SSブログ
古城めぐり(栃木) ブログトップ
前の30件 | 次の30件

高島館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2510.JPG←二重の土塁と空堀
 高島館は、高島右京守によって築かれたと伝えられる。しかし「右京守」と言う官職は存在しないので(右京大夫・右京亮なら存在するが)、この伝承には疑問がある。高島氏の事績は不明であるが、中世の武士であれば、宇都宮氏の家臣であったのだろう。

 高島館は、江川東岸の台地の南西角に築かれている。郭内は民家と畑になっているので、遺構の湮滅が進み、また内部の探索はできない。しかし川沿いには館の西辺部に当たる二重の土塁と空堀が残っている。わずかに残った貴重な遺構であるので、何とか保護の手立てを講じて欲しいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.483839/139.926639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

茂原城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2495.JPG←わずかに残る土塁
 茂原(裳原)城は、宇都宮氏の家臣茂原(裳原)遠江守家次の居城と伝えられる。家次は、平安末期の承安年間(1171~5年)にこの地に居住していたらしい。

 茂原城は、茂原町の本郷地区にあったらしく、集落内には土塁などが断片的に残っている。しかしあまりに断片的過ぎて、全体の縄張りを想像するのは困難である。空堀らしい場所もあるが、夏場であったので薮で空堀は確認できなかった。
尚、茂原城から南東900mにある茂原観音堂の観音像は、茂原遠江守家次が枕辺に立った聖観音の像を彫刻して安置したとの伝承が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.474781/139.878230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

針谷氏屋敷(栃木県野木町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2420.JPG←L字の空堀と土塁
 針谷氏屋敷は、小山氏の家臣針谷河内守の居館とされる。根渡神社の南に長く伸びる参道があるが、その脇の林の中に土塁と堀跡が残っている。参道の東側に薮を分け入っていくと、民家の敷地の北西側に方形郭の北西部と思われるL字の空堀と土塁、そこから北に空堀が走り、その先に東西に一直線に伸びる土塁と堀がある。その少し北側には斜めに北東に伸びる土塁と空堀があり、その先は東に方向を変えて、根渡神社前を東西に走る車道のすぐ脇を車道に平行に伸びて終わっている。また参道の西側にも空堀・土塁が残るが、東側よりも薮が多くて形状が掴みにくい。以上が針谷氏屋敷の遺構で、残存しているのは北西部だけであるが、方形館を三重の堀で囲んだような形態だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.219825/139.753046/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


中世武士の勤務評定―南北朝期の軍事行動と恩賞給与システム (戎光祥選書ソレイユ005)

中世武士の勤務評定―南北朝期の軍事行動と恩賞給与システム (戎光祥選書ソレイユ005)

  • 作者: 松本一夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/06/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

松本丹波守館(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2319.JPG←館の切岸跡か?
 松本丹波守館は、歴史不詳の城館である。『佐野市の城館跡ガイド』というパンフレットに記載されている館跡である。東を流れる三杉川を挟んで南東500~600mの所には小南城がある。松本丹波守の事績は不明であるが、唐沢山城主佐野氏の家臣であったか、さもなくば小南城と関連した武士であったろうか?

 松本丹波守館は、三杉川西岸の台地上にあったらしい。正確な場所は不明だが、佐野プレミアムアウトレットの南に隣接する住宅地辺りと思われる。佐野プレミアムアウトレットができたおかげで周囲の景観は一変しているが、館跡と思われる付近の宅地は南側に台地縁の段差があり、館の切岸跡の可能性がある。しかしそれ以外の痕跡は皆無である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.289852/139.606125/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


坂東武士団と鎌倉 (中世武士選書)

坂東武士団と鎌倉 (中世武士選書)

  • 作者: 実, 野口
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/30
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

山下本郷館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2299.JPG←館内の本郷古墳
 山下本郷館は、歴史不詳の城館である。現在は宅地化されており、遺構の湮滅が進んでいるが、北西辺には土塁が残り、南西辺には土塁・切岸跡らしい段差が見られる。北東に流れる水路は、堀跡であった可能性もある。また館内の北端には本郷古墳という円墳が残っていて、往時は櫓台として使用されたものと考えられる。『足利市遺跡地図』によれば、西側に幅5m、長さ40mの堀があり、堀の両側には土塁がある、南側に高さ1.5mの段差が100mにわたる、東側に削平された低土塁、北西部に堀の痕跡が山林の中に残る、遺構の範囲は150m×120m、とされる。どこも民家なので、確認できる遺構は限られるが、館跡らしい感じの地形は残っている。
南西辺の段差→DSCN2303.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.355997/139.409080/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


中世武士団 (講談社学術文庫)

中世武士団 (講談社学術文庫)

