪は北に向かって傾斜し、先端に堀切が穿たれている。主郭の東方は山林がないので視界がひらけており、伊那盆地を一望できる。堀切の先に小郭がありその先にもう1本堀切がある。堀切はいずれも良好に残っているが、規模は小さい。また主郭の東西に腰曲輪があるが、東のものはパラグライダー台になって改変を受けている。西のものは一面の笹薮で、平場があるのがわかるだけである。鳩吹城は、高所に築かれた山城らしく、小規模で簡素な縄張りである。
主郭先端の堀切→DSCN1938.JPG
DSCN1921.JPG←主郭後部の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.839777/137.880392/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 南朝編

南北朝武将列伝 南朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/02/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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大熊城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1828.JPG←そびえ立つ丘上にある大熊城
 大熊城は、諏訪氏の庶流千野氏の居城と伝えられる。しかし千野氏の本貫地は宮川茅野であり、いつ頃誰がこの地に移ったのかは不明である。元々大熊の地は諏訪大社上社の西隣であるので、諏訪氏一族の有力者が大熊城を築き、後に千野氏がこの地に本拠を移したと考えられている。史料上の大熊城の初見は、1483年の諏訪氏の惣領家と大祝家との内訌の時である。1483年正月8日、大祝継満は惣領家の諏訪政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺した。その詳細は干沢城の項に記載する。しかし大祝継満は諏訪氏の一家眷属の攻撃を受けて干沢城から高遠へ落ち、惣領を失った上社は不安定な日々を送ることとなった。3月19日、下社大祝の金刺遠江守興春は継満の味方を口実にして上社領を攻撃した。上社勢は桑原氏らが高鳥屋城(桑原城)から討って出て、湯の脇の合戦でこれを討ち破り、興春を討取り、その首を大熊城に2夜晒したと言う。この時の大熊城主は不明。次に歴史に現れるのは1542年の武田信玄の諏訪攻撃の時で、この時には大熊城に千野氏が居たことが知られる。信玄は諏訪氏の家督を狙う高遠頼継や下社勢と結んで上原城の諏訪頼重を攻撃した。大熊城に立て籠もっていた千野入道兄弟は、攻め寄せてきた高遠頼継勢と武田勢の連合軍と戦い、敗れて落城した。諏訪頼重は桑原城に後退して立て籠もったが、間もなく降伏し、甲府に連行されて自刃させられた。これにより諏訪惣領家の直系は滅亡した。その後、諏訪は武田氏と高遠氏に二分されたが、西側を領した高遠氏は間もなく甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかしすぐに武田氏が頼重の遺児寅王を押し立てて頼重の遺言と称して反撃し、この時千野氏ら諏訪武士の多くが武田氏に味方した。1548年、上田原の戦いで武田氏が葛尾城主村上義清に敗北すると、諏訪郡の西方衆は武田氏に叛乱を起こしたが、鎮圧後に追放され、神氏系の反武田勢力は一掃された。この間、千野靭負尉(ゆきえのじょう)は信玄の信任を得、翌49年3月、有賀の地を与えられた。大熊城は、この頃破却されたと考えられている。

 大熊城は、比高50m程の丘陵上に築かれている。この丘陵は、北面が急峻な斜面となっており、北の平地から見るとそびえ立つ丘の上に城がある。三日月形をした丘陵上の中心に主郭を置き、北西に2つの曲輪、南に3つの曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、更に外周に腰曲輪を廻らしている。しかし南の曲輪群に中央を中央道が貫通し、また車道も南北に貫通して、南の遺構は大きく破壊されている。それ以外の城内の曲輪は、いずれも畑となっていて改変を受けている。それでも主郭の切岸と周囲の空堀はよく残り、主郭後部の土塁も健在である。城址標柱と解説板もあり、辛うじて残っている部分だけでも末永く残していってもらいたい。
主郭切岸と空堀→DSCN1840.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.004630/138.104711/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃が語る古代氏族と天皇 善光寺と諏訪大社の謎(祥伝社新書)

信濃が語る古代氏族と天皇 善光寺と諏訪大社の謎(祥伝社新書)

  • 作者: 関裕二
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2015/05/02
  • メディア: 新書


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有賀城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1692.JPG←北尾根の段状の曲輪群
 有賀城は、諏訪氏の庶流有賀氏の居城である。伝承では、承久年間(1219〜22年)に有賀四郎によって築かれたとされる。以後、有賀氏の歴代の居城となった。応永年間(1394~1428年)には有賀美濃入道性存・同豊後守泰時が居城したとされ、この二人の名は大塔合戦でも諏訪勢の中に現れる。戦国期の1542年に武田信玄が諏訪を攻略した後、有賀備前守昌武は武田氏に服属していたが、後に木曽義昌に通じて誅殺された。1548年、上田原の戦いで武田信玄が葛尾城主村上義清に敗北すると、諏訪郡の西方衆は武田氏に叛乱を起こしたが、鎮圧後に追放され、神氏系の反武田勢力は一掃された。叛乱鎮圧後、信玄は原美濃守虎胤を有賀城に置いて再度の叛乱に備えるとともに伊那口を守らせた。翌49年3月、有賀の地は千野靭負尉(ゆきえのじょう)に与えられた。1582年に武田氏が滅び、旧武田領を制圧した織田氏勢力も本能寺の変で崩壊すると、天正壬午の乱を経て、徳川領となった信濃の諸豪は徳川家康の麾下に属した。1590年の小田原の役後に徳川氏が関東に移封となると、諏訪氏一党も関東に移ってこの地を離れたが、1601年に諏訪頼水が諏訪に復帰すると、千野丹波守房清が有賀に戻った。

