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古城めぐり(岩手) ブログトップ
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田頭城(岩手県八幡平市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9325.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 田頭(でんどう)城は、南部氏の家臣田頭氏の居城である。田頭氏は工藤氏の末流で、葛巻河内信祐の2男直祐が、この地に分封されて田頭右衛門佐直祐を称した。天正年間(1573~92年)1千石を領していたと言う。直祐の田頭氏は第二次田頭氏で、それ以前に第一次田頭氏が居たらしいが詳細は不明という。1591年、九戸城主九戸政実が三戸城主南部信直に反逆して挙兵した際(九戸政実の乱)、平館城主平館(一戸)信濃守政包は九戸氏に加担して信直方の周辺各氏の城を攻め落とし、田頭城へ押し寄せた。田頭勢は激しく抵抗したが、平舘勢の再三に渡る夜討を受け、ついに落城した。直祐は搦手から脱出して大更の夏間木まで逃げたが、執拗な追撃を受けて自刃したと言う。

 田頭城は、標高335m、比高60m程の館山という独立丘陵に築かれている。城内は館山公園として整備されており、簡単に登ることができる。山頂に、堀切で区画された主郭・二ノ郭を南北に並べ、北から南東にかけて1~2段の腰曲輪を廻らし、更に南東斜面に数段の腰曲輪を連ねた縄張りとなっている。主郭の西辺部は岩山の高台となっており、物見台として機能したと思われる。二ノ郭も西辺に土塁・物見台が築かれている。また二ノ郭の西には張出した尾根があり、薮の中にクランクした堀切が確認できる。二ノ郭の北には2段の緩斜面が広がっており、ここも曲輪だったと考えてよいと思う。この他、周囲の腰曲輪はいずれも切岸が大きく、それなりの防御力を備えている。田頭城は、東方以外の眺望がひらけた交通の要衝であり、重要な城であったことがうかがわれる。
二ノ郭西尾根の堀切→DSCN9348.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.916739/141.084044/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/18
  • メディア: 単行本


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石坂柵(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9219.JPG←交差点脇の標柱
 石坂柵は、俘囚の長安倍氏が築いた城柵で、安倍氏12柵の一つである。1057年11月に黄海の戦いで大敗した源頼義が自軍の勢力回復に努める間、安倍貞任は強勢を誇っていた。安倍氏打倒に燃える頼義は、出羽の豪族清原氏に援軍を請うこと再三に及び、1062年、族長清原光頼は遂にこれを容れて弟武則を総大将とする大軍を派遣した。源頼義・清原武則連合軍は最初に小松柵を攻撃した。大兵を擁する源氏・清原氏連合軍は優勢で、安倍軍は大敗を喫し、小松柵を放棄して石坂柵に逃げ延びた。しかし清原勢の激しい追撃により、遂に石坂柵も放棄して衣河柵へと敗走したと言う。

 石坂柵は、擬定地の標柱が赤荻地区西部の交差点脇に立っている。擬定地なので、当然ながら遺構はない。一方、岩手県の文化財地図では、標柱の位置から北方750m程の丘陵上の一角を石坂柵としている。しかし国土地理院地形図の傾斜量図で見る限り、丘陵上にも明確な遺構はなさそうである。ここでは標柱の位置を記載しておくに留める。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.941128/141.082585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の争乱と奥州合戦―「日本国」の成立 (戦争の日本史)

東北の争乱と奥州合戦―「日本国」の成立 (戦争の日本史)

  • 作者: 関 幸彦
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2006/10/16
  • メディア: 単行本


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小松柵(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9217.JPG←川に囲まれた擬定地の地勢
 小松柵は、俘囚の長安倍氏が築いた城柵で、安倍氏12柵の一つである。1057年11月に黄海の戦いで大敗した源頼義が自軍の勢力回復に努める間、安倍貞任は強勢を誇っていた。安倍氏打倒に燃える頼義は、出羽の豪族清原氏に援軍を請うこと再三に及び、1062年、族長清原光頼は遂にこれを容れて弟武則を総大将とする大軍を派遣した。源頼義・清原武則連合軍が最初に攻撃したのが小松柵で、柵を守る安倍宗任とその叔父良照の軍と戦闘になった。大兵を擁する源氏・清原氏連合軍は優勢で、激戦の末に小松柵は炎上し、宗任は敗走したと言う。

 小松柵は、磐井川と久保川に囲まれた谷起島と呼ばれる半島状台地に築かれていたらしい。この台地の東端部に「小松柵擬定地」の標柱が立っている。遺構はないが、柵を築く適地であったことは、現在の地勢からもうかがえる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.923718/141.098549/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像 (中公新書)

蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像 (中公新書)

  • 作者: 高橋 崇
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1991/09/01
  • メディア: 新書


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覚鱉城・河崎柵(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9202.JPG←城・柵跡の石碑や看板
 覚鱉(かくべつ)城は、大和政権が蝦夷侵略のため胆沢侵攻の前進基地として築いた城である。『続日本紀』によれば780年のこととされ、覚鱉城造営中に「伊治公呰麻呂の乱」で築城は中断され、そのまま歴史から姿を消した。

 河崎柵は、前九年の役の際に俘囚の長安倍貞任が黄海の戦いの際に拠点とした城柵で、安倍氏12柵の一つである。衣川柵に進撃した源頼義率いる国府軍に対して、安倍貞任は部下の金為行が守る河崎柵に精兵4千人を集め、これを率いて国府軍を撃ち破った。大敗した頼義は、息子の義家を含む供回り6騎で命からがら落ち延びたと伝えられる。

 覚鱉城・河崎の柵は、同じ地にあった時代の異なる二重遺跡とされる。県道168号線沿いに石碑と解説板などが建っている。河崎の柵は擬定地であるが、発掘調査の結果では柵跡である可能性が高いとされる。現在遺構は何も残っておらず、石碑や解説板が歴史を伝えているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.904702/141.252851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


前九年・後三年合戦と兵の時代 (東北の古代史)

前九年・後三年合戦と兵の時代 (東北の古代史)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/29
  • メディア: 単行本


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楊生新城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9189.JPG←腰曲輪と主郭切岸
 楊生新城は、戦国時代に千葉山城守持家の居城であったと伝えられている。持家の系譜は明確ではないが、『楊生新城館跡発掘調査報告書』では各種の所伝から、鎌倉後期の正応年間(1288~93年)に葛西氏の家臣千葉山城守持高が楊生古城の城主となり、永正年間(1504~21年)には桃生郡より寺崎刑部大輔常清が峠城に移封となった際に常清の舎弟明清が楊生古城の城主となって寺崎系千葉氏となり、明清は千葉持高後裔の持家を楊生新城に置いたのではないかと推測している。そして持家が城主の時、1590年の奥州仕置で楊生新城は落城したと伝えられる。また寺崎系千葉氏は同年に生起した葛西大崎一揆に加担し、2代五郎左衛門清泰らが桃生郡深谷にて伊達勢の謀略で誅殺されたと言う。

 楊生新城は、北上川曲流部にほど近い比高50m程の山上に築かれている。主郭には現在熊野神社が建っているので、南麓から参道が整備されており、簡単に登ることができる。山頂に主郭を置き、その周囲に腰曲輪を廻らしただけの簡素な構造である。西麓に堀切があるようだが、薮がひどく確認できていない。また東麓から東中腹まで車道が延びているので、東側は一部改変を受けている。いずれにしても小規模な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.897521/141.252787/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


岩手県の歴史 (県史)

岩手県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 単行本


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紫館(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9071.JPG←腰曲輪から見た二ノ郭
 紫館は、涌津城とも言い、涌津岩渕氏の歴代の居城である。涌津岩渕氏は、東山の藤沢城主藤沢岩渕氏の支流で、岩渕清経の子正経が徳治年間(1306~08年)にこの地に城館を築いたと伝えられる(別説では1342年築城とも)。1485年に南部政盛が気仙郡有住に侵入した際、葛西勢の軍監として涌津城主岩渕経定が出動している。豊臣秀吉の奥州仕置による葛西氏没落後は木村吉清の支配期を経て伊達領となり、伊達氏家臣瀬上宗時・宗敦の居城となったと言う。

