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古城めぐり(富山) ブログトップ
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北山城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5415.JPG←北端の櫓台
 北山城は、松倉城を取り巻く支城群の一つである。『越中古城記』などによれば、椎名小八郎が城主であったと伝えられると言う。椎名小八郎の事績は不明であるが、魚津市の『松倉城郭群調査概要』では、永禄年間(1558~70年)に椎名康胤の養子として上杉謙信から送り込まれた長尾小四郎景直の誤伝ではないかと推測している。また北山城が上杉謙信に攻められて落城したとの伝承もあるらしい。いずれにしても、松倉城砦群の一という以外、詳細な歴史は不明である。

 北山城は、松倉城の北方約2.2kmの山上に築かれている。城内は公園化されており、車で直下の駐車場まで行くことができる。くの字になった幅の広い尾根上に主軸の曲輪を置き、東側の斜面に腰曲輪群を配している。ただいずれの曲輪もわずかな段差で区画されているだけで、堀切もなく、あまり明確な区分はない。曲輪の高さ関係から考えて。北半分が二ノ郭、南半分が主郭と考えられる。二ノ郭は北端に一段高い櫓台を置き、西に向かって緩やかに傾斜しており、そこに腰曲輪群がある。櫓台からは眺望がひらけ、富山湾が一望でき、遠くには能登半島が見える。櫓台の北側下方には堀切と土壇が置かれ、北の尾根筋を防御している。主郭はくの字に折れ曲がった曲輪で、削平が甘く、中央部の最高所から北と南西に向かって緩やかに傾斜している。くの字の主郭の内側(西側)に傾斜した平場群が配置されている。また主郭の南端にも堀切と土壇が築かれ、この防御構造は北端部と同じ形態となっている。主郭の東外周は防備が厳重で、しっかりした切岸の下に帯曲輪が構築され、間隔をおいて5本の竪堀が落ちている。主郭東には、やや形状がはっきりしないものの内枡形虎口が築かれており、帯曲輪に城道が通じ、その先では竪堀で動線遮断の処置をしている。北山城の遺構は以上で、佐伯氏が指摘している通り古いパターンの縄張りであるが、主郭東側だけ防備が厳重で、この辺りだけ戦国期に防備が増強されているように感じられた。
竪堀→DSCN5462.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.774032/137.442291/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本


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坪野城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5308.JPG←堀切から落ちる竪堀
 坪野城は、松倉城を取り囲む支城群の一つと推測される城である。城主は松倉城主椎名氏の家老、あるいは家臣であったとも、上杉氏の家臣が在城したとも言われる。また上杉謙信が松倉城攻めの際に本陣を置いたという伝承もあるようだ。

 坪野城は、松倉城の北東3kmの位置にある、標高460mの小山に築かれている。城の東中腹に鉄塔があり、北東麓から鉄塔保守道が整備されているので、これを利用すれば城に登ることができる。登り口は北東にある大菅沼集落の奥、溜池沿いの車道の脇にある。ここから柳河原線72番鉄塔を目指せばよい。この鉄塔は、百間馬場と呼ばれる平場にあり、謙信の本陣であったとか馬揃えをしたとの伝承がある。鉄塔の奥にあたる南に小道が伸びており、この道から城に登れるが、この道は藪に埋もれつつあり、数年後には消失している可能性がある。というのも、以前は主郭にも鉄塔があったのだが、現在は鉄塔が撤去されてしまっているのである。従って今は主郭も未整備となってしまい、藪に覆われてしまっている。前述の小道を進むと、湧水がある谷地形に至り、その右手に竪堀が落ちてきている。これが南の堀切から落ちている竪堀で、登城路を兼ねていたことが想定される。この竪堀道を登っていけば本城域に入る。山の頂部に主郭を置き、東西に腰曲輪を配置している。主郭の北側には土塁が築かれているようだが、藪がひどくて形状がよくわからない。主郭の北端近くの土塁上には小さな城址石碑があるが、藪に埋もれてしまっている。また主郭の南西北の三方に堀切を穿っている。南の堀切は小郭を挟んで2本穿たれ、北のものは細尾根にやや離れて2本穿たれている。南の1本目の堀切は、東側が東腰曲輪に通じており、同様に西の堀切も西腰曲輪に繋がっている。北尾根は、2本の堀切の先に鞍部があり、虎口とされている。その東側には横堀が伸びている。辛うじて縄張図を元にして踏査できたが、全体に藪がひどくて踏査が大変である。主郭の鉄塔がなくなった今、このまま藪に埋もれる運命なのであろうか。
主郭の現況→DSCN5322.JPG
DSCN5328.JPG←西の堀切
城址碑→DSCN5338.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.772399/137.462279/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 上杉謙信

図説 上杉謙信

  • 作者: 今福 匡
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/03/18
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タグ:中世山城
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嘉例沢城(富山県黒部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5297.JPG←駒洗い池
 嘉例沢城は、歴史不明の城である。現地にある駒洗い池の解説板では、胸ヶ平城と記載され、南北朝時代の城とある。また近江源氏の佐々木四郎高綱が城を築いたとあるが、高綱は鎌倉幕府草創の功臣であり、時代が合わない。そもそもこの解説板、近江源氏を間違って「近衛」源氏と書いてあり、少々信頼性に難がある。いずれにしても、その歴史はよく伝わっていない様である。

 嘉例沢城は、『日本城郭大系』によれば嘉例沢森林公園の管理棟付近にあったとされる。鋲ヶ岳の西の中腹で、車道が通るなど改変を受けており、明確な遺構は見られない。しかし『三州志』にもある「駒冷し場」(馬洗池)が、駐車場跡下方の窪地の中に残っている。城に関係する遺構とされ、現地解説板では前述の通り「駒洗い池」と書かれている。佐々木高綱がこの城を築いた時に自らの馬を池に引き入れて洗った池と伝えられていると言う。嘉例沢城にまつわる唯一の遺構であり、貴重である。
 尚、嘉例沢城の東の山上には鋲ヶ岳城があり、この城との関係が注目される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.828034/137.545674/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
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鋲ヶ岳城(富山県黒部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5263.JPG←北端の堀切
 鋲ヶ岳城は、歴史不明の城である。位置的に嘉例沢城の東にそびえる山上にあることから、嘉例沢城の詰城か物見の砦ではなかったかと思われる。

 鋲ヶ岳城は、標高861.0mの鋲ヶ岳山頂に築かれている。西の中腹に嘉例沢森林公園があり、そこまで車で登ってくることができる。また公園から鋲ヶ岳まで登山道が整備されており、迷うことなく登ることができる。南北に細長い尾根上に築かれており、山頂の四阿のある平場が主郭であろう。しかしそれ以外に明確な曲輪は見られない。一方、主郭の北端にある三角点の北に浅い堀切が穿たれ、更にその北にももう1本堀切が穿たれている。この堀切は、小さいが鋭い薬研堀で、一番はっきりした遺構である。主郭の南の尾根にも堀切が1本穿たれているが、かなり浅いものである。遺構としては以上で、城郭遺構としては大したことないが、頂上からの眺望に優れ、富山平野・日本海・宇奈月温泉などを一望できる。物見としては好適な城砦であったことがよく分かる。
主郭→DSCN5281.JPG
DSCN5282.JPG←南の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.827450/137.549386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