 有賀城は、諏訪盆地南方の丘陵地の一角、標高920m、比高100mの山上に築かれている。北東麓にある江音寺の北側から登山道が整備されている。ちなみにこの登山道の入口脇には、高島藩の家老となった千野家の墓所がある。また後で知ったが、山の東西にも登山道が整備されているらしい。だが江音寺北の登山道の方が、登りながら全ての遺構を廻ることができるので都合が良い。長方形の主郭を頂部に置き、北尾根に4つの方形の曲輪を段状に連ね、更にその前面に腰曲輪群を配置している。各曲輪はきれいに削平され、主郭・二ノ郭にはしっかりした土塁も築かれている。主郭背後の土塁の内側には石積みも見られるが、後世の構築である可能性がある。主郭と二ノ郭の間は堀切で分断されており、この堀切から左右に長い竪堀が落ちている。主郭の北東斜面には腰曲輪と堀切が穿たれ、この堀切から落ちる竪堀は、二ノ郭手前の堀切から落ちる竪堀に合流している。主郭の背後は、堀切と小郭を交互に連ね、三重の堀切となっている。中では主郭背後の堀切が深さもあり、切岸も鋭い。更にこの城では、主郭から北に連なる曲輪群の西側に、横堀による防御線が構築されている。この横堀からは数本の竪堀が落ち、一部は二重横堀となり、その他の部分も帯曲輪が築かれている。何てことない連郭式の城と思いきや、横堀・竪堀による側面防御が巧妙な縄張りとなっている。この横堀によって補強する手法から、武田氏統治時代の天正年間(1573~92年)頃の改修と宮坂氏は推測しているが、適切な評価であると思う。
主郭背後の大堀切→DSCN1780.JPG
DSCN1787.JPG←横堀・竪堀による側面防御

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.017093/138.080785/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




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南真志野城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1584.JPG←3段から成る主郭
 南真志野城は、歴史不詳の城である。城主は矢嶋氏であったらしい。1542年の『守矢頼真書留』に、「桑(原より真志)野城へ矢嶋殿同心にて下宮をまはり・・・」とあるのが南真志野城のこととされるが、( )の部分は原文では欠落しているので、断定し難いとされる。1548年、上田原の戦いで武田信玄が葛尾城主村上義清に敗北すると、諏訪郡の西方衆は武田氏に叛乱を起こしたが、矢嶋氏もこれに加わり、鎮圧後に追放された。

 南真志野城は、諏訪盆地南方の丘陵地の一角、標高1030mの山上に築かれている。山中に未舗装の林道が通っており、それを使って北東尾根の中腹まで車で登り、そこから北東尾根を登っていけば城の中心部に至る。この尾根上には何段もの腰曲輪群が築かれているが少々笹薮が多くてわかりにくい部分もある。山上には明確な切岸で区画された曲輪群がそびえている。主郭は内部が3段に分かれ、北と南に低土塁を築いている。主郭の最上段は櫓台状で、後部に土塁を築いている。主郭背後は堀切が穿たれている。主郭の南には3段の腰曲輪、北から北東にかけては2段の腰曲輪が築かれている。特に北側上段の腰曲輪は幅が広くなっている。主郭の南西にも3段の腰曲輪が築かれ、主郭背後の堀切と繋がっている。堀切西側の背後の尾根には、尾根上に平場があり、南斜面に腰曲輪が2段築かれている。この他、腰曲輪などに数カ所石積みが見られるが、往時の遺構かどうかは判断し難い。南真志野城は遺構がよく残っているが、あまり技巧的な部分は見られず、素朴な形態の城である。
主郭背後の堀切→DSCN1620.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.005915/138.090119/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


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大熊荒城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1520.JPG←主郭のL字状土塁
 大熊荒城は、1486年に諏訪氏の一族大祝継満が築いた城である。「荒城」とは「新城(あらじょう)」と同意である。これに先立つ1483年正月、惣領家の所領を奪って上社の祭政両権を握ろうとした継満は、諏訪氏惣領の政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺した。しかし諏訪氏の一家眷属に攻撃されて、立て籠もっていた干沢城から没落し、伊那高遠に落ち延びた。翌84年5月3日、小笠原政貞ら伊那諸豪の援助を得た継満は、杖突峠を越えて諏訪に侵入し、片山古城(武居城)を取り立てて干沢城の惣領勢と対峙したが、攻撃を受けて退去した。同年12月、先に継満に殺害された政満の2男頼満が上社大祝職に就き、以後、祭政一致に戻った諏訪惣領家が諏訪郡を支配した。新たな大祝が立ち、存在感が薄くなった継満は1486年5~6月に再び諏訪に戻って大熊に新城を築いた。それが大熊荒城である。これは諏訪還住の意思表明と誰かの支援を期待してのこととの説がある。しかし結局同年9月に継満は没したと言う。

