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古城めぐり(岩手) ブログトップ
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蒲沢楯(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5129.JPG←主郭・二ノ郭間の大堀切
 蒲沢楯(蒲沢館)は、下油田城とも言い、奥州千葉氏の一流で、流郷の旗頭的存在であった下油田千葉氏の居城と伝えられる。下油田千葉氏は、旗頭であった峠城主寺崎氏(峠千葉氏)の一門で、1439年に峠千葉氏の胤永の弟定時(右馬助)が流郷磐井郡下油田の蒲沢楯に分封されたことに始まる。1579年の峠城主寺崎良次と岩ヶ崎城主富沢直綱との抗争の際、下油田の千葉良胤・道胤父子が寺崎氏に加わって活躍し、道胤は戦功により加増を受けた。その後、父と共に栗原郡石越村に西門館を築いて居城を移したと言う。しかし別説では、蒲沢楯主は二階堂氏であったとも言われ、沢辺楯主であった沢辺氏(二階堂氏)が、所領を大崎氏に奪われると岩井郡黒沢村の霞館に移り、更に1448年に蒲沢楯に所領を移されたとも言われる。いずれにしても、葛西大崎一揆で葛西氏家臣団が壊滅したため、これら家臣の事績は多くが失われており、明確にできないのが実態である。

 蒲沢楯は、油島市民センター西側の比高50m程の丘陵上に築かれている。登道がわからなかったので、南麓に数軒並んだ民家の西側にある空き地を突っ切って、南西に伸びる尾根に取り付いて訪城した。丘陵頂部に主郭・二ノ郭が東西に並立し、それらからハの字に伸びた尾根に曲輪を連ねたハの字型をした構造である。主郭とニノ郭は大堀切で分断されており、一城別郭の縄張りとなっている。二ノ郭は、西から南にかけて横堀を穿ち、前面に虎口があって横堀に土橋を架けている。二ノ郭の南西には西郭が配置され、外周は切岸と腰曲輪が築かれている。主郭は背面を円弧状の横堀で防御している。この横堀外側の土塁は、ニノ郭の北東端からそのまま土塁が伸びて繋がっている。主郭の南東には南1郭・南2郭と曲輪が2つ連なり、南1郭の前面には堀切が穿たれ土橋が架かっている。南1郭・南2郭とも主郭東側まで続く腰曲輪が築かれている。南2郭の先端には物見台らしい高台がある。以上が蒲沢楯の遺構で、蝦島楯などと比べるとかなりしっかりした防御構造が備わっており、さすがは流郷の旗頭的豪族の居城であったと感心する。ただこの城も薮が多く、踏査は大変である。
南1郭の土橋→DSCN5171.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.812585/141.172171/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


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蝦島楯(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5052.JPG←南端の堀切
 蝦島楯(蝦島館)は、西館とも言い、葛西氏の家臣蝦島氏の居城である。1590年の葛西大崎一揆では、流郷蝦島城主蝦島蔵人盛永は、栗原郡高清水の森原山に陣取った薄衣城主千葉甲斐守胤勝を大将とする葛西勢に加わったと伝えられる。

 蝦島楯は、飛ヶ沢地区の比高50m程の丘陵上に築かれている。丘陵東側を南北に貫通する市道の脇に標柱があり、そこから民家脇をすり抜けて途中まで小道が続いている。この道を登っていくと右手に腰曲輪らしい平場があり、その先は南に登る尾根を区画する横堀状の登城路となっている。この登城路から南に三ノ郭と思われる平場が伸び、南端が一段高く物見台となっており、その下に堀切が穿たれている。登城路の北には二ノ郭・主郭があるが、薮が酷くて遺構の確認が大変である。二ノ郭は主郭の南にあり、切岸だけで区画されている。二ノ郭の両側方には腰曲輪がある。主郭は丘陵中央部にある高台で、一部を除いて薮に埋もれている。主郭内の北端近くに祠があり、その周りだけ薮払いされている。主郭西側には虎口が確認できたが、薮が酷くて詳細な構造はわからなかった。主郭外周には腰曲輪が全周しているらしいが薮でよくわからなかった。また西側は腰曲輪が数段築かれているらしいが、これも激薮で踏査できていない。いずれにしても比較的小規模な館城である。
祠のある主郭→DSCN5066.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.787116/141.163030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


豊臣秀吉 (中公新書 784)

豊臣秀吉 (中公新書 784)

  • 作者: 小和田 哲男
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1985/11/21
  • メディア: 新書


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岩清水楯(岩手県矢巾町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8992.JPG←四重堀切の一部
 岩清水楯(岩清水館)は、高水寺城主斯波氏の家臣岩清水氏の居城である。建武の新政期に足利尊氏の命で奥州に下向した斯波家長は、高水寺城に入るまでの間の一時期、この地の豪族岩清水泰秀が館へ迎え入れ、岩清水御所と呼ばれたとされる。時代は下って戦国末期の1588年、楯主岩清水右京亮義教は、梁田中務らと共に南部氏に通じ、主家斯波詮直に対して叛乱を起こした。これは詮直が家臣の諌めも聞かず、日夜遊興に耽ったためと言われる。右京の兄岩清水肥後守義長は、ただちに三百余騎の兵を率いて岩清水楯を攻撃したが、敗北した。詮直自ら討伐に出陣したが、南部信直がこの虚に乗じて斯波領に侵攻したため、詮直は居城の高水寺城に引き返した。しかし結局南部勢に敗れて高水寺斯波氏は滅亡し、岩清水義長は討死した。岩清水義教はそのまま南部氏に仕えたと言う。

 岩清水楯は、標高299m、比高70m程の館山に築かれている。登道の情報がなかったので、間違いないルートということで、北尾根を貫通する車道脇から尾根に取り付いて、尾根を南に向かって訪城した。尾根を暫く進むと小堀切があり、三ノ郭が現れる。三ノ郭は尾根上の小さな曲輪で、側方に帯曲輪を伴っている。その先に中規模の堀切が連発で現れる。この主郭背後の堀切は、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では二重堀切となっているが、実際にはなんと四重堀切となっている。一番内側は、二ノ郭後部が狭まって堀切形状となっているので、これを曲輪の一部とみなして堀切の数に入れないとしても三重堀切である。この四重堀切では、東側は堀切から竪堀が落ちており、特に内堀から落ちる竪堀は大竪堀となっている。2本目の堀切から落ちる竪堀は、西側で二ノ郭下にある腰曲輪の虎口と直交しており、この虎口は側方に櫓台を置いた堀状通路となっている。四重堀切の外堀手前には大土塁がそびえて、視界を遮断している。主郭は、後部では1段だが、前方に行くに従って外周部が一段低くなり、内部が2段に分かれている。主郭の周りには二ノ郭が全周している。二ノ郭の南にも段曲輪群があり、この段曲輪群に通じる竪堀状虎口が二ノ郭に見られる。この虎口の正面には主郭の切岸がそびえており、侵入してくる敵兵を主郭から迎撃できるようになっている。また段曲輪先端に大石があるが、櫓の柱の「ほぞ穴」と推測されている一直線の穴が残っている。以上が岩清水楯の遺構で、しっかりした普請の跡がよく残っているが、全体的に薮がひどく、明確に分からなかった部分もある。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図では東斜面にも腰曲輪群があるとされるが、薮がひどくて確認できなかった。
主郭切岸と二ノ郭→DSCN8990.JPG
DSCN9067.JPG←大石に残るほぞ穴

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.582184/141.097713/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版


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座主楯(岩手県矢巾町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8827.JPG←北辺の三重横堀の一部
 座主楯(座主館)は、伝法寺楯とも言い、歴史不詳の城である。この城の南に隣接して平安時代の創建と伝えられる寺院跡があることから、平安時代まで遡る城とも、或いは安倍氏時代の城との説もある。また『日本城郭大系」では、伝法寺右衛門という武士の居城とされるが、詳細は不明である。平成2年の発掘調査の結果では15~16世紀代の遺物が出土しており、戦国時代の城砦であることは疑いがない。