 紫館は、南北2つの城域からなり、北の本城域は紫館公園として整備され、南の出丸は八幡神社の境内となっている。主郭は舘明神神社が立っており、周囲に土塁が見られるが小さな平場で、主郭というより櫓台という趣である。主郭の北東には広い平場の二ノ郭が広がっており、前述の通り公園となっている。周囲は切岸で囲まれ、北端には物見台の様な土塁囲郭がある。二ノ郭周囲の斜面には腰曲輪群が築かれている。一方、南の出丸は、八幡神社がある頂部の平場の他に、周りの斜面の下に北から東にかけて、しっかりした横堀が穿たれている。この他、主城部の東麓には水堀跡が貯水池となって残っている。
出丸の横堀→DSCN9143.JPG
DSCN9150.JPG←東麓の水堀跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.819272/141.189702/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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朝日館(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8990.JPG←要害部の舌状斜面南端の物見台
 朝日館は、金沢城とも言い、葛西氏の家臣で奥州千葉氏の一族金沢千葉氏の居城である。伝承では、奥州藤原氏3代秀衡の郎従九郎なる者がこの館に居住し、金沢伊豆と称したと言われる。1340年、薄衣城主千葉清澄の3男清胤は葛西高清の命でこの地に入部し、金沢千葉氏となった。1507年、朝日館主千葉伊豆守冬胤は峠城主寺崎時胤と戦ってこれを降し、1510年には本家の薄衣氏を敗退させるほどの勢力を有した。葛西氏にとって金沢の地は有壁方面からの大崎氏の侵攻に対する交通上の要地で、この地を支配した金沢氏は流郷の盟主であった。1590年、金沢千葉氏10代伊豆守信胤は葛西大崎一揆に加わり、桃生郡深谷の陣で伊達勢に敗れ、糠塚で伊達勢の謀略により討死した(須江山の惨劇)。

 朝日館は、標高約75m、比高50m程の緩やかな丘陵地に築かれている。城域は大きく2つに分かれ、愛宕神社が建つ愛宕山山頂部の遺構群と東北東に伸びる尾根の先端部に築かれた遺構群に分かれる。山頂部のものが要害部(詰城)で、東北東のものが居館部と考えられている。
 要害部は現在あたご山公園となっており、主郭のすぐ下まで車で行くことができる。要害部の主郭は東西に長い長円形の曲輪で、南に舌状の緩斜面が続いている。この緩斜面の先には物見台が築かれ、下方に堀切が穿たれている。この主郭と舌状斜面は切岸で囲まれ、外周に腰曲輪を廻らしている。北には広大な広場があるが、公園化で整備されたものだろう。
 居館部は、尾根の基部に堀切を穿って分断し、L字型の土塁を後部に築いた主郭が広がっている。この平場には小さな廃屋があり、以前は畑であったらしいが現在は竹薮となっている。この主郭の東に高台となった二ノ郭があり、その南と東に腰曲輪が築かれている。主郭・二ノ郭の接続部には虎口らしい構造があって、北斜面に通じている。北斜面はほとんど自然地形の傾斜地となっている。
 以上が朝日館の遺構で、遺構はよく残っているが、居館部は薮が多く少々探索しづらい。それほど要害性の高い地形とも思われず、やや中途半端な印象の城館である。
居館部基部の堀切→DSCN9010.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.853971/141.178372/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


千葉氏の研究 (関東武士研究叢書)

千葉氏の研究 (関東武士研究叢書)

  • 作者: 野口実
  • 出版社/メーカー: 名著出版
  • 発売日: 2000/05/01
  • メディア: 単行本


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二桜城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8923.JPG←二ノ郭と花立泉
 二桜(にろう)城(二桜館)は、清水城とも言い、葛西氏の一族清水氏の居城である。伝承では、古くは坂上田村麻呂や文室綿麻呂の陣所で、1058年には熊谷次郎直秀の居城となり、更に文治年間(1185~90年)頃には奥州藤原氏の家臣照井高春の居城となったと伝えられるが、確証はない。特に田村麻呂伝説は奥州各地にある他、熊谷氏の奥州入部は1189年の源頼朝による奥州合戦後であるので、これらの伝承は信ずるに足らない。歴史がはっきりしてくるのは鎌倉後期からで、1309年に葛西式部大輔清秀が二桜城を居城として清水氏を称した。以後、清水氏の歴代の居城となった。1590年に主家葛西氏が豊臣秀吉の奥州仕置で改易となり、同年葛西大崎一揆が生起すると、二桜城主清水刑部少輔信晴もこれに参加し、桃生郡糠塚で伊達政宗の謀略にはまり自刃した。1593年には伊達一門の重鎮留守政景(政宗の叔父)が黄海城より移って二桜城主となったが、政景は1604年に一関城に移封された。その後留守氏は政景の子宗利の代に金ケ崎城水沢城と移封され、水沢伊達氏となった。二桜城の廃城時期は不明。

 二桜城は、比高30m程の丘陵先端部に築かれている。城は現在清水公園として整備されている。中程がえぐれたオバQ型の主郭と周囲に築かれた腰曲輪状の二ノ郭・三ノ郭で構成された、小規模な城である。主郭には八幡神社が建ち、主郭背後には土塁と基部を分断する堀切が穿たれている。主郭切岸下の二ノ郭北東部には、坂上田村麻呂に由来するという井戸が残り、花立泉と呼ばれ、花泉の町名の由来となっている。また主郭の南側にも大土塁が築かれている。三ノ郭の東辺には短い横堀と土塁が残っている。尚、ここは公園なのに専用の駐車場がなく、中腹にある特養老人ホームの駐車場に駐めさせていただいた。
主郭背後の堀切→DSCN8937.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.848607/141.158760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


岩手県の歴史散歩

岩手県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/12/01
  • メディア: 単行本


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本宿楯(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9906.JPG←主郭内部の段差
 本宿楯(本宿館)は、横田城とも言い、昆野右馬之允(または日野右馬允)が城主であったと言われる。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では、葛西氏の家臣・気仙金野氏の一系統に属する武士であったと推測している。また金野氏の祖とされる金氏は、鎌倉期には横田本宿楯を本拠としていたと言われる。一方、葛西大崎一揆に関する伝承では、桃生郡中津山香取(神取山城)に立て籠もった1700余騎の中に気仙郡横田城主横田佐渡守常冬の名が見える。葛西氏の歴史については不明点や史料上の食い違いや混乱が多いので、どの伝承が正しいのか不明である。

 本宿楯は、気仙川東岸の標高70m、比高60m程の丘陵上に築かれている。東西2つの曲輪群があり、西の二ノ郭には熊野神社があるので、参道が整備されている。頂部に三角形の主郭を置き、東に帯曲輪を廻らし、更にその外周に腰曲輪群を築いた縄張りとなっている。主郭の内部は2段の平場に分かれている。また南西の腰曲輪には内枡形虎口があり、横に竪土塁が築かれて土塁が2つ並列した虎口となっている。これら主郭群の西に細長く突き出すように二ノ郭があり、二ノ郭の西側下方に更に平場が広がっている。ここは一部が畑地となっているが、脇に土塁や空堀のような地形が見られる。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図によれば、二ノ郭群と主郭群との間には堀切があるとされるが、現状では確認できない。以前は山全体が耕地化されていたらしく、改変されている可能性があるが、概ねの遺構は残っていると思われる。縄張りにはあまり技巧性はなく、比較的古い形態のまま戦国末期まで使われた城だったようである。尚、この城も2月の北東北なにのマダニが出るので、要注意である。
神社が建つ二ノ郭→DSCN9891.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.056409/141.596432/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)

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  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2017/12/29
  • メディア: 単行本