 大熊荒城は、標高1000m、比高230mの山上に築かれている。北麓から鉄塔保守の山道があり、これを登っていけばやがて城に至る。『信濃の山城と館』の縄張図によれば、堀切で区画された一の木戸、二の木戸があり、その先に石積みの残る三の木戸が築かれ、その先に城がある。しかし木戸の堀切は、薮のせいもあってあまりよくわからない。石積みもあるにはあるが、崩れているので実際に石積みだったのかどうかもはっきりしない。しかし主郭と前面の腰曲輪群は明瞭で、主郭にはL字型の土塁が残り、その背後には二ノ郭との間に堀切が穿たれている。二ノ郭から南に、更に2つの曲輪があるとされるが、塁線が不明瞭であまりはっきりしない。この城域の東側に前述の山道が通っているが、側方に土塁状の土盛りを伴っている。いずれにしても、『信濃の山城と館』で「逃亡の身でジリ貧になった継満が、諏訪還住のために密かに少人数で拠点となる場所を確保した城」「いかにも急ごしらえのもので、加工度も少なく、まことに簡単な造り」と記載している通りの、ささやかな城である。築城時期・築城者がはっきりしている稀有な中世城郭であるが、正直言って登山の苦労が報われない城である。
主郭背後の堀切→DSCN1517.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.995586/138.110676/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


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武居城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1429.JPG←主郭前面の帯曲輪群
 武居城は、片山古城とも呼ばれ、諏訪氏が築いた古い城である。伝承では、鎌倉末期の1330年に諏訪五郎時重が鎌倉幕府最後の得宗北条高時の婿となり、信濃一円に勢力を拡大し、山裾の武居平に居を構え、山上に武居城を築いたとされる。時重は、1333年に新田義貞の鎌倉攻めで北条氏が滅亡した際、高時を介錯して自身も自害したと言う。しかし、諏訪時重と言う武士は史料上確認できない。太平記によれば、北条高時とともに鎌倉東勝寺で自害した武士として諏訪入道直性(宗経か?)の名がある。また得宗家の被官諏訪三郎盛高は、高時の子北条時行を保護して密かに信濃に落ち降り、諏訪一族の元に匿った。そして1335年、時行を奉じて挙兵したのが諏訪頼重らの信濃武士であった。この中先代の乱で、頼重らは一時は鎌倉を制圧したが、京都から攻め降った足利尊氏率いる軍勢に瞬く間に駆逐され、鎌倉で自刃したことが知られる。従って、建武新政期に史書に現れる諏訪一族の中に時重と言う武士は出て来ない。とは言え、得宗家被官の諏訪一族が諏訪大社上社本宮に近い武居城を築いた事実はあったのだろう。いずれにしてもその後の城主は知られず、城も放棄されていたらしい。1483年、諏訪大祝継満は、惣領家の諏訪政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺し、惣領家の所領を奪って上社の祭政両権を握ろうとした。しかし諏訪氏の一家眷属に攻撃されて、立て籠もっていた干沢城から没落し、伊那高遠に落ち延びた。翌84年5月3日、小笠原政貞ら伊那諸豪の援助を得た継満は、杖突峠を越えて諏訪に侵入し、片山古城(武居城)を取り立てて干沢城の惣領勢と対峙したが、攻撃を受けて退去した。天文年間(1532~55年)には、諏訪頼重の家臣篠原与三郎が武居城代となった。しかし1542年に武田信玄が諏訪を攻略すると、武居城は落城した。その後は諏訪大祝が城を預かったが、1582年の天正壬午の乱の中で諏訪頼忠が諏訪を回復すると、高島城(茶臼山城)を本拠とした。以後、武居城は使われず、そのまま廃城となった。

 武居城は、諏訪盆地南方の丘陵地の一角、標高940m、比高170mの城の峯に築かれている。中腹には竹居平・保科畠と言う広大な平坦地があり、城主居館や家臣団屋敷があったとされる。武居城はその背後の山上にあり、主郭が武居城跡森林公園になっているので、車道の脇から登山道が整備されている。この登山道は「ショイビキ(背負い引き)道」と呼ばれ、近世には切り出した木を背負って下った道らしい。そのため深い竪堀状の道となっている。この道を登っていくと、途中で横堀が分岐している。この横堀は、城の北東斜面中腹を防御するように穿たれている。その上には段曲輪群が構築され、主郭に近づくと円弧状の長い帯曲輪群に変化する。最上部に主郭があるが、切岸だけで区画されており、土塁は残っていない。主郭の南北の斜面にも帯曲輪が数段築かれている。主郭背後の南西の尾根は一騎駆け状の土橋となっているが、堀切は見られない。『信濃の山城と館』では、ショイビキ道のために堀を埋めてしまった可能性を指摘している。いずれにしても、主郭以外は多段曲輪だけで構成された城で、縄張りにほとんど技巧性は見られない。戦国期には、ほとんど役目を終えていた城だったのだろう。
 尚、沢を挟んだ東の山上には支砦の天狗山砦があるが、これもただの平場群だけの城砦のようなのでパスした。
山腹の横堀→DSCN1399.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.992409/138.121190/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