 座主楯は、北谷地山から東に張り出した尾根先端部に築かれている。町の史跡に指定され、現在は舘山公園として整備されている。山頂の主郭に主郭を置き、そこから東に広がる斜面に扇形に腰曲輪群を段々に築いている。主郭内は北・南・東と3段に分かれている。主郭外周から、腰曲輪群の北辺・南辺を二重横堀でコの字状に囲んだ構造となっている。これらの内、主郭北面では更に外側に横堀が穿たれて、三重横堀となっている。この三重横堀は、主郭の北東端下方で、内堀と中堀が合流して1本となり、外堀と合わせて二重横堀となって腰曲輪群の北辺を降っている。二重横堀の下方は、中間土塁が広がって武者溜まりのような空間を形成している。外堀は、主郭北西部で背後の尾根に築かれた北郭に沿って北西に曲がり、そのまま北郭と並走して北郭背後の堀切に繋がっている。堀切との交差部では側方に竪堀が落ちている。南辺の二重横堀では、内堀は途中で腰曲輪に回り込んで曲輪と同化している。外堀は、南に屈曲して降っており、登城道になっている。この他、東斜面の腰曲輪群には、井戸跡や登城路があり、竪堀状の登城道も確認できる。ただ、公園化で改変されている部分もあると思われるので、これら全てが往時のものかどうかは明確ではない。いずれにしても座主楯は、多重横堀で防御線を構築した城であり、飯岡楯に近似した構造をしている。勢力圏・縄張面から考えて、高水寺城主斯波氏に関連した勢力の城と推測される。
主郭→DSCN8887.JPG
DSCN8941.JPG←腰曲輪群の竪堀状の登城道

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.595909/141.105931/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


城館調査の手引き

城館調査の手引き

  • 作者: 中井 均
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2016/08/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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煙山楯(岩手県矢巾町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8717.JPG←主郭にある塚
 煙山楯(煙山館)は、高水寺城主斯波氏の一族煙山氏の居城である。『煙山村郷土史』によれば、天正年間(1573~92年)の城主は煙山主殿(藤原道国)と伝えられる。

 煙山楯は、城内山から北東に伸びる尾根に築かれている。実相寺の背後に当たるが、明確な道が見つからなかったので、中腹の千手観音堂から尾根を直登して訪城した。途中で気づいたが、どうも北斜面に林業用の歩道がある様だが、登り口がどこにあるのかは確認できていない。結構斜度のきつい尾根なので登るのは疲れるが、登って数分で段曲輪群の平場に至る。その先は尾根を挟みながら段々に曲輪が築かれており、最上部に腰曲輪に囲まれた主郭がある。主郭は比較的小さな曲輪で、中央に大石を組んだ塚があり、後部に土塁が築かれている。塚は、古代の石神信仰に関わる遺跡(磐座)か狼煙台と考えられているらしい。主郭の背後には大堀切が穿たれ、そこから南に落ちる竪堀は、南東斜面の腰曲輪に繋がっている。大堀切の先は自然地形の尾根であるが、少し先に小堀切が穿たれて城域が終わっている。この他、段曲輪群は、登ってきた北東尾根だけでなく、主郭の南東と北斜面にも数段築かれている。しかしいずれも高低差がある上、明確な城道が残っておらず、主郭部とは隔絶している。以上が煙山楯の遺構で、有事の際の詰城という感じの比較的小規模な城砦である。
主郭背後の大堀切→DSCN8721.JPG
DSCN8696.JPG←北東尾根の段曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.613053/141.106575/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

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  • 出版社/メーカー: 丸善出版
  • 発売日: 2022/07/28
  • メディア: 単行本


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飯岡楯(岩手県盛岡市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8550.JPG←北東尾根の二重堀切
 飯岡楯(飯岡館)は、高水寺城主斯波氏の重臣飯岡氏の居城と伝えられる。古くは奥州藤原氏が岩手・紫波両郡境界の守備のため、飯岡氏をこの地に置いたとも言われるが詳細は不明。南北朝期に高水寺斯波氏が入部すると、重臣の飯岡氏をこの地に置いたと考えられる。戦国期になると南部氏の南進策によって斯波氏は攻勢に晒され、1572年に飯岡楯は南部氏の攻撃を受けて落城したと言われている。

 飯岡楯は、飯岡山の北東に張り出した丘陵を中心として築かれている。この丘陵は、標高約200mの峰から東に向かって2つの尾根がV字形に伸びており、この2つの尾根に曲輪群が築かれている。基本的には多段式の曲輪群で構成された城で、曲輪群は広範囲に築かれている。ただ全体的にざっくりした普請で、曲輪群の段を区切る切岸はあまり高低差がなく、斜度も緩い。最上部にある主郭も削平が甘く、ほとんど地山のままであり、規模的にも物見か砦レベルのものである。しかし主郭背後には堀切が穿たれ、背後の尾根との間を分断している。この堀切は、よく見ると二重堀切となっているが、外堀はほとんど帯曲輪のような形状である。この堀切から落ちる南北の竪堀の脇から、二重横堀が派生している。この二重横堀は、北東尾根の北斜面、南東尾根の南斜面にそれぞれ穿たれ、いずれもかなり長く山腹を巡っている。この内、北の二重横堀は途中で分岐し、内堀は北東尾根上に円弧状に回り込んで、尾根上に築かれた腰曲輪群を上下に分断している。またこの二重横堀の分岐部には竪堀状虎口が築かれており、下段の腰曲輪群と連絡する通路となっている。外堀は更に山腹をしばらく降った後、こちらも北東尾根上に円弧状に回り込んでいる。外堀は、尾根上に回り込んだ先の先端部だけ、もう1本横堀を構築して二重堀切となっている。またここには竪堀・竪堀状虎口があり、城の北東最外殻の防御線になっていたようである。一方、南の二重横堀は山腹をうねるように走り、南東尾根に穿たれた堀切・竪堀に合流している。この南東尾根の堀切の所まで、南麓から谷伝いに小道が通っており、大手道であった可能性がある。南東尾根の堀切の周囲にも平場群があり、南東先端部にある秋葉神社が建つ小丘も城域だったと考えられている。神社周囲にも同心円状に帯曲輪群が見られる。全体的な構成を見ると、北東尾根の方が防備が厳重であるが、前述の通り大手は南にあったと考えられ、秋葉神社の出曲輪はそれを防衛する砦であったようだ。以上が飯岡楯の遺構で、二重横堀を外周の防御ラインとした山城である。
南の二重横堀→DSCN8635.JPG
DSCN8666.JPG←主郭背後の二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.672272/141.097369/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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パーツから考える戦国期城郭論

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  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
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大瀬川楯(岩手県花巻市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8356.JPG←主郭後部の土塁と空堀
 大瀬川楯(大瀬川館)は、天正年間(1573~92年)に稗貫氏の家臣瀬川隠岐守の居城であったと伝えられる。瀬川氏は、畠山重忠の弟重宗の後裔、或いは重忠の嫡子重保の子重行の後裔と言われ、当初は大瀬川殿と称されたと言う。1556年には高水寺斯波氏の攻撃を受けている。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で稗貫氏が改易となった後、旧臣団が蜂起した和賀・稗貫一揆に瀬川氏も加わった。後には稗貫氏の旧領を支配した南部氏に出仕したと言う。

