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加賀塚(東京都日野市) [その他の史跡巡り]

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 加賀塚は、小田原北条氏の家臣竹間加賀入道の墓である。日野に知行地を有し、日野本宿に住していた。天正年間(1573~92年)には鉢形城の守備に当たったと伝えられ、1590年の小田原の役の際には、2月8日に鉢形城から戻り、この地で切腹したと言う。
 加賀塚は、住宅地の只中の加賀塚公園の奥にある。小さな塚の上に自然石の墓があり、その手前には昭和15年に子孫の竹間弥惣次氏によって建てられた供養塔が建つ。こんな宅地の只中に、戦国時代の歴史がひっそりと伝わっているとは、何とも興味深い。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.681963/139.392868/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:墓所
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石浜渡津跡(東京都福生市) [その他の史跡巡り]

DSC02377.JPG←渡し場跡の碑
 現在、福生市の牛浜付近には、石浜渡津と呼ばれる多摩川の渡し場があった。南北朝時代の観応の擾乱で、弟足利直義を討つため東下した足利尊氏は、直義を破って鎌倉に入ったが、北朝方(足利方)の分裂につけ込んで挙兵した新田義宗・義興ら南朝方に攻めこまれ、閏2月20日に武蔵国人見原金井原で新田勢を迎え撃ったが、戦利なく危殆に陥った。尊氏は自刃を覚悟するほどであったというが、辛くも石浜に逃れて、軍勢を立て直した。そして、関東諸豪の援軍も得て、新田勢を関東から駆逐することに成功した。この武蔵野合戦において尊氏が逃れた「石浜」は、一般には石浜城の地と言われているが、別説ではこの石浜渡津のあった福生市牛浜であるとも言われている。
 石浜渡津跡は、現在は多摩川河川敷の多摩川中央公園の中に石碑が建てられているだけである。前後の状況や、『太平記』の記述に「小手指原より石浜までは、四十六里(約30km)」とあることから考えれば、やはり石浜城が尊氏再起の地と考えるのが妥当と思うが、ここにもそうした説があることを知り、訪問した。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.730523/139.325845/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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遠藤原古戦場(神奈川県中井町) [その他の史跡巡り]

DSC02947.JPG←広茫たる遠藤原
 遠藤原古戦場は、1569年の武田信玄による小田原攻めの際の古戦場である。信玄の軍勢がこの地を通った際、北条方の追撃に遭った。その時の戦死者の霊を慰めるために多くの五輪塔が建てられ、「五十塚」「六十塚」という地名が付近に残ったと言う(現在、五輪塔は残っていない)。またこの地では過去にも、相模平定を進める伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦一族との間で戦いが繰り広げられたとも言われている。
 遠藤原は、日枝神社周辺の、金目川とその支流座禅川に挟まれた比高40m程の台地で、広茫たる平原が広がっている。軍勢の展開に有利で、しかも高所にあって周囲に高地がなく、敵に望見されない地であり、戦場として設定する適地であったのだろう。孫子・九地篇で言う「交地」であろうか。度々戦場となった地は、今では一面の畑となっている。日枝神社に、古戦場に関する解説板がある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.350442/139.244381/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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浅井畷古戦場(石川県小松市) [その他の史跡巡り]

IMG_7305.JPG←浅井畷古戦場
(2005年3月訪問)
 浅井畷古戦場は、北陸の関ヶ原と呼ばれた古戦場である。1600年、徳川家康が上杉討伐の為に諸将を率いて東下した虚を突いて、石田三成が徳川討伐に挙兵したことで、国内を二分する戦いが始まった。加賀の前田利長は、父利家亡き後、家名存続のため家康に膝を屈し、実母芳春院を人質として、徳川方に付くという苦渋の決断を既にしていた。三成挙兵の報を受けた利長は、西軍に付いた丹羽長重の拠る小松城に大軍で攻め寄せた。しかし小松城を攻略できず、矛先を変えて大聖寺城を攻め落とした。その後利長の本隊は金沢城に向かって兵を引揚げ、三道山城に入った。一方、前田勢の殿(しんがり)であった長連竜配下の部隊は、本隊合流の為、御幸塚城から間道を抜けて大領野を過ぎようとした時、浅井畷で丹羽勢の伏兵の急襲を受けた。時に8月9日。雨の降る悪天候の中、白兵戦が繰り広げられた。小松城からは丹羽方の援軍が次々と到着して参戦し、長連竜隊は大苦戦となった。しかし急報を受けた前田方の援軍もやがて到着し、双方痛み分けとなって戦闘は集結した。丹羽方では松村孫三郎・雑賀兵部・寺岡勘左衛門らが討死し、前田方でも長家の九士、小林平左衛門・隠岐覚左衛門・長中務・鹿島路六左衛門・八田三助・鈴木権兵衛・堀内景広・柳弥兵次・岩田新助をはじめ多数の将士が命を落とした。この合戦後、金沢城に戻った利長は、家康の催促を受け、再び出陣し三道山城に入った。この時、丹羽長重から和を請う使者が発せられ、利長はこれを受諾した。この時、既に関ヶ原で東西両軍が激突、三成主導の西軍は壊滅し、勝敗は決していた。戦後の論功行賞で、丹羽長重を釘付けにした功によって、利長は加増を受け、加賀・能登・越中を領する100万石の大大名となった。