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浜田城(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9854.JPG←主郭とされる松峰神社背後の高台
 浜田城は、大和田掃部の居城と伝えられる。大和田掃部は、高田城米ヶ崎城を居城とした浜田安房守広綱の重臣で、米ヶ崎城二ノ郭に主君浜田広綱とともに墓が建てられている。また大和田氏は広田高館の城主であったとも伝えられ、2つの城主を兼帯したものか、或いは広綱が居城を高田城から米ヶ崎城に移した際に、配置換えが行われたものだろう。浜田氏が主家葛西氏に対して反乱を起こし、鎮圧されて没落した後、1590年秋には大和田氏は葛西晴信の元に勤番していたらしい。しかし豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易となり、その後葛西大崎一揆が起きると、佐沼城に立て籠もって討死したと言う。

 浜田城は、米ヶ崎城の北北西950mの丘陵上に築かれている。なだらかな丘陵地で、ほとんどの部分が宅地や畑に変貌しており、そのため遺構は余り明瞭ではない。松峰神社の背後の高台が主郭とされるが、ほとんど自然地形である。主郭の尾根続きの東や北東にも丘陵上に平場はあるようだが、民家があるので踏査できず詳細は不明である。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図では、これらの平場間に堀切があるとされるが、遠目にははっきりした堀跡は確認できない。唯一、主郭の南の車道が堀跡らしい形状を留めているだけである。この堀の南の丘陵地も城の一郭であったようだが、平場の段はあるものの、ここも宅地化で大きく改変されているのではっきりしない。結局、ほとんど明確な城の痕跡を見出すことはできず、かなり残念な状況である。尚、いわてデジタルマップの文化財地図では浜田城のある丘陵は城跡と認知されていない。本当に城跡だったのだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.009205/141.655161/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

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  • 作者: 公益財団法人日本城郭協会
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/12/17
  • メディア: ムック


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高田西館(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9849.JPG←館跡の現況
 高田西館は、いわてデジタルマップの文化財地図では単に西館と記載され、歴史不詳の城館である。すぐ東の丘陵上には高田城があり、高田城は東館城とも呼ばれることから、西館に対する東館であり、西館は高田城と密接な関係があったことがうかがわれる。おそらく高田城の城主の平時の居館が置かれたか、城主の身内の館が置かれたのではないだろうか。

 高田西館は、高田第一中学校のある丘陵のすぐ南の平地にあったらしい。遺構は何もなく、現在は東日本大震災の傷跡を残した空き地が広がっているだけである。昭和20年代前半の航空写真を見ても、住宅地で囲まれた水田が広がっているだけなので、早くに遺構が失われたのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.018875/141.625979/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


岩手県の歴史散歩

岩手県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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高田城(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9748.JPG←主郭背後の土塁
 高田城は、八幡館・東館城とも言い、奥州千葉氏の一流千葉矢作氏の一族浜田(千葉)氏の歴代の居城である。浜田氏は、矢作内館主千葉重慶の子胤慶を初代とする一族で、葛西氏の家臣で気仙郡の旗頭でもあり、後に葛西氏の一族西館氏から継嗣を迎えたことから葛西氏の親族衆となり、気仙郡での権勢を増大させた。浜田氏でよく知られるのは、主家葛西氏に反逆して浜田の乱(浜田兵乱)と呼ばれる戦乱を起こした安房守広綱である。その経緯は、米ヶ崎城の項に記載する。広綱は米ヶ崎城に居城を移し、高田城には家臣の高田壱岐を置いた。しかし結局広綱の反乱は鎮圧され、没落した。広綱の没後には村上丹後守則道が城主となったと言う。また葛西大崎一揆に関する伝承では、佐沼城に籠城した葛西旧臣団の中に、高田城主高田壱岐守胤冬の名が見える。

 高田城は、陸前高田の市街地中心部のすぐ北にある標高40~50mの丘陵上に築かれている。南から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭と、堀切で分断された3つの曲輪を南北に連ね、その東西に腰曲輪を配置した縄張りとなっている。主郭は本丸公園となっているが、後部が一段高くなり、背後から東西両辺にかけて土塁が築かれている。南には段曲輪が置かれている。本丸公園は、2011年の東日本大震災の時には大勢の市民が避難して、大津波から逃れることができた場所である。主郭の東の腰曲輪には天照御祖神社が建っている。また西側には広い腰曲輪群が置かれており、山林となっている。主郭の北には堀切が穿たれ、この西の腰曲輪群の北側に大竪堀となって落ちている。この竪堀は登城道でもあったらしく、北側に竪土塁が築かれ、この竪土塁は中間でL字に曲がって物見台を構築している。その下に二ノ郭西側の腰曲輪群に入る虎口が築かれ、その西に更に竪土塁が伸びている。二ノ郭には八幡神社が建っており、ここも後部が一段高くなり、西側に土塁が築かれている。二ノ郭の西側にも腰曲輪群が広がるが、一面の笹薮である。二ノ郭北に堀切が穿たれ、その北に三ノ郭がある。三ノ郭は、内部が2段に分かれ、西に段曲輪群が置かれている。三ノ郭の北には北郭があったが、震災後の高台移転で住宅地が建設され、大きく削られている。それでも南側には腰曲輪が見られる。以上が高田城の遺構で、市街地間近の城でありながら遺構がよく残っている。
 尚、城の麓の平地には、まだまだ空き地が多く、津波で壊滅した傷跡を残している。かつての賑わいを取り戻す日が来ることを願ってやまない。
主郭西側の腰曲輪群→DSCN9740.JPG
DSCN9723.JPG←堀切から落ちる大竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.018992/141.629004/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/03/01
  • メディア: 単行本


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米ヶ崎城(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9636.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 米ヶ崎城は、葛西氏の家臣で気仙郡の旗頭であった千葉(浜田)安房守広綱の居城である。広綱は、主家葛西氏に反逆して浜田の乱(浜田兵乱)と呼ばれる戦乱を起こしたことで知られる。米ヶ崎城は、この戦乱の中で築かれたとも言われる。浜田氏は、奥州千葉氏の一流千葉矢作氏の一族であったが、後に葛西氏の一族西館氏から継嗣を迎えたことから葛西氏の親族衆となり、気仙郡での権勢を増大させた。この頃の浜田氏の居城は高田城(東館)であったが、広綱の時に米ヶ崎城を築いて居城を移した。一説には、城主であった及川氏から米ヶ崎城を召し上げて改修し、及川氏は後に蛇ヶ崎城に移ったとも言われる。1587年、広綱は朝日楯主本吉大膳重継と衝突し本吉郡に侵攻したが、葛西太守晴信の仲裁で撤兵した。しかし本吉侵攻に対する葛西太守の所領減の措置に不満を抱き、翌88年春、広綱は反乱を起し(浜田の乱)、近隣を侵して勢力を拡大していった。これを知った晴信は、反乱鎮圧のため領内の諸勢を動員し、自らも気仙郡に出陣した。浜田勢は葛西方の防衛の主力である気仙沼熊谷党と篠峯山麓で激戦を繰り広げたが劣勢となり、後退した。その後も浜田の兵乱は続いたが、8月に至って広綱は降伏した。浜田氏は所領を没収され、気仙郡の旗頭は矢作氏に移された。1590年の奥州仕置による葛西氏改易の後、広綱の子信綱は葛西大崎一揆に参陣し、深谷の役(須江山の惨劇)で討死した。