  • 作者: 石井 進
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/09/15
  • メディア: 文庫


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

下渋垂本郷館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2282.JPG←北西の堀らしき跡
 下渋垂本郷館は、歴史不詳の城館である。『足利市遺跡地図』によれば、北・西・南の一部に堀を廻らし、北側の堀は「オクラ(=御蔵か?)堀」と呼ばれていると言う。現在は民家等に変貌しているが、小さな自動車工場辺りが主郭と思われ、その北西にわずかな段差と堀跡のような低地が見られ、水路が走っている。南西にも段差と堀のような低地があるが、昭和20年代前半の航空写真と照合すると、西のものは堀跡らしいが南のものは遺構ではなさそうである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.302131/139.479311/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


栃木県の歴史 (県史)

栃木県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

県中妻館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2276.JPG←北側の土塁の遠望
 県(あがた)中妻館は、歴史不詳の城館である。すぐ南の神明宮には下県城があったと言われるが(『栃木県の中世城館跡』)、両者の関係は不明である。『足利市遺跡地図』には県中妻館はあるが下県城は記載されておらず、もしかしたら下県城と同一のものであろうか?

 県中妻館は、前述の通り神明宮の北の宅地で、北側に土塁が遠目に確認できる。『足利市遺跡地図』によれば、東西100m、南北100mの方形館であったと推測され、北側に高さ1.5m、長さ30mの土塁が残り、内側に幅1.5mの堀が水路となって残るという。また西・南・東の3方にも水路が通じているという。しかしどの水路のことを指して言っているのかよくわからない。昭和20年代前半の航空写真を見ると、神明宮付近では城跡の形跡が明瞭でなく、一方で県中妻館は方形の区画として見えるので、県中妻館は下県城と同一のもので場所はこちらが正であるのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.288468/139.464397/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

下ノ宮館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2267.JPG←館跡付近の現況
 下ノ宮館は、歴史不詳の城館である。羽刈神明神社の南側に位置していたらしい。『足利市遺跡地図』によれば、民家の北西に幅5m、高さ1.5mの土塁がかぎの手状に残存していたとしているが、現在では宅地化によって土塁は確認できなかった。
 ちなみに南には大きく曲流する藤川があるが、その藤川の南の半島状台地には千原田古塁があり、至近であるので下ノ宮館との間に何らかの関係があったのだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.276741/139.472015/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

荒萩中館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2264.JPG←館跡の竹林
 荒萩中館は、江戸時代に美濃国高富藩の代官屋敷であったと言う。
 荒萩中館は、荒萩集落の中にあり、現在は竹林に覆われている。民家裏の民有地なので、中に入ることはできないが、西側の車道から竹林の中を覗くと、わずかにL字の土塁と堀跡らしいものが見られる。『足利市遺跡地図』によれば、北側に長さ30m、幅5mの堀が残存し、その内側に高さ2.5mの土塁が10m程残っているとされる。しかし見えた土塁は高さ1m程しかないように見え、位置関係も『足利市遺跡地図』の記載と合致しないので、実際にどの様な遺構だったのかは判然としなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.284749/139.507463/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

山本氏館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2258.JPG←館跡付近の現況
 山本氏館は、山本義光が戦国期に築城したとされる城館である。その他の事績は不明であるが、足利長尾氏と佐野氏の勢力の接壌地帯に位置しており、強い軍事緊張下に築かれた境目の城館であったと考えられる。

 山本氏館は、旗川右岸、JR両毛線の北に位置している。正慶寺の南に並ぶ民家の当たりらしい。『栃木県の中世城館跡』にその略測図が掲載されており、方形状の郭が3つ連結していたとされるが、該当地を昭和20年代前半の新旧の航空写真で探索しても略測図と合致する地形は確認できない。ただ遺構は明瞭ではないものの、西側に堀跡っぽく見える水田がある民家が確認できる。その民家の北側には土塁が残る可能性があるが、草木が生い茂っていてはっきりと確認することはできなかった。残ってたとしてもわずかな遺構であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.317001/139.542031/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

里矢場上屋敷館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2246.JPG←民家の外周に残る土塁
 里矢場上屋敷館は、歴史不詳の城館である。矢場川小学校の北、神明宮の西に位置し、民家の裏にL字型の土塁がよく残っている。北西にもわずかに土塁が残存しており、概ね方形の区画が想定される。おそらく方形居館であったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.310241/139.425044/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2012/08/07
  • メディア: 文庫


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

松本城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2221.JPG←土塁と空堀状地形
 松本城は、歴史不詳の城である。足利尊氏の執事を務めた高師直の曽祖父、高重氏は松本入道と称していたことから、その屋敷が松本郷にあったと考えられ、松本城を居城としていたことが推測される。また重氏の子師氏は、足利家時(尊氏の祖父)・貞氏(尊氏の父)2代に執事として仕え、やはり松本入道と呼ばれていたらしいことから、師氏も松本城を居城としていたことが考えられる。