 浅井畷古戦場は、小松市街の南方、現在周囲に田園風景の広がる住宅地の一角にある。長家の九士の墓が立てられており、いずれも戦いで倒れた方を向いて墓が立てられたと伝えられている。浅井畷の戦いは、関ヶ原の本戦はもとより、最上・上杉両軍が激突した慶長出羽合戦と比べても、小規模で短時間で集結した局地戦であったと思われるが、加賀100万石の礎を築いた重要な戦いとなった。後に加賀八家の一つとして重臣の家系となった長家が、江戸時代を通して大切にこの古戦場を保護したのだろう。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.382691/136.451086/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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伝小山若犬丸二児の墓(神奈川県横浜市金沢区) [その他の史跡巡り]

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 小山若犬丸は、下野の名族小山義政の嫡子である。父義政は、宇都宮氏と勝手に抗争を開始するなどした為、鎌倉公方足利氏満から討伐された。その経緯は、館岸城の項に記載する。義政が滅ぼされた後も、その子若犬丸は奥州に逃げて態勢を立て直しながら、難台山城に立て籠もるなどして鎌倉府に対する叛乱を繰り返した。しかし遂に、1397年奥州で滅ぼされ、小山氏嫡流は滅亡した。若犬丸の二人の遺児、7歳の宮犬丸と3歳の久犬丸は捕らえられ、鎌倉に送られた後、六浦の海に沈められて殺されたと言う。
 小山若犬丸二児のものと伝えられる墓は、県道23号線沿いの比高20m程の丘陵地の南端に祀られている。理髪店の裏山と、某HPに記載されていたが、この理髪店は既に廃業していた。裏山は、崩落を防ぐ為、近年コンクリートで固められ、山の西側中腹には新しく数棟の住宅地が分譲されていた。この住宅地の奥から山に登る小道があり、南端に合計4基の五輪塔が残っている(内1基は欠損)。地元のご老人に道を教えて頂いたが、地元では「五輪様」と呼んでいるらしい。
 以前に難台山城を訪れ、その歴史を調べた際、小山若犬丸の子は護送された後殺され、その墓が横浜にあると知って、今回訪ねてみた。中世の歴史は、人知れず都会の中にも埋もれているものだと実感した次第。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.328597/139.616135/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:墓所
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関戸吉信墓(静岡県河津町) [その他の史跡巡り]

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 関戸吉信は、堀越公方の家臣で深根城の城主である。吉信の父播磨守宗尚は、関東管領山内上杉憲実によって奥伊豆鎮護の為に派遣されて深根城を築いたと言う。1493年、駿河今川家の客将で興国寺城主であった伊勢宗瑞(北条早雲)は、足利政知の死後の堀越御所の乱れを見て、伊豆に侵攻した。宗瑞が瞬く間に堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼすと、奥伊豆の土豪は多く宗瑞に従ったが、関戸吉信は徹底抗戦し、10月6日に深根城を宗瑞に攻められた。吉信は城を脱出したものの、河津の山奥の天城街道沿いで自刃して果てたと言う。
 関戸吉信の墓は、深根城の北方約8kmの位置にあり、河津ループ橋の近くの梨本集落の中にある。現在町の指定文化財となっており、古びた宝篋印塔が小さな社の中に大切に保存されている。小田原北条氏勃興の陰で沈んだ武将の哀れさを感じさせる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.788369/138.942343/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:墓所
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江川邸(静岡県伊豆の国市) [その他の史跡巡り]

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 江川邸は、元小田原北条氏の家臣で、江戸時代には韮山代官となってこの地を治めた江川氏の屋敷である。江川氏の遠祖宇野氏は、清和源氏の流れを汲む大和の武士であったが、保元の乱に敗れて伊豆韮山の地に移住したと言われている。1493年に伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆に進出すると23代江川英住は宗瑞に従って龍城山を提供し、宗瑞はこの山に韮山城を築いた。その後、5代にわたって北条氏の幕僚となり、韮山城麓の居館(江川曲輪)とその裏山の砦(江川砦)を守備して韮山城防衛の一翼を担った。戦国末期には、北条家中で外交を担当した韮山城主北条氏規に従って徳川家康との交渉などに当たった為、家康との間に親交があり、1590年の小田原の役での韮山城籠城戦では、韮山城開城の交渉を行なった。28代江川英長は徳川家康に仕え、徳川幕府の下で韮山の代官となり、関東南西部も含めた広大な領域を管轄した。以後、代官を世襲して幕末まで至り、36代江川英龍(坦庵)は江戸防衛の台場砲台建設を企画担当し、韮山反射炉を築造して銃砲を鋳造し、日本初のパンを作るなど、多方面に渡る活躍をした。また佐久間象山の師でもあったと言い、日本の近代化にも多大な貢献をした。

