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奥村家(宗家)屋敷(石川県金沢市) [その他の史跡巡り]

IMG_5954.JPG←屋敷跡の土塀
(2004年9月訪問)
 奥村氏は、加賀前田家の重臣で、加賀八家と呼ばれる前田家家臣団中最高の家柄に名を連ねた名家である。前田氏の尾張荒子城時代以来の家臣で、前田利家に仕えた奥村永福は、利家が賤ヶ岳の戦功により加賀を加増されると、加賀・能登を結ぶ要衝の末森城の城主となり、1584年に越中の佐々成政の能登侵攻によって生起した末森合戦において、寡兵ながらよく持ちこたえ、前田家の危機を防ぐ大功を挙げた。以後、江戸時代を通して加賀百万石を支える重臣として続き、大名家臣ながら17,000石(幕末時)という大名並みの禄高を有して、幕末まで存続した。
 現在、藩政時代の奥村家の長土塀が、数百mにわたって金沢の街中に残っている。屋敷地は現在、金沢医療センターとなっており、周囲をめぐる土塀以外の遺構は残っていないが、広大な屋敷地であったことが今でもよくわかる。周囲が完全に市街化した中を、古い土塀の前に辰巳用水が、往時そのままに流れている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.560446/136.665834/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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実蒔原古戦場(神奈川県伊勢原市) [その他の史跡巡り]

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 実蒔原古戦場は、山内・扇谷両上杉氏が戦った長享の乱の際の古戦場である。1486年に声望の高かった扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、主君扇谷上杉定正の糟屋館で謀殺され、道灌死後の翌年、関東管領山内上杉氏と扇谷両上杉氏との間に対立が生じ、長享の乱と呼ばれる動乱となった。相模や武蔵国内で両者が抗争する中、1488年、山内上杉顕定は扇谷上杉氏の本拠糟屋を押さえようと、鉢形城を出兵し一千騎で押し寄せた。そして糟屋館の背後を押さえる、定正の弟朝昌の守る七沢城を攻め落とした。これに対して定正は手兵200騎余りで河越城から駆けつけ、両軍は実蒔原で激突した。実蒔の地形を熟知していた扇谷勢は、寡兵にも関わらず山内勢を討ち破ったと言う。しかし薄氷を踏む勝利であったようで、後に定正はこの戦いを「二度と学ぶべからざる行い」と書状に書いている。尚、従来七沢城の朝昌は、七沢城で討死したと言われていたが、実際はこの後大庭城に移ったと解説板に記載されている。

 実蒔原古戦場は、七沢城の南1.6km程の場所にあり、現在民家の近くの樹の根元に古戦場碑が建っている。付近は広くなだらかな丘陵地で、大兵の展開が可能なほどであり、寡兵で勝てるような要害地形には見えない。顕定が弱かったのか、定正が余程の戦巧者だったのか、どちらかであろう。それにしてもこの古戦場碑は、案内標識もなく近くにめぼしい目印もないので、探すのに苦労した。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.434082/139.300364/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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南原古戦場(神奈川県山北町) [その他の史跡巡り]

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 南原古戦場は、南北朝時代の古戦場である。幕府内(北朝方)で観応の擾乱と呼ばれる内部抗争が起き、足利尊氏は対立する弟直義を追って鎌倉に下向した。直義を降したのもつかの間、この機に乗じて南朝方は各地で蜂起し、関東でも新田義宗・義興、脇屋義治らが宗良親王を奉じて鎌倉に攻め上った。金井原人見原などで行われた武蔵野合戦で尊氏は大敗し、一旦は鎌倉を放棄するものの、武蔵石浜の地で軍勢を立て直した。この後反撃に出た尊氏は鎌倉を奪還し、新田義興・脇屋義治は南朝方に付いていた河村城主河村秀国・秀経らと共に河村城に籠城した。1352~53年にかけて鎌倉府執事(後の関東管領)の畠山国清を主将とする足利勢と干戈を交えるが、1353年8月、南原の戦いで南朝方は惨敗し、秀国・秀経ら河村一族のほとんどは戦死し、義興・義治らは中川城を経て甲州から越後に逃れたと言う。

 南原古戦場は、河村城の東南東約1.6kmにあり、酒匂川北岸の比高30m程の段丘上に位置している。現在は一面の市街地となって、往時の面影は感じられない。標柱などはないが、県道74号線沿いに建つ南原古墳群の解説板に、「この場所は南北朝時代に豪族「河村氏」が滅亡した「南原の戦い」の主戦場である」と簡単に記されているのみである。時の彼方に消えて行った地方豪族の歴史が、ここにも眠っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.350293/139.093684/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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前田利常侯灰塚(石川県小松市) [その他の史跡巡り]

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(2004年8月訪問)
 加賀前田家3代藩主の前田利常は、名君として知られている。妾腹に生まれた庶子であったが、兄利長に可愛がられ、その病進むに及んで譲りを受けて、3代当主となった。利常は、加賀・能登・越中合わせて100万石という国内最大の外様大名の存在が目障りな幕府から警戒されることを避ける為、鼻毛を長く伸ばす等の奇行をもって自ら深く韜晦し、その一方で領国には善政を敷いた。晩年は隠居城として幕府の許しを特別に得て小松城を造営し、ここに住んだ。利常は、1658年10月12日、脳溢血のため66歳で薨じたが、生前、三宅野台地からの眺めを大変気に入り、「もし自分が死んだら、あの三宅野に火葬して欲しい」と遺言したと言う。灰塚は、火葬の際に出た灰を塚に埋めたのが由来とされている。
 灰塚は、加賀産業道路の通る丘陵地の一角にひっそりとたたずんでおり、生前何かと気苦労の耐えなかった前田利常が、観光地化で騒がしくなることなく、安らかにこの地に眠っているようだ。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.410697/136.509064/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
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石橋山古戦場(神奈川県小田原市) [その他の史跡巡り]