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桑原城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1330.JPG←二ノ郭と主郭
 桑原城は、高鳥屋城とも呼ばれ、諏訪惣領家の本城上原城の支城である。諏訪氏の被官桑原氏の城であった。文献にその名が出てくるのは1483年の諏訪惣領家と大祝家の内訌の時である。即ち、1483年正月8日、大祝継満は惣領家の諏訪政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺した。その詳細は干沢城の項に記載する。しかし大祝継満は諏訪氏の一家眷属の攻撃を受けて干沢城から高遠へ落ち、惣領を失った上社は不安定な日々を送ることとなった。その最中、神長官守矢満実は、3月10日に乱を避けて「高鳥屋城の上小屋(山上の砦)」に移り住んだ。3月19日になると、下社大祝の金刺興春は継満の味方を口実にして上社領を攻撃したが、上社勢は桑原氏らが高鳥屋城から討って出て、これを討ち破ったと言う。次に桑原城が現れるのは1542年の武田信玄による諏訪攻撃の時である。信玄は諏訪氏の家督を狙う高遠頼継や下社勢と結んで上原城の諏訪頼重を攻撃した。頼重は攻撃を防ぎきれず桑原城に移ったが、間もなく降伏して甲府に連行され、切腹させられた。その後の桑原城の歴史は不明である。

 桑原城は、上川東方の標高980m、比高210m程の山上に築かれている。登道はいくつかあるようだが、私は大手と推測される南西尾根から登城した。この道は開敷院の裏にあり、山道がきれいに整備され、城址誘導板も設置されている。開敷院本堂からちょっと登った所にお堂があり、その裏に1段の平場がある。その先を更に登ると鉄塔のある尾根に至る。ここからが本格的な城域となる。鉄塔の後ろには中央に土塁が築かれた細長い曲輪があり、周囲に腰曲輪が築かれている。この先は大手の多段曲輪群が構築され、小堀切も穿たれている。城の中心部に近くなると、腰曲輪は大きさを増し、その上に西曲輪がある。ここからが城の中心部で、全体として鼓型の形状をしている。西曲輪の上に二ノ郭があり、二ノ郭の中央には浅い堀切が穿たれている。西曲輪はこの二ノ郭の周りをコの字型に取り巻いている。二ノ郭からは諏訪湖が一望できる。二ノ郭の背後には堀切が穿たれ、その先に主郭が置かれている。主郭は前面と後面に低土塁を築いている。主郭の東には東曲輪が築かれ、堀切南から腰曲輪を経由して繋がっている。東曲輪の北部には首塚とされる土壇があり、その裏に竪堀が穿たれている。東曲輪の東の尾根にも腰曲輪があり、その先を堀切で防御している。また東曲輪の南の尾根にも腰曲輪群が築かれている。腰曲輪群の先端近くに小堀切が穿たれ、更にその先には自然地形の丘があるが、周囲に帯曲輪群が構築されているので、ここも城域であった事がわかる。以上が桑原城の遺構で、上原城同様に中心部はコンパクトに纏められており、あくまで有事の際の詰城であったことがよく分かる。
南東尾根先端の曲輪と中央土塁→DSCN1293.JPG
DSCN1315.JPG←南西尾根上部の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.025683/138.140030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史散歩

