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古城めぐり(栃木) ブログトップ
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田沢要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1062.JPG←龍蓋山の山頂(主郭?)
 田沢要害は、歴史不詳の城である。恩地要害・山口館などと野上川沿いの沖積地を隔てて相対する位置にあり、常陸道や両郷道を脚下に見られる地点であることから、それらに備えた砦と推測されている。この地は天正年間(1573~92年)末頃まで伊王野城主伊王野氏の領地であったので、伊王野氏が築いた砦であろうか?

 田沢要害は、標高370.9mの龍蓋山に築かれていると思われる。龍蓋(りゅうがい)とは即ち要害の転訛である。城郭関係のHPでは登山した情報は皆無であるが、登山関係のHPに情報があるので、それらを参考にして登城した。国道461号線から龍蓋山の南西麓に至る小道があり、それを谷にちょっと入った所で左の尾根に取り付いて登った。踏み跡はわかるかわからないか程度で、途中でほとんど消失してしまい、結局斜面を直登することになった。山頂部はほとんど自然地形の平場で、黒羽山の会が設置した「龍蓋山 371m」のプレートと三角点がある。山頂の南側にわずかに腰曲輪らしい平場がある他、東に続く尾根に段曲輪っぽいものが見られる。しかしいずれも普請はわずかであり、自然地形に近い。堀切もなく、結局龍蓋という名前以外に、ここが城砦跡という確証は得られなかった。単なる物見の砦であったのだろうか?
南の腰曲輪らしい平場→DSCN1060.JPG
DSCN1070.JPG←東尾根の段曲輪らしい平場

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.871038/140.160688/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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館野御前要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1017.JPG←丘陵西端部の腰曲輪状の平場
 館野御前要害は、館野氏が築いた城と言われる。築城者は館野宝賢と伝えられるが、館野氏についても宝賢についても、その事績は不明である。

 館野御前要害は、那珂川東岸の比高60m程の丘陵上に築かれている。ただ、本当にこの場所が要害跡なのか確証はなく、城巡りの先達「余湖くんのお城のページ」の記載に従った。丘陵の南に谷があり、そこを登っていく小道があるので、そこを途中まで登って丘陵に取り付いた。この丘陵は、後部は高台となっているが背後のくびれ部に堀切はなく、あまり城郭らしさが感じられない。ただ丘陵の南斜面には2段の帯曲輪らしい平場があり、丘陵の西端部にも腰曲輪らしい平場がある。但しこれらも遺構ではなく、植林や耕作で改変された地形である可能性もある。何しろ丘陵の内部は広い緩傾斜地で、全くの自然地形の様である。仮に城であったとしても、土豪の城館というよりは、軍団を駐屯させるための一時的な陣城の様に感じられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.837660/140.134875/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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恩地要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0971.JPG←主郭背後の堀切
 恩地要害は、恩地城とも言い、大関氏の家臣益子但馬守信勝の居城と伝えられる。信勝は、宇都宮氏の重臣益子氏の一族と思われるが、天正年間(1573~92年)の末頃に益子を逃れて大関氏を頼って来て、この地を与えられて移り住んだと言う。

 恩地要害は、野上川南岸に連なる丘陵地の一角に築かれている。比高60m程で、北西に伸びる尾根上に城地がある。北西から林道が伸びているので、訪城は容易である。この林道は上まで登ると尾根を貫通しているが、これが恩地要害の堀切である。堀切の北西が主郭で、主郭南東端の堀切沿いには土塁が築かれている。また東には枡形虎口と思われる土塁が見られる。また主郭の堀切沿いの南側に段曲輪も見られる。しかし肝心の主郭はほぼ自然地形で、北端も切岸がなくダラダラと降っている。恩地要害は、あまり防備を固めた城館ではなく、益子氏が亡命者という立場上、強固に守りを固めた城館は必要なかったということなのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.864446/140.153264/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/03/01
  • メディア: 単行本


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尻高田要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0952.JPG←主郭外周の横堀
 尻高田要害は、那須七騎の一、伊王野城主伊王野氏が天正年間(1573~92年)に佐竹氏の侵攻に備えて築いた城と伝えられている。この地は伊王野からは離れているが、伊王野氏の所領であった。

 尻高田要害は、野上川西岸の標高336m、比高90mの山上に築かれている。北麓に発電設備と掲示されフェンスで囲まれた小屋があり、その脇を山に入る小道が通っている(小川に架かる丸太の小橋がある)。その道は、北尾根の東斜面を登っていくが、途中で道がわからなくなったので、適当なところから北尾根に登り、あとは細尾根を南に登っていけば城に至る。最初に現れるのが前面の円弧状の堀切で、その手前には土塁が築かれ、堀切の両側は竪堀で落としている。また堀切の西側には帯曲輪が延々と伸びている。この時は帯曲輪を先まで追うことはしなかったが、スーパー地形で見ると延々と二ノ郭の西から南まで巡って、二ノ郭背後の堀切まで繋がってる様である。最初の円弧状堀切の上には主郭外周を廻る横堀が構築されている。主郭が楕円形をしているので、横堀もそれに沿って半円形になっている。横堀の北には竪堀状虎口があり、北東部にも竪堀が落ちている。横堀の南東端部も竪堀となって落ちている。楕円形の主郭内には段差があるが、郭内はイノシシで荒らされており、表土が至る所でほじくり返されてしまっている。主郭の背後には堀切を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭は劇薮で、ほとんど踏査できない。二ノ郭の南には二重堀切が穿たれている。二ノ郭の南東にはくの字状の尾根に築かれた三ノ郭がある。三ノ郭の南から西にかけても横堀が穿たれて、城域が終わっている。横堀を多用した城であるが、横矢掛りは見られず、縄張りにはあまり技巧性は感じられない。
三ノ郭外周の横堀→DSCN0930.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.859862/140.170108/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
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須賀川要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0675.JPG←帯曲輪の上にそびえる主城部
 須賀川要害は、常陸の戦国大名佐竹氏が那須氏の侵攻に備えて築いた城とされる。戦国時代にこの一帯は佐竹氏の領地であったらしい。しかし、那須氏が佐竹氏に備えて築いた城との説もある。いずれにしても、戦国後期の佐竹義重の時代には、佐竹氏は度々那須氏の領国に攻め込んでいるので、その頃に境目の城として重視されたのだろう。