 江川邸は、現在国の重要文化財となり、一般に公開されている。鎌倉・室町時代より続くと言われる主屋の屋根裏には、親交のあった日蓮の直筆棟札が掲げられている。その霊験もあってか、豊臣軍の韮山城攻撃の際にも主屋や裏門は残り、特に裏門の門扉には、当時の攻防の際の鉄砲や鏃の跡が残っていると言う。その他、井戸や枡形、宗瑞手植えとも言い伝えられるきささげの木なども残り、興味深い。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.054627/138.959230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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蛭ヶ小島配流地(静岡県伊豆の国市) [その他の史跡巡り]

DSC07515.JPG←富士を望む頼朝・政子像
 蛭ヶ小島は、平治の乱後に源頼朝が配流された地である。1160年、平治の乱で源氏の棟梁源義朝は敗死し、その子でまだ14歳の青年であった兵衛佐頼朝は、池禅尼の助命嘆願によって平清盛に一命を救われ、伊豆蛭ヶ小島に配流となった。それから1177年に北条政子と結ばれるまでの17年間を、頼朝はこの地で過ごした。そして1180年に旗揚げし、平家の目代山木兼隆を攻め滅ぼした後、石橋山で大庭景親率いる頼朝討伐軍を戦いを交えた。その経緯は、石橋山古戦場の項に記載する。この後、再起した頼朝は鎌倉に幕府を開き、日本史上初めての武家政権を樹立するのである。
 蛭ヶ小島は、現在は周りを田畑で囲まれた一面の平地であるが、往時は低湿地帯の中に田島(中洲)が点在する、浮島の中の一つであったらしい。遺構らしいものは何もないが、公園として整備され、若き頼朝と政子夫婦を描いた銅像が、富士山を遥かに望んでいる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.051605/138.951613/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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稚児ヶ淵(静岡県伊東市) [その他の史跡巡り]

DSC06328.JPG←稚児ヶ淵の急流
 稚児ヶ淵は、源頼朝と当地の豪族伊東祐親の娘八重姫との間の一子千鶴丸が殺されたと言われる場所である。平治の乱で父源義朝が敗死し、捕らえられた頼朝は、池禅尼の助命嘆願によって平清盛に一命を救われ、伊豆蛭ヶ小島に配流となった。その後、当地で成長した頼朝は、伊東祐親が大番役で在京中に、その娘八重姫と恋仲となり、千鶴丸を設けた。平家に忠節を尽くしていた祐親はこれを知って激怒し、平家の怒りを恐れて、千鶴丸を松川の上流の淵へ沈めて殺してしまったと言う(曽我物語)。
 稚児ヶ淵は、正確な場所は比定されていない様だが、その往時の雰囲気を最もよく残す場所として、鎌田城のある城山北東麓に解説板が建っている。車道脇の解説板の所から下の川辺に降りる小道を下って行くと、その先には往時さながらの急流が残っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.942061/139.082633/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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丸岡藩砲台跡(福井県坂井市) [その他の史跡巡り]

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(2005年2月訪問)
 丸岡藩砲台跡は、幕末の1852年に丸岡藩が沿岸警備の為に築いた砲台である。この付近の海岸は越前松島と呼ばれる景勝地であるが、その東部の海上へ突き出した海岸線上に、円弧状に土塁を築き、内側と5個の砲眼を石垣で補強したものである。時に、相次ぐ外国船の到来で風雲急を告げており、自領防衛の為に、著名な砲術家であった高島秋帆の門人と伝えられる栗原源左衛門の設計で築造されたと言う。
 丸岡藩砲台跡は、現在でも日本海に向けて砲眼を設けた土塁・石垣が残っている。保存状態が良く貴重なものであることから、国の指定史跡となっている。
内側から見た砲眼→IMG_6922.JPG

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.252761/136.153983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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石橋山合戦関連史跡(神奈川県湯河原町・真鶴町) [その他の史跡巡り]

 湯河原の山中と真鶴の海辺には、源頼朝挙兵の際の石橋山合戦に関する史跡が残っている。平治の乱で父源義朝が敗死し、池禅尼の助命嘆願で一命を救われて伊豆蛭ヶ小島に配流となっていた源頼朝は、1180年、平家打倒の兵を挙げた。その経緯は石橋山古戦場の項に記載する。石橋山で大敗した頼朝は、山中を僅かな供を連れて逃げ隠れ、命からがら安房へと落ち延びた。その後頼朝は、関東諸豪の兵を糾合して関東を席巻し、鎌倉に入った。そして後に鎌倉幕府を開き、武家政権を名実ともに樹立することになるのである。