 大瀬川楯は、葛丸川南西の丘陵上に築かれている。東北自動車道の建設に伴って岩手県内で昭和47~53年の7年間にわたって各地の発掘調査が行われ、大瀬川楯も発掘調査が行われた。その結果、空堀で囲繞され、南北に連なる3つの曲輪で構成されていたことが確認された。しかしその後の高速道路建設、それに伴う周辺車道建設により、現在は一番北の主郭だけが残存し、二ノ郭・三ノ郭は削られて湮滅している。西の車道から薮を適当にかき分けて登っていけば、まもなく空堀が見えてくる。主郭は城内で最大の曲輪で、南北に長く、外周を空堀で囲んでいる。北辺は大きく弧を描く塁線となっており、空堀に沿って主郭後部に土塁が築かれている。空堀はよく残っているが、規模は小さい。西辺の空堀は二重横堀であったらしいが、内堀は浅い溝状であったらしく、現状では内堀は確認できない。主郭の東辺は削られてしまっている。主郭内は削平が甘く、地山の形状を残しているが、発掘調査では建物跡が多数見つかっている。また主郭内には標高176.5mの三角点がある。主郭の南には空堀を挟んで二ノ郭があったはずだが、現在は自然地形だけで明確な遺構はほとんど残っていない。二ノ郭の南にあった三ノ郭は、削られて完全湮滅の状態である。以上が大瀬川楯の遺構で、技巧性はほとんど無く、のっぺりした印象の見栄えしない城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.496631/141.105244/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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「城取り」の軍事学

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  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
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下仙人館(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8312.JPG←主郭堀切と二ノ郭
 下仙人館は、歴史不詳の城館である。戦国末期、この下仙人地区には和賀氏家臣の仙人別当浄念坊と妙楽院と言う者が居り、1600年の「岩崎一揆」の際に和賀忠親に加勢している。館跡はこの修験山伏の居住地と推測されている。また、館跡の西には国重文の多聞院伊澤家住宅があるが、この多聞院伊澤家は仙人峠にある仙人権現社の別当を勤めており、伊澤家住宅の北にある久那斗神社は仙人権現社の里宮として1534年に建てられたと伝えられる。このことから多聞院伊澤家に関わる城館との説もある。
 尚、仙人権現社は奥州藤原氏3代秀衡が祖先の霊を久那斗権現として祀ったものと伝えられ、またこの地には「秀衡街道」と呼ばれる古道が残っている。

 下仙人館は、和賀川南岸の段丘先端部に築かれている。先端に広い主郭を置き、土橋の架かった堀切を挟んで西に二ノ郭、更に堀切を挟んで外郭がある。主郭は現在公園となってる。主郭西の堀切は北側で北東に折れ、北斜面を降っている。また主郭の北東と南東には小さな尾根が突き出ており、小堀切と堡塁が築かれている。二ノ郭は狭い曲輪で、西の堀切は北側で屈曲している。二ノ郭の西半分と外郭は、訪城時には発掘調査中であった。外郭北側に横堀状地形と腰曲輪状の平場があるが、前年度(令和3年度)の発掘調査の結果によれば、1970年代の数年間に人が居住していたこともあって平場全体が現代に削られていたことがわかったとのことで、実際に遺構だったのかどうかわからないらしい。今回の令和4年度の発掘調査結果も遠からず纏められると思うので、報告書刊行後に再確認してみたい。いずれにしても、大きな城館ではないが主郭・二ノ郭はよく遺構を残している。
主郭北東の堀切と堡塁→DSCN8319.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.302831/140.947573/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


奥州藤原氏―平泉の栄華百年 (中公新書)

奥州藤原氏―平泉の栄華百年 (中公新書)

  • 作者: 高橋 崇
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2002/01/01
  • メディア: 新書


タグ:中世崖端城
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田中楯(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8225.JPG←主郭背後の堀切
 田中楯(田中館)は、歴史不詳の城である。この地は重要道路の交差点であり、田中瀬という中世和賀川の渡し場に近く、交通の要衝を押さえるために築かれた城と推測されている。

 田中楯は、鈴鴨川東岸の比高20m程の段丘突出部に築かれている。この段丘は北に向かって突き出ており、北麓に周囲の平地より一段高い平場があり、楯主の居館地と推測されており、現在は八幡宮が祀られている。八幡宮への参道は、L字型に屈曲した切通しとなっていて、虎口のような形態をしている。その南の段丘上には主郭がそびえている。主郭の前面には腰曲輪が1段築かれているが、西側では横堀に変化している。堀外の土塁上には多数の石が散乱している。主郭はほぼ方形の曲輪で、祠が祀られている。主郭後部には土塁が築かれ、背後に堀切が穿たれている。ここには斜めの土橋があるが、改変されているのか元々の遺構であるのか、よくわからない。主郭背後には南郭があり、南西部に屈曲した空堀があるようだが、薮が多くてよくわからない。以上が田中楯の遺構で、単純な構造の城砦である。
主郭前面の横堀土塁→DSCN8201.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.295193/140.978032/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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時田館(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8110.JPG←主郭西の水堀・土塁
 時田館は、歴史不詳の城館である。時田館のある尻平川流域は鎌倉時代には室対郷と呼ばれ、和賀景行が相続していた。景行は須々孫氏の祖と言われ、南北朝時代には南朝方として活動した。しかし1352年に須々孫行義は北朝勢との戦いに敗れ、所領を和賀氏本家に没収された。その後、室対郷が他氏に分与された形跡がないことから、そのまま和賀氏本家に返還されたと考えられている。その後の変遷は不明であるが、時田館は地侍の時田氏の居館であったとされる。

 時田館は、尻平川西岸の比高わずか10m程の段丘辺縁部に築かれている。沢筋を挟んで南北に曲輪があり、南に主郭があり、北には西郭・東郭が東西に並んでいる。主郭は民家の敷地となっているので、内部探索はできないが、西側に一直線状の土塁・堀(一部は水堀)が残っている。主郭北の沢は、天然の堀として機能しており、また水の手を兼ねていたのだろう。東郭は三角形の曲輪で南東に向かって突出している。西郭との間には浅い空堀が穿たれている。西郭は東郭より一段高く、方形に近い形状で、北以外の3方に土塁を築いている。以上が時田館の遺構で、それほど見応えのある遺構があるわけではないが、土塁と空堀はよく残っている。
西郭~東郭間の空堀→DSCN8177.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.329177/140.978000/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/10/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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根子館(岩手県花巻市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8063.JPG←空堀、奥は主郭
 根子館は、上館とも呼ばれ、稗貫氏の重臣根子氏の居館である。根子大和守は、太田の他、根子・湯口・笹間の一部を治めていたが、天正年間(1573~92年)の根子兵庫守の時に下館に移ったと言われている。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で稗貫氏が改易となると、根子氏も没落した。翌年、和賀氏旧臣団と協力して主家再興を企てて一揆を起こしたが、鎮圧された(和賀・稗貫一揆)。1600年、和賀氏旧臣団が岩崎城に立て籠もって挙兵した際、根子氏も岩崎城に立て籠もって戦ったが敗れ、その後の一族の行方は不明となった。

 根子館は、豊沢川南方の段丘北辺部に築かれている。段丘の一部を、基部を空堀で穿って独立させ、平坦にして主郭としている。主郭は広いが、民家裏の農地になっていて、無断で踏査することはできない。空堀の南や西も曲輪と推測されるが、南郭は民家敷地なので確認できる部分は限られる。また西郭は昌歓寺境内となっているが、L字型に空堀が残っている。主郭と昌歓寺の間の切通しの車道も、明らかに空堀跡である。南郭の東には、「宿」地名が残り、根子氏の家臣団居住地であった。確認できる遺構は限られるが、館跡の雰囲気は残っている。また各所に「太田ふるさと案内板」という伝承の解説板が立っているのもありがたい。
昌歓寺境内の空堀→DSCN8042.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.378240/141.046804/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


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十二丁目城(岩手県花巻市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8015.JPG←主郭南西部の空堀
 十二丁目城は、稗貫氏の重臣伊藤氏(十二丁目氏)の居城である。伊藤氏は、稗貫大和守義時が1555年に上洛した際、その随臣として名が見え、瀬川・根子氏らと共に稗貫氏の重臣として知られた。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で稗貫氏が改易となると、十二丁目城は南部氏の持城となり、1592年の秀吉による城郭破却令に従い、南部信直は十二丁目城を破却した。その後、1600年に和賀氏旧臣団が挙兵した岩崎一揆の際、和賀勢がこの城に立て籠もり、南部勢の北十左衛門らに攻撃されたと言う。