 須賀川要害は、栃木・茨城の県境に近い須賀川集落の西の山上に築かれている。押川西岸の標高366m、比高80m程の山で、南東麓から西の谷戸に入る山道があり、その道の途中から南東の支尾根に登ればよい。この支尾根には前衛となる大手曲輪群が築かれており、平場群の他に堀切も確認できる。大手曲輪群の最上段となる東郭には腰曲輪が築かれ、東の支尾根にも段曲輪群が築かれている。東郭から更に北西に尾根を辿ると、3段程の段曲輪群の上に主城部がそびえている。主城部は、南西に伸びる尾根上に築かれており、4つの曲輪を堀切で分断して配置した連郭式の縄張りである。整備された山林なので、段曲輪から主城部を見上げると、東側に築かれた2段の帯曲輪の上にそびえる切岸がきれいに眺められる。尾根上の曲輪は、北東端に二ノ郭を置き、土橋の架かった堀切を挟んで主郭がある。主郭の南西には堀切を挟んで三ノ郭、更に堀切を挟んで四ノ郭が配置されている。主郭と三ノ郭の西側にも帯曲輪が築かれ、主郭背後の堀切は長い竪堀となって落ち、西の帯曲輪を貫通している。また主郭の東に支尾根があり、そこにも帯曲輪群が幾重にも築かれている。須賀川要害は、大規模な城ではないが、普請はかなりしっかりしており、境目を守る重要な城であったことをうかがわせる。
主郭背後の堀切→DSCN0786.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.842761/140.231155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国佐竹氏研究の最前線

戦国佐竹氏研究の最前線

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/03/30
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金丸氏要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0405.JPG←主郭外周の横堀
 金丸氏要害は、下野の豪族那須氏の庶流金丸氏の居城である。正平年間(1346~70年)に那須資藤の次男資国が金丸の地を与えられて金丸肥前守と称し、根小屋館を築いて居館とした。その後、応永年間(1394~1428年)に大関氏が根小屋館の北方に白旗城を築いて居城を移すと、金丸氏は亀山の地を与えられて要害を築き(金丸氏要害)、居城を移したと言う。永正年間(1504~21年)には、上那須資親の実子資久が3歳で山田城(亀山城)に移され、山田次郎を名乗り、金丸肥前守義政は大田原美作守胤清と共に資久を預かり養育したと言う。当時、那須氏は上・下那須両家に分裂しており、既に白河結城氏から入嗣した資永が上那須氏の家督を継いでいたが、養父資親は実子資久の後継を望み、このことが上那須氏を滅亡させることとなった。その経緯は福原城の項に記載する。尚、資久が山田城に入ったのは、金丸氏がわずか3歳の資久を庇護するため、居城のすぐ北に独立峰としてそびえる山田城が適地とされたためであろう。その後金丸氏は、下那須氏によって再統一された那須氏の家臣として各地の合戦に従軍した。しかし1590年の小田原の役の際、豊臣秀吉の元に参陣した大関高増は、金丸氏を家来として申し出たため、金丸氏の領地は大関領として秀吉に認められてしまった。一方で那須氏は改易されたため、以後金丸氏は大関氏の家臣となり、居城を捨て麓に移り住んだと言う。