<土肥大杉>
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 石橋山で大敗した頼朝は、僅かな配下と共に土肥山中の杉山に逃れた。山中を捜索する大庭景親の手勢に追い詰められた頼朝主従は、大杉の空洞で息を潜めていたが、敵将の一人梶原景時はそれと知りつつ機知を以って頼朝を庇い、その命を救ったと言う。
 土肥大杉は、県道75号線から山道を入った深い山林の中にある。大杉まで歩いて10分程掛かる。大杉は大正6年の台風で倒れてしまい、現在はその跡地に大きな石碑が建っているだけであるが、よくこんな山中の杉が長い間語り継がれてきたものだと思う。

 場所:http://maps.gsi.go.jp#16/35.185636/139.063986/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<しとどの窟>
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 しとどの窟は、史跡名称としては「土肥椙山巌窟(伝源頼朝隠潜地)」と呼ばれ、石橋山で大敗した頼朝が隠れ潜んだ場所と言われている。8月23日に石橋山合戦で敗北し、24日夜明けに椙山山中の岩窟に潜んで九死に一生を得たと言う。その夜は箱根権現の永実坊に宿り再び椙山に戻って3日間椙山山中に隠れ、28日に舞鶴から安房に逃れたと言う。
 しとどの窟は、山中にある水の滴り落ちる大きな窟で、窟の中には観音像が立ち並び、ここまで下ってくる道は参道として整備されている。
 尚、ゼンリンの地図では表示されている場所が間違っているので、注意が必要。城山隧道をくぐり抜けて、直ぐ右に曲がって細い参道を降りていくのが正解。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.163407/139.076046/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<謡坂>
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 椙山山中を彷徨い逃れた頼朝は、岩海岸から安房へ向かって船出したが、その途中、無事を祝い再起を願って土肥実平が謡い踊ったと言われている。謡坂の地名は、それに由来すると言う。
 現在は住宅地の中の、何の変哲もない坂道であるが、石碑が建っていて由来を伝えている。ここを降った先の海岸が、頼朝が船出した海岸である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.159512/139.141062/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<頼朝船出の浜>
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 頼朝船出の浜は、頼朝が再起を図るため安房に向かって船出した浜と言われている。民家の横に石碑が建っており、その石碑には「源頼朝開帆處」と刻まれている。
DSC06060.JPG←頼朝が船出した岩海岸

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.161179/139.139925/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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竹中半兵衛墓所(兵庫県三木市) [その他の史跡巡り]

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 竹中半兵衛重治は、羽柴秀吉の謀臣としてつとに有名である。遊興に耽っていた主君斎藤龍興を諌めるため、僅かな手勢で難攻不落と謳われた稲葉山城を奪取することに成功したなど、多くの逸話が語り継がれている。織田信長の美濃平定後、秀吉に迎えられてその家臣となった。よく「軍師」と言われるが、史実上はあまり相応しい名称ではない。謀臣または参謀というのが最も適切であろう。後に中国経略の序盤で羽柴陣営に加わった黒田官兵衛孝高と共に、両輪となって秀吉の天下取りを支えた名参謀であった。丁度、漢の高祖劉邦の謀臣、張良と陳平に酷似する。半兵衛は、官兵衛とは気質が異なっていたと言われ、私利私欲や功名心には全く縁のない、水晶の様な人柄であったとされるところも、張良と同様である。半兵衛は、後に若くして肺の病を患い余命幾ばくもなかったが、秀吉の療養の勧めを拒絶して、最後まで三木城攻めの平井山本陣にあって、1579年6月13日、戦陣で病没したと言う。
 平井山の麓のぶどう園の只中には、竹中半兵衛の墓が建てられ、現在まで大切に守られている。現地解説板も、行政の建てたものの他に地区住民や老人会が建てたものがあり、文意も至極丁寧で素晴らしい。何でも付近の人は、半兵衛の命日は仕事を休むらしい。地元でもなく、他所から来た言わば侵略者であるのに、これほど住民から慕われるとは、その人柄が偲ばれる様だ。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.809170/135.011083/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
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鎌倉史跡巡り その4(神奈川県鎌倉市) [その他の史跡巡り]

 鎌倉は、よく知られている通り坂東武士の都である。鎌倉には前回、2009年10月に訪れて、主に南北朝関係の史跡を巡ったが、今回は鎌倉幕府の有力御家人の屋敷跡をメインにして駆け足で巡ってみた。