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 石橋山古戦場は、源頼朝挙兵の地である。平治の乱で父源義朝が敗死し、平清盛によって伊豆蛭ヶ小島に流されていた頼朝は、現地豪族の北条時政の娘政子と恋仲となり、婚姻によって北条氏ら周辺豪族を味方につけた。そして1180年、平家の専横を憎む以仁王の令旨を受けて、平家打倒の兵を挙げた。この時、相模の名族三浦党の岡崎四郎義実やその子佐奈田与一義忠も駆けつけ、伊豆の目代山木兼隆を血祭りに上げるが、手勢わずか300であり、頼朝鎮圧に攻め寄せた大庭景親ら3000の平家軍と石橋山で戦い、大敗した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、梶原景時に見逃されて辛うじて船で安房へ落ち延び、安房で再挙を図った。この後は、上総介や千葉氏、畠山重忠など関東諸豪が次々と頼朝の元に参陣し、瞬く間に大軍に膨れ上がった源氏軍は平家方を破って、鎌倉を本拠とした。

 石橋山古戦場は、海縁まで山地が迫った狭隘な地にあった。国道135号線から脇道に入り、坂道を登って東海道本線の上を越えた所に石碑が立っている。また付近には関連史跡が残り、佐奈田与一を祀った佐奈田霊社があり、その境内に与一が討死した跡に作られた与一塚が残る。またその南側の果樹畑は「ねじり畑」と呼ばれ、与一が組み討ちした場所とされ、畑の作物がすべてねじれてしまうと言われているそうだ。更にその南の文三堂は、与一と共に討死したその郎党豊三家康を祀っている。

 石橋山は、日本最初の武家政権発足の起点となった場所である。尚、古戦場に入る道は少々分かりにくく、しかも狭隘な国道は一旦通り過ぎてしまうと中々Uターンが出来ないので、車では訪れにくい場所である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.221870/139.141084/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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竹之下古戦場(静岡県小山町) [その他の史跡巡り]

DSC04913.JPG←古戦場碑
 竹之下古戦場は、南北朝時代に行われた日本の歴史上重要な古戦場である。1333年に鎌倉幕府が滅亡し、京都に戻った後醍醐天皇は建武の新政を始めたが、失政相次ぎ、諸国の武家だけでなく公家からも怨嗟の声が上がった。そんな中の1335年7月、執権北条氏の残党が北条高時の遺児時行を奉じて大規模な反乱を起こした。いわゆる中先代の乱である。挙兵した北条家残党は鎌倉奪還を目指して瞬く間に関東を席巻した。この時鎌倉府を預かる執権足利直義(尊氏の弟)は軍勢を差し向けたが、女影原では岩松経家や渋川義季(直義の妻の兄)が戦死。府中では、下野の名族小山秀朝が一族家人数百人と共に討死するという事態に陥った。そして直義が自ら軍勢を率いて井出の沢で時行勢を迎え撃ったが、激戦の末ここでも足利勢は敗れ、直義は鎌倉府の主の成良親王を京都に逃げ延びさせ、自身は兄尊氏の妻登子と嫡男千寿王(後の義詮)と共に三河まで落ち延びた。この後、時行勢は鎌倉を占領したが、後醍醐天皇の聴許を待たずに東下した足利尊氏率いる足利勢は、三河矢作宿で直義と合流すると、遠江の橋本の戦いを皮切りに、佐夜の中山、駿河の高橋縄手、箱根山、相模川、片瀬川、鎌倉口と東海道7つの要害戦を一度も落とさず進撃し、たちどころに時行勢を追い散らして鎌倉を取り戻した。時行が鎌倉を保つこと20日余り。故に中先代の乱は二十日先代の乱とも呼ばれる。

 この後、尊氏は後醍醐天皇の帰京命令に従わず、鎌倉に腰を落ち着けてしまった。その為、同年11月、後醍醐は新田義貞に足利討伐を命じた。尊氏はこの時、弟直義に足利勢の統帥権を譲り、自らは恭順の意を示すため鎌倉の浄光明寺に蟄居した。尊氏の将高師泰は、防衛線と定めた三河矢作川で義貞軍を迎え撃って敗退し、続いて直義が駿河手越河原で迎撃したが、これも敗れて、足利方の将士は箱根山中の水呑を掘り切って要害を構え、最後の抵抗を試みようとした。足利一門の命運も風前の灯と知った尊氏は、直義と一門を助けるため出陣を決意し、鎌倉に予備兵力として残していた小山・結城・長沼諸氏の軍勢を率いて鎌倉を出立した。

 後世、優柔不断と揶揄されることの多い尊氏であるが、竹之下合戦に於いて、名将たるに違わず、その戦術家としての才を遺憾なく発揮した。即ち、箱根に籠って義貞本軍に追い詰められた味方の救援に向かったのではなく、大きく北に迂回して足柄峠を越え、義貞勢の搦手軍である脇屋義助の軍勢に夜明けの奇襲攻撃を掛けたのである。一宮尊良親王を奉じた義助軍は、この側面からの奇襲攻撃に狼狽し、崩れたって敗走しつつ反撃を続けた。翌日、義助軍が引き退いた竹之下の南の佐野山に主戦場が移り、引き続き合戦が行われた。その中で、大友左近将監貞載が足利方に寝返り、この乱戦の中で親王を防ぎ戦った公卿大将の二条為冬は討死した。戦闘3日目になると、足利勢は箱根の陣を引き払って退却してきた義貞本軍と伊豆国府(三島)で戦い、畠山安房入道が戦死するものの義貞勢を駆逐した。竹之下合戦とは、この3日間に渡って繰り広げられた、竹之下から三島までの南北25km程に及ぶ広い範囲での戦い全般を指す。敗れた義貞は、富士川を渡って敗走した。

 これ以後、時代は南北朝分裂の時代に突入することとなり、この戦いは建武の新政を事実上瓦解させ、尊氏による室町幕府樹立へと時代を大きく転換させる画期となった。

 場所:【石碑】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.334698/138.979164/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

 竹之下付近には、竹之下古戦場碑以外にもこの合戦にまつわる史跡が数多く残る。

<竹之下合戦供養塔>
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 竹之下堀之内館跡とされる興雲寺の境内に、竹之下合戦の戦死者供養塔と古戦塚が建てられている。近年建てられたもので真新しく風情はないが、今でもこの地に700年前の歴史が息づいていることがわかる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.336168/138.976010/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<釜澤>
DSC04922.JPG
 湧き水があり、官軍が兵糧を炊いた場所と言う。すぐ南隣にあしがら温泉があるので目印になる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.328168/138.973843/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<陣場>
陣場に残る堀状地形→DSC04926.JPG
 官軍の先手が布陣した場所と言う。背後の山林の中に堀のようなものがあるが、陣場の遺構であろうか?