 金丸氏要害は、標高201m、比高60mの丘陵上に築かれている。北の県道27号線から南に入る林道があり、未舗装路で少々荒れているが、車で城のすぐ脇まで行くことができる。主郭を中央に置き、北西に細長く伸びる二ノ郭を配し、南には三ノ郭・四ノ郭を配置した縄張りとなっている。いずれの曲輪も規模が大きい。主郭は至るところで塁線が内側に歪んでいて、複雑な横矢掛りを形成し、全周横矢とも言うべき構造になっている。主郭の東から北にかけては大規模な空堀が廻らされ、二ノ郭・三ノ郭との間は大きな堀切で分断している。主郭内には土塁や櫓台らしい土壇が築かれ、南西に築かれた主郭虎口には小規模な枡形虎口が構築されている。虎口の外側前面には高台の堡塁が置かれて、虎口に攻め込む敵兵を背後から攻撃できるようにしている。二ノ郭は基部に土塁が築かれ、東西に腰曲輪が廻らされている。西側の腰曲輪の一部は横堀となっている。主郭と二ノ郭の土塁配置からすると、両郭は木橋で連結されていたらしい。主郭南の三ノ郭は広大で、郭内は西側が一段低くなり、東西には横堀が構築されている。主郭と三ノ郭の西側にかけては広い腰曲輪が広がり、その南端部から北西に向かって堀底道が下っており、往時の大手道であったと考えられる。この大手道が腰曲輪に繋がる部分の北側には櫓台が築かれて、大手を厳重に監視している。三ノ郭の南には浅い堀切を挟んで四ノ郭がある。四ノ郭は南東に向かって3段に分かれ、徐々に降る形となっている。四ノ郭の南には台地基部を分断する堀切が穿たれ、更に南東の斜面に大竪堀が落ちている。以上が金丸氏要害の構造で、大型の横堀群を多用して防御を固めた、戦国期の城の姿をよく留めている。堀はほとんどが箱堀形状となっていて、幅を広く持たせているのもこの城の特徴である。ただ全体に薮がひどく、特に三ノ郭やその西の腰曲輪は激薮で、見栄えしないのが残念である。
堀底道となっている大手道→DSCN0560.JPG
DSCN0609.JPG←四ノ郭の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.812360/140.141033/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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亀山城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0316.JPG←土塁で囲まれた主郭
 亀山城は、山田城とも言い、鎌倉初期に那須資隆の8男片田(堅田)八郎義隆によって築かれたと伝えられる。南西の平地には山田館(大関城)があり、義隆は山田館を平時の居館とし、亀山城を詰城としたと思われるが、後に片平城を築いて本拠を移し、以後は片平氏を称した。時代は下って戦国前期、那須氏が上・下那須両家に分裂していた時代に、上那須資親の実子資久は3歳で山田城(亀山城)に移され、山田次郎を名乗った。これは、既に白河結城氏から入嗣した資永が上那須氏の家督を継いでいたからであった。しかし資親は、資永を廃して実子資久に跡を継がせたいと思うようになり、重臣の大田原胤清・金丸義政に相談したが間もなく死没した。大田原・金丸両氏は資親の遺命を奉じて、資永のいる福原城を攻撃した。資永は、関義時・田川時法に命じて山田城を襲撃し、資久を奪取して福原城において刺殺した。このため山田氏は資久一代で滅亡したと言う。資久を殺した資永は自刃し、翌日、大田原氏らの攻撃によって福原城は落城した。しかし結果として資永・資久を失った上那須氏は断絶となり、下那須資房が跡を継いで両家を統一した。資房は、白河結城氏の攻撃に備えるため、1516年に山田城に子の政資を置いた。1520年、白河結城氏・岩城氏が山田城を攻撃し、これがきっかけで縄釣台(なわつるしだい)合戦が生起したと伝えられる。縄釣台合戦については不明点も多いが、那須氏が勝利したらしい。その後の亀山城の歴史は不明である。

 亀山城は、上那須家の滅亡に直接関わる重要な城であるが、城そのものは至って小さい。金丸氏要害のすぐ北西に隣接する比高50mの山上に築かれている。県道298号線と県道343号線が交わる片田交差点から少し南へ歩いた所に竹薮があるので、そこを突っ切って北西の尾根に取り付くと、小道が付いている。ほぼ単郭の城で、山上に主郭を置き、南西と北側に腰曲輪を設けただけの縄張りである。主郭が外周に土塁がよく残っており、北に大手虎口が設けられ、北東部に横矢の張出しが構築されている。また西と南西に南西の腰曲輪への虎口が2ヶ所築かれている。主郭の北側の腰曲輪は細長く伸びており、北東では横堀となっている。主郭の南東部は採石で土塁ごと消滅している。この他、北東から登る大手道には小郭らしい平場や竪堀が見られる。また北側の最下段には高台になった平場があり、根古屋があった可能性がある。小規模ではあるが普請がしっかりされており、横矢掛りなど戦国期の城の形態をよく留めている。
大手道脇の竪堀→DSCN0306.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.815280/140.139939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


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佐久山館要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0249.JPG←堀切と二ノ郭切岸
 佐久山館要害は、この地の土豪大輪氏の要害と伝えられているが、大輪氏の事績は不明で、築城年代も不明である。

 佐久山館要害は、那須与一宗隆の父資隆が築いたと伝承される高館城の南東に隣接して築かれている。高館城の南の駐車場から、東に尾根を進んでいくと登りの尾根となり、すぐに段曲輪群が現れる。ここからが佐久山館要害の城域となる。段曲輪群の中ほどには片堀切状の窪地がある。段曲輪群を登り切ると、尾根上には二ノ郭がある。二ノ郭はL字型をした曲輪で、その一番奥に高台となった主郭が置かれている。ただ主郭と二ノ郭の間の段差は傾斜が緩く、あまり明確には区画されていない。主郭・二ノ郭の周囲には腰曲輪が延々と築かれており、その一部は横堀となっている。二ノ郭の北東には堀切を挟んで三ノ郭がある。三ノ郭は細長い曲輪で、先端はL字に曲がって北に向かって下る尾根となっているが、ここには段曲輪群が築かれている。この段曲輪群の東側方には坂道状の腰曲輪が築かれている。三ノ郭には、南側から東側にかけて横堀が構築されているが、この外周の横堀は一部で腰曲輪+土塁の形状となっている。佐久山館要害は、比較的素朴な縄張りの城で、戦国時代以前の構築を想像させる。
主郭周囲の横堀→DSCN0228.JPG
DSCN0272.JPG←三ノ郭周囲の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.906752/140.131763/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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八幡館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1019.JPG←横矢掛りの堀切
 八幡館は、黒羽城の前身となる城である。那須氏の重臣角田氏の居城で、角田庄右衛門の築城と言われる。角田氏は三浦氏の後裔を称し、後に大関氏に従った。天正年間(1573~92年)に大関氏が八幡館に入って黒羽城を築くと、角田氏は奥沢館を築いて移り、奥沢氏を称したと言う。