  • 作者: 佐伯哲也
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タグ:中世山城
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天神山城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN1952.JPG←主郭の櫓台
 天神山城は、魚津城攻防戦の際に上杉景勝が後詰に入った城として知られる。元々、1554年に上杉謙信が松倉城の支城として築城したとされる。史料上では1572年から天神山の名が見えている(『上杉家文書』)。この年、越中・加賀の一向一揆が砺波郡より東進して、上杉方の最前線日宮城を攻め落とし、更に富山城をも占拠した。この時、上杉諸将間の緊迫した往復文書の中に「天神山」が度々現れ、天神山城が新庄城と共に上杉方の重要な中継拠点であったことが知られている。当時、天神山城には上杉氏重臣直江景綱が、新庄城には鰺坂長実が在城し、日宮城将からの注進は、最初に新庄城の鰺坂氏に、次いで天神山城の直江氏へ伝えられ、そこから越後春日山城へと伝達されている。次に天神山城が歴史に現れるのは、1582年の魚津城攻防戦の時である。謙信没後の内訌「御館の乱」で大きく勢力を減退させた上杉氏に対して、柴田勝家を総大将とする織田勢の北陸方面軍は加賀・能登を攻略、更に越中に進撃した。1582年3月下旬頃、松倉城と並ぶ越中東部の上杉方の一大拠点で、中条景泰ら12人の武将が立て籠もった魚津城を織田方の柴田勝家・佐々成政・前田利家らが攻撃し、以後激しい攻防が数ヶ月にわたって繰り広げられた。しかし揚北衆の新発田重家の反乱で苦境にあった上杉景勝は、なかなか援軍を出すことができず、4月23日に魚津城将12人が景勝の執政直江兼続に送った決別の書状を見るに及んで、不利を承知で5000余人を率いて出陣し、5月15日に天神山城に後詰として着陣した。この動きを知った織田方は5月下旬、旧武田領の上野を支配した滝川一益と、信濃川中島4郡を支配した森長可とが、それぞれ越後への侵攻を開始した。特に森軍は景勝の本拠春日山城を目指して進軍しており、急報を受けた景勝は5月27日、やむを得ず春日山城に向けて撤退した。魚津城の城将12人は、降伏を肯んぜず、織田勢の猛攻に力戦して一人残さず討死し、6月3日に魚津城は落城した。それは、本能寺の変の翌日のことであった。その後の天神山城の歴史は不明である。

 天神山城は、片貝川北岸の河岸段丘上の独立丘陵、標高162.9mの天神山に築かれている。現在城内は公園化され、また城内に魚津歴史民俗博物館が立てられ、車道が敷設されるなど、大きく改変を受けている。山頂に東西に長い主郭を置き、その西側に一段低く二ノ郭を配置している。主郭の南辺には櫓台とそれに続く長い土塁が築かれている。主郭の東側は尾っぽのように長く伸びて降り、駐車場となっている平場に繋がっているが、改変があるため往時の形状は不明である。二ノ郭の北から西にかけて数段の腰曲輪がある。また主郭・二ノ郭の北側斜面には散発的に竪堀が穿たれている。北東の車道下の草木に覆われた斜面には多数の腰曲輪群が築かれ、それらの西端部を画する様に竪堀が落ちている。この竪堀は、途中で一度横堀に変化し、更にまた竪堀に変化して落ちている。この他、東尾根と南斜面にも腰曲輪群がある様だが、当日は天候不順かつ凍えるような寒さだったので、踏査しなかった。これらについてはまた機会を改めて確認してみたい。
 天神山城は、概ねの遺構はよく残っているものの、残念ながら改変のため、どこまで往時の形を残しているのか不明な部分も多く、少々残念な状態である。
竪堀→DSCN1971.JPG
DSCN1921.JPG←北東斜面の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.825200/137.450230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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白鳥城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN1853.JPG←帯曲輪と本丸横堀
 白鳥城は、1585年の富山の役の際に豊臣秀吉が本陣を置いた城である。元々の創築は治承・寿永の乱(いわゆる源平の戦い)の時と言われ、1183年に木曽義仲の重臣今井四郎兼平が布陣した「御服山」、および南北朝期の1362年に元越中守護桃井直常の先制攻撃を受けて敗れた加賀・越前の軍勢が逃げ登った「五服峯」(『太平記』第38巻)が、白鳥城の前身であったと推測されている。戦国後期には、射水・婦負郡守護代神保長職は富山城を築いて居城としたが、越後長尾氏の支援を受けた新川郡守護代の松倉城主椎名氏と抗争していた中で、富山城の出城として白鳥城を築いた。1562年の上杉謙信の越中侵攻に対し、長職は呉福山(白鳥城)に立て籠もった。この後、神保・椎名両氏が没落して上杉氏が越中東半を支配したが、1572年に加賀・越中の一向一揆が礪波郡より東進し、上杉方の日宮城を攻め落とした。この時、上杉方は日宮城への援軍を「五福山」に上げたが、一揆方の大軍に攻められ敗退した。1578年には神保八郎左衛門が白鳥城に居城したと言われる。1585年、豊臣秀吉に敵対していた富山城主佐々成政を討伐するため、秀吉は前田利家らを率いて越中に進軍した。この時、前田氏の部将岡嶋一吉・片山伊賀が白鳥城に入ったが、後に秀吉の本営となり、岡嶋・片山らは東麓の安田城大峪城へ移った。成政降伏後の1586年、利家は3人の守将を白鳥城に置いた。1597年、前田利長が守山城から富山城の居城を移すと、再び岡嶋・片山らを「呉福山堡」(白鳥城)に置いたが、岡嶋・片山らは後に安田城に移り、白鳥城を詰城とした。廃城時期は不明だが、少なくとも1599年までは存続していたらしい。

 白鳥城は、神通川西方に横たわる呉羽丘陵の最高峰の城山(標高145.1m)に築かれている。現在、城址公園として整備されている。訪城した日は車道の一部が工事中で通行できない区間があったため、南駐車場から西出丸を経由して訪城した。最高所にほぼ方形の本丸を置き、その外周に2段の曲輪群を東・北・西の三方に配置した梯郭式の縄張りとなっている。更に東・北・北西・南の各尾根に張り出した出丸を築いている。本丸には櫓台が築かれ、北から西にかけて横堀が穿たれている。横堀は西二ノ丸の西側外周にも円弧状に穿たれ、そのまま南尾根を掘り切っている。堀切はここと、北西に配置された北二ノ丸、本丸西側の二ノ丸、その下方の三ノ丸にそれぞれ穿たれている。この城で出色なのは各所に築かれた枡形虎口で、二ノ丸の北側下方や西一ノ丸越曲輪の北側下方に出枡形が構築されている。しかし残念なことに、いずれの遺構も未整備の薮に覆われており、きれいな形を写真に納めることができない。
 白鳥城は、中心的な曲輪は整備されているが、腰曲輪群はほとんど薮に埋もれてしまっている。しかしそれでも頑張って踏査すれば、枡形虎口による導入系の築城技術が多い城であることがわかる。今石動城など前田氏構築の山城を見ると、これらの遺構は前田氏による構築ではなく、秀吉が本陣を置いた際に改修されたものと考えるのが妥当と思うが、どうであろうか?
西二ノ丸の円弧状横堀→DSCN1676.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆(薮が多い分☆一つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.697974/137.163963/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2022/05/14
  • メディア: 大型本


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今石動城(富山県小矢部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN1603.JPG←南腰曲輪から見た本丸
 今石動城は、前田利家と佐々成政が交戦していた1585年に、前田氏によって新造された城である。利家の弟前田秀継・利秀父子が津幡城から移って城を守った。同年8月に成政が豊臣秀吉に降伏した後、秀継は木舟城の城主となり、城下町を整備したが、11月に起きた天正大地震で城が潰れ、秀継は夫人と共に亡くなった。翌年利秀は、木舟城から今石動城に居城を移し、城下町を建設した。しかし1593年に病没すると、翌年前田利長は今石動城を廃城とした。こうした歴史から、築城から廃城までの期間が10年程と短く、後の改修の可能性が低いため、天正期の前田氏の山城の形を留めた典型例とされる。

 今石動城は、標高186mの城山に築かれている。主郭を中心に北・北東・南・南西に伸びる四方の尾根上に多数の曲輪群を築いている。主郭の南西下方の車道に解説板があり、車で行けるので訪城はたやすい。散策路もあるが、整備されているのは本丸と南の段曲輪一郭だけで、他は未整備の薮に覆われているので、なかなか遺構の踏査が大変である。基本的には尾根上に切岸だけで区画された曲輪群を連ねただけで、堀切はわずかしかない。その堀切も大きなものではないが、北尾根の付け根にある堀切では明確な竪堀が落ちている。虎口も比較的平易な作りで、本丸北東に張り出した虎口郭が築かれているが、巧妙な枡形虎口など導入系の先進技術は見られない。加越国境城塞群でもそうだが、どうも前田氏の軍団は、佐々氏などと比べるとあまり先進的な築城技術を持っていなかった様に見受けられる。
堀切から落ちる竪堀→DSCN1490.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.683228/136.858621/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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蓮沼城(富山県小矢部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN1447.JPG←城址碑付近の現況
 蓮沼城は、礪波郡守護代となった遊佐氏の居城である。遊佐氏は南北朝期から畠山氏に仕えて重臣となった一族で、畠山氏が越中守護となると、室町中期に遊佐氏は礪波郡守護代となり、新川郡守護代椎名氏、射水・婦負郡守護代神保氏と共に、越中三守護代家が分立した。遊佐氏が越中の中世史に現れるのは1396年の遊佐河内入道(長護)からであるが、蓮沼城がいつ築城されたのかは不明である。蓮沼の名が現れるのは永享年間(1429~41年)頃からで、この頃の城主は遊佐加賀守であった。文明年間(1469~87年)には連歌師飯尾宗祇が越後に赴く途中、しばしば蓮沼城に立ち寄って、城主遊佐加賀守長滋の館で千句の連歌を興行した。宗祇が撰集した連歌集『新撰菟玖波集』には、遊佐加賀守の連歌が収められている。永正・大永年間(1504~28年)頃には、城主遊佐新右衛門慶親が埴生護国八幡宮に108段の石段を寄進している。遊佐氏のその後の歴史は明確ではないが、江戸時代の史料によれば、上杉謙信の攻撃によって開城し、退去したと伝えられている。或いは慶親が礪波郡木舟で討死したとも言われる。その後、松倉城を逐われた椎名康胤が一時蓮沼城に拠ったとも言われるが、明証はない。1585年には、越中を平定した富山城主佐々成政の家臣が蓮沼城を守っていたが、前田利家によって攻略されたと言う。