 十二丁目城は、北上川西岸の獅子ヶ鼻と呼ばれる台地上に築かれている。城跡は民家と山林になっているが、主郭外周の空堀の一部が残存している。主郭西側に、台地先端まで掘り切ったL字の空堀が残っている。この堀は、南辺でT字に分岐して南にも堀が伸びている。またその東では堀は埋められてしまっているが、東端部にわずかに堀跡が残存している。主郭の西と南には外郭があったと推測され、南の宅地裏に外堀らしい地形が残っているが、現在は水路が敷設されて改変されているので、実際に遺構であったのかは明確ではない。しかし昭和20年代の航空写真を見ても、堀らしい線が確認できるので、遺構であった可能性は高いと思う。残念ながら、主郭西側の空堀以外は遺構の湮滅が進んでいるが、残っている部分だけでも見応えがある。
外堀らしき水路→DSCN8000.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.363858/141.130253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


完訳フロイス日本史〈4〉秀吉の天下統一と高山右近の追放―豊臣秀吉編(1) (中公文庫)

完訳フロイス日本史〈4〉秀吉の天下統一と高山右近の追放―豊臣秀吉編(1) (中公文庫)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2000/04/01
  • メディア: 文庫


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小鳥崎館(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7890.JPG←外周の大きな空堀
 小鳥崎館は、天正年間(1573~92年)の『和賀御分限録』によれば、飛勢城主和賀氏の重臣都鳥(とどり)平馬玄蕃の居館であったと伝えられる。

 小鳥崎館は、北上川西岸の比高20m程の丘陵の北東端に築かれている。登城路がわからなかったので、私は西の墓地から薮を突っ切って訪城したが、南にある弁財天社から散策路があったことがわかったので(解説板もある)、この後に訪城する方は弁財天社を目指せばよい。尚、この弁財天社は小鳥崎館の氏神であったとされ、また古くは安倍貞任の弟黒沢尻五郎正任(黒澤尻柵城主)の子がこの地に住んで氏神として祀ったのが始まりと伝えられる。館は、空堀で区画された東西2郭から構成されている。2つの曲輪の南・西の外周は幅10m、深さ6m程の大空堀で囲繞されている。また西の空堀だけ、更に西側に空堀が穿たれ、二重堀となっている。東西2郭の内、東の方がやや高いのでこれが主郭であろう。主郭の西辺には空堀に沿って土塁が築かれている。主郭の北・東には腰曲輪が巡らされ、南空堀の東端は切通しの登城路となって東麓の民家裏に繋がっている。この他、東西2郭を分断する中央の空堀は、箱堀となっており、途中に横矢掛りの屈曲がある。また主郭北の腰曲輪と連絡しており、城内通路を兼ねていたことがわかる。見事な空堀がよく残る館跡である。
屈曲する中央の空堀→DSCN7947.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.301204/141.146851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


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上館(岩手県奥州市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7846.JPG←主郭南西部の塁線と空堀
 上館は、歴史不詳の城館である。中世には無名の在地領主が居住していたと推測されている。

 上館は、胆沢城の北方、胆沢川に臨む段丘北辺部に築かれている。奥州市埋蔵文化財調査センターのHPの解説では、4つの曲輪で構成されているとされるが、現在明確なのは3つの曲輪だけである。いずれもリンゴ園となっているので、許可なく立ち入ることはできない。幸い私は作業中だった老夫婦から立入りの許可を頂いて、遺構を探索できた。ここでは確認できた3つの曲輪を主郭・北郭・西郭と呼称する。それぞれ空堀で区画されており、特に主郭西側と南側には幅広の空堀がよく残っている。主郭は四角形の曲輪で、その北に横長三角形の北郭、西に三角形の西郭がある。北郭の東側の空堀は、主郭北東で主郭周囲の空堀から分岐しており、Y字型になっている。主郭と北郭との間の空堀は、東半分はよく残っているが、西半分は半ば埋められてしまっている。それでも北西の崖付近では堀地形が明瞭である。またここには主郭西側の空堀も落ちてきている。遺構としては以上で、技巧性はないが、中世城館の雰囲気はよく感じられる。
北郭東側の空堀→DSCN7859.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.186057/141.132324/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


蝦夷と城柵の時代 (東北の古代史)

蝦夷と城柵の時代 (東北の古代史)

  • 作者: 熊谷 公男
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/11/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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五葉館(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7819.JPG←西郭西側の屈曲している空堀
 五葉館は、歴史不詳の城館である。発掘調査の結果では五葉館は15世紀中頃から17世紀初頭の館跡と推測されている。尚、戦国時代に胆沢郡を治めた葛西氏の重臣柏山氏の居城大林城が南西2kmの位置にあり、柏山氏と何らかの関連がある可能性もあるだろう。

 五葉館は、黒沢川北岸の段丘崖に沿って築かれている。東西に3郭が空堀を挟んで並んでおり、現地解説板(崖下の黒沢川せせらぎ公園にある)の縄張図では西郭・中郭・東郭としている。西郭が主郭であったと考えられ、西は横矢掛りのクランクを持った空堀が穿たれ、東側は一直線の空堀で中郭との間を区画されている。中郭と東郭の間の空堀は、せせらぎ公園駐車場への入口道路に変貌しているが、改変があるものの往時の雰囲気は感じられる。いずれの曲輪も北辺にあったと思われる空堀は湮滅している。また東郭の東方には、L字型の堀状地形があり、2本の竪堀状の溝が堀側面に落ちている。これも遺構なのかは判然としないが、ちょっと不思議な謎の構造となっている。五葉館は、曲輪間を区画する空堀はよく残っているが、郭内は田畑に変貌しており、北側・東側の城域も判然とせず、少々残念である。
西郭・中郭間の空堀→DSCN7811.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.185608/141.099966/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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三居寺館(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7692.JPG←西館南の二重堀
 三居寺館は、歴史不詳の城館である。黒沢川南岸の比高20m程の段丘北面に築かれている。南の車道から途中の畑まで小道があるが、その先は明確な道がないので、山林を突っ切って段丘北辺部を目指して歩くしかない。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では「西郭と東郭からなる」と書かれていて、この表現だと東西に2郭が並んでいる様に解されるが、実際には間が110m程離れた完全に独立した2城から成る。ここでは西館・東館と呼ぶことにする。

西館の南東角部→DSCN7702.JPG
 西館は、段丘の北西角に位置し、南は二重堀、東は一重の空堀で区画された東西に長い曲輪で、単郭である。空堀はそれほど大きなものではなく、南の二重堀の西端近くに土橋が架かっている。南と比べると東の切岸の方が高低差が大きい。空堀と主郭以外に明確な遺構はない。

DSCN7724.JPG←東館の主郭南の空堀
 東館は、段丘の北東角に位置し、長方形のやや小ぶりな主郭の西と南に空堀を穿っている。空堀・切岸の規模は西館より大きく、主郭の空堀沿いには低土塁が築かれている。主郭の東の斜面には背後を土塁で囲んだ二ノ郭がある。二ノ郭背後の土塁は、主郭南東角から南東に向かって伸びており、土塁の裏には空堀も穿たれている。二ノ郭は、土塁の北東に広がる斜面に、曲輪群を段状に築いている。これは丸子楯の三ノ郭と類似した構造である。この曲輪群内部の北寄りには竪堀が降っている。
東館の主郭東の切岸→DSCN7764.JPG
DSCN7750.JPG←東館二ノ郭背後の土塁

 以上が三居寺館の遺構で、東館は西館の前衛として守りを固める砦、西館は背後に構えられた本城、という位置付けであったように想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【西館】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.187138/141.056814/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【東館】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.187138/141.058896/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版


タグ:中世崖端城
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新井田楯(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7669.JPG←二重堀切の内堀
 新井田楯(新井田館)は、歴史不詳の城である。城内に坂上田村麻呂が討伐した8人の蝦夷を祀った八荒神神社があることから、地元では八荒神と呼ばれていたと言う。