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.326400/138.973671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<千束橋>
DSC05064.JPG
 官軍が退く際に橋を落としたので、足利軍が薪を千束入れて橋の代わりにして渡ったところと言う。足柄駅近くの小さな橋である。解説板の文字が消えかかっているので何とかして欲しいところ。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.333805/138.980817/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<合士ヶ窪>
DSC05068.JPG
 官軍の二条為冬が錦旗を立てて残軍を集めた場所と言う。県道149号線沿いの畑に解説板が建つ。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.338339/138.977276/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<有闘坂>
DSC06932.JPG
 脇屋義助が防戦した場所と言う。坂道に標柱が建つのみで解説はない。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.334015/138.976847/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<白旗神社>
DSC07585.JPG
 足柄古道の麓近くに建つ。尊良親王が鮎沢川を下って落ち延びるのを見届けた二条為冬は、この地で74人の将兵と共に自刃したと言う。但し、この伝承は梅松論の記載とは異なる。梅松論では、二条為冬は前述の通り翌日の佐野山の戦場で討死したとされる。為冬は、この時代の和歌の大家で二条派の総帥二条為世の末子であった。尊氏の朋友でもあり、尊氏は為冬の首を召し寄せて見て、深く嘆いたと言われている。おそらく隠然たる新政の実力者でありながら、その勢力故に公家たちから何事にも「尊氏なし」と言われて排斥されていた尊氏にとって、数少ない心許せる公家の友人であったのだろう。和歌を好んだ尊氏と、連歌の会でも催していたものであろうか。尚、白旗神社の社殿右手に二条為冬の墓が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.348893/138.982812/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<渡り上り>
DSC07596.JPG
 二条為冬が退陣する際、川を渡って所領部落に向かった場所とされる。鮎沢川に架かる橋の袂に解説板が立つ。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.341787/138.980945/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


足利尊氏 (角川選書)

足利尊氏 (角川選書)

  • 作者: 森 茂暁
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  • 発売日: 2017/03/24
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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上杉龍若丸墓(神奈川県小田原市) [その他の史跡巡り]

DSC04328.JPG←墓の安置された祠
 上杉龍若丸は、関東管領山内上杉憲政の嫡子である。父憲政が河越夜戦にて惨敗し、逃げ帰った本拠の平井城も北条氏康に攻囲されて風前の灯となった時、越後に逃れた父と別れて小田原城下にて斬殺された。この経緯には2説あるようで、現地解説板に拠れば、平井城落城寸前に降伏の使者として重臣6人と共に小田原の北条氏康の元に赴いたが、少年とは言え大敵の嫡男であるとして家臣と共に首を刎ねて磔にしたと言う。また一説には、家臣の裏切りにより小田原の北条方に引き渡され、裏切りを憎んだ氏康は、龍若丸を裏切った家臣共々、龍若丸の首を刎ねたとも言う。
 上杉龍若丸の墓は、山王小学校前の民家の脇にひっそりと祠が建てられ、その中に6名の家臣共々五輪塔が安置されている。龍若丸の墓を建てた住人は、当然その事の成り行きを伝え聞いていたはずなので、もし龍若丸が家臣の裏切りで小田原に来たのならば、裏切った家臣の墓と共に龍若丸の墓を安置するのは不自然である。おそらくは、龍若丸は降伏の使者として小田原に赴いたものの、憲政が越後に逃亡して和約を反故にした為、斬首されたと見るべきではないだろうか?いずれにしても悲しい戦国の世の現実がここにある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.257885/139.175781/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
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新田義貞首塚(神奈川県小田原市) [その他の史跡巡り]

DSC04322.JPG
 小田原には何故か新田義貞の首塚がある。由来に拠れば、1338年に越前の灯明寺畷で戦死した新田義貞の首級は京で晒されていたが、義貞の家臣宇都宮泰藤(近世小田原城主大久保氏の先祖)は主君義貞の首を奪還し、新田氏の本領上野国に首級を葬る為、東海道を東下した。しかし酒匂川のほとりに達した時に病で動けなくなり、義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で没したと言う。
 義貞の首塚はこの地のほかにもあり、いずれも伝承には虚実入り混じっているため、俄に真実とは見なし難い。特に、徳川氏は新田氏の庶流を称した為、徳川譜代家臣の大久保家にまつわる話が江戸時代になって創作されたことは十分に有り得ることである。従って、真実とはかけ離れていると思われるが、新田義貞の伝説がこの地にも残っていると思うと興味深い。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.259024/139.177862/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
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長年寺長野氏の墓(群馬県高崎市) [その他の史跡巡り]

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 鷹留城の南約1kmの長年寺に、長野氏の歴代の墓がある。鷹留城の初代城主で長年寺の開基でもある長野尚業の墓を中心にして、武田信玄と名勝負を繰り広げた名将長野業政など、合計7基の五輪塔が並んでいる。
 長野氏の墓はここから東に8kmの来迎寺にもあるが、来迎寺のものが小さな五輪塔が多数あるのに対して、長年寺のものはそれより二回りほども大きく立派なもので、墓主も特定されている。長野氏のお膝元とも言える鷹留城下にある墓である。西上州が武田・北条に支配されて後も墓が綺麗に残っていることから、地元の尊崇が厚いことが伺われる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.384444/138.891467/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
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清水八幡宮(埼玉県狭山市) [その他の史跡巡り]

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 清水八幡宮は、木曽義仲の嫡子、清水冠者義高の終焉の地である。義仲が上洛軍を起こすに当たり、源氏の嫡統たる源頼朝に異心無きを誓う為、わずか11歳の息子の義高を頼朝の娘婿と言う名目で、人質として鎌倉に送った。義高は好青年で、頼朝の妻北条政子からも好かれ、頼朝の幼い娘の大姫は幼い恋をしたという。しかし父義仲が没落し、頼朝の送った遠征軍に敗れて討たれると、義高の立場も極度に悪化した。大姫は義高の身を案じ、政子と協力して夜中ひそかに義高を女装させて屋敷から逃がした。義高の逃亡を知った頼朝は激怒し、すぐさま堀藤次を追っ手に差し向けた。そして、入間川のほとり、八丁の渡し付近で義高は追いつかれ、堀藤次の郎党藤内光澄に討たれた。享年わずかに12歳。義高の死を聞いた政子と大姫は、非常に嘆き悲しみ、政子は義高の終焉の地に八幡宮を建て、自ら参拝して義高の霊を慰めたと伝えられている。しかし壮麗な清水八幡宮も、1402年の大洪水によって跡形もなくなり、後年川原より石祠が発見され、現在の場所に再建されたと言う。