 蓮沼城は、渋江川西岸の平地に築かれている。微高地に築かれた平城であったらしいが、城跡は現在宅地や水田に変貌しており、明確な遺構は全く確認できない。『日本城郭大系』掲載の古い地籍図では堀跡の水田が記載されており、また2mぐらいの高台になっていたらしいが、渋江川の河川改修で削られてしまったとのことで、遺構は壊滅状態である。わずかに集落内に城址碑と解説版が立っているだけである。この地の重要な城であったのに、かなり悲しい現状である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.654967/136.857719/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2022/05/08
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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倶利伽羅堡(石川県津幡町) [古城めぐり(富山)]

DSCN1044.JPG←公園南西の堀切
 倶利伽羅堡は、平安末期から戦国末期まで繰り返し使用された堡砦である。治承・寿永の乱(いわゆる源平の戦い)の際、1183年に木曽義仲軍の西上を阻止する為に北陸に出陣した平維盛率いる平家軍が、この地の猿ヶ馬場に本陣を置いたと伝えられる。しかし5月11日夜半、木曽勢の夜襲によって平家軍は大敗を喫した(倶利伽羅峠の戦い)。南北朝期の観応の擾乱の際には、1350年12月に足利尊氏方の加賀守護富樫氏が、足利直義方の桃井直常の上洛を阻止するため、倶利伽羅山に陣取った。戦国初期の1488年には、越智伯耆をリーダーとする一向一揆勢が倶利伽羅堡や松根砦に布陣した。戦国末期の1584年には、豊臣秀吉に敵対した富山城主佐々成政が、倶利伽羅に新たに砦を築き、秀吉方の前田軍攻略を開始し、末森城を攻撃した。

 倶利伽羅堡は、現在は倶利伽羅不動寺の境内となっている他、倶利伽羅古戦場の史跡広場となっている。そのため改変が進んでおり、明確な城砦遺構は少ない。しかし五社権現が祀られた標高276.7mの高台は周囲への眺望に優れ、城砦の主郭として適地である。この高台の周囲には2段ほどの帯曲輪状の平場が見られるが、遺構かどうかははっきりしない。また倶利伽羅公園の南西部にある墓地は、公園との間に堀切が見られる。公園の南斜面には畝状空堀が穿たれているとされ、笹薮でわかりにくいが、確かにそれっぽい地形が確認できる。
 倶利伽羅堡は、遺構はわずかであり、やはり倶利伽羅古戦場巡りとして行く方が適している。尚、他の加越国境城砦群と比べると城郭遺構があまりにわずかで、佐々勢がここに実際に砦を築いたのかどうか疑問に感じる。
高台周囲の帯曲輪状の平場→DSCN1065.JPG
DSCN1165.JPG←公園南斜面の空堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.662317/136.816349/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


木曽義仲 (読みなおす日本史)

木曽義仲 (読みなおす日本史)

  • 作者: 積與, 下出
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/10/13
  • メディア: 単行本


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一乗寺城(富山県小矢部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0788.JPG←四ノ郭虎口前面の枡形
 一乗寺城は、加越国境城砦群の一である。城の史料上の初見は南北朝時代の1369年で、観応の擾乱以来室町幕府に敵対し続けた元越中守護桃井直常が、能登・加賀に侵攻した際、桃井方が立て籠もる「一乗之城」を幕府方の能登守護吉見氏頼の軍勢が9月17日に攻撃し、桃井勢を追い落としたことが見える(『得田文書』『得江文書』)。その後時代は下って戦国末期の1584年、越中を平定した佐々成政は豊臣秀吉に敵対し、秀吉方の前田利家と加越国境を挟んで対峙した。この時に加越国境城砦群が両陣営によって築かれ、佐々方は松根城荒山城などと共に一乗寺城を構築し、杉山小助を守将として置いたと言う。

 一乗寺城は、標高279mの枡山に築かれている。幸い舗装された車道が城の西側近くまで伸びており、簡単に訪城できる。加越を結ぶ田近道を押さえるように築かれている。山頂に主郭を置き、東の斜面に大手を防衛する腰曲輪群をひな壇状に築き、その中を大手道が多重枡形によって幾重にも屈曲しながら登っている。主郭の西には尾根に沿って二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭が連郭式に配置されている。二ノ郭~三ノ郭間は片堀切を穿って導線を狭め、枡形虎口で二ノ郭に繋がっている。また三ノ郭~四ノ郭間も土橋を架けた堀切によって区画されている。四ノ郭は、西方からの接近が想定される敵勢を迎え撃つ最前面の曲輪であるため、土塁を築いた最も防備が厳重な曲輪で、南端と北西角に櫓台を築き、前面に当たる西側下方に大堀切を穿っている。また四ノ郭の北側虎口には前面に土塁で囲まれた方形の枡形を設けている。この枡形への進入路も竪堀や坂土橋で狭めつつ屈曲させている。この他、北側斜面に多数の腰曲輪群を築き、所々に竪堀状に小郭群を配置している。
 一乗寺城は、多重枡形を始めとする枡形虎口が多数構築され、巧妙な導入系の構築技術を見せている。加越国境城塞群では最も高度な縄張りであり、北条・武田・伊達といった先進的な築城技術を有した戦国大名の城と比べても、導入系の構築技術は群を抜く水準であり、織田勢力の築城技術の革新は認めざるを得ない。この技術革新がどこからもたらされたものなのか、考究していく必要があるだろう。
 尚、城内の主要部は薮払いされて整備されているが、北斜面の腰曲輪群は多くが深い笹薮に覆われてしまっており、この部分の遺構の確認は大変である。
大手の多重枡形虎口→DSCN0875.JPG
DSCN0823.JPG←二ノ郭の枡形虎口
四ノ郭前面の大堀切→DSCN0736.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.637734/136.804011/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織田・豊臣城郭 の構造と展開 上巻 (戎光祥城郭叢書 第1巻)

織田・豊臣城郭 の構造と展開 上巻 (戎光祥城郭叢書 第1巻)

  • 作者: 中井均
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/05/15
  • メディア: 単行本


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丸岡城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0585.JPG←丸岡城が築かれていた丘
 丸岡城は、歴史不詳の城である。『三州志』によれば、城主はこの地の土豪角淵新右衛門とされるが、角淵氏の事績についても不明である。ただ城のある西赤尾は、越中・飛騨の国境に位置し、西は刀利を経て金沢に通じ、南は白川を経て飛騨に至る交通の要衝であり、江戸時代には加賀藩が口留番所を設けて物資の流通監視を行い役銭の徴収が行われた要地でもあった。こうした要衝を押さえるために、 地元の土豪が拠点を設けたと推測されている。

 丸岡城は、行徳寺の背後の台地上にある丸岡という円形の独立丘に築かれている。しかし『日本城郭大系』によれば、以前に植物園を作る計画があったらしく、その際に山上が削平されてしまい、明確な遺構は残っていないと言う。実際に丘に登ったが、以前は公園になっていたらしく、ベンチが残っているが一面草むらに覆われている。頂部の平場の外周に腰曲輪状の平場があるが、どうも後世の改変のようである。また頂部の平場の西辺近くに土塁状の地形が見られるが、遺構かどうか判別できない。結局、『大系』が記している通り明確な遺構は確認できなかった。
 一方、南麓の台地の縁に、「城の腰」と呼ばれる土塁で囲まれた出丸状の曲輪があるとされるが、付近は一面の田んぼで、どこのことかよくわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.380203/136.868212/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2022/04/28
  • メディア: 大型本