 新井田楯は、西根段丘が東に突き出た、比高20m程の突端に築かれている。南麓の地区センター脇から神社参道が伸びており、それを登れば城域に至る。東西2郭から成るとされるが、西郭はほとんど自然地形で遺構が明瞭ではない。東郭が主郭に当たり、南北に帯曲輪が築かれ、西の台地基部に二重堀切が穿たれている。主郭南の帯曲輪は2段あり、上段には前述の通り八荒神神社が建っている。また二重堀切の内堀は、この帯曲輪に繋がっており、城内通路を兼ねていたことがわかる。主郭東側は車道が南北に貫通し、段丘が削られているので、もっと遺構があったかもしれない。いずれにしても、小規模な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.191562/141.051493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

  • 作者: 鈴木 拓也
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2008/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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道所森楯(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7617.JPG←本丸西の横堀
 道所森楯(道所森館)は、寛文年間(1661~73年)に仙台伊達藩が、盛岡南部藩の動きに備えるために築城に着手した城と言われている。藩祖伊達政宗の10子、一関藩主伊達兵部宗勝をこの地に移封する計画であったが、宗勝は伊達騒動と言われるお家騒動の中心人物となり、審問に敗れたためその子と共に流罪となり、築造は中止されたと言う。

 道所森楯は、標高116.8m、比高20m程の独立丘陵に築かれている。明確な登道はないようなので、解説板のある北東麓から、薮をかき分けて適当に斜面を直登した。中心にほぼ方形の本丸を置き、周囲に腰曲輪・空堀をを築いただけの、比較的簡素な構造となっている。もちろん築城途中で放棄された城なので、今残る姿が完成形ではないのだろうが、独立小丘という地勢上の制約や幕府の監視の手前、それほど複雑かつ大規模な構造にはできなかったと推測される。本丸は南に傾斜した曲輪で、内部は3段程の平場に分かれている。本丸外周の腰曲輪は、北側は幅広で外周に土塁が築かれている。北東には搦手虎口と思われるL字型の堀状通路があり、側方に土塁が突出している。東・南の腰曲輪には幅広の土塁が築かれ、本丸切岸との間に堀状通路が設けられている。南に大手虎口が築かれ、大手道と大手防衛の曲輪が構築されている。また本丸の西側は薬研堀の横堀が穿たれ、外周に土塁が築かれている。以上が道所森楯の遺構で、慶長の築城ラッシュから既に約半世紀が経ち、築城技術が衰退した平和な時代の城郭遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.231613/141.073916/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


オールカラー徹底図解 日本の城

オールカラー徹底図解 日本の城

  • 作者: 香川元太郎
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/09/28
  • メディア: 単行本


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七折楯(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7502.JPG←西側の空堀・土塁
 七折楯(七折館)は、1600年の岩崎一揆の際、岩崎城攻撃のために出陣した南部利直の本陣である。1600年9月、関ヶ原合戦に連動して、領土拡大を目論む伊達政宗に扇動された和賀氏旧臣達は、最後の当主和賀義忠の弟忠親を擁して岩崎城に立て籠もって南部氏に対して挙兵した(岩崎一揆)。和賀勢は、南部氏の拠点花巻城まで攻め込んだが攻略できず、返って南部勢の反撃を受けて撤退し、岩崎城に籠城した。10月、三戸で軍備を揃えた南部利直は、岩崎城攻撃のために岩崎城西方の兵庫楯に陣を敷き、更に七折楯の普請を命じた。冬が到来したため、そのまま戦いは中断され、翌年3月、春の到来とともに南部利直は再び出陣し、七折楯に本陣を構えて攻撃を開始した。翌4月に岩崎城を攻略して一揆を鎮圧した。

 七折楯は、岩崎城から約900m南西にある、夏油川西方の台地先端部に築かれている。台地上には耕作放棄地があり、そこまで通じる小道があるので、それを登っていけば城に至る。台地の北東端部に、西と南をL字型の空堀・土塁で区画した主郭がある。空堀・土塁はいずれも大した規模ではなく、それほど強く防御性を意識して築いている感じではない。主郭の南西には虎口が築かれ、土橋が架かっている。主郭の東斜面には帯曲輪が1段築かれている。西や南に広がる周囲の平場にも、所々段差があり、耕地化によるものの可能性もあるが、遺構である可能性もあるだろう。また城のある台地の南は、細長くなってくびれているが、ここには竪堀と溝状の堀が見られ、外郭があったと考えられる。南部氏当主の本陣であるので、当然南部氏の大部隊が周囲に駐屯していたはずで、かなり広い範囲が城域になっていた可能性がある。
主郭の土橋→DSCN7474.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.275446/141.038275/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/18
  • メディア: 単行本


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岩崎城(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7245.JPG←横矢が掛かる本丸西の空堀
 岩崎城は、飛勢城主和賀氏の重要な支城で、和賀氏の家臣岩崎氏の居城である。既に南北朝期初頭には城の存在が知られている。1334年、岩崎大炊一道が津軽地方の鎮圧に煤孫和賀氏と共に参陣している。またこの地は鬼柳氏と煤孫氏との領界に近かったため、1341年には「岩崎楯」において鬼柳氏と煤孫氏との間で合戦があり、鬼柳清義が討死した。その後、時代は下って1531年、和賀氏と秋田仙北郡小田嶋党との合戦では、岩崎氏も郡境に出陣している。この間、代々岩崎氏の居城であったと推測されている。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置きにより、小田原に参陣しなかった和賀氏は改易された。間もなく和賀・稗貫一揆が勃発して抵抗したが、翌年秀吉の派遣した再仕置軍に鎮圧され、和賀氏は没落して南部領に編入された。1592年には秀吉の城郭破却令に従い、南部信直は岩崎城を破却した。1600年、関ヶ原合戦に連動して、領土拡大を目論む伊達政宗に扇動された和賀氏旧臣達は、最後の当主和賀義忠の弟忠親を擁して岩崎城に立て籠もって南部氏に対して挙兵した(岩崎一揆)。この一揆の発頭人の一人が、元岩崎城主岩崎弥右衛門義彦であった。和賀勢は、南部氏の拠点花巻城まで攻め込んだが攻略できず、返って南部勢の反撃を受けて撤退し、岩崎城に籠城した。翌年3月、南部利直は岩崎城周辺の七折楯に本陣を構えて攻撃を開始し、4月に攻略して一揆を鎮圧した。その後、南部氏は伊達氏との国境警備の為に家臣の野田氏らを置いて城を修築した。1602年に柏山伊勢守明助を入城させて藩境の警衛に当たらせた。しかし後に柏山氏が無嗣断絶となると、廃城となったらしい。