 八幡館は、黒羽城中心部の北東にやや離れて位置し、黒羽城が拡張整備された際にその外郭の一部となったらしい。黒羽体育館が建つ黒羽城二ノ丸の北東に上城(石上台)と呼ばれる一郭があるが、ここから北が八幡館の城域となる。上城・本館・北館の3郭が南北に並んだ連郭式の縄張りとなっている。上城の郭内は、宅地・山林・畑となっており、南半分は大きく改変を受けている。上城の北には横矢掛りのクランクがある大きな堀切が穿たれている。この堀切に沿って、上城側には土塁が築かれているが、主郭である北の本館側にはほとんど土塁がない。従ってこの部分は黒羽城築城の際に大きく改修されたことがわかる。堀切の北は縦長の本館で、主郭に相当する。広い曲輪で東西に腰曲輪を伴っている他、東側の一部には車道脇に横堀が残存している。本館の北端近くには鎮国神社が建ち、北端を幅広の堀切で分断している。その北には舌状の北館があり、北館の北端部には数段の段曲輪が築かれて城域が終わっている。遺構を見る限り、八幡館は黒羽城築城の際に大きく改修されている様で、当初の姿は想像する他ないが、黒羽城の北の外郭遺構としても立派な姿を残している。
本館北側の堀切→DSCN1060.JPG
DSCN1105.JPG←車道脇に残る横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.873270/140.123974/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 英文, 竹井
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/09/18
  • メディア: 単行本


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黒羽城外郭(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0792.JPG←南1郭西側の横堀
 黒羽城については、本丸などの中心部が公園化されており、また紫陽花の名所でもあるので、紹介しているHPも数多く、城郭サイトでも多数紹介されている。しかし、黒羽城の隠れた遺構である外郭遺構については、紹介しているHPはごく僅かである。
 一方で近年、電子国土(国土地理院)の傾斜量図やアプリ「スーパー地形」などで地形の詳細が顕わに表示されるようになり、それを調べた結果、黒羽城の南北には見事な遺構群が残っていることがわかっていた。今春、新型コロナの蔓延で県外への遠征が憚られる状況となったため、満を持して踏査した。

 ここで紹介するのは南の遺構群である。三ノ丸には、現在「黒羽芭蕉の館」という展示施設が建っているが、その西から南に伸びる台地上の竹林の中に、中世城郭そのままの遺構が残っている。堀切で区画された曲輪群が台地上に連なり、東西に腰曲輪を付随させた縄張りとなっている。便宜上、ここでは中心軸上の曲輪を、北から順に三ノ丸上段郭・南1郭・南2郭と呼称する。三ノ丸上段郭は、西側に広い腰曲輪3段を伴っている。一番上の腰曲輪の南西部には、土塁で方形に囲まれた大きな窪地がある。この窪地は切通し状の通路で2段目の腰曲輪に繋がっているが、形としては石垣山城の井戸曲輪と似ているので、ここも井戸曲輪であった可能性がある。或いは倉が置かれていたのであろうか。三ノ丸上段郭と南1郭は堀切で分断されているが、この堀切はそのまま西に竪堀となって落ちている。竪堀は下段の腰曲輪に通じており、城内通路を兼ねている。またこの竪堀と直交するように三ノ丸上段郭西側の腰曲輪に通じる切通し状虎口と南1郭西側の横堀が繋がっており、堀の十字路を形成している。南1郭は南端に櫓台を築き、その南には南2郭との間を分断する堀切が穿たれている。また南1郭の西側には延々と横堀が構築されている。南1郭の東の腰曲輪には大土塁があり、屈曲しながら大雄寺の裏まで伸びている。また堀切は堀底道となって大雄寺まで通じている。南2郭は舌状の曲輪で、南から東にかけて横堀を穿っている。ここは、大雄寺墓地の裏手に当たる。

 一方、北の遺構群は、主城部の曲輪群と半ば独立した様に北東に少し離れて存在している。これらはおそらく黒羽城築城以前にあった八幡館を利用した遺構と考えられるので、別項にて八幡館として取り上げることとする。

 このように黒羽城は、県内で屈指の近世城郭である一方、中世城郭的色彩を色濃く持っている。江戸時代には、黒羽藩大関氏は高々2万石以下の小藩で、城持ち大名とは認められなかったため、巨城にも関わらず陣屋扱いされていた程であった。これらの外郭は、江戸時代にはどの様に維持されていたのだろうか。なかなか興味が尽きない。
南1郭東の腰曲輪の大土塁→DSCN0824.JPG
DSCN0838.JPG←南1郭~南2郭間の堀切
横堀で囲まれた南2郭→DSCN0856.JPG
DSCN0902.JPG←腰曲輪の大きな窪地