 清水冠者義高には、当初別段の興味を持っていなかったが、昨年CSで往年のNHK大河ドラマ「草燃える」の放映を見てこのエピソードを知り、是非にと思いお参りをした次第である。将来を嘱望されるべき好青年が、権力争いに巻き込まれて討たれたとは、誠に悲しむべきことである。

 なお、この話にはもう一つ悲しい出来事があって、義高を討ってその功を一旦は讃えられた藤内光澄は、その後、政子が夫頼朝を難詰した結果、なんと打首になってしまったのである。
 上司(主君)の命令に従っただけなのに、詰め腹を切らされて打首(即ち罪人扱い)となった光澄の一件は、権力者の理不尽さを思い知らされる。上は責任逃れをし、下が責任を取らされるのは、今も昔も同じことかと思うとやるせない思いが募る。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.857387/139.402975/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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砂久保陣場(埼玉県川越市) [その他の史跡巡り]

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 砂久保陣場は、史上有名な三大夜戦の一つ、河越夜戦の際の陣場である。現在の砂久保稲荷神社の地が陣場に比定されている。以下は現地解説板の記述の概略。

「1545年、北条氏康が駿河の今川義元と相駿国境で対峙していた隙を突いて、扇谷上杉朝定は関東管領山内上杉憲政・古河公方足利晴氏と連合し、数万の大軍で北条氏に奪われた河越城を包囲した。氏康は河越城の死守を優先して今川氏と和睦を結んで駿河から兵を引き揚げ、翌年、足利晴氏に城兵の助命嘆願をしたが拒否された。しかし、扇谷上杉氏の重臣で岩槻城主太田全鑑を味方に引き入れると、氏康は1546年4月17日に出陣に踏み切り、砂窪(砂久保)に着陣した。ここで再度足利晴氏に城兵の助命嘆願をしたが取次ぎを拒否され、4月20日になると上杉憲政が氏康の砂窪陣所に攻めかかってきたと言う。氏康は劣勢を跳ね除けてこれを迎撃し、河越城に籠城していた北条綱成も城内から撃って出て、両方面で北条方が勝利した。一般には河越夜戦と言われ、8万とも言われる大軍を1/10の兵で撃破した奇襲戦とされるが、兵数は後世の誇張であり、実際には奇襲戦ではなく迎撃戦だったらしい。」

 この解説は、どうもかなり最近建てられたものの様で、ネット上で紹介されている以前の解説では砂久保陣場は上杉憲政の陣所であったと書かれていた様である。また河越夜戦の経緯も、初めて眼にする内容のもので、一般に流布している説とは大いに異なっている。どの様な根拠から迎撃戦という説になったのかは定かではないが、この合戦を境に武蔵の諸豪が一斉に北条氏になびいたことを考えると、もう少し劇的な勝利であったような気がする。私としては、やはり劇的な氏康の勝利を信じたい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.884730/139.485759/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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羽根倉古戦場(埼玉県志木市) [その他の史跡巡り]

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 羽根倉古戦場は、南北朝時代の観応の擾乱に於ける古戦場である。北朝方の室町幕府は、南朝勢力が各地に残っていたものの、国内政治を10年にわたって主導し一定の成果を挙げつつあった。そんな中、将軍足利尊氏の執事高師直と尊氏の弟で実質的に幕府を主宰していた足利直義との間に確執が生じ、それを機に尊氏・直義兄弟による幕府を二分する抗争に発展した。これが観応の擾乱である。各地の武家は、思い思いに双方に付いて争いを始めた。そんな中の1351年12月、尊氏方の高麗彦四郎経澄は宇都宮氏討伐の為、下野に下向中であったが、直義党の根拠地鎌倉の攻略に転じ、17日に武州鬼窪に兵を挙げて鎌倉街道を一路南下した。これを察知した難波田城主難波田九郎三郎が羽根倉の地で迎え撃ったと言う。合戦は12月19日に行われ、経澄は難波田勢を打ち破り、難波田方は九郎三郎を始め多くの将兵が討死にした。

 羽根倉古戦場は、荒川西岸に位置し、国道463号線の羽根倉橋の袂、運動公園そばの側道に標柱と解説板が建っている。難波田城はここからわずか西方に2km弱の至近にあり、難波田勢が準備不十分なまま、慌てて迎撃戦に突入したことが伺われる。歴史の中に埋もれてしまう局地戦でも、この様にきちんと標柱と解説板が建てられて語り継がれていることは、すばらしいことだ。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.854179/139.586996/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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手取川古戦場(石川県白山市) [その他の史跡巡り]

IMG_5533.JPG←手取川の風景
(2004年8月訪問)
 手取川古戦場は、織田勢が上杉謙信と激突した古戦場である。1577年、上杉謙信は能登に侵攻し、能登畠山氏の居城七尾城を攻囲した。畠山氏の重臣長続連は、子の連龍を安土に派遣して織田信長に援軍を求め、謙信の勢力伸張を阻止したい信長はこれに応じ、重臣の柴田勝家を総大将とした軍勢を七尾城に派遣した。その間に七尾城では、親上杉派の遊佐氏、温井氏らが謙信に内応し、さすがの堅城も陥落した。七尾城落城を知らずに行軍していた織田勢に対し、織田勢の接近を知った謙信は、南下して松任城に入って戦機を待った。手取川を越えたところで七尾城の失陥と上杉勢の接近を知った織田勢は、形勢不利と判断。総大将の勝家は夜陰に紛れての全軍撤退を下知したが、謙信はこれを奇襲し、一気に駆逐した。織田勢は増水した手取川の渡河に手間取り、多数の兵が上杉勢に討ち取られたという。この大勝で、謙信は「(織田勢は)案外に手弱の体で、この分なら(信長を討ち破って)天下までの道のりは心安いことだ」と豪語したと伝えられている。しかしこの戦いの後、越後に戻った謙信は翌年3月に卒中で急逝し、信長の覇権を許すこととなった。