 岩崎城は、夏油川北岸の比高20~30m程の舌状台地に築かれている。この台地は、北側も和賀川の氾濫原に臨む急崖となっている。台地上の城内は、大きく3つの曲輪に分かれ、真ん中の曲輪が本丸、西の曲輪が三ノ丸、東の曲輪が「無名の曲輪」(ここでは笹曲輪と呼称する)が配置され、それぞれ空堀で分断されている。三ノ丸は広大な平場で空き地と林になっており、西側に土塁が築かれ、西辺やや南寄りに大型の内枡形虎口、南西隅には物見台が築かれている。三ノ丸の西側は車道などで改変されているが、わずかに空堀の一部が残っている。本丸は公園に変貌している。以前は天守閣風の公民館が建っていたらしいが、現在は取り壊されて跡形もない。本丸も西から北辺にかけて土塁が残っている。本丸にも枡形虎口があり、その土塁の一部が残っている。この枡形土塁の南に、土塁によって閉鎖空間となった三角形の平場があるが、これは夏油川によって南の断崖が削られたものと考えられ、往時はもっと南に平場があったのだろう。本丸西の空堀は、南側で横矢掛かりの屈曲があり、北側は北東に向かってカーブして搦手門に至っている。本丸北西下方には土塁で囲まれた2段の腰曲輪があり、この空堀に対する防衛陣地となっている。空堀の三ノ丸側にも腰曲輪があり、本丸側の腰曲輪とで空堀を両側から挟んで堀底道を防衛している。いずれの腰曲輪にも虎口があり、堀底道から曲輪内に進入できるようになっている。本丸の北側にも土塁囲みの腰曲輪が築かれ、白鳥神社が鎮座している。この腰曲輪は本丸~笹曲輪間の堀切に繋がっている他、北腰曲輪から土塁道から腰曲輪を経由して竪堀状城道で笹曲輪に通じている。笹曲輪は西に一段低い小郭があり、前述の城道はこの小郭に通じており、虎口郭として機能していたのだろう。本丸~笹曲輪間の堀切は大きく、台地上を隔絶している。笹曲輪は未整備であるが、土塁が築かれ、先端に虎口と小堀切が構築されている。主城部がある台地の北の平地は「城内」と呼ばれる地区で、二ノ丸とされる。中世城郭で言う根古屋で、二ノ丸東西を区画し防衛する土塁・空堀が一部残存している。おそらく木戸口が設置されていたと考えられ、西木戸では三ノ丸切岸付近に竪土塁・竪堀が残っている。以上が岩崎城の構造で、近世まで使われた城であるがその遺構は中世城郭そのものである。枡形虎口は、近世になってから改修されたものであろう。
三ノ丸南西の物見台→DSCN7416.JPG
DSCN7337.JPG←本丸北の土塁囲みの腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.281226/141.045710/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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宇部館(岩手県久慈市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0149.JPG←西端の二重堀切の内堀・土塁
 宇部館は、元はこの地の土豪宇部氏(海辺氏)の居城であったと伝えられる。宇部氏は一時期野田氏を称したが、永正年間(1504~21年)に宇部氏15 代清政は一戸南部系野田氏に従属し、姓を宇部に復して宇部館を明け渡した。以後、一戸南部系野田氏の支城の一つとなった。野田氏11代源左衛門義親は大永年間(1521~28年)に宇部館を居城とした。後に野田古館を築いて居館としたとされる。戦国期の野田氏は、この地域では久慈氏と並ぶ豪族であった。1591年の九戸政実の乱では、南部薩摩守政義・掃部助直親(はじめ政親)父子は三戸城主南部信直方に付いて活躍した。この14 代直親から野田氏を名乗ったと言う。翌92年、南部氏が豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして野田城は廃城となった。廃城後については、宇部館へ移ったとする説や野田新館を築いて移ったとする説があるが、明確ではない。いずれにしても南部氏が盛岡城を築いて移ると、野田氏もその城下に移り住み、盛岡藩の重臣となった。館跡の南の裾部には、後年盛岡藩の野田通代官所が置かれた。
 尚、『宇部館跡・北ノ腰遺跡発掘調査報告書』(2016年)では、1592年に廃城となった野田城は宇部館のことで、野田氏の居城は、野田古館→宇部館→野田新館と変遷したのではないかと推測している。

 宇部館は、宇部川北岸の比高30m程の丘陵先端部に築かれている。東西に長い城で、主郭の一番奥には八幡神社があり、参道が整備されている。ほぼ単郭の城館で、東の登道を登ると薮払いされた主郭が広がっている。主郭内は東に向かって下り勾配になっていて、この勾配に沿って郭内は5段ほどの平場に分かれている。主郭の先端下方には小郭があるが、藪の中に虎口が見えるので、虎口郭であったらしい。一方、主郭の後部は西側に張出し、その張出し付け根の北側には搦手の食違い虎口が築かれ、張出しから横矢が掛けられている。主郭は後部と北辺の一部にだけ土塁が築かれている。主郭の後部下方には腰曲輪が築かれ、張出しの下方は横堀となって西の尾根まで掘り切っている。この西の堀切は二重堀切となっており、近年の三陸道建設の際に一部破壊を受けている。私はてっきり二重堀切は壊滅していると思ったが、実際に行ってみると、三陸道の際に土塁と堀切がそのまま残っていた!二重堀切の内、消滅したのはわずかな部分だけで、こういう開発の仕方もあるのかと感心した。ただ、中間土塁の一部は表土が現れてしまっているので、豪雨時に崩れてしまわないか心配である。二重堀切の外堀は自然の谷をそのまま利用したものの様である。この他、館の東側の住宅地は往時の居館地と推測されており、南辺に土塁が残存している。以上が宇部館の遺構で、破壊されたと思っていた二重堀切がきれいに残っていたのは嬉しい誤算であった。
搦手虎口→DSCN0159.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.131748/141.779058/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


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野田古館(岩手県野田村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0076.JPG←急崖で囲まれた館跡の現況
 野田古館は、野田城とも呼ばれ、一戸氏の庶流野田氏の居城である。古くは十府ヶ森正吉の居城であったとも伝えられるが不明。野田氏は、一戸南部初代の南部彦太郎行朝を祖とし、南北朝初期に一戸実朝(野田氏4代)の跡を継いだ親継が野田に入部したらしい。戦国末期に野田氏を称するまでは代々南部氏を名乗った。大永年間(1521~28年)に南部源左衛門義親(野田氏11代)は宇部館を居館としたが、後に古館を築いて居館としたとされる。戦国期には、この地域では久慈氏と並ぶ豪族であった。1591年の九戸政実の乱では、南部薩摩守政義・掃部助直親(はじめ政親)父子は三戸城主南部信直方に付いて活躍した。この14 代直親から野田氏を名乗ったと言う。翌92年、南部氏が豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして野田城は廃城となった。廃城後については、宇部館へ移ったとする説や野田新館を築いて移ったとする説があるが、明確ではない。いずれにしても南部氏が盛岡城を築いて移ると、野田氏もその城下に移り住み、盛岡藩の重臣となった。
 尚、『宇部館跡・北ノ腰遺跡発掘調査報告書』(2016年)では、1592年に廃城となった野田城は宇部館のことで、野田氏の居城は、野田古館→宇部館→野田新館と変遷したのではないかと推測している。

 野田古館は、現在の野田小学校の地にあった。比高15m程の独立丘陵の西端に当たり、東側に空堀を穿って丘陵続きを分断していたらしい。現在は校地となって改変されており、明確な遺構は残っていない。校地北西に土塁らしい土盛りが見られるが、遺構かどうかは不明である。ただ周囲から見ると、急峻な斜面(切岸)でそびえ立った城館で、なかなかの要害地形であったことがうかがえる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.102720/141.817510/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南部信直 (中世武士選書 第35巻)

南部信直 (中世武士選書 第35巻)

  • 作者: 森嘉兵衛
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/11/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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姉帯城(岩手県一戸町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0031.JPG←二重堀切の外堀
 姉帯城は、奥州南部氏の庶流姉帯氏の居城である。姉帯氏は、九戸連康の子兼実が糠部郡姉帯村を領して、姉帯氏を称したことに始まる。九戸氏との繋がりが深かった為、戦国末期の三戸城主南部信直と九戸城主九戸政実との南部家家督をめぐる内訌(九戸政実の乱)では、九戸方の有力豪族として戦った。1591年、信直は九戸討伐を進めたが苦戦し、自力討伐を諦めて豊臣秀吉に「九戸政実反逆」を訴えた。秀吉はこれに応じ、甥の豊臣秀次を総大将とした奥州仕置軍を再編成して九戸氏征伐のため派遣した。蒲生氏郷を主力とする奥州仕置軍は、九戸城攻略の前哨戦として九戸方の前線基地である姉帯・根反両城を攻撃した。これに対し姉帯城では、領主姉帯大学兼興・五郎兼信兄弟・兼興の妻で薙刀の名手小滝の前・棒術の名手小屋野など一族郎党が近隣諸豪と共に立て籠もり応戦した。しかし仕置軍約3000に対し、守備兵100 程度であり、衆寡敵せず大半が討死にして落城した。九戸の乱鎮圧後は南部氏の持城となり、家臣の野田甚五郎(直親か?)に与えられたらしい。翌92年、南部氏が豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして廃城となった。