 松本城は、小俣川東方の丘陵端の段丘にあったらしい。日枝神社の北側にあり、西側に広がる住宅地より一段高い平場となっている。この平場は一部が畑となり、その他は雑木林となっているが、周囲には切岸と腰曲輪らしいものが見られ、背後に物見台状の土塁と空堀状の地形も残る。その裏の斜面には段々の平場が築かれているが、畑の跡であるらしい。この他、主郭と思われる高台の入口のところも、虎口の様に見えなくはない。後世の改変が疑われるため遺構は明確にできないが、『足利市遺跡地図』では主郭・虎口・腰曲輪・土塁が残るとされる。もし鎌倉期の高氏にまつわる遺跡であれば、非常に貴重である。
段丘の南西角部→DSCN2214.JPG
DSCN2206.JPG←西側の腰曲輪らしい平場

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.387787/139.381120/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


高 師直: 室町新秩序の創造者 (歴史文化ライブラリー)

高 師直: 室町新秩序の創造者 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/07/21
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

板倉中妻居館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2199.JPG←館跡付近の現況
 板倉中妻居館は、板倉城主板倉渋川氏の居館の一つである。板倉渋川氏は、根小屋・中妻・駒場と居を移したと伝えられている。
 板倉中妻居館は、板倉城のある要害山の北麓の微高地にあった。松田川支流の小河川の東側で、現在は北半分が保育園、南半分が空き地となっており、遺構は全く残っていない。残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.375142/139.404144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

丹南藩五十部陣屋(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2192.JPG←石垣
 丹南藩五十部(よべ)陣屋は、河内丹南藩の高木氏が足利郡の所領を治める為に造営した陣屋である。代官には在地土豪の岡田氏が任命され、岡田氏が代々職を務めた。
 丹南藩五十部陣屋は、通称「代官山」の南東麓に位置している。高台となっているが、平坦地内には古びた住宅が数棟建っている。南東面の切岸には石垣が残っている。わずかではあるが貴重な遺構であり、是非保護の手立てを講じてほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.351417/139.426718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

岡田氏館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2187.JPG←館跡付近の現況
 岡田氏館は、足利長尾氏の家臣で富士山城主であった岡田長親・秀親父子の居館である。富士山の西側の谷状に奥まった部分にあったと推測されており、かつては石垣も残存していたと言う。しかし現在は住宅地となっていて、遺構は完全に湮滅している。もし今でも石垣が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.328913/139.440880/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


栃木県の歴史 (県史)

栃木県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

足利藩陣屋(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2176.JPG←陣屋跡
 足利藩陣屋は、江戸中期の1705年、徳川譜代家臣の戸田忠利が1万1千石に加増を受け、大名として足利藩を立藩した。この時、陣屋が造営された。以後、戸田氏は幕末まで足利藩の藩主であった。最後の藩主戸田忠行は、幕末に陸軍奉行並に抜擢されたが、戊辰戦争では宗家の宇都宮藩戸田家が新政府軍に恭順したので、足利藩も新政府方に付いた。1869年(明治2年)に足利藩知事に任じられたが、2年後の廃藩置県で職を免ぜられ、忠行は東京に移住した。陣屋は1876年に火災で全焼した。

 足利藩陣屋は、現在の雪輪町一帯にあった。足利戸田家の馬印が「雪輪」だったことから、この町名が付いたと言う。現在は住宅地となっていて遺構はほとんど残っていない。陣屋の井戸が民家の脇にあったが、その民家は現在更地となっていて、足利市が整備中の様である。また北東にある栄富稲荷神社は、足利戸田家に所縁のある神社らしい。おそらく鬼門除けなのだろう。陣屋から南に真っ直ぐ伸びる陣屋大門通りは、かつての陣屋大手道がそのまま残っている。この他、足利市内の民有地に陣屋表門が移築されて残っているが、解説板はほとんど字が消え、門も傾いており、このままでは倒壊してしまいそうである。そうしたら、表門を探訪してから数ヶ月後に、陣屋門が倒壊の危機にあると言うニュースが取り上げられていた。早急な手当てを望みたい。
陣屋大門跡→DSCN2171.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.336761/139.448787/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

助戸宮脇館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2159.JPG←館跡付近の現況
 助戸宮脇館は、歴史不詳の城館である。かつては付近に中妻・南小路・東小路・西小路、南側に東前田・西前田、西方に馬場の小字名があり、館跡であったことが推定されると言う。