 米ヶ崎城は、広田湾の北岸から南に突き出た標高25m程の半島上に築かれている。半島全体が城域となっており、北半分は宅地化などで改変されていてどこまでが城域であったのかは明確ではない。一方、南半分は畑や山林となっていて遺構がよく残っている。南から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭が並び、それぞれ堀切と鞍部の曲輪で区画されている。主郭には米崎八幡神社が建っている。小さな高台で、西側には広い腰曲輪が広がっている。主郭から堀切を挟んで北に二ノ郭がある。二ノ郭は北東部が入隅となった横矢掛りのある曲輪で、畑となっている。二ノ郭の北端には千葉安房守・老臣大和田掃部・他2名の家臣の墓が立っている。二ノ郭の北は幅広の鞍部の曲輪があり、その北に横長の三ノ郭があるが、この付近は薮が酷くて踏査困難である。鞍部の曲輪の西側に竪堀状虎口があり、下に広がる腰曲輪に通じている。三ノ郭の北側も堀状の曲輪となっているが、畑と宅地になっている。ここから北側は前述の通り宅地や畑となっており、改変を受けている上、未踏査できない場所が多い。それでも住宅地に曲輪跡や土塁が散発的に残っている。やや残念な状況ではあるが、南半分は城跡らしい雰囲気をよく残している。
二ノ郭の切岸→DSCN9612.JPG
DSCN9646.JPG←主郭と広大な腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.000868/141.659303/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 豊臣秀吉 【オールカラー】

図説 豊臣秀吉 【オールカラー】

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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末崎城(岩手県大船渡市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9565.JPG←主郭周囲の空堀
 末崎城は、武田丹後・式部大輔信政父子が城主であったとも、及川伊賀が城主であったとも言われる。いずれにしても葛西氏の家臣で、1590年の葛西氏改易と共に没落した。

 末崎城は、門之浜湾の東側にある館ヶ崎と呼ばれる半島上に築かれた城である。海を挟んで対岸には蛇ヶ崎城がある。半島付け根の東部に横長長方形の主郭を置き、その北と西に空堀を穿ち、帯曲輪を廻らしている。主郭内は段差で東西2つの平場に分かれているようだが、東側は進入不能の薮で全く形状が追えない。西半分だけ薮払いされ、城址石碑が立っている。周囲の空堀は、一部埋まっているのか腰曲輪状になっている部分もある。また帯曲輪の東端部は高くなっていて、物見台になっている。北西には緩斜面が広がっており、縁に段差が見られるが、曲輪の跡かどうかはよくわからない。この緩斜面ではキツネが逃げていった。主郭の南には切岸の下に緩斜面がある。半島は主郭の南西に伸びているが、一部に段差が見られるもののほとんど自然地形である。その先に谷があり、その南西にまた丘陵があるが、丘陵の上に登ると縁に低土塁のある平場があるので、ここも城域だったと思われる。しかしその先はまた自然地形である。結局、主郭周辺以外は取りとめのない城である。尚、この城も2月の北東北であるがマダニがいるので要注意である。
帯曲輪東端の物見台→DSCN9566.JPG
DSCN9582.JPG←南西部丘陵に残る土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.990378/141.725940/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


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根ノ城(岩手県大船渡市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9444.JPG←腰曲輪と主郭切岸
 根ノ城は、千田九兵衛の居城と伝えられる。一説には、城主は猪川備前とも言われる。いずれにしても事績は不明である。

 根ノ城は、比高50m程の丘陵上に築かれている。北西麓に墓地があり、そこから登道が付いている。登道の脇には段々になった腰曲輪群が見られる。頂部には主郭があるが、主郭は、正方形の北西部を入隅にした形をした曲輪で、内部は2段に分かれている。南東が高くなっていて、祠が祀られている。主郭の全周に帯曲輪・腰曲輪が廻らされ、西側がやや幅広となっている。更に北斜面に前述の通り腰曲輪群が配置され、北には舌状曲輪(北郭)が張り出している。北郭の北端は高台になっていて、物見台だったと思われる。物見台には祠や石碑が立ち並んでいる。遺構としては以上で、居住性のある居館的な城である。尚、城の周りは住宅地や市街地なのだが、北郭のところで鹿が逃げていったのにはびっくりした。
北郭の物見台→DSCN9511.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.083930/141.706467/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

続日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

  • 作者: 日本城郭協会
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/09/14
  • メディア: ムック


タグ:中世平山城
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金崎館(岩手県大槌町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9432.JPG←館跡の大念寺
 金崎館は、歴史不詳の城館である。『日本城郭大系』や『岩手県中世城館跡分布調査報告書』には記載がなく、いわてデジタルマップの文化財地図に載っているのが唯一の情報源である。大念寺の境内が館跡とされている。背後の山上には大槌城があるが、大槌城の大手道は大念寺の脇を通っていたと推測されており、大念寺はちょうど大手門に当たっていたとの説がある。

 金崎館は、前述の通り大念寺の境内となっている。改変されているので明確な遺構は見られない。大槌市街地より5m程の高台にあり、また背後を山で囲まれている。この様な場所に館を置く例は鎌倉時代に多いので、鎌倉時代の城館であろうか?或いは詰城の大槌城に対して、平時の居館であったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.358798/141.898813/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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大槌代官所(岩手県大槌町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9423.JPG←代官所跡公園
 大槌代官所は、1632年に南部藩が開設した代官所である。南は平田村から北は豊間根村、内陸方面の小国・江繋村に至る「大槌通」23ヶ村を統治したと言う。1869年(明治2年)に廃止された。

 大槌代官所は、現在の大槌町役場(旧大槌小学校)の敷地にあったらしい。現在はその南東に代官所跡公園があり、石碑が立っている。その後ろの山上には大槌城の曲輪が見える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.357969/141.900530/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


大槌代官所書留 下 (国会図書館コレクション)

大槌代官所書留 下 (国会図書館コレクション)

  • 作者: 不明
  • 出版社/メーカー: Kindleアーカイブ
  • 発売日: 2017/09/13
  • メディア: Kindle版


タグ:代官所
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船越御所(岩手県山田町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9406.JPG←ただただ平坦な主郭
 船越御所は、南北朝時代に奥州南朝方の総帥であった鎮守府大将軍北畠顕家の嫡子顕成が拠った城との伝承が残る。顕成の事績ははっきりしないが、一説には浪岡氏の祖となったと言われ、1347年の霊山城陥落の後、稗貫から船越に流れてきて、1373年に浪岡に移るまで20年余を閉伊氏の一族船越氏の庇護を受けて船越御所で居住したとされる。但し明証があるわけではなく、実際に顕成がいたのかどうかは不明である。

 船越御所は、船越湾に臨む比高20mに満たない独立丘陵に築かれている。この丘陵は広く平坦な台地で、周囲を断崖で囲まれている。台地南端に館山八幡宮が建っており、そこから登ることがきできる。船越御所は、主郭とその東に一段低く腰曲輪を配しただけのほぼ単郭の城館である。しかし台地上は全域薮に覆われていて、踏査が大変である。しかも腰曲輪との間を区画する段差がある以外はただ単に平地が広がっているだけなので、半分ほど進んだ所で引き返した。
 尚、船越御所の周辺は、東日本大震災の津波で壊滅しており、現在は草茫々の空き地ばかりとなっている。前述の館山八幡宮は、かつては下の平地から見るとかなり高い位置にあったが、現在は神社の近くに防潮堤とその上を通る車道があるので、ほんの数m登るだけで神社に至る。10年以上経過しても震災の影を周囲に色濃く残す城館である。
南東の腰曲輪→DSCN9400.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.428246/141.980824/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 南朝編

南北朝武将列伝 南朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/02/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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折壁楯(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9309.JPG←腰曲輪から見た主郭
 折壁楯(折壁館)は、伊豆国久澄を本拠とした伊藤駿河という武士が落人となってこの地に至り、居城として築いたと伝えられる。その後伊藤氏は、隣接する土豪根城氏(閉伊氏)に討たれて滅亡したと言う。しかし伊藤氏について確かな資料は一つもなく、伝承のみであるらしい。