 姉帯城は、馬淵川北岸の比高70m程の丘陵先端部に築かれている。東西2郭で構成された城で、いずれの曲輪も広さがある。西郭は綺麗に削平された平坦な曲輪で、現在公園化されており、西に腰曲輪があり、東端部に神社と姉帯兼興一族の供養塔が建てられている。神社の裏には東端の土塁があり、その背後に東郭との間を分断する幅広の大堀切が穿たれている。東郭は西郭より高所にある。未整備の雑木林で面積は西郭以上に広いが、郭内が大きく傾斜しており、建物はなかった可能性がある。東郭の東端には基部を分断する大型の二重堀切が穿たれている。この二重堀切の中間土塁は高く盛られ、西の丘陵地から内堀と郭内とが見えないように構築されている。姉帯城の主郭が西郭・東郭のどちらだったかやや判断に迷うが、削平状況からすると西郭が主郭だったと思われる。実際に戦闘が行われた城であるが、縄張りとしては簡素である。
西郭→DSCN9981.JPG
DSCN9991.JPG←西郭~東郭間の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.174865/141.322246/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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五月館(岩手県一戸町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9891.JPG←主郭背後の二重堀切
 五月館は、小鳥谷(こずや)館とも言い、九戸政実の乱の際に九戸方として奥州仕置軍と戦った小鳥谷摂津守の居城である。伝承では、元は延暦~弘仁年間(782~824年)に蝦夷の酋長遠田公五月によって築かれたとされるが定かではない。1591年、九戸政実の乱が勃発すると、小鳥谷摂津守は九戸方に付いて姉帯城に立て籠もり、豊臣秀吉が派遣した奥州仕置軍と戦ったが、衆寡敵せず落城した。

 五月館は、平糠川西岸の丘陵地に築かれている。北西には旧奥州街道が通り、館の南西の古道脇には「五月舘の追分石」が残っている。館跡は、現在広い畑と笹薮となっている。北東に向かって傾斜した緩斜面上に曲輪群が展開している。主郭は傾斜した広い曲輪で、後部に方形の高台があるが、廃墟となった配水場が建っており改変を受けているので、どこまで往時の形態を留めているのかわからない。この高台の裏には二重堀切が穿たれているが、配水施設によって一部破壊を受けている。主郭内は、高台以外に段差で2段に分かれ、上段は笹薮、下段は畑となっている。主郭の前面には、切岸で区画された腰曲輪群が築かれ、北端に小郭群が見られる。遺構としてはこれだけで、簡素な構造の城館である。
広大な主郭下段の畑→DSCN9910.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.161140/141.306410/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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沼宮内城(岩手県岩手町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9809.JPG←後部が高台となった主郭
 沼宮内城は、河村氏の一族沼宮内氏の歴代の居城と伝えられる。奥州河村氏は、1189年に河村四郎秀清が奥州合戦の戦功により源頼朝から岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯の地を賜ったことに始まる。その後、秀清の子孫が河村氏の分流として北上川東岸一帯に勢力を扶植し、大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・玉山・下田・渋民・川口・沼宮内の諸氏を分出した。沼宮内氏は、鎌倉時代から沼宮内城を居城としたと考えられている。沼宮内氏の系譜がわかるのは、戦国後期の沼宮内民部常利・治部春秀父子が南部氏に服属して以後である。この時、南部信直は沼宮内村400石を安堵したと言う。沼宮内氏は、1566年の鹿角長牛城攻撃や、1572年の斯波表の戦い、1586年の大館城攻撃などに参陣した。1591年の九戸の乱の際には、豊臣秀吉が派遣した奥州仕置軍5万3千余騎がこの地に駐留し、南部信直と沼宮内城で軍議を開いた。翌92年、南部氏が豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして廃城となった。その後も1601年には、春秀は南部氏に従い和賀岩崎一揆の討伐に出陣したと言う。

 沼宮内城は、北上川とその支流大坊川の合流点の東にある、比高60m程の丘陵先端部に築かれている。主郭を中心に、三方に伸びる尾根に曲輪を配した縄張りとなっており、現在城山公園となっている。主郭は南北に長い曲輪で後部が一段高くなっており、土塁も見られる。主郭の南には、浅い堀切を介して二ノ郭があり、北西には三ノ郭が張り出している。三ノ郭の外周には低土塁が残っている。主郭の東には堀切を挟んで小さな東郭が置かれ、その先は二重堀切で尾根筋を分断している。これらの曲輪の周囲には腰曲輪が築かれている。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では二ノ郭・三ノ郭の西斜面に二重横堀・三重横堀があると記載しているが、見た限り横堀ではなく腰曲輪にしか見えなかった。腰曲輪の誤認であろうか?いずれにしても、奥州仕置軍が軍議を開くほど重要な拠点であった様だが、今残る遺構からは規模も縄張りも特筆する程のものはなく、パッとしない印象の城である。
主郭~二ノ郭間の堀切→DSCN9814.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.976273/141.229892/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北奥羽南部氏

戦国の北奥羽南部氏

  • 作者: 熊谷 隆次
  • 出版社/メーカー: デーリー東北新聞社
  • 発売日: 2021/06/16
  • メディア: 単行本


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川口城(岩手県岩手町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9765.JPG←北西の大空堀
 川口城は、河村氏の一族川口氏の歴代の居城と伝えられる。奥州河村氏は、1189年に河村四郎秀清が奥州合戦の戦功により源頼朝から岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯の地を賜ったことに始まる。その後、秀清の子孫が河村氏の分流として北上川東岸一帯に勢力を扶植し、大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・玉山・下田・渋民・川口・沼宮内の諸氏を分出した。川口氏は、玉山氏から分かれて川口の領主となった。1411年に与十郎秀利は三戸城主南部守行に服属し、領地安堵を得て、領地名の川口氏を名乗るよう命じられた。また南部信直の時代には、川口村を領した川口左近秀長は川口村400石を安堵され、その子正家は南部利直に従って大坂の陣に家臣8名を率いて参陣した。1615年、元和の一国一城令によって川口城は破却され、川口氏は盛岡城下に移住した。1657年に正家の子正康が亡くなると、継嗣利景はまだ2歳だったため、奉公できないからと取り潰された。しかし正家の娘孝は初代八戸藩主南部直房の夫人(霊松院)であり、利景は霊松院に引き取られた。後に八戸藩士となり家老まで務め、以後川口家は八戸藩士として幕末まで命脈を保った。

 川口城は、北上川と古館川の合流点に突き出た段丘上に築かれている。城跡には現在線路や町道(旧国道4号線)が貫通する他、城域西半には工場が建っており、遺構はかなり破壊されてしまっている。従って現況からでは往時の縄張りを想像するのは難しいが、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』によれば、東西2郭から成り、西郭を大館、東郭を小館と呼ぶらしい(現地解説板では誤って逆の呼称となっている)。西郭はほとんど破壊しつくされており、東郭も塁線が残っていないのでどの範囲が曲輪だったのかよくわからない。しかし西郭と東郭を分断する最大深さ10mもの大空堀が台地上に残っている。また大空堀の東に東郭南端の櫓台が残っている。櫓台の東にも空堀の一部が残っているが、少ししか残っていないので、往時の構造はよくわからない。全く期待していなかったが、規模の大きな空堀が残っているのには驚いた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.926926/141.201632/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


八戸藩 (シリーズ藩物語)

八戸藩 (シリーズ藩物語)