 場所:【南1郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.866523/140.121528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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岩谷要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN9634.JPG←堀切に築かれた木戸口
 岩谷要害は、那須氏の重臣角田氏が築いた城である。伝承によれば、源頼朝の那須野ヶ原の巻狩の際、三浦之介の居館であったと言い、また大関氏以前の地頭角田氏は三浦氏の後裔で、八幡館と共に角田氏の拠点であったらしい。後に大関氏に従い、天正年間(1573~92年)に大関氏が八幡館に入って黒羽城を築くと、角田氏は奥沢館を築いて移り、奥沢氏を称したと言う。

 岩谷要害は、那珂川東岸に連なる黒羽城・八幡館と続く丘陵上に築かれており、八幡館のすぐ北東に隣接するように築かれている。東の中腹に岩谷観音があり、その上に城がある。岩谷観音の境内の一番南に神社が建っているが、その脇に竪堀が落ちてきているので、それを登っていけば主郭周囲の空堀に至る。城は、4つの曲輪を南北に並べた連郭式で、北から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭となる。主郭と二ノ郭は、ほぼ方形の曲輪で、空堀が全周している。主郭と二ノ郭の東西の空堀はほぼ一直線に貫通しており、この内西側の空堀は更に三ノ郭西まで貫通している。主郭周囲の空堀は、その北東角と西側中央付近から竪堀が落ちている。三ノ郭の南側には堀切が穿たれており、前述の西側空堀に繋がっているが、堀切と空堀の接続部には仕切り土塁が築かれて木戸口が構築されている。このことから堀切・空堀は堀底道を兼ねていたことがわかる。堀切南の四ノ郭に空堀はないが、外周を土塁で囲んでいる。三ノ郭内はほぼ自然地形の緩傾斜地となっている。三ノ郭と二ノ郭の間には空堀の中央部に土橋が架かっているが、薮で少々わかりにくい。二ノ郭は薮に埋もれているが、主郭は薮が少ない。主郭内は東に向かってやや傾斜し、東辺部に沿って腰曲輪状になっており、西辺には低土塁が築かれている。この他、主郭から北西に少し離れたところに堀があるが、遺構かどうかは不明である。岩谷要害は、ほとんど横矢掛りのない縄張りで、戦国前期以前に使われた城だったと思われる。
主郭空堀から落ちる竪堀→DSCN9727.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.876977/140.127343/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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  • 発売日: 2018/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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大田原城 江戸堀(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN9537.JPG←江戸堀
 江戸堀は、大田原城北方の防衛線である。1600年、会津の上杉景勝討伐に下向した徳川家康は、上杉勢に対する防衛拠点として、黒羽城・大田原城に家臣を派遣して城を改修し、防備を固めさせた。この時、大田原城には石川重次・内藤忠清らが奉行として入り、本城の改修と共に北方の防衛線として築かれたのが江戸堀とされる。

 江戸堀は、大田原城の北端から北西400mの位置にある。蛇尾川沿いの丘陵地を横断する堀で、大田原神社から伸びる散策路を辿っていくと、山林の中に土橋の架かった空堀が現れる。それほど大規模な堀ではないが、堀の内側(城側)には土塁が築かれており、ここで敵勢を食い止めようという意図がよく分かる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.872772/140.030440/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
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岡本若狭守館(栃木県高根沢町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4853.JPG←五輪塔が立つ塚
 岡本若狭守館は、宇都宮氏9代公綱の家臣、岡本若狭守の居館である。公綱は南北朝時代の武将で、その名は『太平記』に名高い。主に南朝方として各地を転戦した。南朝衰退に伴って公綱も没落し、岡本若狭守館も廃されたと言う。

 岡本若狭守館は、五行川西岸の低台地に築かれている。現在は菅又病院の南側に塚があり、その上に五輪搭が建っていて、これが館跡であるらしい。塚がある以外は明確な遺構はなく、どこからどこまでが館であったのかも、現在では全くわからなくなっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.654855/140.004144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
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タグ:居館
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前原城(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2057.JPG←赤麻遊水地の遠望
(2020年8月訪城)
 前原城は、下野の名族小山市の庶流中沼(長沼)氏の城である。一般的には長沼氏として知られるこの氏族は、小山政光の次男中沼(長沼)淡路守宗政を祖とし、その後裔として鴫山城を本拠とした奥州長沼氏や、戦国下野で奮闘した皆川城の皆川氏を輩出した。前原城の中沼氏も同族で、鎌倉末期に中沼右京大夫宗忠が築城したと伝えられる。また南北朝期の文和年間(1352~56)頃には、長沼宗政6代の孫、中沼右近大夫守忠が前原城主で、その長男越前守守行が初めて前原氏を称したとされる。城は1590年まで存続したと言う。

 前原城は、西前原集落の南方にあったらしい。菱形の形状をしていたと伝えられるが、大正初期の赤麻沼北岸の遊水地化によって全壊した。従って城址は現在、渡良瀬遊水地の一部を為す赤麻遊水地の一画に埋没しており、どこにあったのか、その位置すら明確にできない。尚、西前原集落の北端に稲荷神社があるが、前原城と関連するものと考えられているらしい。せめて神社に社伝を書いた説明板でもあればよかったのだが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【推定地】
https://maps.gsi.go.jp/#16/36.270919/139.697771/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
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タグ:中世平城
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川田館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN9050.JPG←館跡の石碑
 川田館は、下野の名族那須氏の一族河田氏の居館である。那須頼資の6男資成が建仁~承応(1201~10年)頃に河田に分知されて、河田太郎を名乗り、河田氏の祖となった。南北朝時代には、那須資藤に従って1355年の東寺合戦に出陣した。1520年の縄釣台合戦や、天正年間(1573~92年)の合戦にも那須氏の家臣として出陣したと言う。