タグ:中世平山城
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小倉の土居(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0581.JPG←墓地となった土塁跡
 小倉の土居は、一向一揆に属し鷹栖館(小倉殿館)を本拠とした土豪小倉六右衛門の子孫小倉孫左衛門が、天正年間(1573~92年)に居住した館跡と伝えられる。

 館跡は、現在は水田となっており、その周囲の土塁の一部が残存している。ただその残った土塁も墓地となって改変を受けている。現在残る形状からだとコの字に土塁が残っているように見えるが、昭和30年代の航空写真で見ると、残存土塁はJ字型で、現在見られる土塁の内、南辺と東辺が遺構であるらしい。残る遺構はわずかとはいえ、きちんと標柱が立てられて保存されているのはありがたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.635030/136.927843/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史 (県史)

富山県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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安川城(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0520.JPG←S字型の土橋
 安川城は、般若野郷の荘官であった黒田太左衛門尉が立て籠もった城と伝えられている。室町後期に般若野郷を治めていた京の公家徳大寺実淳が視察のために薬勝寺に滞在し、太左衛門尉をこの地の荘官に任じたが、1474年に太左衛門尉は反乱を起こし、悪党(中世では、荘園領主や幕府などの公権力に反抗的立場を取った土豪や地場集団を指す)を従えて城に立て籠もったと言う。

 安川城は、標高197mの山上に築かれている。北麓を通る車道脇に登道の誘導標識があるが、ちょっと登ったところで道がわかりにくくなってしまっている。散々迷った挙げ句、ようやく道を見つけて登っていくと、最初に現れるのが北東出丸である。尾根上にそびえるように築かれており、城道は出丸の西側から切通しとなって郭内に通じている。出丸の南に三ノ郭があるが、出丸との間は堀切があり、城道は堀切から三ノ郭の外周を迂回するように設けられ、三ノ郭の背後に至っている。この城道の途中には竪堀が1本穿たれている。三ノ郭は、西側が窪地となってえぐれた形となっている。三ノ郭の南は一騎駆けの土橋となり、その先には左右に食違いに堀切を穿ったS字形土橋が設けられている。その右手下方には、主郭北側の腰曲輪群が展開している。S字形土橋を越えて登った先が主郭である。主郭は頂部に設けられた縦長の曲輪で、城址標柱が立っているが、一面笹が生い茂っている。主郭南東部には土塁で囲まれた小郭があり、南東尾根には堀切が穿たれているが、熊笹の繁茂がひどく、その形状がほとんどわからない。一方、主郭の北西にも二ノ郭とそれに付随する腰曲輪群があり、その一番下に城主居館跡とされる広めの平場がある。城主居館曲輪には、井戸のような窪みがあり、曲輪前面には帯曲輪が置かれている。
 以上が安川城の遺構で、以前は整備された形跡があるが、現在は維持管理できなかった城の典型となり、薮城と化してしまっている。また縄張り的にも少々面白みに欠ける印象である。
主郭→DSCN0531.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.615002/137.031462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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孫次山砦(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0390.JPG←二重堀切
 孫次山砦は、増山城砦群の北端に位置する山城である。歴史は不明であるが、神保氏によって築かれたものであろうか?

 孫次山砦は、亀山城から谷戸を一つ挟んだ北の山稜上に築かれている。城内はかなりの部分が未整備の薮に覆われており、遺構の確認がなかなか大変である。南の車道脇から登道があったらしいが、私は知らなかったので亀山城主郭から北斜面を降って鞍部の腰曲輪を越えて訪城した。城は、西の円形の小さな曲輪と、東の「く」の字に曲がった曲輪と、大きく2つの曲輪群に分かれている。これら2つの曲輪群は中規模の二重堀切で分断され、一城別郭の縄張りとなっている。主郭は西の円形の曲輪と考えられ、細尾根で繋がった西側に突き出た舌状曲輪が付随している。これらの南側下方には何段かの腰曲輪が築かれて、亀山城との間の鞍部に至っている。一方、東のくの字形の曲輪は、二ノ郭と思われるが、郭内は削平が甘くほとんど自然地形に近い。しかしくの字の屈曲部から東に伸びる尾根には2本の堀切が穿たれ、二ノ郭の南下方にも帯曲輪と竪堀が構築されている。そして、北東斜面には土塁を伴った帯曲輪があり、また南東斜面にはかなり広い腰曲輪がある。この腰曲輪の北端の脇には、深い竪堀が長く落ちている。
 以上が孫次山砦の遺構で、砦にしては堀切がゴツく、腰曲輪脇の竪堀も長く、単なる物見のレベルではない。増山城の北方防衛の砦として重視されていたことがうかがえる。
長い竪堀→DSCN0463.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.656689/137.045603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史 (県史)

富山県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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亀山城(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0291.JPG←西1郭先端の堀切
 亀山城は、増山城の出城と言われ、神保安芸の居城と伝えられている。一説には、南北朝期の1362年に二宮円阿が警固した和田城とは、増山城ではなくこの亀山城ではなかったかとも言われる。

 亀山城は、増山城の北方、法花坊谷で隔てられた標高133.0mの独立山上に、増山城と隣接するように築かれている。南の車道から主郭まで散策路があるので訪城は容易だが、薮払いされて整備されているのは主郭から南西に伸びる尾根筋だけで、それ以外の腰曲輪群は未整備の薮に埋もれている。主郭は瓢箪型をした曲輪で、南東に一段低く舌状の平場が伸びている。主郭の南斜面から東斜面にかけて腰曲輪群が広がっているが、薮で形状がわかりにくい。辛うじて堀切や竪堀が確認できる。主郭から南西に登る尾根筋に大手道があったらしく、この登城路に沿って段曲輪があり、登城路の北西斜面には散発的に竪堀が3本穿たれている。尾根を降っていくと西1郭があり、先端に堀切が穿たれ(前述の散策路はここに登ってくる)、その先にL字型土塁を築いた西2郭がある。西2郭の北斜面にも竪堀が1本あり、先端に土橋を架けた堀切で分断している。その先にも小郭がある。一方、主郭の北斜面にも腰曲輪があり、この腰曲輪の西端には小堀切が穿たれている。この腰曲輪の北には鞍部の平場を挟んで、孫次山砦が築かれている。
 亀山城は、広大な曲輪群と大堀切で武装した巨城・増山城と異なり、オーソドックスなコンパクトな山城である。もう少し腰曲輪群を薮払いしてもらえるとありがたいのだが。
西2郭先端の堀切・土橋→DSCN0286.JPG
DSCN0309.JPG←登城路の竪堀2本

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.655656/137.045002/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2022/04/25
  • メディア: 単行本


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池ノ平等屋敷・七ツ尾山屋敷(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0224.JPG←池ノ平等屋敷の西虎口
 池ノ平等(いけのたいら)屋敷・七ツ尾山屋敷は、いずれも増山城亀山城の間の丘陵地にある。明確な歴史は不明であるが、増山城に関連する屋敷地と考えられ、特に池ノ平等屋敷については、増山落城の際に神保夫人が入水した井戸が伝えられている。

 池ノ平等屋敷は、南北を谷で挟まれた丘陵上に築かれている。ほぼ方形に近い曲輪で、外周を土塁で囲んでいるが、西辺と北西には土塁がなく、切岸だけで区画されている。また北と東に空堀を穿っている。虎口は北・西・南東の3ヶ所にあり、西のものは食違い虎口になっている。主郭の西側に、神保夫人入水の井戸が残っている。それにしても「平等」と書いて「たいら」と読むとは、難読漢字の一つである。

 七ツ尾山屋敷は、池ノ平等屋敷からしばらく東に尾根筋を進んだ先にある。小高い丘陵上にあり、主郭の前面に当たる西側に虎口を形成する土塁・浅い堀が見られる。主郭は、西側に屈曲する坂土橋を持った虎口を有した不整形な曲輪で、北端の尾根にだけ浅い堀切が穿たれている。それ以外に土塁などはなく、南東に伸びる尾根は明確な区画もなく、主郭からダラダラと続いてしまっている。あまり意図がはっきりしない屋敷である。

 尚、池ノ平等屋敷は散策路沿いにあるので訪城は容易だが、七ツ尾山屋敷は散策路から外れた山林内にあるので、訪城の際は迷わないように注意が必要である。
七ツ尾山屋敷北端の堀切→DSCN0256.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【池ノ平等屋敷】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.653883/137.044551/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【七ツ尾山屋敷】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.654382/137.045925/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2022/04/24
  • メディア: 大型本