  • 作者: 伸, 本田
  • 出版社/メーカー: 現代書館
  • 発売日: 2018/02/21
  • メディア: 単行本


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一方井城(岩手県岩手町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9653.JPG←主郭後部の大土塁
 一方井城は、輪台城とも言い、南部氏の家臣一方井氏の居城である。一方井氏は、前九年合戦で滅ぼされた安倍貞任庶流の後裔を称する秋田安東氏の一族がこの地に入部し、一方井氏を称したとされる。三戸城主南部氏が岩手・紫波方面に勢力を伸ばした際、南進策の足がかりとして手を結んだ北岩手郡の諸氏の中でも最有力の豪族で、南部氏に従った際には700石を賜った。前進拠点として重要な役割を果たしていたが、南部氏が1592年に豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして廃城となった。後に盛岡城が築城されると、一方井氏は盛岡に移住した。尚、一方井城主一方井安正の娘は、南部氏23代安信の弟石川高信の側室となり、庶長子信直を一方井城で生んだ。信直は後に田子信直となり、1582年に南部氏25代晴継が若くして死ぬと、南部氏一門の北信愛(のぶちか)の推挙を受けて信直が26代当主となった。従って一方井城は、南部氏中興の祖信直の出生の地でもある。

 一方井城は、高山から南西に伸びる丘陵先端部に築かれている。城は公園化されており、南西麓から散策路が整備されているので、簡単に登ることができる。南北に3つの曲輪を並べた連郭式の縄張りとなっているが、曲輪の順番は普通の城と逆で、南端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭と配置されている。主郭は後部にL字型の大土塁を築いており、土塁上に八幡宮が建っている。大土塁の裏には規模の大きな堀切が穿たれて、二ノ郭との間を分断している。この堀切は、西側でL字に曲がり、主郭西側に回り込んで横堀となっている。また堀切東側は、主郭東側の腰曲輪に通じる虎口が築かれ、更にその下方にも虎口が築かれている。二ノ郭と三ノ郭との間の堀切は浅く、切岸の鋭さもない。三ノ郭背後の堀切は、季節柄薮でわかりにくかったが、ほとんど自然の谷をそのまま利用したようである。この他、主郭の北西角には土塁を伴った腰曲輪があり、また南西斜面にも腰曲輪群が築かれている。城の東斜面にも腰曲輪らしい平場が何段も見られるが、耕地化による改変の可能性もあり、遺構かどうかはっきりしない。以上が一方井城の遺構で、比較的単純な構造の城であるが、主郭の土塁と堀切は規模が大きく、見応えがある。
主郭背後の堀切→DSCN9681.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.969712/141.164746/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南部信直 (中世武士選書 第35巻)

南部信直 (中世武士選書 第35巻)

  • 作者: 森嘉兵衛
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/11/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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寺田城(岩手県八幡平市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9588.JPG←西の二重横堀
 寺田城は、南部氏の一門北氏の居城である。元々は天文年間(1532~55年)に三戸城主南部氏23代安信の弟糠部(石川)高信による築城と言われ、秋田の鹿角郡を保持する重要拠点であったとされる。また高信は、一方井城主一方井安正の娘を側室として庶長子信直をもうけた。信直は後に田子信直となり、1582年に南部氏25代晴継が若くして死ぬと、南部氏一門の北信愛(のぶちか)の推挙を受けて信直が26代当主となった。同年、信愛は寺田城450石他、計1100石を賜り、信愛の長男愛一(ちかかず)が父から独立した形で寺田城主となった。1634年に愛一が没すると、直愛・愛時と続いたが、4代岩松は幼童で1655年に早世し、北氏嫡流は断絶した。

 寺田城は、涼川西岸の比高30m程の丘陵上に築かれており、公園として整備されている。比較的大型の館城で、北と西を空堀で分断しており、空堀で区画された丘陵内部を3段の曲輪に整形している。最上段の本丸は南西端にあり、その北に二ノ丸、本丸・二ノ丸の東に広大な三ノ丸を配置している。三ノ丸は広いが、内部が本丸に向かって登り勾配となって傾斜している。西の空堀は二重横堀となっており、南の丘陵端部まで掘り切っている。縄張りに技巧性はないが、西方への防衛と統治拠点として重視されたことがうかがえる。尚、城の北の丘陵上に、最後の城主北岩松と殉死した家臣佐々木六助の墓が立っている。
本丸→DSCN9593.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.981551/141.105609/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/18
  • メディア: 単行本


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野駄館(岩手県八幡平市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9539.JPG←北西斜面の帯曲輪群
 野駄館は、南部氏の庶流中野氏が藩政時代に領内統治のために築いた館と推測されている。中野氏は、九戸城主九戸政実の弟弥五郎康実を祖とする一族で、康実は当初、高水寺城主斯波詮元の女婿で高田吉兵衛と称した。1587年、詮元と不和になった吉兵衛は、身の危険を察して高水寺城から脱出し、三戸城主南部信直の元に逃れた。信直は吉兵衛に中野館を与え、吉兵衛は中野修理と名を改めて信直に仕えた。1588年8月、高水寺斯波氏は南部氏に高水寺城を攻め落とされて没落した。高水寺城を占領した信直は、城名を郡山城と改称して城代を配した。中野氏は、慶長年間(1596~1615年)に片寄城を居城としたが、1615年から郡山城代となった。1629年、郡山城が南部氏の直轄地となると、中野氏は換地替えを命ぜられた。その換地の中に岩手郡寄木村・北森村があり、領内統治のために野駄館を築き、代理の家臣を居住させたと考えられている。

 野駄館は、比高30m程の丘陵上にあり、現在野駄舘公園として整備されている。主郭は平場だけで土塁は見られない。主郭周囲には帯曲輪が廻らされており、北東部は帯曲輪に土塁が作られて横堀状となっている。また北西斜面には数段の帯曲輪軍が築かれている。遺構としてはこの程度の簡素なものだが、江戸時代に新造された平山城形式の居館であり、貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.944481/141.070418/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


盛岡藩 (シリーズ藩物語)

盛岡藩 (シリーズ藩物語)

  • 作者: 佐藤 竜一
  • 出版社/メーカー: 現代書館
  • 発売日: 2006/11/01
  • メディア: 単行本


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平館城(岩手県八幡平市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9484.JPG←主郭、奥は櫓台らしい土壇
 平館城は、一戸氏の庶流平館氏の居城である。平館氏の天正年間(1573~92年)以前の事績は不明だが、後に一戸城主一戸政連の弟信濃守政包が平館氏を継ぎ、1000石を領して平館城を居城としたと伝えられる。1981年7月、政包は南部宗家に叛意を持った九戸城主九戸政実に唆され、一戸城において一戸兵部大輔政連・出羽父子を刺殺した。しかし九戸政実の乱が鎮圧されると、平館氏は南部信直によって知行取上げとなり、その後、津軽石行重の子が平館彦六と称して平館氏を再興した。

 平館城は、比高40m程の大泉院の裏山に築かれている。主城部は舘山から伸びる北尾根の先端部に築かれているが、もう一つ東の支尾根にも出丸が築かれている。登道はいくつかあるらしいが、東出丸の東麓の登口がわかりやすい。ここには「平舘信濃守政包城跡」と刻まれた石碑が立っている。ここを登っていくと、何段かの平場に分かれた公園があり、ここが東出丸である。しかし公園化による改変多く、遺構は不明瞭なものが多い。唯一、西の基部に穿たれた堀切だけがはっきりしており、一点豪華主義の砦である。ここから西に少し進むと標高300mの峰があり、この峰も砦であったらしく、頂部の平場の周りに腰曲輪が見られる。この峰から北に進んだ先に主城部がある。基部の尾根に小規模な二重堀切を穿っており、その先に腰曲輪に囲まれた主郭がある。主郭は南北に長く、後部に櫓台らしい土壇を築いている。腰曲輪は南東部と南西部には突出しているが、その他は帯曲輪状に廻らされている。また主郭の北東に伸びる尾根にも小郭や腰曲輪が確認できる。東斜面の下方は大泉院の墓域があるが、一部の平場は腰曲輪の遺構であった可能性がある。この他、舘山山頂部にも物見砦の遺構があるようだが、時間の関係で踏査しなかった。平館城は小規模な遺構であり、あくまで有事の際の詰城で、平時の城は麓にあったものと推測される。
東出丸の堀切→DSCN9428.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.946258/141.090159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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