<大江広元邸>
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 鎌倉幕府創業の功臣で有能な官僚であった大江広元は、後に寒河江大江氏などを輩出し、その一流は安芸に下って毛利氏となった。即ち毛利元就は、大江広元の後裔である。その屋敷地は鎌倉市街の東方、金沢街道沿いの十二所地区にある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.319450/139.578263/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<畠山重忠邸>
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 鎌倉武士の鑑、畠山重忠については、畠山重忠館の項や二俣川古戦場の項で記載している。その屋敷地は、何と鶴ヶ岡八幡宮境内の東隣にあったらしい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.324177/139.557298/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<土佐坊昌俊邸>
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 土佐坊昌俊は、渋谷氏の一族である。その事績は渋谷城の項に記載する。源頼朝が義経を追討する際、多くの武士は辞退したが、昌俊のみがこれを引き受けたが、夜襲に失敗して惨殺された。その屋敷地は、北条執権邸(現、宝戒寺)の目と鼻の先にある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.322216/139.556805/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<比企能員邸>
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 比企能員は有力御家人で、その妻は頼朝の嫡子頼家の乳母であり、娘を頼家に嫁がせて、2代将軍の外戚として権勢を強めた。しかし頼家が病気で危篤となった際、北条時政によって一族は悉く謀殺された。その屋敷は比企谷の妙本寺の地にあったと言われ、ここは比企一族の悲劇の寺である。境内には比企一族の墓がある。尚、加賀前田家の藩祖前田利家の側室で3代藩主利常の実母寿福院の大きな墓もある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.317139/139.557577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<足利持氏供養塔>
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 鎌倉公方足利持氏は、6代将軍足利義教を「呪詛怨敵」と呪ったとされる血書願文を残したほど激しい気性の持ち主で、後に「永享の乱」と言う大乱を引き起こし、幕府・関東管領連合軍に滅ぼされた。その供養塔が別願寺に残っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.314442/139.554831/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<佐竹屋敷>
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 佐竹氏は、新羅三郎源義光の後裔で、常陸に土着して有力御家人に列した。後の戦国時代には戦国大名に脱皮して鬼義重と恐れられた佐竹義重を輩出し、小田原北条氏や伊達氏と互角に渡り合った。その屋敷は、現在の大寶寺の地にあった。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.315090/139.557384/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<新田義貞本陣跡>
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 1333年5月8日に上野から挙兵した新田義貞は、幕軍を撃破しつつ南下し、鎌倉を攻撃した。数日の攻防戦の後、稲村ヶ崎を突破して鎌倉府中に乱入して鎌倉を制圧した。この府中の市街戦の時に義貞が本陣を置いたのが、現在の九品寺の地と言われている。義貞は鎌倉幕府滅亡後、北条方の戦死者を弔う為に材木座に九品寺を建立したと言う。九品寺に掛かる2つの扁額は、義貞の筆を写したものと伝えられている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.307176/139.551655/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<畠山重保邸>
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 畠山重保は、重忠の嫡子である。北条時政の婿平賀朝雅と争ったことがあり、それが元で北条氏に讒訴されて、この地で攻め滅ぼされた。その翌日、父の重忠も謀略によって二俣川で討死した。重保の屋敷地は一の鳥居の近くにあり、重保の墓とされる大きな宝篋印塔が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.313129/139.548222/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<和田塚>
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 和田塚は、和田合戦で討死して滅亡した和田義盛一族の塚である。義盛の事績は、和田城の項に記載する。和田塚は、そのものズバリの名の駅の近くにある。多くの五輪塔が並ぶが、塚のある高台の前がゴミ捨て場になっているのは、ちょっとひどいと思う。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.313164/139.545561/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<安達盛長邸>
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 安達藤九郎盛長は、源頼朝の古参家臣で、蛭ヶ小島配流の時から頼朝の側近く仕え、石橋山での挙兵時にも頼朝に従って奮戦し、鎌倉幕府創業の功臣の一人となった。屋敷地は、現在の甘縄神明宮の地であったと言われている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.314057/139.537193/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<扇谷上杉邸>
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 扇谷上杉氏は、上杉4家の一で、後に関東管領を世襲した山内上杉氏の次に勢力を持った一家である。殊にその家宰太田道灌の活躍で知られ、鎌倉の屋敷は、太田道灌邸のすぐ近くにある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.324842/139.550647/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<北条氏常盤亭>
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 北条氏常盤亭は、大仏切通しの北に接する要地に7代執権北条政村等の北条一族の有力者が別邸を構えた場所である。谷戸の中にやぐらと呼ばれる横穴形式の鎌倉独特の墓や、「タチンダイ(館ノ台)」という地名などが残る。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.323547/139.537107/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<梶原景時供養塔>
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 梶原御霊神社の西隣の深沢小学校の裏手に、御家人達から弾劾されて討たれた梶原景時の供養塔が残っている。学校の敷地内なので、普段ならば入れないのだろうが、行った時は秋口でたまたま運動会が開催されており、お参りできた。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.331320/139.521099/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

※過去の鎌倉史跡めぐりは、こちらこちらこちら
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二俣川・鶴ヶ峰古戦場(神奈川県横浜市旭区) [その他の史跡巡り]