タグ:居館
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増山城(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN0893.JPG←大手道を防衛するF郭
 増山城は、越中3大山城の一つに数えられ、射水・婦負郡守護代となった神保氏の主要な居城の一つである。史料上の初見は、南北朝時代の1362年とされる。即ち『二宮円阿軍忠状』によれば、室町幕府に敵対した前越中守護桃井直常討伐に従軍した二宮円阿は、和田合戦などを転戦した後、和田城を警固している。この和田城が増山城のことであろうと推測されているが、別説では隣接する亀山城のこととも言われる。その後、越中守護畠山氏の下で射水・婦負両郡に勢力を張った神保氏が、居城放生津城の支城として整備したとされる。神保氏は、1520年に守護畠山尚順の要請を受けた越後守護代長尾為景の攻撃で当主神保慶宗が滅ぼされて没落したが、後に慶宗の子神保長職が家名を再興し、長職は1543年に富山城を築いて居城とした。勢力を強めた神保氏は長尾方の松倉城主椎名康胤を圧迫したため、1560年、椎名氏救援のため、越後守護代長尾景虎(上杉謙信)は越中に侵攻し、神保氏を攻撃した。長職は富山城を放棄して増山城へ逃れたが、長尾勢の追撃を受けて再び落ち延びた。1562年、謙信は再度増山城を攻撃して落城させた。1566年、長職は謙信と結んで増山城に拠って一向一揆と戦った。しかし1572年頃に長職が没すると、増山城は一向一揆勢に占拠された。1576年、謙信の攻撃によって栂尾城と共に攻略され、謙信の部将吉江宗信が増山城を守った。こうして越中一国は上杉氏の支配下となったが、謙信が急死すると織田勢が越中に進出した。1581年、織田勢は増山城の上杉勢を攻撃し、城を焼き払った。1583年、越中を平定した佐々成政の支配下となり、85年には豊臣秀吉との戦いに備えて増山城を整備した。富山の役で成政が秀吉の軍門に降ると、礪波郡は前田氏に与えられ、増山城は前田利家の重臣山崎庄兵衛長徳と中川清六光重(巨海斎宗半)が守った。しかし最後の城主中川光重は不在期間が長く、実質的には妻の蕭姫(利家の二女)が城を守り「増山殿」と呼ばれた。廃城時期は不明であるが、1605年頃にはまだ存続していたことが知られている。

 増山城は、増山湖東岸にそびえる標高120mの丘陵上に築かれた城である。広大な6つの曲輪を配置し、周囲を多数の腰曲輪群で防御した巨大山城である。前日に行った松倉城もそこそこの規模であったが、それより遥かに大きく、全域を踏査するのが大変である。また各曲輪間や尾根筋を分断する堀切は、いずれも深さ10m近い規模の鋭い薬研堀で、見るからにえげつない堀切が連発している。堀切を確認するために急斜面を降りていたら、数m滑落して肋骨折ってしまった程である。国指定史跡となっているので、散策路が敷設され、城内もかなりの部分が整備されている。

 曲輪は、北西から順に馬之背ゴ・通称一ノ丸(実質二ノ郭)・通称二ノ丸(実質主郭)・三ノ丸を連ね、更に主郭の北に安室屋敷、南に無常という曲輪を配している。この内、馬之背ゴ・主郭・三ノ丸・安室屋敷には土塁が築かれ、特に主郭の北東隅(鐘楼堂)と南西隅には櫓台が築かれており、北東隅のものは規模から考えて天守があった可能性がある。大手は馬之背ゴと二ノ郭の間の谷戸にあったようで、大手を防衛する曲輪(F郭)が大手道を遮るように構築されている。大手道の両翼にある尾根筋には、大型の鋭い薬研堀が穿たれ、北尾根からの敵の接近を阻止している。また無常の南端には鐘搗堂・南櫓台という2つの土壇が各々堀切を介して連ねられている。ここから西の斜面には搦手道があったらしく、その脇には搦手道を防衛する畝状竪堀が穿たれている。また主郭の南には、堀切を介してK郭が築かれている。この堀切も深い切り通しとなって斜面を下っている。前述の鐘搗堂・K郭・三ノ丸が築かれた3つの尾根を貫通して、長大な堀切の防御線が城域南部に構築されている。この堀切ラインは、三ノ郭南では横堀となり、半円形の腰曲輪を取り巻くように円弧状に穿たれ、東端は三ノ丸東側の横堀と繋がり、更に南東に竪堀が落とされている。安室屋敷の周囲にも横堀・堀切が穿たれている。

 以上、城の主要部をラフに概観したが、ここから北東の亀山城との間にも、外郭となる御所山屋敷・足軽屋敷といった曲輪群がある。これだけの規模の城、一体どれだけの兵で守ったのか、想像することも難しい。いずれにしても曲輪の規模は近世城郭並みであり、必見の城である。
一ノ丸腰曲輪北端の大堀切→DSCN0941.JPG
DSCN0986.JPG←主郭虎口
無常南の堀切と鐘搗堂→DSCN1040.JPG
DSCN1183.JPG←三ノ丸南側の円弧状横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.651197/137.041204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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武隈屋敷(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9824.JPG←外周の石垣
 武隈屋敷は、小菅沼城とも呼ばれ、松倉城主椎名氏の家老と伝えられる武隈氏の居館である。金山谷から松倉城への途中に位置しているが、この小菅沼地区には他にも土塁で囲まれた館跡が存在しており、松倉城の時代に支城や城館群が多数存在していたと考えられている。

 武隈屋敷は、小菅沼集落の西端部にある。外周を石垣で囲んだ居館で、東西に虎口があり、いずれも枡形虎口となっている。特に西側のものは土塁で明確に枡形が構築され、虎口両翼の塁線には石垣が組まれている。但し、近代まで武隈氏の屋敷として使われていたということなので、どこまで中世の遺構かは明確ではない。屋敷地内に残る建物脇にも石垣を伴った土塁があったりするので、余計に怪しい。しかし上野の彦部家屋敷が戦国時代の武家屋敷の面影を色濃く残していたように、この武隈屋敷も中世戦国期の形態を残しているのかもしれない。尚、すぐ近くに人の気配がある土地なのに、カモシカが郭内に出現したのには驚いた。
西の枡形虎口→DSCN9841.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.767243/137.438021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2022/04/18
  • メディア: 単行本


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水尾城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9770.JPG←主郭背後の堀切
 水尾城は、松倉城の支城群の一つである。『得田文書』によると、南北朝期の1346年7月に、北朝方の能登守護吉見頼隆の軍勢が、前越中守護普門(井上)俊清討伐のために水尾南山要害と水尾城を攻めたと記載されている。しかしこれ以後、水尾城は文献史料には登場せず、戦国期の歴史は不明であるが、戦国時代にも松倉城の支城として機能していたと推測されている。

 水尾城は、松倉城西方の標高303mの南北に長い峰に築かれている。城の脇まで林道が伸びており、車で近づくのは道が荒れていて困難だが、迷うことなく歩いていくことができる。堀切によって区画された5つの曲輪群から構成されている。仮に、北から順に北2郭・北1郭・主郭・南1郭・南2郭と呼称すると、北2郭が最も広く、北西斜面に何段もの腰曲輪群を連ねている。北東尾根には堀切が穿たれている。更に尾根の先には北端の堀切があるらしいが、時間がなく未確認である。北1郭は平坦な曲輪で、背後の堀切で主郭と分断されている。この堀切に沿って石積みが見られる。主郭は最も小さい曲輪で、後部に土塁を築き、その背後に堀切を穿っている。南1郭は緩斜面となっていて、削平の甘い曲輪である。南側に浅い堀切を穿っている。その南に南2郭があるが、斜面上に築かれた曲輪群で構成されている。南2郭まで来たところで猿軍団が出現したので、末端まで遺構を確認することができず早々に撤退した。城内は現在はほとんど整備されていないが、遺構がわからないような薮ではないので、遺構は比較的わかりやすい。ただ、かつて整備された堀切に架かる橋が朽ちて崩落してしまっている。水尾城は、石積みがあるものの、縄張りは古風なもので、南北朝時代の縄張りをほとんどそのまま受け継いでいると思われる。尚、主郭とした曲輪は、規模が小さく、実際に主郭だったのかどうかは確信が持てない。
堀切に残る石積み→DSCN9812.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.750654/137.427721/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史 (県史)