 折壁楯は、長沢川とその支流の合流点に突き出た、標高103m、比高80mの丘陵上に築かれている。この城の中心部から東に突出した三ノ郭に神社があり、この城に登るにはこの神社への参道を使えばよいのだが、この参道の入口が非常にわかりにくい。この神社参道を見つけられるかどうかが攻略のポイントとなる。地元のお婆さんに教えていただいて、ようやく発見できた。民家の庭先を抜けていき、畑の中を登っていくので普通は無断での進入は気が引けるのだが、お婆さんにそこは通っていい道と言われたので、遠慮せず立ち入らせていただいた。県道290号線からの入口は、オモエエンジニアリング・サービスと書かれた緑色の看板と2台並んだ自販機が目印である。ここから真っ直ぐ西に登っていけば北西に登っていく参道がある。参道を登っていくと、途中に腰曲輪らしい平場がいくつか見られ、やがて三ノ郭外周の腰曲輪に至る。三ノ郭は腰曲輪の上に切岸で囲まれてそびえている。三ノ郭は東西に長い曲輪で、神社の拝殿と本殿が離れて建っている。三ノ郭の西に2段の段曲輪があり、北面から東面にかけて腰曲輪が取り巻いている。また三ノ郭の北東に伸びる尾根には舌状曲輪があり、その先に二重堀切が穿たれ、更に伸びる尾根の少し先にもう1本の堀切が穿たれている。その先には楕円形の平場があり、北郭であろう。三ノ郭の北に伸びる尾根にも段曲輪と堀切がある。一方、三ノ郭の西の段曲輪の先に堀切が穿たれていて、主郭腰曲輪との間を分断している。その西に腰曲輪で囲まれた主郭がそびえている。腰曲輪の北には一段低く北郭が張り出している。北郭にも外周に腰曲輪が廻らされている。主郭は切岸でそびえ立った長円形の曲輪で、南には段差で区画された二ノ郭があるが、主郭の南半分と二ノ郭の北半分とは矢竹が密生した薮で踏査困難であり、形状もよくわからない。主郭と二ノ郭の外周はきれいに削平された腰曲輪が取り巻いているが、ここも一部が密生した薮で覆われていて、踏査が大変である。二ノ郭の腰曲輪の下には更にもう1段の腰曲輪が築かれている。腰曲輪の南西には尾根には浅い堀切があるが、背後の守りはほとんど意識されていないようである。以上が折壁楯の遺構で、一部薮が酷いものの遺構はよく残っており、なかなか見応えがある。
 尚、この山はマダニの巣窟らしく、下山後にチェックしたら2月の岩手なのにトレッキングパンツにマダニが20匹以上もくっついていた。マダニ要注意の城である。
神社が建つ三ノ郭→DSCN9283.JPG
DSCN9257.JPG←二重堀切の一部
腰曲輪から見た二ノ郭→DSCN9346.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.597661/141.889211/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


岩手県の歴史 (県史)

岩手県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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花輪楯(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9173.JPG←主郭の横矢の張り出し
 花輪楯(花輪館)は、田鎖氏(閉伊氏)の一族花輪氏の居城である。1546年に、田鎖十郎左衛門久朝の子、十郎左衛門朝重がこの地に分封され、花輪城を築いて移り住んだと言われている。以後、田鎖城防衛の一翼を担った。その子一朝の時に花輪を姓とし、花輪安房と称した。その子内膳政朝の養女お松(後の慈徳院)は、南部氏2代藩主利直が閉伊郡を視察した際、見初められてその側室となり、4代藩主重信の生母となった。重信は幼名乙松、後に花輪彦六郎を称し、1630年15歳で盛岡城内丸中屋敷に移り住むまで、花輪館で祖父政朝・生母お松と共に居住した。

 花輪楯は、長沢川西岸に連なる丘陵地の一角、標高96m、比高80m程の丘陵上に築かれている。城址東端部に華森神社が建っており、その参道を使って神社まで登り、その背後の斜面を登ればよい。ちなみに華森神社は、重信が花輪楯時代に屋敷地内に建立したお宮が起源で、社殿の両脇には生母お松の石塔 (慈徳院殿松宝琳貞大姉)とお松に関する解説板が立っている。神社背後には、段曲輪1段の上に細長い三ノ郭がある。三ノ郭は平坦であるが自然地形に近い。三ノ郭を南西に進むと、二ノ郭の切岸が見えてくる。二ノ郭は南東先端に段曲輪を設けた、東西に長い曲輪である。二ノ郭の西には斜面の先に主郭がある。主郭も細長いが、南北の塁線が凸凹した不定形な曲輪で、西端の北側で横矢の張り出しが見られる。主郭外周には帯曲輪が廻らされている。また主郭前部の北に支尾根が伸び、ここにも段曲輪群がある。主郭の南西には細長い平坦な尾根が伸び、その先に腰曲輪と切岸で囲まれた出砦がある。出砦の西側には腰曲輪の先に浅い堀切が穿たれている。また出砦の東に伸びる尾根にも段曲輪が築かれている。以上が花輪楯の遺構で、近世初頭まで使用された城であるにも関わらず、あまり巧妙な縄張りは見られない。
西の出砦→DSCN9215.JPG
DSCN9112.JPG←お松の石塔

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.611565/141.895230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/18
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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根城楯(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9035.JPG←北郭群
 根城楯(根城館)は、単に根城とも呼ばれ、南北朝時代に閉伊氏の嫡流閉伊親光が築いた城と言われている。親光は、2度に渡る北畠顕家率いる奥州勢の上洛戦に従ったが、顕家が討死にして奥州勢が四散すると、親光は苦労の末に自領閉伊に帰着した。しかし閉伊も足利方の攻撃を受ける恐れがあったため、西上の折に聞いた楠木正成の千早・赤坂城に倣って、新たに山城を構築した。それが根城楯であると言う。後に閉伊氏が老木楯田鎖城へと居城を移してからも、西を守る支城として機能したと推測される。

 根城楯は、閉伊川南岸に突き出た比高105mの山上に築かれている。大まかに言うと、大きくU字型に開いた尾根上に曲輪を連ねた縄張りとなっている。北東麓に八幡神社の鳥居があり、そこから谷沿いに参道が整備されており、訪城はたやすい。山頂に八幡神社が建つ主郭を置き、その北尾根と西尾根に曲輪群を配置した連郭式の縄張りとなっている。谷沿いの参道が尾根上に至った部分は鞍部の平場になっていて、その東に菱形をした広い東郭があり、西には2段の平場が階段状に築かれて主郭に至る。この2段の曲輪はいずれも右手(登道から見ると左側)に物見台の土塁が突き出ている。主郭は、西以外の三方に腰曲輪を廻らしているが、神社本殿の建つ主郭は櫓台程度の広さしかない。主郭の南の尾根は細く伸び、曲輪はないが浅い堀切が2条見られる。主郭の北には舌状の長い北郭があり、その北東の尾根に沿って曲輪群が置かれている。この北郭群の円弧状の堀切があり、その先に2つの小ピークがあり、いずれも物見台であったと思われる。1つ目の物見台の周りには腰曲輪も見られる。
 『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図では曲輪はこれだけであるが、実際には派生する全ての支尾根にも曲輪群が築かれている。即ち東郭の南・北・東の3方に伸びる支尾根、そして北郭群から分岐する北支尾根である。東郭の東尾根では段曲輪の先に細長い曲輪が2つあり、途中には竪堀も見られる。北郭群の北支尾根には堀切が見られる。以上が根城楯の遺構で、閉伊氏嫡流の城としては、老木楯や田鎖城よりもしっかりした普請がされ、戦国期まで改修を受けて使われた城と推測される。それにしても支城にすぎない根城楯の方が、規模は小さいものの縄張りの充実度が高く、なんとも理解に苦しむ。
北郭群の円弧状堀切→DSCN9053.JPG
DSCN9043.JPG←北郭群の北支尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.626309/141.866155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


岩手県の歴史散歩

岩手県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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老木楯(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8781.JPG←削平された北郭
 老木楯(老木館)は、閉伊氏(後の田鎖氏)の支城と推測されている。一説には鎌倉初期に閉伊頼基の家臣広沢平馬丞忠連が築いたとも言われる。当初根城楯を築いて居城とした閉伊氏が、松山楯主白根左京尉忠伯から奪った髪長の地を経営するために、新たに老木楯を築いて居城としたのではないかと推測されている。その後、更に東の田鎖城に居城を移しており、それ以降老木楯は田鎖城の支城として機能したものと考えられている。