 助戸宮脇館は、『足利市遺跡地図』によれば助戸公民館を中心とする一帯にあったらしい。現在は市街化で遺構は確認できない。しかし公民館の敷地には、「旧木村輸出織物工場」という明治に建てられた古い建物があり、県の文化財に指定されていて、そちらの方が見所がある。
旧木村輸出織物工場の事務所棟→DSCN2161.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329950/139.466715/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史 (県史)

栃木県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

吉水陣屋(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2154.JPG←石碑の建つ公園
 吉水陣屋は、吉水城とも呼ばれ、1616年に徳川家康の側近本多正純によって築かれた陣屋である。正純は、駿府城の徳川家康に仕えていわゆる大御所政治を支えた重臣で、1608年に小山藩3万3千石(1616年に5万3千石に加増)、更に1619年に宇都宮藩15万5千石へと累進したが、1622年に失脚し、改易された。吉水陣屋は1619年の宇都宮藩転封の際に天領となり、廃されたと言う。

 吉水陣屋は、清水城(興聖寺城)の東方に築かれていたらしい。昭和時代まで遺構の一部が残っていたらしいが、吉水駅前区画整理事業で完全に湮滅したと言う。現在周囲一帯は住宅団地となり、新吉水第1公園の中に城址碑が立っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.348375/139.579368/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2012/08/07
  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

梅沢兵庫正勝館(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2126.JPG←宝蓮寺周囲の段差
 梅沢兵庫正勝館は、梅沢城主梅沢石見守義久の一族梅沢兵庫正勝の居館である。『栃木県の中世城館跡』の梅沢城の項では、宝蓮寺を梅沢兵庫正勝の居館跡と推測していることから、ここでは梅沢兵庫正勝館として記載する。

 梅沢兵庫正勝館は、前述の通り宝蓮寺となっている。境内に掲げられた宝蓮寺の寺伝には、梅沢氏のことは何も書かれておらず、日光を開山した勝道上人が創建した寺とのことで、梅沢氏よりも遥かに歴史のある寺であるらしい。『栃木県の中世城館跡』が何を根拠に梅沢兵庫正勝の居館と推測したのかは不明だが、境内は確かに周囲の平地より一段高い高台となっていて、館跡らしい雰囲気を残しているのは事実である。
 尚、宝蓮寺から永野川を挟んで対面には藤沢城があり、北西600mの山上には不摩城があって、これらと連携していたことをうかがわせる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.446755/139.642174/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

皆川城外郭(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2085.JPG←墓地裏の空堀
 あまり知られていないかもしれないが、皆川城には外郭遺構がある。『栃木県の中世城館跡』の縄張図によれば、本城の置かれている城山の東に台地となった高台が2段あり、外周に切岸・土塁の防御線が構築されている。2段の内、下段の南東部には白山台と呼ばれる高台があり、古墳時代の祭祀遺構でもあるが、ここに最初に皆川庄を与えられて入部した長沼宗員系のいわゆる第一次皆川氏の居館があったと考えられている。この外郭から更に300~400m東に離れて皆川氏の氏神である東宮神社があるが、ここも切岸・土塁で囲まれた高台となっていて、出丸となっていたらしい。

 5月下旬にコロナ下で遠出もできなかったので、これらの遺構を探索した。最初に一番東にある東宮神社からスタートした。東宮神社の境内は、比高7~8mの高台となり、南側に明確な切岸がある。また神社の北側は運動公園となって変貌しているが、東西と南の神社との境に土塁が築かれており、西側にはわずかに空堀も残っている。また城山東の2段の外郭にも、民有地の脇に土塁と切岸が残っている。旧居館跡とされる白山台は、民有地の奥にある山林なので、踏査していないが遠目にも高台になっていることがわかる。東の外郭を、上段の切岸を通過して城山に近づいていくと、城山東南東の裾野に墓地があるが、その裏に大きくクランクする空堀が穿たれている。この空堀は、本城外周の防衛線を成す空堀の一部で、空堀内側の土塁は土橋を兼ねて空堀外側に繋がっており、この土橋の両側で、南の空堀と東の墓地裏の空堀が食い違いの形となっている。墓地裏の空堀は、90度折れて南東に降った後、更に南側に折れている。空堀の外側には墓地から民家まで取り巻くように、クランクする土塁が築かれている。
 栃木県内で、これほど外郭遺構がよく残る城は他に例がなく、見逃し難い遺構群である。