富山県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本


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石の門砦(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9686.JPG←石門の大型の石組み
 石の門砦は、南升方城と水尾城の間の丘陵鞍部に位置する大型の石組遺構を中心とした砦である。一説には、城下町があったとされる鹿熊集落や松倉城へと通じるための出入口(大手門)とされる。尾根に直交して貫通する切通し道の両側に、大型の川原石を積み上げた石門が築かれている。石門の東の丘陵地には平場群があるが、削平が甘く遺構かどうかはっきりしない。しかし土塁が確認でき、砦遺構があったことがわかる。この様な大規模な石門遺構は珍しく、一見の価値がある。車道脇にあるので、探訪も容易である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.754642/137.423537/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2022/04/17
  • メディア: 単行本


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升方城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9633.JPG←横堀状の二ノ郭
 升方城は、松倉城の支城群の一つである。城の歴史は明確ではないが、江戸時代に書かれた史料では松倉城主椎名氏の家老小幡九郎が最初の城主で、その後佐々成政の家臣佐々新左衛門が守将となったと言われている。

 升方城は、標高241m、比高120m程の城山に築かれている。城の西端部の曲輪が公園となっていて、車道も整備されているので訪城は容易である。公園から城に登る散策路があり、四阿やトイレが郭内に置かれ、以前は城址公園としてある程度整備されていた形跡があるが、現在は未整備の薮城と化しており、維持管理できなかった城址公園の典型となってしまっている。升方城の縄張りは、山頂に長円形の主郭を置き、その周囲を取り巻くように腰曲輪状の二ノ郭を廻らし、そこから西に降る城道に沿って曲輪群が置かれている。主郭も二ノ郭も土塁が築かれ、特に二ノ郭の東側は横堀状になっている。二ノ郭には井戸跡も残っている。西の城道は曲輪群を登りながら屈曲して二ノ郭に通じている。この城道に沿った曲輪群の内、西端部の3郭には外周に土塁が築かれ、その外側下方に横堀が穿たれている。横堀の外には4郭がある。4郭の西側下方は公園の平場であるが、ここも曲輪であったと考えられる。この他、二ノ郭の北側にも腰曲輪・横堀があり、竪堀も数本確認できる。また北西に伸びる尾根には堀切が2本穿たれている。東尾根には堀切を穿って城の背後を分断している。二ノ郭から南尾根に降るところにも小郭数個を設けた城道があり、その先に堀切がある。この南の城道の西側に広がる南斜面には畝状竪堀が穿たれているが、薮に埋もれてしまっている。ここの畝状竪堀は、東と西で落とし方が異なり、東は直接斜面に穿っているが、西は横堀から竪堀を落としている。この他、西の城道沿いや二ノ郭土塁に石積みが残るが、薮に埋もれてほとんどわからなくなってしまっている。以上が升方城の遺構で、遺構はよく残っているが薮に埋もれているのが残念である。主郭にある城址碑と解説板も、薮に埋もれかけている。
南斜面の畝状竪堀→DSCN9611.JPG
DSCN9548.JPG←北西尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.763874/137.420146/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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平峰砦(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9437.JPG←東の堀切
 平峰砦は、松倉城の北東尾根の先にある物見の砦である。標高431.2mの峰上に築かれており、松倉城との間の尾根筋には連絡を分断する堀切が3ヶ所穿たれている(この堀切の内、最も規模が大きい北のものは散策路が通過している)。東西に長い主郭を持ったほぼ単郭の砦で、南北の斜面に腰曲輪を配し、東西の尾根筋を堀切で分断しただけの簡素な縄張りである。主郭は小さな段差で東西2段に分かれている。東西の堀切の先には小郭が置かれ、その先にも遺構があるようだが、時間の都合で未踏査である。尚、東の堀切には石積みの城戸か何かがあったらしく、大きな切り石が散乱している。
 平峰砦からは、北に眺望がひらけ、物見として絶好に位置にあったことがうかがえる。尚、主郭までは散策路が整備されているので、松倉城からちょっと足を伸ばせば行くことができる。
主郭内の段差→DSCN9433.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.758321/137.441776/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国越中外史

戦国越中外史

  • 作者: 宏太郎, 盛永
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2020/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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松倉城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9123.JPG←主郭
 松倉城は、越中3大山城の一つに数えられ、新川郡守護代となった椎名氏の居城である。松倉城の文献上の初見は南北朝初期の1338年で、『太平記』第20巻に越中守護普門(井上)蔵人俊清が越後南朝方との戦いに敗れ、松倉城に立て籠もったとの記述がある。1344年、俊清は東大寺領の荘園押領等によって越中守護を罷免されたことから室町幕府に背き、幕府から追討されることとなった。1347年、幕府は桃井直常・能登守護吉見氏頼らに俊清を討伐させ、俊清の籠もる松倉城を攻撃し、1348年10月に松倉城を攻略した。俊清は逃れて、内山城に立て籠もり、その後没落した。その後桃井直常が越中守護となったが、直常は足利直義党の最右翼の武将で、1350年に足利尊氏・直義兄弟による幕府を二分する内訌「観応の擾乱」が勃発すると、直常は終始直義党として尊氏に激しく反抗し、直義没後も反幕府勢力として越中を拠点として活動した。1369年、直常は能登に進攻し、能登吉見勢と能登・加賀・越中3国で交戦し、同年9月29日には松倉城に引き籠もり、その後も継続して松倉城を拠点として抵抗を続けた。しかし幕府方の攻撃によって、桃井氏は没落した。後に畠山氏が越中守護となると、在地豪族の椎名氏は畠山氏に服属して松倉城を本拠とした。椎名氏は元々下総の名族千葉氏の庶流で、その一族が鎌倉時代に越中に入部したらしい。室町中期に椎名氏は新川郡守護代となり、礪波郡守護代遊佐氏、射水・婦負郡守護代神保氏と共に、越中三守護代家が分立した。畠山持国の後継を巡る内訌が生じると、椎名氏は畠山政長派となった。畠山氏の内訌が直接の契機となって応仁の乱が勃発すると、椎名氏は東軍に属して戦った。戦国時代に入ると、神保・椎名両氏が越中を二分して拮抗した。守護畠山氏の勢力が減退し、神保慶宗が越中一向一揆と手を結んで自立の動きを見せると、1506年、畠山尚順は越後守護代の長尾能景に支援を求め、これが越後長尾氏が越中の騒乱に関わるきっかけとなった。1515年、尚順は再び越後守護代長尾為景(能景の子)に神保氏討伐の支援を求めた。以後、為景はしばしば越中に侵攻し、神保慶宗・椎名慶胤らと交戦を繰り返した。1520年、為景は神保慶宗・椎名慶胤を滅ぼし、翌21年に畠山尚順から新川郡守護代に任ぜられた。為景は、椎名氏の旧領を安堵して椎名長常を又守護代とし、新川郡支配を委ねた。1536年、長尾為景が没すると椎名氏の支配は不安定化し、神保慶宗の子長職による神保氏再興運動が活発化した。神保氏は勢力を拡大し、椎名氏と越中を二分して抗争を繰り返した。1560年、富山城の神保長職と敵対する松倉城主椎名康胤救援のため、越後守護代長尾景虎(上杉謙信)は越中に侵攻。景虎は神保氏を破り、椎名氏を安泰にして帰国した。しかし後に七尾城を追放された能登国守護畠山義綱への対応を巡って、康胤と謙信との間に溝が生じ、1568年 、遂には武田信玄・越中一向一揆と結んで上杉氏から離反した。翌年8月、謙信は康胤が籠もる松倉城を攻撃し、康胤は松倉城を追われた。その後は上杉氏の属城となり、魚津城と並んで上杉氏の越中における重要拠点となった。その後、謙信の重臣河田豊前守長親が松倉城を守ったが、1578年に謙信が急死して御館の乱が生起すると、その隙を突いて越中に侵攻した織田軍に圧迫され、上杉方は越中東部に圧迫された。1580年には織田方の神保長住が松倉城下に進撃して放火している。翌81年、長親は松倉城で病没した。1582年、柴田勝家・前田利家・佐久間盛政・佐々成政らの織田軍が上杉方の松倉城・魚津城を攻撃し、6月3日に魚津城は玉砕して落城した。これは本能寺の変で織田信長が横死した翌日のことであった。本能寺の変の報を受けて織田勢は撤退し、上杉勢は直ちに魚津城・小出城などを奪還したが、翌83年に再び佐々成政の攻撃を受け、松倉城・魚津城は攻略されて越中は成政によってほぼ平定された。佐々氏やその後の前田氏の支配時代に松倉城が使用されたかどうかは不明であるが、慶長年間(1596~1615年)初期に廃城になったと伝えられる。