長野県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/11/01
  • メディア: 単行本


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上原城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1203.JPG←ひな段状の曲輪群
 上原城は、諏訪氏惣領家の居城であり、その後武田氏の軍事拠点となった城である。築城時期は明確ではないが、室町後期の1466年には諏訪惣領家当主信満が上原にいたことが古文書から知られる。これに先立つ1456年、惣領の安芸守信満とその弟で大祝の伊予守頼満との間で争いが起きた。古代以来諏訪氏では、幼少時に大祝として神に仕え、長じてからは惣領として武士団・政権を司る祭政一致の形態が取られていたが、中世の動乱の中で、神事の権威である大祝と、諏訪一門の棟梁である惣領という二重構造を強めた。1456年の対立後、惣領信満は上原に拠って宮川以東を領すると共に一門を率い、大祝頼満は前宮に残って宮川以西を領すると共に祭祀を司ったと言う。従って、この頃には上原には諏訪惣領家の居館が置かれ、城下集落が形成されていたと考えられ、詰城である上原城も程なく築かれたと推測される。以後、政満・頼満・頼隆・頼重と5代70余年にわたり諏訪地方をこの地で統治した。また1456年以後、惣領家と大祝家とは分裂状態となり、諏訪氏は祭政分離となった。大祝頼満の子継満は、1483年正月8日に信満の子で惣領の政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺し、惣領家の所領を奪って上社の祭政両権を握ろうとした。しかし諏訪氏の一家眷属はこれを支持せず、大祝継満は失脚し、84年12月、先に継満に殺害された政満の2男頼満が上社大祝職に就き、以後、祭政一致に戻った諏訪惣領家が諏訪郡を支配した。頼満の子頼隆は若死にし、1539年に孫の頼重が跡を継いだ。頼重は甲斐の武田信虎と同盟し、その息女を正妻に迎え、連年出兵を繰り返した。そのため郡内は疲弊した。1541年に父信虎を追放した武田(晴信)信玄は、翌42年、諏訪氏の家督を狙う高遠頼継や下社勢と結んで諏訪頼重を攻撃して降し、甲府で自刃させた。これにより諏訪惣領家の直系は滅亡した。その後、諏訪は武田氏と高遠氏に二分されたが、西側を領した高遠氏は間もなく甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかしすぐに武田氏の反撃によって高遠氏は敗れ、諏訪一円は武田氏の支配下となった。その後、諏訪には信玄重臣の板垣信方が郡代として入り、上原城を大規模に改修した。信玄も着工間もない頃に上原城に来て、40日にわたって上原城などの普請を指揮し、諏訪統治の手配をした。以後、上原城とその館は、武田氏による諏訪統治の拠点と信濃攻略、また遠く美濃三河への中継基地として武田軍の重要拠点となった。特に武田軍の万に及ぶ大軍団が出陣・帰陣の際の中継基地として度々使用しており、それだけの兵団が滞在できるだけの機能がこの地に整備されていたことがわかる。1549年、統治所は高島城(茶臼山城)に移されたが、軍事基地としては機能し続けた。武田氏が上原城を使った最後は1582年2月で、武田勝頼は同年1月の木曽義昌の離反を受けて、諏訪郡代今福筑前守昌和らを木曽氏討伐に派遣し、自らも後詰として上原城に本陣を置いた。しかし間もなく始まった織田信長による武田征伐により、怒涛の如く侵攻した織田信忠率いる先鋒軍の前に伊那郡の武田勢は相次いで瓦解してしまった。また駿河でも江尻城を守っていた一族衆の重臣穴山梅雪が離反し、その報を受けた勝頼は2月27日、甲斐本国防衛のため新府城に撤退した。その後、伊那で最後まで残っていた高遠城を攻略した織田軍は諏訪に侵攻して諏訪上社を焼き払った。以後、上原城が使われた記録はなく、徳川・北条両軍が争った天正壬午の乱でも高島城が諏訪頼忠の拠点となっているので、上原城は織田軍による諏訪蹂躙後に廃城になったと推測される。

 上原城は、永明寺山の西斜面の末端の標高978.3m、比高200m程の小山に築かれている。中心に主郭を置き、周囲に輪郭式に曲輪を配した縄張りとなっている。主郭はほぼ方形の曲輪で、西以外の三方に低土塁を築いている。主郭背後には大堀切が穿たれている。南西下方に二ノ郭があるが、二ノ郭の先端部には大きな物見石という岩がある。更に二ノ郭下方には三ノ郭があり、ここには金比羅神社が建っている。三ノ郭の南に降る尾根が大手道で、中腹の板垣平と呼ばれる館跡(根小屋地区)に通じている。この尾根には小郭群が置かれ、堀切・竪堀も見られる。また二ノ郭・三ノ郭からは東と北に帯曲輪が伸び、北の帯曲輪の先には理昌院平と呼ばれる広めの腰曲輪がある。理昌院平の北西下方にも舌状の腰曲輪群が築かれ、北斜面まで曲輪が続いている。理昌院平の東端部は竪土塁が築かれていて、主郭背後の堀切から落ちる竪堀との間を区画している。理昌院平の北西下方の曲輪群の先には、石切場らしい場所があり、石積みや大穴地形がある。一方、主郭背後の大堀切の東には、はなれ山という出曲輪があり。その東も堀切で遮断している。また大堀切の南側に落ちる竪堀は二重竪堀となっている。その西側にも竪堀群が見られる。以上が上原城の砦部の構造で、高低差が大きく、曲輪の規模は小さいコンパクトな縄張りである。

 砦の南西の中腹には、前述の通り板垣平と呼ばれる館跡(根小屋地区)がある。広大な畑地となっており、その西側に家老屋敷と呼ばれる舌状曲輪が突き出ている。これらの周囲にも数段の腰曲輪が築かれている。

 戦国期に重要な軍事基地となった城であるが、砦部は意外なほどに小さくまとまっている。上野松山城でもそうであったが、大きな城というのは中継基地や前進基地としては以外に不便であったのかもしれない。
大堀切から落ちる竪堀→DSCN1221.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.009056/138.148656/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

  • 作者: 中嶋豊
  • 出版社/メーカー: 信濃毎日新聞社
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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朝倉山城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1039.JPG←堀切と東郭
 朝倉山城は、塩沢城とも言い、武田氏の家臣塩沢氏の居城である。1542年の諏訪攻略後、大門峠の戦いで軍功のあった家臣塩沢安兵衛がこの城を築いて守ったと伝えられる。安兵衛の後はその子塩沢将監が引き続いて朝倉山城を守備した。