DSC00647.JPG←古戦場の碑
 二俣川・鶴ヶ峰古戦場は、鎌倉幕府の有力御家人畠山重忠の終焉の地である。重忠は、源頼朝の忠臣として鎌倉幕府創設に尽力し、智・仁・勇を兼ね備えた名将として有名を馳せた。その事績は畠山重忠館の項に記載する。御家人の中でも声望が高かったが、1205年、初代執権北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ、菅谷館を出立し百余騎の小勢で鎌倉に向かう途中、時政の子北条義時率いる数万騎とも言われる幕府軍に二俣川で襲撃された。死を覚悟した重忠は、小勢ながらその勇名に恥じない血戦を繰り広げ、弓の名手愛甲三郎季隆の矢に当って壮絶な最後を遂げた。時に42歳であったと言う。
 二俣川・鶴ヶ峰古戦場は、現在の旭区役所近辺に当たり、その戦いにまつわる史跡が付近に散在している。また、北条方の大軍が展開した地には、「万騎が原」の名が残っている。

<古戦場碑>
 鶴ヶ峰駅交差点の脇に、昭和30年に建てられた「畠山重忠公碑」が建ち、「鶴ヶ峰・二俣川合戦の地」の標柱がある。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.475210/139.544166/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<首塚>
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 重忠の首が祀られた所。七重の石塔が建っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.474843/139.545389/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<首洗い井戸>
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 首塚の30m程南の区役所駐車場の端に、首洗い井戸の標柱と解説板が建っている。かつて重忠の首を洗い清めたと伝えられる井戸があったが、帷子川の流れが変わって失われたと言う。現在は井戸は残っていない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.474476/139.545261/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<駕籠塚>
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 重忠の内室「菊の前」は、合戦の報に接して急ぎ駆けつけたが、重忠戦死を聞いて自害し、駕籠ごと埋葬されたと言う。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.479316/139.544789/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<六つ塚>
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 薬王寺に、重忠を初め、討死した一族郎党134騎を埋めたという6つの塚がある。解説板はあったが、どれが塚だかよくわからなかった。

場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.478792/139.542021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<すずり石水>
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 重忠が鶴ヶ峰に陣を張った際、この水で墨を擦ったと言われている。谷戸の奥に当たり、昭和初期まで崖から湧き水があったらしいが、現在は住宅地の只中で、標柱が建っているだけで往時の面影はない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.480312/139.542385/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<矢畑・腰巻>
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 合戦の際に、北条方から射られた矢が辺り一面に落下して、矢の畑の様になった場所と言う。現在は小道の脇に標柱があるだけである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.477132/139.539446/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

 二俣川・鶴ヶ峰古戦場の関連史跡は、かなり広い範囲に散在しており、歩いて回ると1時間半~2時間ほども掛かる。ただ駐車できるスペースがほとんど無い場所が多いので、車での行動はお薦めはできない。往時の面影は微塵もないが、重忠が今でもこの終焉の地で慕われていることがよくわかる。
タグ:古戦場
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新田義貞鎌倉進撃路(神奈川県大和市) [その他の史跡巡り]

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 大和市と横浜市と町田市の境界近くにある観音寺前交差点を西にちょっと入ったところに大山阿夫利神社御分霊社がある。その前の道路脇には、「新田義貞公鎌倉進撃路」の石碑が建っている。
 解説の石碑にこうある。

「元新田氏の歴史と其の由来
南朝之忠臣元新田氏の髙下宗家は相州下鶴間村の由緒ある旧家であった。元弘三年(西暦1333年)鎌倉攻めを行った新田義貞公の流れを汲む当地の豪族であった。現在の観音寺より歴史は古く、観音寺は当家の先祖が土地を寄進し開基したと当家に伝えられている。又、寺住職墓地とされている処は当家の先祖である新田氏の墓地であり、その墓主である髙下半左衛門に登記済である。その墓地に正慶元年、建武五年、延文二年の三基の板碑があった。これは新田公が鎌倉攻めの時、戦死を遂げた武士たちの墓にあった供養碑である。建武五年、延文二年の二基については新編相模国風土記稿に見えるものである。(以下略)」

 先の御分霊社は、ここにも書かれている髙下家の敷地内にあり、道路脇に建っている進撃路の石碑や解説の石碑、義貞の上野挙兵から鎌倉までの進軍路の地図など、全て髙下家が自邸の敷地の内外に自腹で建てているらしい。新田氏の裔を誇る旧家らしい太っ腹で、敷地を惜しげもなく一般開放しており素晴らしい。どのような由来があって新田氏の一族がこの地に居を構えたのか、非常に興味を引くところであるが、ここでは石碑の解説文の一部を記載するに留めておく。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.501347/139.466017/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

※新田義貞の鎌倉攻めの古戦場巡りはこちら
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四万坂古戦場(神奈川県大和市) [その他の史跡巡り]

DSC00508.JPG←四万坂
 四万坂古戦場は、深見城の南方800m程の位置にある古戦場である。長尾景春の乱の際に、乱の鎮定に当たった扇谷上杉氏の家宰太田道灌と景春方の深見城の軍勢(山田伊賀守と言われる)が戦った古戦場と伝えられている。この地を通る古道で戦った両軍は合わせて四万の軍勢であった為、四万坂と称されるようになったと言う。
 四万坂古戦場は、境川の西岸に位置する段丘部の坂道に解説板がある。ここから境川をちょっと遡れば深見城があり、この地が深見城の最終防衛線であったと思われる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.485607/139.468936/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:古戦場
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大神古戦場(神奈川県平塚市) [その他の史跡巡り]