 老木楯は、閉伊川南岸の標高110mの尾根上に築かれている。田鎖城から1本西の尾根に当たる。西に突き出た支尾根先端に田鎖神社があり、その参道を使えば迷うことなく登ることができる。実は田鎖神社が建っている小高い峰は、老木楯の出砦とされている。東に伸びる尾根には堀切があるとされるが、林道が切り開かれて破壊を受けており、わかりにくくなっている。この尾根を東に上った先の主尾根に主郭がある。縦長の細長い曲輪で居住性はほとんどなく、あまり削平もされておらず自然地形の尾根に近いが、西側に幅のある腰曲輪が付随している。主郭の北には堀切を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭はのっぺりした自然地形に近い曲輪で、倒壊した小屋(神社?)があり、西側には主郭下の腰曲輪が続いているが、東にだらっと平場が広がっていて、どこまでが曲輪の範囲か不明瞭である。二ノ郭の北東に伸びる尾根の先に北郭があり、ここだけは主要な曲輪の中できれいに削平されている。一方、主郭の南には林道が通り、電柱が立ち、その先の2つの峰に三ノ郭と出砦がある。三ノ郭は高圧鉄塔があり、自然地形に近い傾斜した曲輪であるが、東に派生する2つの支尾根にそれぞれ腰曲輪が見られる。また西に伸びる支尾根を下っていくと途中に小堀切があり、その先に鉄塔が建っているが明確な平場はない。三ノ郭の南の出砦も自然地形に近いが、東に伸びる主尾根に堀切が穿たれている。この堀切も林道で破壊を受けている。出砦の西には緩斜面の平場が広がっており、その先に切岸で区画された腰曲輪が数段ある。この腰曲輪は薮に覆われているが、『日本城郭大系』の縄張図では居館跡とされる。この下にも平場があった可能性があるが、重機で破壊されていて往時の形状がよくわからない。縄張図ではこの付近は大手口とされる。これらの西の平場群の南には、頂上の出砦から小道が麓の集落まで下っているが、この道は1/25000地形図には記載されていない。以上が老木楯で、腰曲輪は多いが主要な曲輪は自然地形で締まりがなく、田鎖城と同じ様な感じで理解に苦しむ縄張りである。
主郭~二ノ郭間の堀切→DSCN8808.JPG
DSCN8853.JPG←三ノ郭の西尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.624821/141.888363/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

  • 出版社/メーカー: 丸善出版
  • 発売日: 2022/07/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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払川楯(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8635.JPG←堀切と三ノ郭櫓台
 払川楯(払川館)は、津軽石館とも言い、戦国時代に千徳城主となった南部氏一族千徳氏(一戸氏)の庶流津軽石氏の居城である。一戸勝富が閉伊郡津軽石村に分封されて津軽石氏を称した。津軽石勝富は当初沼里館を居城としていたが、手狭になったため1522年に新たに払川楯を築いて居城を移した。後に勝富は宗家の千徳氏と仲違いを起こし、1583年正月に千徳城での饗応の席で謀殺された。そのまま千徳勢が払川楯を攻撃して落城させ、以後廃城となった。

 払川楯は、瑞雲寺北東の比高50m程の山上に築かれている。瑞雲寺境内の南東にある墓地の脇から登道が整備されており、簡単に登ることができる。頂部に大土塁を備えた主郭を置き、その東に二ノ郭、主郭の北東に堀切を挟んで、後部に櫓台を備えた三ノ郭を配している。二ノ郭の先に伸びる東尾根と、三ノ郭の先に伸びる北東尾根と、2つの尾根上に舌状曲輪が築かれ、間の谷を挟んで2つの曲輪群が並立している。三ノ郭には貯水池があって改変を受けているが、基本的な形状は残っていると思われる。二ノ郭の先にある舌状曲輪側方の腰曲輪では、腰曲輪を貫通して竪堀が落ちている。二ノ郭の南斜面にも段々に曲輪群があり、大手道はこの曲輪群を登っていくように敷設されている。一方、主郭の北側は切岸だけで区画され、背後尾根の西には砦とされる高台があるが、墓地に改変されている。この砦の脇から主郭・二ノ郭の西側を断ち切るように斜めに横堀が穿たれている。以上が払川楯の遺構で、比較的小さな城であるが、決して単純に曲輪群を連ねただけではなく、竪堀・横堀で要所を防御した縄張りを有している。
腰曲輪から落ちる竪堀→DSCN8611.JPG
DSCN8725.JPG←二ノ郭西側の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.568125/141.929519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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蛇ヶ崎城(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8537.JPG←主郭背後の大堀切
 蛇ヶ崎城は、天正年間(1573~92年)に葛西氏の家臣及川掃部重綱の居城であったと伝えられる。城内にある八幡神社の社伝では、1385年に及川道光が城主であったと言う。一方別説では、馬籠千葉氏の庶流で矢作内館城主矢作千葉氏(重胤?)の3男広次が蛇ヶ崎城を築き、以後千葉氏10代に及んだが、1590年の奥州仕置で主家葛西氏が改易となると、蛇ヶ崎城主千葉信定は葛西紀伊と名を改め、伊達政宗の家士となった。そしてそれに代わって東山中川城(鳥海館遅沢館か?)主及川掃部が蛇ヶ崎城に居住したが、間もなくこの城を引き上げて東磐井郡猿沢に居住したと言う。しかし猿沢城の事績によれば、猿沢城主及川掃部信次は1559年に及川一族が葛西太守に武力蜂起した及川騒動(柏木合戦)に加担して改易され、気仙郡蛇ヶ崎に逃れたとある。及川掃部が同族を頼って蛇ヶ崎城に逃れたと考えるのが自然で、蛇ヶ崎城主は及川氏が城主であった可能性が高いのではないだろうか。そして、葛西氏滅亡後にかつての居城猿沢城に戻ったと考えられる。
 また、葛西大崎一揆についての伝承では、桃生郡中津山香取(神取山城)に立て籠もった1700余騎の大将として気仙郡蛇ヶ崎城主及川掃部頭重綱の名が見える。神取山城の葛西勢は、蒲生氏郷軍に攻撃されて潰走し、及川掃部頭は佐沼城の葛西晴信に合流し、落城時の乱戦の中、奮戦して自害したと言う。葛西氏の歴史については不明点や史料上の食い違いや混乱が多いので、どの伝承が正しいのか不明である。

 蛇ヶ崎城は、門之浜湾の南に突き出た小半島に築かれている。湾の対岸には末崎城がある。城内は3つの曲輪群で構成されるが、蛇ヶ崎園地や畑・神社・民家などになっていて、大きく改変されている。台地基部を断ち切る大堀切が穿たれ、この堀切から大竪堀が南西に向かって落ちている。堀切は円弧状で、土橋が見られる。その南東側に主郭がそびえている。主郭は一段高い細長い平場と、その南の広い平場に分かれている。二ノ郭は八幡神社が建っている部分で、平場があるがはっきりした段・切岸がなく、明確な遺構に乏しい。二ノ郭先端部も小高くなっていて、蛇ヶ崎神社が建っている。二ノ郭の南に低地を挟んで、小高くなった三ノ郭がある。三ノ郭も何段かの平場に分かれているが、公園化されているせいもあって遺構は明確ではない。結局のところ蛇ヶ崎城は、主郭背後を分断する堀切・竪堀だけが異彩を放つ城である。
主郭→DSCN8554.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.984557/141.714749/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