出丸西側の土塁と空堀→DSCN2061.JPG
DSCN2072.JPG←外郭下段の土塁
外郭奥の白山台(奥の杉林)→DSCN2076.JPG
DSCN2077.JPG←外郭上段の切岸
墓地裏から伸びる空堀・土塁→DSCN2116.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【東宮神社・運動公園の出丸】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.396493/139.691226/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【白山台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.395284/139.687461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【墓地裏の空堀】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.395974/139.684896/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小泉館(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1917.JPG←畑の北辺に残る土塁
 小泉館は、田野城主羽石内蔵介の幕下であった小泉小三郎の居館であったと伝えられる。1585年に久下田城主で結城氏麾下の勇将として名高い水谷蟠龍斎正村が田野城を攻略した田野合戦の際、羽石方の武将として小泉小吉左衛門秀兼・小泉次郎兵衛秀行・小泉七郎等の名が見える。しかし羽石氏滅亡と共に小泉氏も滅亡した。また、祖母井の平石家文書によれば、祖母井信濃守九郎兵衛定久(国胤)が小泉に居を構え、後に祖母井に移ったとも伝えられる。

 小泉館は、小泉集落南方の高台に位置しているが、現在は麦畑や果樹園に変貌しており、遺構はかなり失われている。しかし北辺に土塁が残存しており、土塁の北面は切岸による段差となっている。土塁は西端部が一番高くなっていて、櫓台が置かれていたと思われる。夏場で雑草が繁茂していたので土塁上の踏査はしなかったが、櫓台の所には祠が祀られているらしく、地元の方の話では水神さんと呼ばれているらしい。昭和20年代前半の航空写真を見ると、畑の中に明確に方形の区画が確認できるが、現在残っているのは北辺部の塁線だけである。外周には空堀も廻らされていたようだが、これも現在は失われている。
 尚、この館の場所の特定に当たっては、益子町中央公民館の生涯学習課の方に情報を教えていただいた。この場を借りて御礼申し上げます。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.414160/140.084481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

坪山城(栃木県下野市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1897.JPG←城址付近の現況
 坪山城は、1289年に下条民部太夫重慶が築城した城である。下条氏の事績については不明だが、勢力圏としては小山氏の領域になるので、小山氏の家臣であったものだろうか?1441年に結城合戦により結城城と共に落城し、廃城となったと伝えられる。

 坪山城は、田川東岸の平地に築かれた平城で、現在は一面の水田地帯に変貌し、遺構は残っていない。ただ、城址の北東にある東権現神社(廃工場の東に隣接)の碑の裏面に坪山城の事が書かれている。碑文によれば、神社より西南方約300mの位置にあり、東権現神社は城の守護社であったと言う。神社の南西ということは、逆に言うと城の北東、即ち鬼門の方角に神社があったことになるので、城の鬼門除けとして神社が祀られたのだろう。昭和30年代の航空写真を見ると、神社の南西に方形に近い形状の水田の区画が見えるので、これが城跡と思われる。現在は田圃整理で完全に痕跡は失われている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.370978/139.903722/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

朝比奈館(栃木県壬生町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1788.JPG←朝比奈の五輪塔
 朝比奈館は、歴史不詳の城館である。実際に城館があったのかどうかも不明であるが、地勢としては恵川東岸の比高5m程の低台地の突端に当たり、城館が置かれても不思議のない場所である。その伝承も、伝説の色彩が濃厚で、鎌倉幕府の初代侍所別当の和田義盛の3男朝比奈三郎義秀にまつわるものであるらしい。館跡とされる丘には、「朝比奈の五輪塔」として町の史跡に指定されている大型の五輪塔があり、これが朝比奈義秀の墓と伝えられている。和田合戦で義盛が滅亡した際、義秀はこの地まで逃れ、追手の目をくらませるために自分の墓に見せかけてこの五輪塔を建て、その後いずこともなく去っていたと言う。しかし朝比奈義秀に関係する伝説的な史跡は東日本の各地にあるので、ここもその一つであり、俄には信じ難い。

 また朝比奈館から南東約500mの水田の中には、御熊野塚・尼恋塚という朝比奈義秀伝説に関連する塚も残っている。
水田の中に残る御熊野塚→DSCN1794.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【朝比奈の五輪塔】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.490533/139.819629/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【御熊野塚】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.486496/139.821882/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【尼恋塚】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.486789/139.822011/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館 墓所
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

沼野井館(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1769.JPG←館跡の高台
 沼野井館は、伊王野城主伊王野氏の家臣沼野井氏の居館である。文献上では永正年間(1504~21年)の上那須氏内紛の頃から現れ、簗瀬氏らと共に伊王野氏の家臣として活躍した。近世の初めには度々現れ、豊臣時代に水戸藩に出仕や帰農するような事情があり、館は廃されたらしい。沼野井氏の出自には二説あり、一つは1155年に鹿子畑から移り住んだという説、もう一つは鎌倉初期に那須氏の庶流須藤源蔵が沼野井に入部して沼野井氏の祖となったという説である。二説の内、どちらが正かは判然としないと言う。