 朝倉山城は、標高1087m、比高140m程の山上に築かれている。東と南に登山道が整備され、案内板も出ているので迷うことなく登ることができる。城内は薮払いされているので、遺構は非常に見やすい。頂部に土塁で囲んだ円形の主郭を置き、その周囲に数段の腰曲輪を廻らし、北・南・東に曲輪群を配置した縄張りとなっている。北の尾根には2本の堀切と小郭を挟んで舌状の4郭がある。その先の尾根にも竪堀・堀切・片堀切が穿たれているが、いずれも規模は小さい。また主郭の南には、堀切を挟んで細長い二ノ郭がある。二ノ郭は中央に仕切り土塁が走り、その南に片堀切が穿たれて、南の三ノ郭との間を区画している。その先は浅い堀切3本で区画された小郭群が続いている。一方、東尾根には城内で最も大きな堀切が穿たれ、その先に東郭が置かれている。ここは展望台としてベンチが置かれ、木が切り払われており、眼前には八ヶ岳連峰の雄大な景観を望むことができる。東郭の先にも腰曲輪群が何段か築かれている。以上が朝倉山城の遺構で、多重堀切で防御すているが、主郭周り以外の堀切は浅くささやかなもので、防御性は限定的である。戦国期の武田氏の城にしてはあまり防御性が高くない縄張りで、もともと諏訪氏勢力が築いた城を、若干改修してそのまま使い続けただけだったのかもしれない。

 尚、城の南西にある塩沢寺に、塩沢将監の墓が残っている。
堀切で区画された曲輪群→DSCN1011.JPG
DSCN2794.JPG←塩沢将監の墓

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.039183/138.212214/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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城ヶ峰砦(長野県箕輪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN7175.JPG←2本目の堀切
 城ヶ峰砦は、歴史不詳の城砦である。『信濃の山城と館』では、下伊那に移る前にこの地を本拠としていた知久氏か、知久氏に関係する土豪が築き、後に小式部城山を主峰とする城砦群と共に別の勢力によって改修されたのではないかと推測している。

 城ヶ峰砦は、前述の通り、小式部城山を主峰とする城砦群の一で、小式部城山の西麓の峰の一つに築かれている。標高850m、比高130m程である。山頂に土塁で囲まれた主郭を置き、西側斜面に幾重にも腰曲輪群を築いた縄張りとなっている。この腰曲輪群を登っていく登道があるらしいのだが、この山、里山を大切にしている長野県ではかつて見たこともないような酷い笹薮で全体が覆われてしまっている。登路もほとんど消失しており、道が現れては消え現れては消えの繰り返しで、主郭まで辿り着くのが大変である。主郭には城址の石碑があったらしいが、薮で見逃してしまった。主郭背後に当たる東の尾根には、3本の堀切が穿たれているが、砦と言うにはあまりにも規模が大きい堀切である。しかもかなりの斜度を持った鋭い薬研堀で、側方に長い竪堀が落ちている。2本目と3本目の間はやや距離があり、間の尾根上に小さい曲輪が築かれていた様である。大きな連発の堀切だけが異彩を放つ城であるが、踏査は容易ではない。
主郭→DSCN7156.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.942775/138.003259/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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福与城(長野県箕輪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN7005.JPG←主郭南の空堀
 福与城は、史料では箕輪城と書かれ、上伊那の豪族藤沢氏の居城である。藤沢氏は、諏訪神(みわ)氏の庶流千野氏の一族で、千野光親の子親貞(清貞)が藤沢神次を称した。その子清親は伯父光弘と共に保元・平治の乱の際、大祝の代官として出陣し戦功を上げた。鎌倉幕府ができると清親は将軍に仕えて御家人となった。弓の名手として知られ、度々軍功を上げた。1221年の承久の乱の際には、幕府軍の総大将となった北条泰時が鎌倉を出立する前日に清親の館に泊まったと言われ、藤沢氏が北条氏の厚い信頼を得ていたことが知られる。清親は高齢のため承久の乱には出陣しなかったが、一族が挙って出陣し、その軍功により箕輪郷を拝領して入部したらしい。福与城の築城時期は明確ではないが、鎌倉時代とされる。南北朝期の1355年8月、南朝の宗良親王が北朝の信濃守護小笠原貞宗と戦った桔梗ヶ原合戦では、諏訪勢と共に藤沢氏も参戦したが、南朝勢は大敗して衰退した。その後、藤沢氏は小笠原氏に帰順したらしく、1440年の結城合戦では信濃守護小笠原政康に従って参陣している。戦国前期の天文年間(1532~55年)には藤沢頼親が城主であった。1542年に諏訪郡を制圧していた武田信玄は、1544年から上伊那郡への侵攻を開始した。形勢不利のため、信玄は一旦兵を引いたが、翌45年4月、再度上伊那に侵攻して高遠頼継が拠る高遠を攻撃し、これを落とした。次いで武田勢は藤沢頼親が拠る福与城を攻撃した。頼親は、上伊那衆・下伊那衆・府中の信濃守護小笠原長時(長時は頼親の妻の兄)に支援を求め、伊那諸豪と共に籠城して頑強に抵抗した。武田勢はこれに苦戦し、部将の鎌田長門守が討死した。50日間の籠城戦の末、6月に信玄は頼親との和睦を図り、頼親は舎弟権次郎を人質に出して和議を結んだ。しかし和睦と言っても実質的に藤沢氏の降伏であり、和睦の後、城は武田勢に放火破壊された。その後頼親は二度にわたって武田氏から離反し、そのたびに武田勢の攻撃を受け、最終的に1548年9月に信玄に降伏して福与城を明け渡した。1549年には、武田氏が福与城を修築(鍬立て)したことが知られる。一方、頼親は小笠原長時を頼って流浪の身となり、後に信玄によって信濃を逐われた長時と共に京都に上り、三好長慶のもとに身を寄せた。1582年3月、織田信長が武田氏を滅ぼすと、頼親は34年ぶりに伊那に戻り本領に復帰し、田中城を築いて居城とした。藤沢氏の復帰は信長の支援によると推測されている。そのわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死すると、武田遺領の織田勢力は一挙に瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。伊那衆は当初、三河から伊那に侵攻した徳川勢に従属したが、その後北条氏の大軍が信濃に侵攻してくると、北条方に転じるものが相次ぎ、藤沢氏も北条方となった。しかしその後の情勢変化で北条方が苦境に陥ると、高遠城を奪取していた保科正直は徳川方となり、頼親にも徳川方への帰属を促したが、頼親はこれを拒否した。その結果、保科氏は軍勢を率いて田中城を攻撃し、頼親は懸命に防戦したが抗しきれず、城に火を放って自刃、藤沢氏は滅亡した。