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二日市館(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8378.JPG←二ノ郭~三ノ郭間の堀切
 二日市館は、葛西氏の家臣今野助九郎・同内膳の居城と伝えられている。元々この地区では、15世紀初頭頃に矢作千葉氏の一族千葉慶宗が長部館を築いて入部して長部氏を称していた。今野氏と長部千葉氏との関係は不明であるが、長部千葉氏の家臣、もしくは長部千葉氏の後に長部地域を統治した可能性が考えられている。また今野内膳は、葛西七人衆の一人と言われる武将であったと言う。今野助九郎・内膳父子は、1590年の葛西大崎一揆で、桃生郡深谷で討死したと伝わる。その後、葛西・大崎両氏の旧領は伊達領となり、1592年に伊達氏の家臣鈴木宗記が城代として二日市城に駐屯した。その後も、中島大蔵・鈴木和泉・大条宗綱が順次城代として配された。また現在の田の浜地内には、慶長年間(1596~1615年)に藩境警備のため、仙台藩直参として足軽55人が組織され、屋敷割されたと言う。1617年に大条宗綱が没すると、大町豊後がこれに代わったが、1631年に知行替えとなってこの地を離れると、以後城代は置かれなくなった。伊達領となった近世初頭まで城代が置かれたことから、気仙郡の広田湾に臨む地域の重要な拠点城郭であったことが推測される。

 二日市館は、長部漁港の北側に突き出た標高55mの半島状の丘陵に築かれている。丘陵基部に当たる西側の住宅地から登道が付いており、城内まで通じている。住宅地の東に段差があり、その先は緩斜面の畑となっていて、四ノ郭と推測される。その東に段差で区画された三ノ郭が築かれている。三ノ郭は中央を仕切るように土塁が築かれている。三ノ郭の東には堀切を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭はほとんど自然地形の地山で、郭内もかなり傾斜している。しかし、南側と北西側に腰曲輪が築かれている。二ノ郭の北東に、縦長長方形の主郭がある。主郭は切岸で囲まれ、外周に数段の腰曲輪を築いている。主郭の西辺には土塁が築かれ、土塁の北端に内枡形虎口が築かれて下段の腰曲輪に通じている。また主郭の北東下には竪堀のような谷状通路があり、おそらく往時の船着き場に通じていたと思われる。尚、現在城のある丘陵の東に工場が建つ平地があるが、これは戦後の埋め立てによるもので、往時の丘陵の東縁は直接海に面していた。以上が二日市館の遺構で、技巧的とは言い難いが、海に突き出た要害であったことはよくわかる。
 尚、城があるのは集落の裏の丘であるが、カモシカさん1頭が御出ましになった。
主郭西辺の土塁→DSCN8500.JPG
DSCN8475.JPG←主郭の内枡形虎口
主郭北東の谷状通路→DSCN8431.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.996132/141.624048/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


首都圏発 戦国の城の歩きかた

首都圏発 戦国の城の歩きかた

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: 単行本



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田鎖城(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN3800.JPG←副郭北方にある物見台
 田鎖城は、閉伊氏の宗家とされる田鎖氏の居城である。南北朝後期の永和年間(1375~79年)頃の築城と推測されている。その後田鎖氏は、長沢川を隔てた対岸の松山館主白根氏や折壁館の伊藤駿河、苅屋・和井内両氏など、四隣の土豪たちと戦いを繰り返した。田鎖氏は、庶流の千徳城主千徳氏と共に閉伊川流域を支配する2大勢力となったが、一方で閉伊郡各地に分封された一族は自立して宗家田鎖氏と並び立った。室町~戦国期にかけて南部氏の勢力がこの地に及ぶと、田鎖氏をはじめ閉伊氏一族は南部氏の勢力下に組み込まれていった。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で南部信直は「南部之内七郡(糠部、遠野、久慈、閉伊、鹿角、岩手、志和)」を安堵されると、田鎖遠江守光好・十郎左衛門光重父子は三戸城に伺候して信直に仕えた。しかし翌91年の九戸の乱の際には、南部氏の家臣桜庭安房の説得にも関わらず、一戸系千徳氏などと共にいずれにも味方せず静観の態度を取った。1592年、田鎖氏が豊臣秀吉の朝鮮出兵に従って肥前名護屋城に出陣中に、南部氏によって田鎖城は密かに破却された。

 田鎖城は、閉伊川とその支流長沢川に挟まれた丘陵の北東端部(比高約60m)に築かれている。現在は城近くを宮古西道路が貫通して改変されているせいもあって、明確な登道が失われているが、国土地理院の1/25000地形図で神社マークが有る東の尾根から直登した。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図によると、中央の尾根に主郭を置き、北の尾根に副郭、南に二ノ郭を配置していたとされる。この縄張図を参考にして城内を探索したが、「これが城?」というような全くとりとめのない城であった。というのも、土塁や腰曲輪・切岸は所々に見られるが、肝心の中心部の曲輪(主郭・副郭・二ノ郭)が自然地形で、ほとんど明確な普請がされていないのである。その一方で、主郭北側の副郭には明確な物見台が築かれている。主郭の南尾根の先には二ノ郭があり、二ノ郭手前の尾根鞍部は堀切と思われるが、これも造作は明確ではなく、ほとんど自然地形の鞍部である。また中心部の曲輪の背後には堀切がないのに、支尾根には堀切があったりと、全くとりとめのない縄張りである。田鎖氏の居城とされているが、一時的な陣城という趣の城で、なんとも理解に苦しむ。これは後日訪城した、隣接する老木館も同様で、田鎖氏の歴史ともども謎が多い。
二ノ郭手前の堀切とされる鞍部→DSCN3816.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.626177/141.894844/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/18
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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千徳城(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN3559.JPG←北東尾根の堀切と腰曲輪
 千徳城は、閉伊郡の閉伊川流域と宮古湾一帯を本拠とした閉伊氏の庶流河北閉伊氏(千徳氏)の居城である。1324年に鎌倉幕府の裁定によって鍬ヶ崎・笠間両郷の地頭を認められた閉伊余市員連(河北閉伊氏)は、鎌倉末期~南北朝期の頃に笠間館を築いて、河北の守りとした。後の14世紀末頃には、河北閉伊氏は千徳城に居城を移したと考えられている。河北閉伊氏は後に千徳氏と称し、宗家田鎖氏と共に閉伊川流域の2大勢力に成長した。しかし戦国時代になると、南部氏の勢力がこの地に及び、南部氏の一族一戸氏が千徳氏を滅ぼし、新たに千徳城主となって千徳氏を称した。こうして田鎖氏をはじめ閉伊氏一族は南部氏の勢力下に組み込まれていったものと推測されている。天正年間(1573~92年)には一戸(千徳)孫三郎が城主であったが、1592年、孫三郎が豊臣秀吉の朝鮮出兵に従って肥前名護屋城に出陣中に、三戸南部氏によって千徳城は密かに破却された。その後千徳氏は、南部氏にその勢力を警戒され、歴史の表舞台から抹殺されたらしい。

 千徳城は、閉伊川北岸の標高70m程の山上に築かれている。南東尾根先端の出砦に千徳八幡宮があり、その参道脇から城への散策路が整備されている。中心に長円形の主郭を置き、その周囲に腰曲輪を廻らしている。主郭には土塁はないが、段差で南北2段に区画されている。主郭の南には横長の二ノ郭群が置かれている。二ノ郭と主郭との間は、東端部に堀切が穿たれている。また主郭の北東と北西にそれぞれ曲輪群が築かれている。北東の曲輪群は舌状の平場群で、主郭腰曲輪との間に堀切を穿ち、その手前に土塁を築いている。北西の曲輪群は、堀切を兼ねた幅広の鞍部の曲輪を介して三ノ郭が置かれている。三ノ郭の北には、堀切を挟んでV字型に広がった四ノ郭が置かれている。また三ノ郭の西側には舌状の曲輪が築かれ、その先に西尾根を分断する堀切が穿たれている。その西側も出砦とされ、平場群が確認できる。一方、二ノ郭の南東尾根には千徳八幡宮が鎮座する出砦があり、尾根の基部を堀切で区画している。
 以上が千徳城の遺構で、縄張図にない多数の腰曲輪群もあり、遺構は全体によく残っている。しかし、主郭・北東曲輪群など薮払いされて整備されているのは一部の曲輪だけで、その他はあまり整備されていない。特に主郭下段や二ノ郭、三ノ郭西の曲輪などはかなり薮が酷い。そのせいもあってか、なんとなく印象の薄い城であった。
広い主郭→DSCN3730.JPG
DSCN3672.JPG←西尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.638075/141.923296/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北奥羽南部氏