 手取川の戦い(湊川の戦いとも言われる)の規模・内容には諸説あり、一般的に言われているのが上記の内容である。戦いの経過がこの通りならば、上杉謙信はやはり戦の天才で、織田勢の斥候を悉く潰して情報漏洩を阻止しつつ、驚くほどの速さで織田勢の前面まで進軍し、織田勢の動きを察知すると、直ちに奇襲を掛けてこれを蹴散らすという完璧な戦術であった。謙信最後の輝きを放ったこの戦いの場は、今では風光明媚な大河の流れに彩られている。
古戦場の石碑→IMG_5537.JPG

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.478750/136.479388/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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多太神社(石川県小松市) [その他の史跡巡り]

IMG_5469.JPG←境内の斎藤実盛の石像
(2004年7月訪問)
 多太神社には、木曽義仲が平家軍を再度打ち破った篠原合戦で、平家方でただ一騎踏み止まって壮絶な戦死を遂げた斎藤別当実盛の兜が奉納されている。その経緯は、篠原古戦場の項に記載する。国の重文指定となっているこの兜は、普段は非公開だが、年1回7月のかぶと祭りの際に公開される。私が行った時は、祭りで賑わう境内をよそに、拝殿の中に実盛の兜がガラスケースに納められて安置されていた。拝殿内で写真を撮るのが憚られたので撮影しなかったが、今思えば許可をもらって近くで写真撮影しとくんだったと、ちょっと後悔している(最近は普段でも予約制で拝観できるらしい)。尚、境内には兜の石像や、髪を黒く染める実盛の石像が立っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.394757/136.449133/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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安宅関(石川県小松市) [その他の史跡巡り]

IMG_5425.JPG←松林の中の石碑
(2004年7月訪問)
 安宅関は、歌舞伎の「勧進帳」で有名な関所である。源平合戦で武名を挙げた源義経であったが、後白河上皇からの叙任などを巡って兄頼朝との間に隙が生じ、遂に追討を受ける身となった。弁慶などわずかな供回りで北国街道伝いに、かつて世話を受けた奥州平泉の藤原秀衡の元に向かう逃避行の途次、安宅関を守る富樫左衛門泰家にその山伏姿を疑われた。弁慶は咄嗟の機転で白紙の巻物を勧進帳と称して読み上げ、疑われた義経を愚か者と涙ながらに撃ち据えて難を逃れた。泰家は、義経一行と気付いたものの、弁慶の侠義に感じてこれを見逃したと言う、有名なくだりである。
 この一件は物語に過ぎず、安宅関の実在も疑われているが、有名な史跡であるので近くに行ったらちょこっと寄ってみたい場所である。遺構などは全くないが、現在は松林の中に石碑が建ち、義経・弁慶・富樫3人の銅像が建つ。また近くの安宅住吉神社にも、弁慶の銅像が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.419176/136.417719/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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伊達成宗墓(福島県国見町) [その他の史跡巡り]

DSC00700.JPG←山の中腹に残る墓
 伊達兵部少輔成宗は、伊達氏12代の当主で、京に上洛して莫大な献上品で伊達氏の勢威を京に轟かせた。晩年には居城の梁川城から小坂の小屋館に隠居したと言う。現在、国見町北西部の小坂地区の山の中腹に、成宗の墓がひっそりと残っている。近くまで行けば案内板が出ており、案内に従って行って、正面に突き当たった貯水池の右手の山裾に墓がある。
 尚、この小坂地区を通る県道46号線は羽州街道と呼ばれ、小坂峠を越えて出羽に通じる要路で、近世においては出羽諸大名の参勤交代などに使われたと言う。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.889452/140.518302/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
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伊達朝宗墓(福島県桑折町) [その他の史跡巡り]

DSC00464.JPG
 伊達氏初代、念西入道朝宗は、藤原氏魚名流に属し中納言山蔭の後裔であった。出家して念西と称していた朝宗は、1189年の源頼朝の奥州征伐に息子達と共に従い、阿津賀志山合戦において奥州藤原氏の重臣佐藤基治の軍を撃破し、平泉勢の総崩れの原因を作った。その軍功によって伊達郡を賜り、この地に入部して高子岡城を築いたと言う。朝宗は1199年、72歳で没した。
 朝宗の墓は桑折市街南西部にあり、1821年に仙台伊達藩は墓前に五輪の石塔を造立して供養した。江戸時代を通して、参勤交代の途次、伊達藩主はここに墓参するのを例としていたと言う。
 現在は、宅地の片隅にひっそりと塚と五輪塔が残るだけである。しかし、奥州の名門伊達氏は、正にここから始まったのである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.841784/140.510974/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
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篠原古戦場(石川県加賀市) [その他の史跡巡り]

IMG_5332.JPG
(2004年5月訪問)
 篠原古戦場は、加賀の柴山潟付近において、1183年に戦われた源平の古い古戦場である。倶利伽羅峠の戦いで大敗した平家軍は、加賀平野を南下して篠原の地で体勢を立て直し、木曽義仲との決戦を図った。しかし勢いに乗った義仲軍を阻止することはできず、平家軍は再び敗れ去った。この時、敗走する平家軍の中でただ一人踏みとどまって戦った老武者がいた。斎藤別当実盛である。かつて幼い義仲を救ったこともある実盛は、平家への恩顧に報いんとし、老武者と侮られないよう白髪を黒く染めて決戦に臨んだ。しかし、源氏の若武者手塚太郎光盛に討たれ、壮絶な最期を遂げた。樋口次郎兼光が、この首を池で洗うと、黒髪はたちまち白髪に変わり、実盛の首であることがわかった。義仲は、かつての命の恩人の死を悲しみ、実盛着用の甲冑を多太神社に奉納したと言う。
 篠原古戦場には、二つの史跡があり、実盛塚は、斎藤別当実盛を葬った墓所である。住宅地の裏に大きな塚が残っていて、大切に保存されている。もう一つは首洗い池で、樋口兼光が実盛の首を洗った場所と伝えられている。首洗い池の脇には、実盛の死を嘆く義仲主従の銅像があり、見る者の心を打つ。
実盛塚→IMG_5319.JPG
IMG_5331.JPG←首洗い池

 場所:【実盛塚】
    https://maps.gsi.go.jp/?ll=36.359202,136.345246&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
    【首洗い池】
    https://maps.gsi.go.jp/?ll=36.355832,136.360202&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:古戦場 墓所
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高子原合戦首塚(福島県伊達市) [その他の史跡巡り]