 福与城は、天竜川東岸の比高50m程の河岸段丘先端部に築かれている。現在城跡の主要部は県史跡に指定されて整備されており、外郭は畑となっている。北に向かって突き出た断崖上の北端に三角形の北城(北郭)を置き、その南に空堀を挟んで東西に主郭・二ノ郭を配置し、更に空堀を挟んで南城(南郭)・権治曲輪などといった外郭を配している。主郭は周りの曲輪よりも高い位置にあり、北城・二ノ郭を見下ろす位置にある。二ノ郭は2段の平場に分かれ、南の一段高い平場は姫屋敷と呼ばれている。外郭は東から西に向かって段々に平場が築かれ、東の一番高い平場に権治曲輪・宗仙屋敷の名が残り、その西側に乳母屋敷・南城の名が残っている。これら外郭の南には天然の沢が入り込んでいる。この他、各曲輪には腰曲輪が1~2段付随している。福与城は、空堀はいずれも直線状で横矢掛りがなく、虎口にも目新しい構造は見られない。上伊那でも最大の勢力であった豪族の本拠であるが、全体に戦国前期頃までの古い設計の城と感じられた。
主郭から見た北城(北郭)→DSCN7024.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.895977/138.000362/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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中坪丸山城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6932.JPG←浮島のような城の遠望
 中坪丸山城は、『日本城郭大系』では丸山館城と記載され、歴史不詳の城である。野口城と近い位置にあるが、関係は不明である。
 緩傾斜地に広がる水田地帯の只中に、浮島のような細長い丘陵地があり、それが城跡である。東から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭が配置されている。主郭は民家の敷地なので、內部踏査はできず遠目に眺めるしか手はない。主郭から切岸だけで区画された二ノ郭は、空き地となっている。北側に竪堀があるが、笹薮で形状がわかりにくい。その西に三ノ郭があり、二ノ郭との間に堀切が穿たれているが、浅い堀切で笹薮に覆われているので、これも形状がわかりにくい。この様に一応城の形にはなっているが、単純な構造であり、防御性もそれほど高くない。居館機能を主とした城館であったと思われる。
堀切と三ノ郭→DSCN6945.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.864735/138.028150/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:中世平山城
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野口城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6753.JPG←7郭から見た5郭と主城部
 野口城は、地元では春日城と呼ばれ、歴史不詳の城である。城主は春日氏とも小松氏とも野口氏とも言われ、定かではない。明治時代の報告書には、1241年に野口甚吾が西山に城を築いて三ノ郭に春日社を祀って城の守り神としたことから春日城と呼ばれるようになったとある。また1545年3月に武田信玄が伊那に侵攻して福与城の藤沢頼親を攻撃した際、福与城籠城衆の中に野口という武士の名が見られると言う。この野口氏が野口城と関係があるかは定かではないが、野口城が福与城に近く、位置から考えて福与城の重要な支城であったと推測されている。