 沼野井館は、余笹川西岸の丘陵の一突端上に築かれている。西だけが丘陵続きとなった高台で、現在は宅地や耕地となっている。高台という地勢以外は、明確な遺構は残っていない様である。民家の庭先のような畑なので入ることもできず、遠景を眺めたのみであった。
 尚、南方にある堂山はこの館の砦と言われる他、付近には「じんしろ」と呼ばれている所があり、一種の砦(陣城)と考えられると言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.951341/140.125980/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

簗瀬城(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1710.JPG←帯曲輪から見た主郭切岸
 簗瀬城は、簗瀬要害とも言い、下野の名族那須氏の庶流簗瀬氏の詰城である。那須資隆の3男幹隆は芋渕に分封されて芋渕氏を称し、芋渕要害に拠っていた。芋渕氏は、室町時代に入ると梁瀬に移って簗瀬氏を称し、簗瀬城を築いたと言う。梁瀬への移転時期は不明であるが、室町中期以降と考えられている。簗瀬氏は、永正年間(1504~21年)頃から諸記録にその名が現れ、伊王野氏麾下で活躍した。後に梁瀬は大関氏領となり、簗瀬氏は大関氏に仕えて、やがて黒羽に移り住んだと言う。

 簗瀬城は、余笹川流域から山一つ奥に入った山間の、標高283m、比高50mの山上に築かれている。西側の谷の所から小道が伸びており、これを登っていくと城の北の尾根に登ることができる。但し、この道の入口はほとんど薮に埋もれており、パッと見では道があるとはわかりにくい。登り着いた尾根を南に辿っていくと、やがて主郭北側の堀切が現れる。主郭は三方に尾根が伸びる頂部に位置しており、そのためT字を横にした様な、ちょっと変わった形の曲輪となっている。しかも郭内は何段もの段差に分かれており、北端部が一番高くなっている。最初に現れた北側の堀切は、東側に帯曲輪を伴っており、この帯曲輪はそのまま北東の尾根に繋がっている。北東尾根の先には段曲輪が数段築かれている。また前述の帯曲輪は主郭の東側に伸びている。主郭の南部は切岸が不明瞭なほぼ自然地形の幅広の尾根で、東斜面に横堀が穿たれ、南尾根には小堀切と小郭が置かれている。主郭の西部は明確な段差で数段に区画され、西尾根を堀切で分断している。この他、主郭からやや北西に離れたところにも段曲輪や小堀切がある。簗瀬城は、ほとんど単郭に近い小規模な城で、あくまで有事の際の詰城の位置付けであったと思われるが、周辺尾根にも守兵を配置して守りを固めていたことがうかがわれる。
主郭北側の堀切→DSCN1712.JPG
DSCN1747.JPG←主郭西側の堀切
主郭西部の段々の平場→DSCN1760.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.938959/140.152438/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史 (県史)

栃木県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

田中要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1620.JPG←主郭と土橋・横堀(クリックで拡大)
 田中要害は、伊王野城主伊王野氏の家臣田中氏の居城と伝えられる。天正年間(1573~92年)に築かれたが、江戸初期に廃城となったと言う。

 田中要害は、民家の裏にある比高30m程の丘陵上に築かれている。南西麓の民家の裏から登り道があるので、民家のご主人に許可を頂いて訪城した。ほぼ単郭の小城砦で、主郭の周りには全周に横堀・帯曲輪を廻らしている。虎口は南側にあり、土橋が架かっている。主郭内は2段の平場に分かれ、下段は南に向かって傾斜している。外周の帯曲輪は、一部が横堀となり、背後の尾根筋も堀切となって区画している。防御の重要な部分だけ、横堀にして防御性を増している様である。地形も比較的なだらかなので、大した防御性を持たない城で、要害と言うよりは丘上の居館という感じの城である。戦国末期の城であるのに単純な縄張りであるのは、佐竹氏の侵攻に備えて平地の居館を丘上に移したためであるのかもしれない。
背後の尾根の堀切→DSCN1659.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.934603/140.168402/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/08/26
  • メディア: 単行本


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

桜田要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1517.JPG←3郭虎口に架かる土橋
 桜田要害は、歴史不詳の城である。ただ、城巡りの先達「余湖くんのお城のページ」の情報によれば、永禄年間(1558~70年)頃に常陸の戦国大名佐竹義昭が武茂城を経由して白旗城に侵攻した際、小滝城を攻め落とすと青木要害は自落し、桜田要害の兵は降伏してきたと言う。従って、桜田要害は青木要害と共に那須氏の勢力によって築かれた城砦であったことがわかる。