DSC09822.JPG←古戦場の石碑
 大神古戦場は、牛ヶ渕古戦場とも呼ばれ、1569年の武田信玄の小田原遠征の際に、北条方の軍勢が武田勢を迎撃した合戦である。大神から八幡原にかけての一帯は「牛ヶ渕」と呼ばれ、相模川と水田によって狭まった要衝であったと言い、真芳寺砦を拠点に北条方の軍勢が集結したと言う。北条方は寡勢だったらしく、武田勢に敗れてその侵攻を阻止することは出来なかったが、小田原城の備えを固める時間を稼ぐことに成功した為、信玄は小田原城攻略を短時日で諦め、戦略的には北条方が勝利を収めたものと考えられる。
 真芳寺の北にある隆盛寺の門前に古戦場の碑が建っており、地形が変貌した中に、わずかにその歴史を伝えている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.391009/139.368492/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:古戦場
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野田山前田家墓地(石川県金沢市) [その他の史跡巡り]

IMG_6297.JPG←前田利久墓の周囲の堀
(2004年9月訪問)
 野田山前田家墓地は、金沢城主加賀前田家の広大な墓地である。100万石の大藩の墓に相応しく、一つ一つの墓は陵墓形式の大きなもので、墓地は総面積66,000m2に及ぶ。加賀藩の始祖前田利家の実兄利久がこの地に葬られたのが野田山墓地の始まりとされ、歴代の藩主のほか、夫人や子女の墓など70数基の墓がある。
 私は9月中旬に野田山墓地を訪れたが、薮蚊が非常に多く、とてもじゃないがゆっくり墓を見れる状況ではなかった。利久・利家などの有名どころの墓だけを見て、早々に立ち去った。全部を見てはいないのではっきりしないが、利久の墓所だけ周りに掘が巡らしてあった。利家に家督を譲った利久は、別格の扱いだったのだろう。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.528726/136.667036/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
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山中鹿介幸盛墓(岡山県高梁市) [その他の史跡巡り]

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 山中鹿介幸盛は、月山富田城主尼子氏の庶流山中氏の出で、幼少の頃より主家尼子氏に仕え、尼子氏が毛利氏に滅ぼされると、尼子勝久を奉じて再興戦を繰り広げて奮戦した。その経緯は、山中幸盛屋敷の項に記載する。最後は上月城を毛利氏に攻め落とされて捕らえられ、備中松山城へ護送される途中、阿井の渡し場で謀殺された。
 現在、鹿介最期の地に立派な墓が建てられている。1713年に松山藩主石川侯の家臣前田時棟が建てたものと言う。墓の位置から考えると、阿井の渡しは高梁川とその支流の成羽川の合流点近くにあったようである。備中松山城から南西に3~4kmの位置である。突然斬殺された鹿介は、さぞ無念であったことだろう。しかしその劇的な生涯が、返って鹿介の名を後世に広めることになったのかも知れない。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.779831/133.597838/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:墓所
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三村元親自刃地(岡山県高梁市) [その他の史跡巡り]

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 備中松山城主三村元親は、鶴首城主三村家親の子である。家親は、当初備中最大の勢力庄氏等と共に尼子方に付いたが、尼子氏の勢力が衰退し、代わって毛利氏の勢力が伸長してくると毛利氏に従った。そして毛利氏の力を背景に、家親は備前・美作に進出し、浦上氏や宇喜多氏と対立することとなった。宇喜多直家は、1566年、刺客を以って家親を暗殺した。家親の跡を継いだ元親は、宇喜多氏を攻めたが利あらず、逆に宇喜多氏の勢力が備中に伸び、時の松山城主庄高資は宇喜多側に付き、1570年、元親は出兵で手薄になった松山城を急襲奪取して松山城に入った。この頃、毛利・宇喜多両勢力は備中を最前線として拮抗し、1572年、毛利氏と宇喜多氏は講和した。元親は、父の仇の宇喜多氏と講和した毛利氏を見限って、中国地方に戦力を伸ばしつつあった織田信長に属した。三村氏の離反を知った毛利氏は、1574年、大軍を率いて備中に侵攻し(備中兵乱)、翌75年5月、遂に松山城を落城させた。元親は、辛うじて脱出したものの傷を追って逃れ難きを悟り、松蓮寺で自刃して果てた。
 自刃の地は、現在の元親池という池の畔に当たり(松蓮寺は後に移転したらしい)、祠と石碑が建っている。居城はわずかな期間であったが、池にその名が残るほど、三村氏が松山城の地に残した足跡は大きかったのだろう。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.795550/133.622879/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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高松城水攻築堤跡(岡山県岡山市) [その他の史跡巡り]