DSC00411.JPG
 高子原合戦は、戦国前期の東北を震撼させた伊達氏の内乱「天文の乱」の古戦場である。1542年、かねてより所領拡大策の方針などで対立していた伊達氏14代当主稙宗とその嫡子晴宗は、稙宗の三男時宗丸(後の伊達実元)の越後上杉氏への養子入れについて決定的に対立し、家中を二分する大乱となった。伊達氏は既に多くの子女を周辺諸大名に入れて姻戚関係を結んでいた為、伊達氏家中の内乱は一挙に東北諸大名を巻き込んで二分する抗争に発展した。まず晴宗は、実父稙宗を急襲して桑折西山城に幽閉したが、小高城主相馬顕胤は早速掛田に陣して、掛田氏や小梁川氏と共に稙宗救出に活躍した。この際、保原地区で行われた合戦が高子原合戦である。この合戦で多くの死者が出ると、相馬顕胤は敵味方の区別なく死者を埋葬して首塚を築き、その思いやりが後々まで評判になったと言う。

 高子原合戦首塚は、上保原駅西南西の小高い丘の上にある。周囲が新興住宅地となった裏山にあるが、かなり藪化している。わずかに錆付いた標柱と解説板があるが、ほとんど手入れもされていない状況である。新興住宅地は、新しい入居者が多く当地の歴史が語り継がれないため、こうした史跡も手入れされることなく忘れられてしまうのだろう。私も新興住宅地に住んでいる身として、自戒としなくてはいけない。史跡が忘れ去られるのは、悲しむべきことである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.808682/140.545886/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:古戦場
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伝伊達政宗墓(福島県伊達市) [その他の史跡巡り]

DSC00400.JPG
 伊達氏9代大膳太夫政宗(儀山公)は、伊達氏中興の祖と呼ばれ、戦国末期に彗星の様に現れて奥州を席巻した独眼龍政宗(貞山公)の先祖である。その勢威を以って鎌倉公方足利満兼に抗して兵を挙げ、降伏してからも勢力を保ち続けた。政宗は出羽の高畠城に移ってそこで没したと言われており、高畑の地にその墓があるが、伊達市内にも政宗の墓と伝えられている五輪塔が存在する。この墓は、政宗が開創した東光寺にある。ただ、五輪塔に刻まれた家紋が、伊達氏の丸に竪三つ引き両ではなく、丸に横三つ引き両なので、疑問の余地があると言う。いずれにしても伊達市はその名が示す通り、伊達氏の室町中期の史跡が多く、非常に興味深い土地である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.808038/140.575519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:墓所
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鮭延秀綱墓(茨城県古河市) [その他の史跡巡り]

DSC05954.JPG
 鮭延越前守秀綱は、出羽の戦国大名最上義光の家臣で、鮭延城を居城としていた。武略に長けた名将として知られ、東北の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦においては、長谷堂城の戦いで直江山城守兼続率いる上杉方の大軍を相手に獅子奮迅の活躍をして城を守り抜き、兼続が賛嘆したと伝えられている。その後、1622年に最上氏がお家騒動で改易されると幕府老中土井利勝にお預けとなり、後に許されて土井家に仕え、利勝の居城古河城下で没した。秀綱の死後、その威徳を慕った家臣が鮭延寺を建立し、その菩提を弔ったと言う。
 以前、山形の鮭延城を訪れてその訪城記を書いた際、名将秀綱の墓が故郷から遠く離れた古河の鮭延寺にあることを知り、いずれお参りしようと考えていた。鮭延寺の境内にある秀綱の墓には、そのことを記した標柱も何もないが、墓地の中にひときわ大きく古い墓があるので、一目でそれとわかるだろう。故郷から遠い関東で晩年を過ごすことになった、かつての名将の遺徳が偲ばれる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.176180/139.718306/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:墓所
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田屋川原古戦場(富山県南砺市) [その他の史跡巡り]

IMG_5315.JPG
(2004年5月訪問)
 田屋川原古戦場は、1481年に起きたとされる越中一向一揆の主戦場である。当時、加賀守護富樫政親は、領国内の一向門徒を弾圧し、瑞泉寺には多くの門徒が逃れてきていた。政親は一向衆門徒の拠点となっていた瑞泉寺を焼き払うよう、福光城主石黒光義に要請した。光義も一向勢力の拡大に危惧を抱き、医王山惣海寺(天台宗)衆と共に総勢1600の軍勢を率いて瑞泉寺討伐に向かった。一方、瑞泉寺では五箇山、般若野、射水郡などから援軍を得て総勢5000で、山田川において石黒軍を迎え撃った。石黒軍は当初、相手が農民等の戦の素人であるため、高をくくっていたが、この戦いの最中に、一向衆の別働隊に惣海寺、福光城下を焼き討ちされた。後方において本拠から黒煙が上がるのを見て石黒軍は総崩れとなり、石黒光義以下は安居まで逃れた後自害した。この後、一向宗徒は更に野尻城主を降伏させるなどして、利波郡全域を勢力下に置いたと言う。

 田屋川原古戦場には、瑞泉寺の帰りにたまたま通り掛って、初めてその存在を知った。今はのどかな田園風景が広がるだけである。それにしても、いくら多勢とはいえ、地方武士勢力を打ち破って城まで攻め落としてしまう農民主体の一向一揆というのは、ものすごい力だと思う。大名達がその勢力を恐れて弾圧に狂奔したのも、無理からぬことだったのだろう。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.559446/136.917973/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:古戦場
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平将門公赦免供養碑(茨城県常総市) [その他の史跡巡り]

DSC05696.JPG
 蔵持城を訪城した折、その城地東側に「平将門公赦免供養之碑」という石碑が建っていた。現地解説板に拠れば、鎌倉幕府第5代執権北条時頼が、民生安定の一助として国内の先霊を慰めようと志し、自ら執奏して逆賊とされた平将門の勅免を得て、下総守護千葉氏第15代胤宗に命じて将門を供養させたものと言う。建長5年(1253年)11月4日の建碑と言う。
 この碑と並んで、「平将門公菩提供養之碑」と「鎮守府将軍平良持公菩提供養之碑」が建っている。平良持は、将門の父である。良持の弟の良文は村岡五郎と称し、将門の関わった坂東平氏一族の騒乱に関与せず勢力が維持された為、天慶の乱後、坂東に後裔が広く繁栄することとなった。その内の有力な一族が千葉氏であった。時頼が千葉胤宗に将門の供養を命じたのは、勿論そうした血の繋がりを考えてのことである。
 将門の本拠豊田館があった常総市は、その活動の中心となった坂東市と並び、将門関連の史跡の宝庫である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.105662/139.955971/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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平賀源心胴塚(長野県南牧村) [その他の史跡巡り]