 桜田要害は、標高290mの山上に築かれている。この山は直接街道に面しておらず、丘陵を一つ挟んだ奥に隠れるようにして築かれている。この様な選地の城は類例が少なく、私が過去に訪城した中では相模湯ノ沢城ぐらいしかなかったと思う。桜田要害へは、北の谷に入る林道があり、これを県道27号線から270m程西に入ると、南に登っていく作業用林道(南に入り込んだ谷の向かっれ右側の道)が分岐しているので、これを登って尾根上に至り、尾根を北西に辿れば城のすぐ南まで楽に行くことができる。道から逸れて山林の中に入ると、すぐに平場群が現れる。全部で5段の曲輪群がひな壇状に築かれていて、3段目(3郭)の外に空堀が穿たれている。空堀の中央には土橋が架かり、虎口に向かって右側(城内からだと左側)に横矢掛りの張出しが設けられている。いわゆる左袖である。この張出した塁線に沿って土橋脇の空堀はL字型に曲がっており、江戸時代の軍学風に言うと三日月堀と言うことになるだろう。土橋から3郭に進入すると、出枡形の虎口郭が2郭の外に突出している。最上部が主郭で、主郭の後部に櫓台・土塁が築かれている。この土塁は、くの字型に曲がって北東の細尾根に続いており、尾根上には小郭群が築かれ、先端部は物見台となっている。主郭背後には帯曲輪が築かれ、北西に伸びる背後の尾根筋に小郭2段と小堀切が穿たれている。桜田要害は、城の形態をよく留めているが、いずれの曲輪もそれほど大きくなく、段差の切岸もあまり鋭さがない。こうした遺構の状況と、街道筋から丘陵背後の尾根に隠れるように存在することから推測して、街道監視などはせず、伏兵を置いたり、或いは一部の兵の逃げ込み城であったりと、明確な意図を持って存在を隠した城だった様に思われる。
3郭周囲の空堀→DSCN1608.JPG
DSCN1593.JPG←北西尾根の小堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.905834/140.141795/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

青木要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1368.JPG←腰曲輪から見た堀切・二ノ郭・横堀
 青木要害は、室町時代後期にこの地の土豪青木三河守という武士が築いて居城としたと伝えられる。城巡りの先達「余湖くんのお城のページ」の情報によれば、永禄年間(1558~70年)頃に常陸の戦国大名佐竹義昭が武茂城を経由して白旗城に侵攻した際、小滝城を攻め落とすと青木要害は自落し、桜田要害の兵は降伏してきたと言う。その他の歴史は不明である。

 青木要害は、龍念寺の背後にそびえる標高290mの山の北東の尾根に築かれている。普通ならば山頂に主郭を置くところだが、この城では山頂ではなく、そこから降った尾根の途中に主郭置く珍しい縄張りとなっている。城郭関係HPで下調べした時にはこの事がよくわからず、またWebに載っている縄張図とスーパー地形との整合がよく掴めなかったため、城の縄張りがよくわからない中での訪城となった。山中での城の位置関係がわかっていなかったので、とりあえず龍念寺の墓地奥から山林の斜面に適当に取り付いて、山頂から南東に伸びる尾根に登った。この尾根には段曲輪や小規模な枡形虎口があり、城域の一部であったらしい。この尾根を登って山頂に至ると、ゴツゴツした岩場だらけで、岩の上に祠が置かれている。ここから西の尾根にも段曲輪があるが、これらは外郭に当たる。主城部は、山頂から北東に降ったところにある。ちょっと尾根を降ると浅い堀切が穿たれ、更に降っていくと深い堀切が現れる。これが主郭背後を分断する堀切で、ここから東側が主城部となる。
 青木要害は、大きく3つの曲輪で構成されている。尾根上に主郭を置き、堀切を挟んで東に扇形に開いた形状の二ノ郭を配置し、主郭の北東にも堀切を挟んで三ノ郭が配置されている。主郭は後部に土塁を築いているが、最高所は単なる物見台でほとんど居住性はない。また郭内は細尾根となって傾斜し、下方に末広がりの平場が2段築かれている。この平場が主郭の本体である。つまり主郭は、山形の砂子沢楯の二ノ郭と同様に、下方に主体となる平場を置き、その上には自然地形の斜面があって、最高所に櫓台(物見台)曲輪をそびえさせた構造となっている。主郭の北東には腰曲輪が築かれ、二ノ郭・三ノ郭に通じている。二ノ郭・三ノ郭はやや削平の甘い曲輪で、内部が傾斜している。この城で出色なのは、各曲輪の外周に廻らされた横堀とそこから落ちる竪堀である。まず主郭は、背後の堀切から主郭の尾根の南北両側に横堀が伸び、南側の横堀は直角に曲がって竪堀となって落ちている。また北側の横堀は、途中でクランクしており、そこから竪堀が落ちている。クランクの先の横堀は、主郭の下段平場の北側まで伸びて、先端で直角に曲がって竪堀となって落ちている。また主郭の竪堀状虎口とも繋がっている。二ノ郭も北側に延々と横堀を穿っており、先端近くでクランクすている。堀の外側の土塁は、東端部が北の谷に向かって緩斜面となって広がり、ここに腰曲輪群が築かれている。また二ノ郭南東角には堀切が穿たれ、二ノ郭南側の帯曲輪から竪堀が落ちている。三ノ郭も北西側に横堀が延々と穿たれており、やはり先端近くでクランクしている。これらの横堀はいずれも堀切と繋がっている。三ノ郭の先端には、段曲輪群が築かれており、横堀はその横を竪堀となって落ちている。尚、下山時に気が付いたが、山頂から南東に伸びる尾根の先端付近(寺の背後)にも堀切が穿たれている。
 以上が青木要害の遺構で、横堀のオンパレードで、要所で横矢掛りを設け、堀切・竪堀を効果的に組み合わせている。規模は異なるが、まるで岩櫃城の様で、那須地域でも屈指の山城である。
主郭の横堀・堀切→DSCN1309.JPG
DSCN1455.JPG←主郭南側の竪堀
二ノ郭の横堀→DSCN1377.JPG
DSCN1327.JPG←堀切と三ノ郭
三ノ郭の横堀→DSCN1352.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.913460/140.142578/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