 川田館は、現在は一面の水田となっており、遺構は完全に湮滅している。わずかに車道脇に館跡の石碑が立っているだけである。南方には、高館城がよく見える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.916480/140.130090/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

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  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


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稲沢氏館(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN9036.JPG←国道脇に残る土塁
 稲沢氏館は、伊王野氏の一族稲沢氏の居館である。鎌倉時代前期に、伊王野次郎資長の弟五郎資家がこの地に分知されて稲沢氏を称し、この館を築いたと考えられている。以降、江戸初期まで那須氏の羽翼として多くの戦いで活躍したが、子孫は黒羽城主大関氏に仕えて黒羽城下に移住して、この地には稲沢氏支家が残った。

 稲沢氏館は、黒川西岸の平地に築かれている。西側には堀を兼ねていた小川(現在は水路)が流れている。国道294号線沿いにあり、国道脇に土塁が残っている。館跡は民家になっているので、立入りはできないが、外周の土塁は見ることができる。残っているのは全周ではなく、東辺の半分ほどと北辺だけの様である。また郭内は、北側1/3を区画するように東西に土塁が築かれ、南北2郭に分かれていた様である。車道脇の土塁には、「稲沢氏居館跡」の石碑が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.927270/140.131516/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
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鮎瀬氏館(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN9029.JPG←館跡の現況
 鮎瀬氏館は、長者平館とも言い、伊王野氏の重臣鮎瀬氏の居館である。鮎瀬氏は、下野の名族小山氏の庶流長沼氏の系統で、1395年に皆川義宗なる者が那須家を頼って都賀郡皆川館より鮎瀬村(大田原市寒井字鮎瀬)に移り、鮎瀬氏と称したと伝えられている。移住の経緯は不明だが、一族の内訌によりこの地に逃れたものであろうか。その後、次代の義顕が伊王野氏の家臣となり、伊王野に移り住んだと言い、この居館を構築したと考えられている。鮎瀬氏は、永正年間(1504~21年)頃から簗瀬氏・沼井氏らと共に諸記に登場するようになり、特に五月女坂合戦で宇都宮尚綱を討ち取った鮎瀬弥五郎はよく知られている。江戸初期に、伊王野城の大手口に移住したと言う。

 鮎瀬氏館は、黒川と三蔵川の合流点北側の段丘上に築かれている。地勢はよく残っているが、館跡は一面の畑となり、明確な遺構に乏しい。縁に土塁らしいものは見られるが、あまりはっきりしない。昭和20年代前半の航空写真を見ると、台地基部の北西から北面にかけて土塁と空堀があったようだが、現在は湮滅している。館跡には標柱もなく、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.951521/140.146805/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野の中世を旅する

下野の中世を旅する

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2020/11/07
  • メディア: 単行本


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伊王野館(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN9002.JPG←堀跡の根岸川と土塁跡
 伊王野館は、那須七騎の一、伊王野氏の居館である。伊王野氏は、那須頼資の次男資長が、1239年に伊王野に分知されたことに始まる。当初は平地に伊王野館を構え、那須氏の一族として重きを成し、那須宗家が上那須・下那須に分裂すると、上那須氏の重臣として活躍した。1487年頃に背後の山上に伊王野城を築いて移ったと言う。時代は下って江戸時代になると、1627~33年の6年間は、伊王野氏は山城から降りて再び伊王野館に居住したが、1633年に伊王野氏は無嗣断絶となった。

 伊王野館は、現在は伊王野小学校の敷地となっている。往時の主要街道であった東山道沿いという交通の要衝に位置している。土塁と水堀を廻らした単郭方形居館で、現在は北から西、及び南辺の西半分の土塁が残っている。北側の堀は、根岸川をそのまま堀として利用しており、現在もその姿を残している。伊王野城と共に、伊王野氏の往時の勢威が偲ばれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.958757/140.160109/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本の大名・旗本のしびれる逸話―名将・知将の頭脳とハート―

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  • 出版社/メーカー: 東邦出版
  • 発売日: 2019/03/01
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備中郭館(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8974.JPG←南側の土塁
 備中郭館は、伊王野氏の重臣薄葉氏の居館である。戦国末期~織豊期にかけての館主として、薄葉備中守の名が知られる。薄葉備中は、1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦として行われた、伊王野資信が上杉景勝軍を撃退した関山合戦において、奮戦したことが伝えられている。館は、1634年の伊王野氏改易の頃まで使用されたと言う。