DSC04694.JPG
 平賀源心成頼は海ノ口城主で、武田信玄16歳の時の初陣で討死した武将である。1536年冬、信玄の父武田信虎は佐久へ侵攻し、平賀源心の籠もる海ノ口城を攻めた。36日にわたる攻囲にも関わらず海ノ口城は陥ちず、信虎は軍勢を引き揚げた。しかし初陣であった信虎の嫡男、晴信(後の信玄)は殿軍を申し出て、少数の兵を率いて引き返し、そのまま海ノ口城に奇襲を掛けて落城させたと言う。源心はこの時討死し、首は首実検の為に甲斐に持ち帰られ、胴は甲斐信濃の国境近くの地に葬られた。そこに築かれた塚には、その後ここを通る旅人がたくさんの石を供えたと言う。
 平賀源心の胴塚は、野辺山電波天文台に行った時に、たまたま案内板を見つけてその存在を知った。かつての平沢古道の脇にひっそりと塚が残っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.929397/138.457174/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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浅草御蔵(東京都台東区) [その他の史跡巡り]

DSC04266.JPG
 浅草御蔵は、1620年に江戸幕府が置いた米蔵である。全国に散在する幕府直轄領(天領)から年貢米や買上米などをここに収納・保管した。大阪・京都二条の御蔵と合わせて、三御蔵と呼ばれ特に重要であったと言う。浅草御蔵の米は、主に旗本・御家人の給米用に供され勘定奉行の支配下に置かれた。
 尚、江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」と言い、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が並んでいた。その存在は「蔵前」という地名として、現代まで残っている。
 各地のおやっと思う地名にはなにがしかの由来があるものだが、蔵前と言う地名にこういう由来があることは今回始めて知った。今では蔵前橋の袂の道端に石碑が建っているだけであるが、古い江戸の町に関わる地名と言うものもなかなか興味深い。広大な倉庫群が建ち並んだ場所だっただけあって広い平地があったので、現在はそれを利用して、下水道局や蔵前高校など大型の公共施設が立ち並んでいる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.701464/139.792614/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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新田義興関連史跡 [その他の史跡巡り]

 新田義興は、南朝軍の総帥新田義貞の次男である。嫡長子義顕が越前金ヶ崎城で自刃し、義貞も灯明寺畷で討死した後、惣領となった三男義宗を助けて新田一族を率いて武蔵野合戦などで活躍した。義興は庶子で、母の出自が低かった為、惣領にはなれなかったようである。義興の活動を危惧した鎌倉府執事(関東管領)の畠山国清は、矢口の渡しに義興を誘い出して謀殺した。その後、矢口の渡しでは不思議なことが起こり始め、義興の祟りと恐れた村人達は、神社に祀って霊を鎮めたと言う。
 現在の武蔵新田駅付近には、その関連史跡が散在する。

<新田神社>
DSC04132.JPG←御塚
 新田義興を祀った神社である。神社の背後には、「御塚」と呼ばれる新田義興の胴を埋葬した円墳が残る。また境内には「うなる狛犬」というものがあり、何でも謀略を企てた畠山一族の者、または血縁者末裔が新田神社付近に来ると、決まって雨が降り、狛犬がうなるそうである。こういう言い伝えは非常に面白い。
 尚、義興の首は、鎌倉府の主で初代鎌倉公方足利基氏の駐留した入間川御所で首実検されたため、現在入間の愛宕神社に首塚として残っている。
うなる狛犬→DSC04128.JPG
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.565742/139.691266/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<頓兵衛地蔵>
DSC04142.JPG
 頓兵衛とは矢口の渡しの船頭の名で、義興謀殺に加担したことを悔いて、その冥福を祈って地蔵を立てたものと伝わっている。別名「とろけ地蔵」とも呼ばれ、石体が崩れて溶けているのは義興の祟りによるものと言う。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.569678/139.689668/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<灰塚>
DSC04159.JPG
 義興を謀殺した江戸遠江守が矢口の渡しで義興の怨霊に悩まされた時に、付近一帯が義興の怨念と化した雷火に焼き払われたので、村人がその灰を集めて供養塚として築いたものと言う。現在は民家の中にあり、遠目にしか見ることができない。写真は近くのアパートの階段から撮らせて頂いた。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.572791/139.687098/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<妙蓮塚三体地蔵尊>
DSC04160.JPG
 矢口の渡しで義興が謀殺された際、土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎の三人は、果敢に川を泳ぎ渡って敵陣に斬り込み討死にし、忠烈三勇士と謳われている。その3人を祀ったもの。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.567900/139.686462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<十寄神社>
DSC04170.JPG
 十騎神社とも書かれる。世良田右馬助義周、井伊弾正左衛門、大嶋周防守義遠、由良兵庫助、由良新左衛門、進藤孫六左衛門、堺壱岐権守、土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎ら忠烈十勇士を祀っている。神社手前の参道が駐車場になっているのが、都会とはいえ何とも悲しい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.562844/139.691910/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<矢口の渡し>
DSC04176.JPG
 義興が謀殺された渡し場で、近世まで区内最後の渡し船として残っていたが、昭和24年に多摩川大橋が完成すると廃止された。昔は現在よりも北の方にあったらしい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.557248/139.694573/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<女塚神社>
DSC04183.JPG
 義興が謀殺された際に、侍女少将の局も忠節を尽して害せられた。それを哀れんだ村人が女塚古墳を築き、神社を祀ったと言う。女塚の由来には別の説もあるらしい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.565456/139.712371/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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今川氏累代墓(東京都杉並区) [その他の史跡巡り]