戦国の北奥羽南部氏

  • 作者: 熊谷 隆次
  • 出版社/メーカー: デーリー東北新聞社
  • 発売日: 2021/06/01
  • メディア: 単行本


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山口楯(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN3410.JPG←三ノ郭から見た主郭群
 山口楯(山口館)は、河北閉伊氏の城と考えられている。詳細は不明であるが、『日本城郭大系』によれば楯の脇、黒森神社の下にあった安泰寺の鐘銘に1365年の年号と共に大旦那として民部太夫源長時の名があり、これが河北閉伊氏の余市員連の後裔と推測されている。また黒森神社に残る獅子頭には「旦那源行康、小笠原左馬助」の名が見え、大旦那が河北閉伊氏の源行康、旦那がこの地の地頭で山口楯主であった小笠原左馬助ということであろうと考えられている。

 山口楯は、黒森山の南の支尾根の先にある標高120mの峰に築かれている。大きく南北に分かれた2つの城で構成されており、ここでは便宜上、上の城・下の城と呼称する。登道があるとは期待していなかったので、登城時は南東の車道脇から適当に斜面に取り付いて、見つけた獣道を辿って登ったが、降りる時に城までの道があるのを見つけた。南東の谷地にある畑の北沿いに切通し状の道があり、それを辿っていけば上の城まで到達できることが後でわかった。
 上の城は、山頂に3段の曲輪で構成された主郭群を置き、東に舌状の二ノ郭、南に三ノ郭を配置している。主郭最上段は三角形の小さい平場で、櫓台であったと思われる。二ノ郭とは切岸だけで区画されているが、三ノ郭とは腰曲輪の一部にもなっている堀切で分断している。三ノ郭の南西には堀切を挟んで南郭があり、その南郭も小堀切で東西に分割されている。この他、二ノ郭の外周には腰曲輪群が築かれ、特に北側の腰曲輪は上り勾配で主郭背後まで続いている。主郭背後は、切岸だけで区画された腰曲輪があるだけで、明確な堀切はない。主郭や南郭の南東にも腰曲輪があった可能性があるが、城中心部の脇まで作業林道が通っていて破壊を受けている。しかしそのおかげで上の城は、かなり薮払いされて遺構が見やすくなっている。南郭だけが未整備の薮に覆われている。
 一方、下の城は、上の城 南郭と中規模の堀切で分断されている。この堀切の上に下の城の主郭があるが、劇薮で踏査困難である。主郭の南に広い副郭があるが、遠目に見たところ作業林道で破壊を受けている。副郭の南東に二ノ郭群があるらしいが、三陸自動車道 宮古北ICに繋がる車道が貫通して大きく破壊されている。このため、下の城はほとんど踏査できていない。
 山口楯は、整然とした遺構がよく残り、特に上の城は薮が少なく見応えがある。全体的には、宮城県の鶴ヶ城(御田鳥城)に似ている印象である。
主郭群最上段の櫓台→DSCN3463.JPG
DSCN3491.JPG←北腰曲輪から見た二ノ郭群
下の城の主郭背後の堀切→DSCN3384.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【上の城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.655044/141.940033/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【下の城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.653573/141.938767/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


岩手県の歴史 (県史)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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笠間館(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN3347.JPG←詰城部の曲輪の切岸
 笠間館は、閉伊郡の閉伊川流域と宮古湾一帯を本拠とした閉伊氏の庶流河北閉伊氏(千徳氏)の初期の居城である。閉伊氏は、保元の乱で敗れて伊豆大島に流刑となった鎮西八郎源為朝の子、島冠者為頼を祖とすると言われる。為頼は源頼朝に仕えて、その側近であった佐々木高綱の猶子となり、佐々木十郎行光と名を改めた。そして奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の軍功により、陸奥国閉伊郡の地頭職を給わってこの地に下向し、閉伊氏を称した。その後一族は、閉伊川流域に勢力を拡大した。鎌倉後期の1290年に閉伊地方最大の土豪であった閉伊光員が没すると、その遺領を巡って閉伊宗家の十郎左衛門尉光頼と光員の子閉伊余市員連が争いを起こし、鎌倉幕府に訴えた。幕府の採決の結果、光頼に閉伊川南岸が、員連に閉伊川北岸の鍬ヶ崎・笠間の所領が認められた(1324年の『田鎖文書』)。鍬ヶ崎・笠間両郷の地頭となった員連(河北閉伊氏)は、鎌倉末期~南北朝期の頃に笠間館を築いて、河北の守りとした。後の14世紀末頃には、河北閉伊氏は千徳城に居城を移したが、その後も笠間館は千徳城の東の守りとして戦国末期まで存続したと言う。

 笠間館は、宮古湾にほど近い閉伊川北岸に築かれている。小丘(館山と呼ばれていた)に2段の郭を造って居館を設け、基部を掘り切って背後の丘陵先端部に詰城を築いた。また居館の南に突出していた細長い丘陵地(横山)に出砦を設けていた。しかし現在は、居館のあった小丘は完全に削り取られて市街地となり、堀切も破壊されてJR山田線が貫通している。詰城は比高50m程の丘陵地に残っているが、東斜面の腰曲輪ははっきりしているものの、肝心の山頂の主要部の曲輪はほとんど自然地形で見るべきものはない。また詰城部は全域が未整備の薮に覆われており、遺構も僅かであることから、無理して登る必要はないだろう。出砦は、横山八幡宮の境内となっていて改変されているので、往時の遺構は明確ではないが、3段程の平場に分かれているのが確認できる。笠間館は全体に遺構が不明瞭で、居館も消滅しており、見所は少なかった。
 尚、横山八幡宮には源義経の北行伝説が残っている。
出砦の横山八幡宮→DSCN3372.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【詰城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.642107/141.939089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【出砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.638026/141.943703/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
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タグ:中世平山城
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黒田館(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN3266.JPG←主郭内の段差
 黒田館は、この地を領した河北閉伊氏(千徳氏)の支城と考えられている。河北閉伊氏は、室町時代に入ると笠間館から千徳城に本拠を移し、千徳氏を称して宗家田鎖氏(閉伊十郎左衛門尉光頼の系統)を凌ぐ大土豪に成長していった。海運の要地宮古の港の管理と守備のために黒田館を築いたと考えられており、千徳氏一族の黒田氏(近能氏)が管理していたと推測されている。

 黒田館は、源義経の北行伝説にまつわる判官稲荷神社の裏山に築かれている。神社の裏に登道があるが、途中の社で止まってしまっているので、結局適当に薮の斜面を直登した。比高60m程の山頂に主郭を置き、周囲に腰曲輪を数段築いている。主郭は小さな段差で2段に分かれており、上段は小さな長方形で、その周りを囲むように下段平場が取り巻いている。下段平場にはキリスト教徒の墓があるが、郭内はあまり整備されておらず、薮に埋もれかかっている。主郭の南西尾根には舌状の二ノ郭・三ノ郭が連なり、また主郭の東西にも段曲輪群が築かれているが、いずれも薮に覆われていて踏査は困難である。特に南西尾根の二ノ郭・三ノ郭は劇薮で全く進入できない。主郭背後は尾根筋を切岸で遮断しているが、自然地形に近い鞍部で、明確な堀切とはなっていない。遺構としては以上で、港を監視する物見的な小城砦であった様である。
主郭背後の切岸→DSCN3277.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.643891/141.956084/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
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タグ:中世平山城
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