 備中郭館は、伊王野市街地を挟んで伊王野館伊王野城と相対する位置に築かれている。三蔵川南岸の比高10m程の河岸段丘の北縁部に当たる。概ね扇形をした居館で、現在は民家の敷地となっているが、南から西側にかけて大きな土塁が残っている。また北西部には堀跡も確認できる。あまり期待していなかったが、思った以上に遺構がよく残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.954642/140.163317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
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大久保館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8945.JPG←北西に残る土塁
 大久保館は、この地の土豪大久保氏の居館である。大久保氏の事績については不明であるが、館の南東の山上に羽黒山要害があり、これも大久保氏関係の要害と考えられている。
 大久保館は、前松葉川沿いの平地に築かれている。現在は民家や水田に変貌しているが、北西部に土塁が残っている。また西側にも堀跡っぽい水路と低土塁が見られ、これも遺構ではないかと思われるが、その脇を通る車道の方が郭内より高い位置にあるのが、ちょっと気になる。近代の改変もあると思われるので、どこまでが遺構かはっきりしないところもある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.911041/140.164497/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

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  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
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タグ:居館
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築地館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8908.JPG←唯一残る土塁
 築地館は、大館とも呼ばれ、伝承では平安時代末期に那須氏の祖須藤権守貞信がここに館を築き始めたが、途中で神田城に移ったと言われる。また一説には、那須与一の父資隆が居館を築いて移住した所ともされる。

 築地館は、那珂川西岸の平地に築かれている。館跡は現在、民家・工場・水田に変貌しており、遺構の湮滅が進んでいる。館の構造には不明点が多いようだが、東西2郭で構成されていたらしい。昭和20年代前半の航空写真を見ると、既に東郭は一部しか輪郭が明瞭ではなく、明確なのは西郭だけである。その西郭も現在はかなり失われており、わずかに北西部の土塁だけが残っている。また東側の水田に段差があり、堀跡であった名残をわずかに残している。ただ、唯一残る土塁も草木が伐採されて今にも破壊されそうな感じである。何とか、遺構を後世に残していってほしいものである

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.872806/140.108610/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


那須与一伝承の誕生―歴史と伝説をめぐる相剋

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  • 作者: 山本 隆志
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2012/03/01
  • メディア: 単行本


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奥沢館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8885.JPG←西側の残存土塁
 奥沢館は、那須氏の重臣角田氏(後に奥沢氏を称す)が天正年間(1573~92年)に築いた居館である。角田氏は、三浦氏の後裔を称し、元々は八幡館を本拠としていた。後に大関氏に従い、天正年間(1573~92年)に大関氏が八幡館に入って黒羽城を築くと、角田氏は奥沢館を築いてここに移り、奥沢氏を称したと言う。その後裔は江戸前期の寛永の頃に野上に移り、館は廃された。

 奥沢館は、那珂川西岸の段丘上に築かれている。やや西に傾いた平行四辺形の単郭居館で、館跡の中心付近を十字に道路が貫通し、郭内は一部が民家、大半が水田に変貌しており、遺構の湮滅が進んでいる。しかし交差点北西の民家の裏(西側)に土塁が残り、また南の薮の中にも土塁が残っている。西の堀跡には水路が流れ、南西角部の土塁もわずかな土盛りとなって残っている。
南側に残る土塁→DSCN8891.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.879535/140.113009/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

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  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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構え場館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8873.JPG←堀跡の道路
 構え場館は、天正年間(1573~92年)初期に伊王野城主伊王野資宗が大関氏との抗争に際して構えた出城と伝えられている。1585~6年頃に廃城となったと言う。
 構え場館は、松葉川と野上川に挟まれた比高15m程の河岸段丘の先端部に築かれている。ツノの様に突き出た台地の基部(東側)を土塁と空堀で分断し、先端部にいくつかの暖曲輪群を築いただけの簡素な城砦である。しかし東側の土塁と空堀は、耕地化で湮滅している。昭和30年代の航空写真ではくの字型に折れた空堀ラインがはっきりと確認でき、現在車道が通っているのが空堀ラインの一部であることがわかる。この他、氾濫原に面した西端部には堀切状の地形が見られるが、ほとんど埋もれている。弾正館と同様に、かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.872772/140.132160/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本



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弾正館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8834.JPG←南側に残る谷地形の水路
 弾正館は、伝承では伊王野氏の一族伊王野弾正が戦国末期に築城した出城と言われる。大関氏との抗争では伊王野側の最前線の拠点となった。しかしこの地が大関氏の支配下に入ると、廃城となったと伝えられている。
 弾正館は、野上川南岸の比高10m程の段丘北西端部に築かれていた。しかし現在郭内は星が丘団地という住宅団地に変貌しており、明確な遺構は残っていない。唯一、南側に天然の堀として刻まれていた谷が、現在も水路となって残っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.869837/140.131903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
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中根館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8778.JPG←北東部の土塁
 中根館は、歴史不詳の城館である。『那須拾遺記』には「中桝のタテ(楯・館)」と記載されていると言う。
 中根館は、水田の中に建つ民家の敷地となっている。水田よりわずかに高い微高地で、方形の敷地となっており、民家の北東部にわずかに土塁が残る。東側の塁線はほぼ往時の姿を残しているようで、北側には堀跡らしい水路が流れている。西側は埋め立てられて、敷地が拡張されているので、往時の形状は失われている。昭和20年代前半の航空写真を見ると、周囲には堀の形状を残した水田があったようだが、現在は耕地整理で堀の形状は失われている。これ以上の改変が進まないことを望むみたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.828661/140.118642/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野の中世を旅する