廃城をゆく (イカロス・ムック)

廃城をゆく (イカロス・ムック)

  • 出版社/メーカー: イカロス出版
  • 発売日: 2010/06/28
  • メディア: ムック


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大塚要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1232.JPG←二ノ郭の土塁と空堀
 大塚要害は、大関氏の家臣矢野氏の城と伝えられる。矢野氏は下野の名族小山氏の一族で、天正年間(1573~92年)の末頃に大関氏を頼ってこの地に移り、大塚要害を築いたと言う。

 大塚要害は、東に突き出た比高10m程の低丘陵の先端部に築かれている。城地は現在、南半分が畑となっており、しかも土取りされているらしく丘陵より低くなってしまっている。従って遺構が残っているのは畑の北側の山林部分となる。ここは進入困難な劇薮と乱雑に伐採された薮がそのまま放置されているので、踏査が大変である。東端に主郭を置き、その西側に二ノ郭を配置していた様である。前述の通り劇薮なので全体像が把握しづらいが、主郭は西から北にかけてL字型に土塁と空堀が築かれ、二ノ郭は西から南にやはりL字型に折れた空堀と土塁が確認できる。但し二ノ郭の空堀は、外側に当たる西に向かって折れている。昭和20年代前半の航空写真を見ると、主郭部分には薄っすらと方形の区画が確認できるので、主郭は方形の曲輪だったらしい。残っている遺構だけでも、整備と保護の手立てを講じてほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.920323/140.144230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史 (県史)

栃木県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

羽黒山要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1112.JPG←下から見上げた2段の帯曲輪
 羽黒山要害は、この地の土豪大久保氏が築いた城と考えられている。北西麓の平地には大久保氏の居館である大久保館があり、それに対する有事の際の詰城であったのだろう。

 羽黒山要害は、前松葉川と木佐美沢の合流点南側にそびえる標高373m、比高130mの羽黒山に築かれている。北麓に木佐美沢を渡る小さい橋があり、そこから登城した。途中まで山道があるが、東の谷沿いに登っていってしまい、挙句の果てに道が消失してしまうので、適当な所から右手の北尾根に取り付いて、尾根筋を登った。尾根にはわずかな踏み跡があり、それを登っていくと、途中に曲輪らしい平場と堀切が現れる。主郭は更にしばらく登った位置にある。山頂の主郭には羽黒山神社が祀られ、黒羽山の会が設置した「羽黒山 373m」というプレートがある。主郭は小さな円形の曲輪で、わずかに土塁も見られる。主郭の外周には、北西から南・南東にかけて、2段の帯曲輪が廻らされている。下段の帯曲輪は土塁を伴って横堀状になっている。東に尾根を降っていくと、広い緩斜面が広がっており、明確な普請の跡はあまりないが外郭だったと思われる。外郭のある尾根は南東に降っていて、その先にわずかな段差があって腰曲輪が築かれている。その先には物見台のような高台があり、その先を明確な堀切で尾根筋を分断している。以上が羽黒山要害の遺構で、規模は小さいものの普請は明確であり、詰城らしい様相を示している。
北尾根の堀切→DSCN1106.JPG
DSCN1129.JPG←主郭
横堀状の帯曲輪→DSCN1149.JPG
DSCN1169.JPG←南東端の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.905431/140.167469/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
前の30件 | 次の30件 古城めぐり(栃木) ブログトップ