DSC03915.JPG
 杉並区の一角、かつて太田道灌が陣を敷いた陣幕と呼ばれる地の近くの観泉寺という寺に、駿河の戦国大名今川氏の墓所がある。南北朝の動乱で足利尊氏に従って功を挙げた足利氏の庶流今川氏は、駿河・遠江の守護大名となり、戦国時代に入ると今川義元がその全盛期を現出した。しかし広く知られている通り、義元は痛恨の不覚により、田楽狭間で織田信長の奇襲に破れて討ち取られた。跡を継いだ嫡男氏真は、一流の文化人ではあったが武将としての資質に乏しく、次々と家中で離反され、結局甲斐の武田信玄に攻められて、妻の実家の小田原北条氏を頼って相模に落ち延びた。その後、北条氏も豊臣秀吉に滅ぼされると、旧縁を頼って関東に入部した徳川家康の庇護を受けることとなった。当初、品川に居を構えていたが、江戸時代に入って幕府に仕えて高家となると、知行所として上・下井草、鷺宮、中村などを給され、幕府の儀礼式典を司った。義元から3代目となる直房は観泉寺を今川家の菩提所とし、今川家の始祖国氏や義元等今川一族の供養を行うようになったと言う。

 観泉寺は大きく立派な寺院で、さすがは今川氏所縁の旧跡と思わせるものがある。街中にも関わらず境内には森厳な雰囲気が漂い、その奥にひっそりと今川氏の墓域がある。観泉寺のある場所は今川氏にちなんで今川と言う地名で、以前に陣幕の場所を地図で調べていた時に、近くに今川と言う地名があったので「おや?」と思ったが、こういう経緯だったとは・・・。今川氏の名跡が杉並にあるとは思わなかった。三鷹の島屋敷に行った時にも、柴田勝家の子孫の足跡が残っていて驚いたが、歴史の変転とは何とも不思議なものである。

 尚、寺の建物の瓦には、二引両ではなく何と五七の桐紋が付けられている。足利将軍家や織田信長、豊臣秀吉など、天下人となった家だけに朝廷から下賜された紋である。今川氏の毛並みの良さを示すものであろう。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.717458/139.607198/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:墓所
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道灌杉(東京都中野区) [その他の史跡巡り]

DSC03393.JPG←わずかに残る根っこ
 西武新宿線の沼袋駅の近くにある氷川神社には、太田道灌が植えたとされる道灌杉がある。1477年4月、道灌と豊島泰経が江古田ヶ原・沼袋で干戈を交えたのは、氷川神社から新青梅街道辺りにかけてのことと推定されている。この合戦の折、道灌は氷川神社のある高台に本陣を置き、社殿の前に杉の苗木を植えて戦勝を祈願したと伝えられている。この杉は昭和17年に惜しくも枯れてしまい、現在は根の一部のみが境内に残っている。またこの地は、沼袋陣跡、沼袋陣城などとも呼ばれている。
 石神井城から江古田古戦場までの地域には、道灌の足跡が現代に至るまでたくさん残っている。江戸城やその周辺だけでなく、道灌が軍勢を率いて転戦した場所にまでその威名は轟き、後世まで地域住民に慕われているとは、つくづくすごい人だったんだなぁと感嘆せざるを得ない。その足跡をたどっているだけでも嬉しくなってくるようだ。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.719566/139.666861/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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江古田古戦場(東京都中野区) [その他の史跡巡り]

DSC03379.JPG
 江古田古戦場は、太田道灌と豊島泰経が激突した古戦場である。1476年に生起した長尾景春の乱では豊島泰経とその弟泰明は景春方に付いた為、山内上杉顕定方の扇谷上杉定正の家宰太田道灌が軍勢を率いてこれを討伐した。1477年4月13日、道灌は泰明の拠る平塚城を攻め、翌14日泰経はその救援の為、石神井練馬両城から出兵した。平塚城へ向かう途上、江古田原・沼袋ヶ原で平塚城から西進してきた道灌勢と遭遇し、激戦を展開した。しかし豊島勢は大敗し、泰明以下一族150余名が戦死した。辛くも逃れた泰経は、石神井城・平塚城・小机城と敗走しつつ抗戦を続けたが、結局没落した。
 江古田古戦場は、妙正寺川と江古田川の合流点近くの公園に大きく立派な石碑が建ち、そこには「史蹟 江古田ヶ原・沼袋古戦場」と記されている。しかしここではその隣の解説板に従って、単に「江古田古戦場」と記載する。ここでの合戦は、武蔵野の開発を行ってきた豊島氏に代わって、江戸城主の太田氏が武蔵支配を確立する上で、重要な意味を持っていたとされる。乱の平定に奔走する道灌は、乱の張本の長尾景春が健在な為、おそらくは兵を消耗し時間も掛かる城攻めを避ける為に、平塚城を出しにして豊島泰経の出兵を誘い、退くと見せかけて平塚城に籠もる豊島泰明まで誘い出して、野戦に引きずり込んだものであろう。道灌の戦略の巧みさが光る戦いであった。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.723852/139.670509/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:古戦場
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陣幕と道灌槇(東京都杉並区) [その他の史跡巡り]

 石神井城付近には、愛宕山塁の他にも太田道灌にまつわる伝承を持つ史跡が多く残る。その内のいくつかを城巡りの途上、訪問した。

<陣幕>
DSC03343.JPG←陣幕跡の道灌公園
 陣幕は、豊島泰経の籠もる石神井城攻略に当たって、太田道灌が陣を敷いた場所と伝えられている。現在の今川三丁目交差点付近とされており、この一帯は北200m程の所にある井草川(現在は暗渠となり、井草川緑道となっている)より10m程の高台となっている。あくまで伝承なのでその信憑性は不明であるが、陣幕跡付近には道灌公園が置かれ、付近には道灌橋、道灌坂など道灌由来の地名が多数残る。伝承では太田勢は「陣幕」に本陣を置き、「道灌坂」を下って「道灌橋」を渡り、「道灌山」に軍勢を配したとのことである。しかし残念ながら、都市化のため遺構は全くない。
 尚、ここから東にわずか500m程の地は今川という地名で、そこにある観泉寺は、江戸時代まで高家となって命脈を保ったかつての駿河の戦国大名今川氏の後裔の菩提寺である。
道灌橋の碑、かつての台石らしい→DSC03346.JPG

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.717720/139.601351/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<道灌槇>
DSC03354.JPG
 陣幕より南東1km程の所に荻窪八幡神社がある。1051年に奥州に下向する源頼義が宿陣して安倍貞任征伐の戦勝を祈願したと伝わる古刹である。この神社境内には、石神井城攻撃に当たって、太田道灌が源氏の故事に倣って戦勝祈願した折、献植したと伝えられる槇の樹がある。これを道灌槇と言い、現代に伝えられている。一根二幹であったが、昭和9年の暴風雨で一幹折損し、今は一幹のみ残る。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.710576/139.606544/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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