下野の中世を旅する

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2020/10/28
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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鷹ノ巣城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8769.JPG←城址遠望
 鷹ノ巣城は、梅ヶ平館を本拠とした土豪大金備後守重宣の弟、大金豊後守の居城である。豊後守は、兄と共に佐竹氏に属していたが、論功行賞の不満から那須氏に属するようになった。那須資胤から湯津上と亀山の一部を与えられ、鷹ノ巣城を築いて居城としたと言う。しかし豊後守は、1566年に佐竹勢が宇都宮氏・上那須勢と共に那須氏を攻撃して敗北した治武内山合戦の際に、討死したと言う。

 鷹ノ巣城は、那珂川西岸の河岸段丘の辺縁部に築かれている。西側に浸食谷が入り込んだ半島状の台地で、地勢は往時のままだが、現在はゴルフ練習場に変貌している。その為内部散策もできず、遺構も湮滅しているが、ゴルフ練習場の名は「鷹ノ巣城ゴルフ」で、しっかりと城の名が残されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.816105/140.124693/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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大関城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8726.JPG←外周の土塁
 大関城は、山田館・下山田城とも言い、那須氏の重臣大関氏の一時期の居城である。元々の創築は、鎌倉初期に那須資隆の8男片田(堅田)八郎義隆によると伝えられる。義隆は、大関城の北東に山田城(亀山城)を築いて詰城としていたと思われるが、後に片平城を築いて移り、片平氏を称した。時代は下って戦国初期の明応年間(1492~1501年)に、大関宗増は黒羽八幡館から大関城に居城を移した。その子増次の時に、先祖の増清が応永年間(1394~1428年)に築城した白旗城を修築して居城を移し、大関城は廃城となった。

 大関城は、那珂川東岸の河岸段丘の辺縁部に築かれている。西側を那珂川の侵食崖に接し、それ以外の三面に土塁と空堀を廻らした方形の平城である。郭内は田畑に変貌しているが、現在も外周を高さ数mの切岸で囲まれた城の形状をよく残しており、土塁も北から東・南東部にかけてよく残っている。周囲の水田も、堀跡であることが明瞭であるが、昭和30年代の航空写真と見比べると、堀跡の水田はかなり広げられているようなので、往時の規模でないことに注意が必要である。尚、航空写真で見ると、主郭の南にも堀跡の様な水田で囲まれた方形の区画が見られ、馬出しか、或いは重臣層の館跡である可能性もあるが、水田地帯に囲まれて近づくことができなかったので、確認できていない。これほど良好に残っているにも関わらず、市の史跡にも指定されておらず、従って解説板はおろか標柱すらないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.806313/140.133190/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


常野記 (水戸藩領武茂郷と下野国黒羽藩の幕末・維新)

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  • 作者: 大金義昭
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2017/08/30
  • メディア: 単行本


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上ノ原館(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8707.JPG←水田の段差、手前は堀跡か?
 上ノ原館は、城之内・ゆうげの城(「ゆうげ」は要害の転訛)とも呼ばれ、歴史不詳の城館である。『日本城郭大系』によれば、120m四方の方形単郭居館であったらしく、水田の畔により堀跡がほぼ確認できるとある。しかし現在は耕地整理が進んでおり、その位置も明瞭ではない。わずかに水田の南側に段差があり、その南西部は低い水田となっていて堀跡っぽく見える。また北には土塁か塚らしい土盛りも見られる。但し、これらが遺構であるかどうかは全く確信が持てない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.768713/140.128663/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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三輪館(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8682-001.JPG←畑の中に残る土塁(写真奥)
 三輪館は、歴史不詳の城館である。那須氏の一族片平氏の構築と伝えられ、『日本城郭大系』では、片平氏が片平城を本拠とし、戸田城をその砦に、三輪館を居館として使用したとの説を提示している。尚、西には後城館が隣接している。

 三輪館は、権津川西岸の段丘上に築かれている。正確な場所はわかりにくいが、遺構概要が『栃木県の中世城館跡』『那須の戦国時代』よりやや詳しい『日本城郭大系』の記述からすると、河岸段丘の北東端部にあったらしい。昭和20年代の航空写真を見ると、『日本城郭大系』の記述通り北辺と東辺に土塁があり、東辺の土塁の中央部から西に向かって一直線に土塁が伸びている。現地を歩くと、宅地化・耕地化で遺構はかなり失われているが、民家の脇に塚状の土壇や、西に向かって伸びる土塁が畑の中に残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.760513/140.114940/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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後城館(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8662.JPG←南側の水路
 後城館は、歴史不詳の城館である。初期の那須氏関係のものとも、或いは、三輪館の西側に隣接して所在したことから、三輪館に付属するものか、三輪館に関連したものとも推測されている。

 後城館は、権津川西岸の段丘上に築かれている。正確な場所はわかりにくいが、遺構概要が『栃木県の中世城館跡』『那須の戦国時代』よりやや詳しい『日本城郭大系』の記述からすると、三輪郷倉が建っている場所の北東辺りに所在していた様である。昭和20年代の航空写真を見ても既に館の形状を追えない程、宅地化・耕地化による破壊を受けている。南に水路が流れているが、水路を挟んでわずかな段差があるので堀跡の可能性もある。いずれにしても、現在では失われた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.760152/140.113621/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

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  • 作者: 西股 総生
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  • 発売日: 2018/09/22
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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