 松倉城は、標高413m、比高340m程の山上に築かれている。まともに登ったら大変だが、県の史跡に指定されており、城内まで車道が延びており、城の間近まで車で行くことができる。山頂の主郭を中心にY字型をした尾根上に曲輪群を連ねた連郭式の縄張りとなっている。主軸となるのが北東尾根に連なる曲輪群で、南の主郭から順に二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭が堀切を介して連なっている。それぞれの曲輪には腰曲輪が付随して、守りを固めている。主郭の後部は一段高くなっているが、巨岩がゴロゴロしていて建物が建てられるようなスペースはなく、櫓台ではなく信仰的な施設が置かれたものと思われる。主郭の背後にも堀切を介して八幡堂と言う物見台のような曲輪が置かれているが、これも信仰的施設だったのだろう。八幡堂の周りにも腰曲輪が見られる。また二ノ郭の南西には虎口郭が付随し、三ノ郭には土塁が巡らされ、その東の尾根に数本の小堀切が穿たれている。四ノ郭は後部に物見台状の土壇を設け、北側に土塁を廻らしている。先端は堀切が穿たれ、更に東側に横堀を穿って防御している。一方、主郭の北西の尾根には大きな切岸で区画された何段もの広い舌状曲輪が連なっている。その先には木戸口があり、そこから更に西に下った所に大見城平と呼ばれる広大な居館地区の平場群がある。大見城平の最上部に当たる南東部には土塁で構築された屈曲した動線の枡形虎口が見られる。また大見城平の最下部には石垣の残る大手口があり、北西下方には大きく窪んだ井戸曲輪、北側には独立した物見砦がある。
 以上が松倉城の遺構で、主要部は整備されて見易いが、腰曲輪や主郭北西の曲輪群はほとんど未整備となっている。また車道によって腰曲輪群が改変されてもいる。しかし全体としては、往時の姿をよく残しており、見応えがある。尚、城までの車道の途中では、20~30頭の猿軍団のお出迎えがあった。
四ノ郭東の横堀→DSCN9396.JPG
DSCN9276.JPG←大見城平の平場群
大手門の石垣→DSCN9248.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.754505/137.437656/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本


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砂小坂道場(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9054.JPG←尾根筋に残る堀跡
(2020年11月訪城)
 砂小坂道場は、本願寺勢力(一向衆)が築いた寺院城郭である。二俣越を押さえる加越国境の要地で、戦国前期に一向衆が砺波平野に進出する拠点として構築された。後の善徳寺や光徳寺の創建の地と伝えられ、本願寺8世蓮如が土山御坊を創建したのと同時期に、この地の豪族高坂四郎左衛門の協力を得て、砂子坂道場を築いて布教の拠点とした。この頃、加賀守護の富樫政親は、当初は弟幸千代との後継争いで一向衆と同盟を結んで幸千代を滅ぼしたが、その後、一向衆が勢いを増すと、政親は一転して一向衆を弾圧した。加賀一向一揆衆は井波瑞泉寺を頼って逃げ延びたが、1481年に富樫氏から瑞泉寺討伐の要請を受けた福光城主石黒光義と山田川の田屋川原で激突し、石黒氏を滅ぼした。砂小坂道場の尾根筋に残る大規模な堀跡は、この当時の緊張状態を今に伝えるものと考えられている。

 砂小坂道場は、富山県南砺市と石川県金沢市の境界線を跨いで築かれている。主要部が金沢市域にあるので、どちらかといえば石川県の城郭に分類した方が良いのかもしれないが、砂小坂道場を詳しく解説した資料「となみ山城マップ」が南砺市側発行のものなので、ここでは富山県の城郭として分類した。
 砂小坂道場は、県道27号線の南にある標高314mの丘陵地にある。現在は全域山林になっており、一部を除いて笹薮が繁茂している。内部には蓮如が自らたたらを踏んで黄金の阿弥陀如来像を鋳造したことを示す記念碑が建っている。やや南に離れた所にも「善徳寺創建之跡」という石碑が建っている。道場跡には多くの平場群があり、中には土塁で囲まれた方形の区画もいくつか見られ、まさに寺跡という雰囲気である。またこれら平場群を繋ぐように堀状通路が散在している。丘陵北側の尾根筋には長い堀跡が残っているが、堀というより古道跡という雰囲気である。一向一揆勢が寺を城砦化した例は多いので、砂小坂道場も往時は武装化した寺院だったと思われるが、遺構を見るとやっぱり城跡というより寺跡という印象が強い。
土塁で囲まれた方形の平場→DSCN9036.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.568132/136.802047/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国と宗教 (岩波新書)

戦国と宗教 (岩波新書)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/09/22
  • メディア: 新書


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御峰城・土山御坊(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8960.JPG←御峰城主郭の城址標柱
(2020年11月訪城)
 御峰城は、土山城・土山砦とも呼ばれ、本願寺8世蓮如が土山御坊を設けた地にある平山城である。土山御坊は勝興寺の前身で、吉崎御坊に居た蓮如が文明年間(1469~87年)に叔父如乗が創建した二俣本泉寺を頼って医王山西麓一帯を巡錫した際、この地の豪族である杉浦万兵衛の屋敷に逗留し、土山御坊を設けて布教の拠点とした。土山御坊は後に勝興寺の寺号を与えられ、蓮如は次男の蓮乗を後継として残し、自身は瑞泉寺の復興に当たった。蓮乗は本泉寺・瑞泉寺を掛け持つ立場にあったため、4男蓮誓を勝興寺(土山御坊)に置いて布教に当たらせた。勝興寺(土山御坊)は1494年に高木場に移り、更に1519年に火災のため安養寺に移り栄えた。1584年、越中を支配した佐々成政は、神保氏張の持城であった古国府城の地を寄進して、一向宗徒の拠点であった勝興寺を古国府城の地に移し、現在に至っている。一方、御峰城は、佐々成政が1584~85年頃に加賀・能登を領する前田利家との争いが激化する中で、加越国境防衛の為に修築され、家臣の稗田善助・青木孫右衛門が守将として置かれたと言う。

 御峰城は、標高260mの小高い丘の上に築かれている。北の頂部に主郭を置き、その北に2段の腰曲輪、南東の尾根に小郭群を連ね、南端に二ノ郭を配置している。しかし主郭には現在給水施設が建ち、そこまで至る小道が尾根を削って付けられているので、遺構はやや破壊を受けている。主郭の南北には土塁があるようだが、薮がひどくてわかりにくい。腰曲輪や小郭群も薮に埋もれている。南東尾根と二ノ郭の間には切通しの道が貫通しているが、堀切があった可能性がある。また北の下段の腰曲輪の東側には横堀が穿たれている。
 土山御坊は、御峰城の東側に広がる平坦地で、市の史跡となっており、民家の東側が公園として整備されている。この公園が万兵衛屋敷と言われ、北側に土塁が見られ、南西の民家の裏にも高い土壇がある。また土山御坊が置かれた万兵衛屋敷の西の丘上に御峰城が置かれ、万兵衛屋敷の南東に丘上には「御亭(オチン)」と呼ばれる高台があり、南辺に低土塁と空堀が残っている。即ち土山御坊は東西を城砦で守られた中世寺院だったらしい。また御峰城の西側の畑地奥の山林内にも、空堀や堀切状地形が見られ、「ゴモン」「ゴモンノサカ」などの地名が残っている。

 以上が御峰城・土山御坊の状況で、御峰城は佐々成政が国境防衛のために築いた城とは言うものの、他の加越国境城砦群と比べると規模は小さく、縄張りも平凡で、御坊跡に駐屯させた軍団の為の見張りの城に過ぎなかったように思われる。
御峰城腰曲輪の横堀→DSCN8977.JPG
DSCN8997.JPG←土山御坊跡
御亭に残る空堀→DSCN9012.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【御峰城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.579058/136.804987/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【土山御坊】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.578403/136.807047/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【御亭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.577834/136.807390/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


蓮如―聖俗具有の人間像 (岩波新書)

蓮如―聖俗具有の人間像 (岩波新書)