 野口城は、標高830m、比高80m程の城山に築かれている。南麓の野口八幡神社の裏から登山道が整備されており、迷うことなく登ることができる。登った後でわかったことだが、東麓からも登道が整備されている様だ。私が訪城した時は城内の主要な曲輪の山林が皆伐された後で、まるで全面発掘調査したみたいな状態で、城の全貌が手に取るようにわかるようになっていた。しかも遺構を傷めないように伐採したらしく、遺構の損壊はほとんど見られなかった。
 城は、山頂に三角形の主郭を置き、西・南・東の三方の尾根にそれぞれ2郭・4郭・3郭を配置している。主郭とこれらの曲輪の間には浅い堀切が穿たれ、それぞれ片側の側方に竪堀が落ちている。2郭の北の尾根には二重堀切が穿たれている。また主郭・2郭の西斜面には腰曲輪群が築かれている。3郭・4郭の周囲にも腰曲輪が築かれ、特に3郭の側方と先端には数段の腰曲輪が取り巻いている。4郭の南のピークには5郭が置かれ、前後に段曲輪を築いている。5郭の東には細長い6郭があり、先端を二重堀切で分断している。5郭の南東尾根にも小郭と2本の堀切がある。5郭の南には堀切の先に物見台のような7郭がある。7郭の南と西にも浅い堀切がある。以上が『信濃の山城と館』や現地解説板の縄張図に載っている遺構であるが、皆伐されたおかげで2郭から南西に伸びる尾根の先にも遺構(段曲輪と片堀切)があることを発見した。かなり離れたところに片堀切が穿たれており、「北斗の拳」風に言うと「堀切があらわに。しかもあのような位置に。」と言ったところである。
 野口城は、しっかりとした普請が施されており、重要な城であったことがうかがわれる。
3郭と主郭→DSCN6824.JPG
DSCN6873.JPG←2郭北の二重堀切
南西に離れた所にある片堀切→DSCN6841.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.870299/138.020253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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城平の城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6692.JPG←堀切と主郭切岸
 城平の城は、歴史不詳の城である。この地は小出城を本拠とした小出氏(小井弖氏)の所領であり、城平の城も小出氏に関係する城と考えられている。

 城平の城は、比高40m程の丘陵先端部に築かれている。城のすぐ脇まで林道が通っており、城から落ちる竪堀がこの林道まで伸びているので、良い目印になる。ここから斜面を登っていけば城に至る。ほぼ単郭の城で、土塁で囲まれた縦長長方形の主郭を持ち、前面と背面に堀切を穿って防御している。主郭の南側に虎口が開かれ、南斜面に2本の竪堀が穿たれている。堀切から落ちる竪堀も、南斜面の竪堀も長く伸びているのが特徴で、前述の通り南下方の林道まで伸び、一部の堀は林道を貫通して更に下の沢まで伸びている。この他、主郭背後の尾根にもう1本堀切が穿たれている。従って主郭背後の尾根には2本の堀切が穿たれているが、堀切の間の尾根は明確な削平がなくほとんど自然地形となっている。以上の通り小規模な城で、物見や烽火台的な役割を負っていたものと推測される。
長い竪堀→DSCN6726.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.828139/137.926826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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小出城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6602.JPG←二重空堀
 小出城は、この地の豪族小出氏の居城である。小出氏は、古くは小井弖氏と書き、藤原南家の流れを汲む伊豆国伊東の豪族工藤氏の庶流とされる。この地は、鎌倉初期に工藤氏の所領で、その地頭としてその一族が入部していたらしい。この一族は早くに信濃国に住み着き、1180年に源頼朝が石橋山で挙兵した際、甲斐源氏武田信義父子と共に平家方の大田切城を攻撃し、勝利の勲功により西春近を安堵されたと伝わる。鎌倉中期の工藤師能の時、郷名から小井弖氏を称した。南北朝期から室町期にかけて、中先代の乱・大徳王寺城戦・大塔合戦・結城合戦と参陣している。1453年頃、師能系の弾正忠朝能兄弟は、妹が神(みわ)氏(諏訪氏)に嫁いだ縁で諏訪に移住したと言う。尚、後に豊臣大名となった小出秀政は、小出氏の末流とされる。

 小出城は、天竜川西岸の河岸段丘の一角、戸沢川とその支流の沢筋が直交する部分の北西に築かれている。伊那地域の河岸段丘の城は、いずれも天竜川を眼下に望む段丘先端部に築かれているが、小出城はやや奥まった山間部の崖端に築かれている。工藤氏が入部した当初は、周辺豪族の勢力が強くて、隠れるように居住したものであろうか?城の構造は、南の段丘縁に主郭・二ノ郭を東西に連ねている。主郭は、外周の一部に低土塁が残存し、急崖である南以外を空堀で分断している。東の二ノ郭との間は二重空堀となっている。この二重空堀は、この手の居館形式の城では珍しい大型のもので、中間土塁も規模が大きい。二ノ郭は矢竹が密生しているのでわかりにくいが、土塁もない平場で、北側は主郭に続く空堀で分断されている。主郭の西は現在畑となっているが、西城の地名が残っている。主郭・二ノ郭の北は、東西に長い三ノ郭で、中城の地名が残り、民家・畑・杉林となっている。三ノ郭の北は、沢筋を利用した堀となっている。更にその北の畑の中にも堀端の地名が残っているらしく、往時はL字型の堀があった様だが、堀はほとんど埋められており、わずかに東端部の台地際に堀型が残っているだけである。以上が小出城の遺構で、周囲の曲輪はかなり改変が進んでいるものの、主郭周辺の遺構は見事である。
主郭→DSCN6599.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.819910/137.933114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城のつくり方図典 改訂新版

城のつくり方図典 改訂新版

  • 作者: 三浦 正幸
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2016/02/26
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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