  • 作者: 五木 寛之
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1994/07/20
  • メディア: 新書


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桑山城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8880.JPG←横矢張出の櫓台と堀切
(2020年11月訪城)
 桑山城は、福光城主石黒氏の支城である。石黒氏の家臣坊坂四郎左衛門が桑山城を預かっていたが、仔細あって同城を追い出され、土山安養寺に入っていた。1481年、石黒右近光義と医王山惣海寺の衆徒とが、井波瑞泉寺の一向一揆勢と山田川において戦った(田屋川原合戦)が、この時坊坂四郎左衛門は光義の企てを加賀衆に知らせ、安養寺の大将となって加賀勢と共に医王山を焼き払い、石黒氏の居城福光城にも火を放った。この結果、石黒勢は総崩れとなって滅んだと言う。その後の桑山城の歴史は不明だが、現在残る遺構は戦国後期のものと推測されている。

 桑山城は、標高292.4mの桑山の山頂に築かれており、砺波平野を一望できる要衝である。桑山山頂には桑山火宮社とテレビ塔があり、そこへの林道(未舗装路)が山頂付近まで通っているので、車で城近くまで行くことができる。城は山頂の北半分に築かれている。ほぼ単郭の小城砦で、半長円形をした主郭とその周囲を廻る円弧状の横堀・腰曲輪から構成されている。主郭内は削平が甘く緩やかに傾斜している。主郭の南側には堀切を穿って南の山頂部と分断している。この城の特徴は、この堀切に設けられた横矢掛けの張出櫓台で、ちょうど凸字の形に突出し、それに沿って堀切も屈曲している。堀切に沿った塁線には土塁が築かれ、前述の櫓台と共に主郭面より一段高くなっている。城の構造としてはそれだけで、非常に簡素な構造であり、あくまで砺波平野の物見を主任務とした城であったことがうかがわれる。
腰曲輪と横堀→DSCN8914.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.579178/136.853396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/09/15
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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西勝寺城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8811.JPG←主郭~北郭間の堀切
(2020年11月訪城)
 西勝寺城は、戦国時代に越中石黒氏の宗家石黒太郎光秀の居城と伝えられる。また光秀の弟五郎光信が福光城、光秀の次男石黒宗五郎が山本城を居城としたと言う。しかし石黒氏の戦国期の事績には混乱が多く、詳細は不明である。

 西勝寺城は、桑山から東方に伸びる尾根先端の標高160m、比高80mの山上に築かれている。くの字に折れ曲がった尾根に配列された3つの曲輪で構成されている。主郭は中央の曲輪で、周囲に腰曲輪1段を伴っている。主郭の南には堀切を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭の先には腰曲輪があり、その先はそのままなだらかな尾根となっている。一方、主郭の北側には大きな谷地形を利用した堀切がある。この堀切の西にはL字型の土塁で防御した虎口、東にも竪土塁で構築した木戸口がある。堀切の上には北郭がそびえている。北郭は東西を堀切で区画し、東側の堀切はそのまま横堀・腰曲輪と変化して南に伸びている。北郭の西には堀切を挟んで尾根が続いているが、外郭があったらしく、ここにも平場と竪堀状虎口などが見られる。この他、主郭の西側下方には横堀の様な切通しの道があり、古道が通っていたらしい。どうも古道を監視する役目も果たしていた城だった様である。
 西勝寺城は、小規模な城であり、あまり技巧的な構造も見られない。また主郭・二ノ郭は薮が多いのも残念である。但し、城のすぐ脇に林道が通っているので、訪城は容易である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.577266/136.864275/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/05/05
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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安居城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8724.JPG←主郭周囲の腰曲輪
(2020年11月訪城)
 安居城は、歴史不詳の城である。現地解説板によれば、規模や構造から見て室町~戦国時代に在地の勢力が、小矢部川の水運と山麓の陸路を押さえる目的で築いたと推測されると言う。また室町時代の越中の棟別銭に関する記録(東寺百合文書)に、足利一門の斯波高経の5男義種の子満理の側近として「安居弥太郎守景」が見えており、地名を冠した当地の豪族だったとすれば、この城の城主であった可能性が考えられる。

 安居城は、標高122m、比高70m程の丘陵上に築かれている。北西の用水池前の車道脇に城の解説板があり、そこから山中に入って南の尾根に登り、尾根上を東に向かえば城に至る。丘陵基部に堀切を穿ち、その東に高さ3m程の切岸で囲まれた主郭を置いている。主郭内は削平甘く、東に向かって傾斜している。外周には腰曲輪が1段廻らされ、北西部では横堀となっている。北東には緩斜面が広がるが、前述の腰曲輪にはこの斜面に向かって虎口が築かれ、その先にも段差や土塁状の土盛り、堀状の通路が見られることから、前衛の曲輪があったらしい。しかし、ダラダラと斜面が続いているので、どこまでが城域であったのかは明確ではない。城の形態から見る限り、戦国期以前の古い形態の城と考えられる。
主郭西側の堀切→DSCN8690.JPG
DSCN8723.JPG←北東斜面の土盛り

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.593479/136.880862/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 室町幕府

図説 室町幕府

  • 作者: 丸山裕之
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/06/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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舟見城(富山県入善町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7014.JPG←西端の堀切
(2020年11月訪城)
 舟見城は、弘治年間(1555~58年)に飛騨守五郎左近尉と言う武士の居城であったと伝えられる。一説には、平安末期に入善小太郎父子が舟見城を築いたとも言われる。越後の上杉謙信が越中に侵攻すると、飛騨守は舟見城に立て籠もって抗戦したが、水源を絶たれて落城し、飛騨守は血路を開いて城を脱出し、愛馬もろとも黒部川に身を投じたと伝えられる。

 舟見城は、舟川東岸の標高252.4m、比高110m程の丘陵上に築かれている。現在は舟見山自然公園に変貌し、城内は大きく改変されてしまっている。従って、明確な遺構はほとんど無い。しかし南端と西端に小堀切が残っており、特に西の堀切は綺麗な形を留めている。この他、西側斜面下方に大型の腰曲輪が確認できる。眼下の眺望に優れ、富山湾を一望できる。
西斜面の腰曲輪→DSCN7011.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.882744/137.559675/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/04/17
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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内山城(富山県黒部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6945.JPG←主郭南の堀切
(2020年11月訪城)
 内山城は、現地標識では内山砦と表記され、南北朝期に元越中守護普門俊清が立て籠もった城である。俊清は、建武の新政期に越中守護に補任され、足利尊氏が建武政権から離反すると足利方に付いて、宮方の越中国司中院定清を能登石動山に攻め滅ぼしたことが『太平記』第14巻に見える。その後、室町幕府が成立するとあらためて越中守護に任じられたが、1344年に東大寺領の荘園押領等によって守護を罷免されたことから幕府に背き、幕府から追討されることとなった。1347年、幕府は桃井直常・能登守護吉見氏頼らに俊清を討伐させ、俊清の籠もる松倉城を攻撃し、1348年10月に松倉城を攻め落とした。俊清は逃れて、内山城に立て籠った。得田素章らはこれを追って内山城を攻撃したことが、得田素章軍忠状に見える。その後の内山城の歴史は不明である。

 内山城は、黒部川西岸の山上にあり、北に突出した尾根の中ほどに築かれている。高圧鉄塔の建っている山なので、西麓から「愛本 3」と書かれた鉄塔保守道を使って登ることができる。小規模な城砦で、山頂に長円形の主郭を置き、その南北に堀切を穿ち、主郭東には横堀、西斜面には数段の腰曲輪群を築いている。主郭には高圧鉄塔が建っており、北側に段曲輪を築いている。主郭の塁線の一部と、西の腰曲輪群には川原石を積んだ石積みが残っている。この石積みは『日本城郭大系』では遺構としているが、後世の耕地化による可能性もあると思われ、遺構とは断定できないように思う。一応、登道があり、「内山砦→」という誘導標識もあり、以前は整備されていた痕跡が残るが、現在は薮に覆われている。主郭北の堀切の北側にも曲輪があった可能性があるが、薮で確認が困難である。主郭南の堀切の南側には高圧鉄塔の建つ平場があり、外郭であった可能性があるが、判然としない。追い詰められた普門俊清が逃げ込んだ城なので、それほど大きな城ではなかったのだろう。
主郭塁線の石積み→DSCN6950.JPG
DSCN6961.JPG←主郭東側の横堀
西斜面の腰曲輪群→DSCN6981.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.856978/137.551650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本


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