DSC08118.JPG←蛙ヶ鼻築堤跡
 高松城水攻築堤跡は、史上名高い羽柴秀吉による備中高松城の水攻めの際に築かれた堤防である。天下布武を目指し統一事業を推し進める織田信長は、秀吉を中国攻めの総大将として中国の覇者毛利氏を攻めさせ、1582年、両軍は備中で激突した。3月15日に姫路城を2万の軍勢で出立した秀吉は、途中宇喜多勢を加え、4月16日より毛利方の境目7城を攻めて、4城を落としたが、中核であった高松城は、城主清水宗治が沼地に築かれた城の特性を生かして籠城戦を行い、中々落ちなかった。そこで秀吉は、軍師黒田官兵衛孝高の建策を容れて、沼地の地形を逆手にとって城を遠巻きにして堤防を築き、梅雨の長雨を利用して城の周囲を水没させる水攻めを敢行した。秀吉は5月8日から築堤工事に着手し、突貫工事で総延長3kmに及ぶ大堤防をわずか12日で築いたと言われる。19日に堤防が完成すると、折からの長雨で数日にして高松城周囲は水没し、5000とも言われる城兵は完全に孤立した。毛利方は、当主毛利輝元を総大将に吉川元春・小早川隆景ら4万の援軍が21日に高松城西方に着陣し、秀吉勢と睨み合いが続いた。その最中の6月2日、織田信長が京都本能寺で明智光秀に攻め滅ぼされた。その翌日、光秀から毛利への使者を捕らえた秀吉は、急ぎ毛利方との講和を結び、城兵の助命を条件に城主清水宗治は衆人環視の中、小舟の上で自刃した。秀吉は宗治の首実検を済ませると、急いで軍勢を引き上げて姫路城に戻り、主君の仇明智光秀を討つために、史上名高い中国大返しを開始した。

 秀吉の築いた水攻築堤は、現在は備中高松駅の東方400m、大平山山塊の西麓の平野部にある蛙ヶ鼻築堤が、わずか10m程残っているに過ぎない。明治36年の鉄道工事の際に、築堤の土砂の大半が持ち出されて湮滅したと言う。残った築堤付近は現在、高松城水攻め史跡公園となって整備されている。地中からは堤防基部の土俵や杭列が見つかっており、公園内にその痕跡が復元保存されている。

 また築堤背後の丘陵には、石井山の秀吉本陣跡、秀吉方諸将の陣跡が残り、秀吉本陣近くには宗治の首を埋めたという首塚の跡も残っている(首塚は現在は高松城本丸に移設されている)。諸将の陣跡は時間の関係で行かなかったが、秀吉本陣と首塚だけ訪れた。途中の山道脇にはいくつもの腰曲輪状の削平地があり、おそらく秀吉の兵が駐屯していたのであろう。石井山頂上の本陣跡は削平されたただの平場で、虎口や土塁などの陣城らしい遺構は確認できなかった。ただここからは眼下に高松城を一望でき、絶好の陣場であったことが窺える。
秀吉本陣跡→DSC08134.JPG
DSC08131.JPG←清水宗治首塚跡

 場所:【蛙ヶ鼻築堤】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.685875/133.826770/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【秀吉本陣跡】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.689351/133.831040/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0




タグ:古戦場
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赤松三尊像(兵庫県上郡町) [その他の史跡巡り]

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 赤松三尊像は、播磨の守護大名赤松氏に縁の深い宝林寺にあり、現在兵庫県の指定文化財となっている。元弘の乱で活躍し、その後建武の新政下での冷遇に怒って足利尊氏の有力な与党となって室町幕府の創業に大きな功績を挙げた赤松円心、その3男で円心の後を継いだ赤松則祐、別法和尚(雪村友梅とも言われる)、則祐の娘である覚安尼。これらの木造を総称して赤松三尊像といい、実際は4体の木造である。南北朝フリークとしては、是非見なければいけない文化財!ということで、事前に予約を入れて宝林寺に伺わせていただいた。その際、御住職から色々と貴重なお話を伺うことができた。

 赤松三尊像は、円心館という名の宝物館に安置されている。これらの木造は昭和50年代に文化庁が国重文指定できるかを調査したのだが、後世の修理歴があったために惜しくも国重文指定を外れ、それだったらと兵庫県が県指定の文化財としたそうである。円心像も則祐像も、還暦祝いに木像を作ったとも言われるらしい。もしその伝承が事実なら、その人物と同時代の木像ということで本人を模した可能性が高く、正しく歴史の生き証人であり貴重な文化財であろう。玉眼が嵌めこまれた木造の表情は、まるで本人を目の前にしている様な生々しさがある。古い木造なので、虫食いの穴が沢山開いていて、以前は細かい木クズが出てきていたが、何年も前に木像を移動させた時に燻蒸してから木クズが出なくなったそうなので、奥にいた虫も死滅したのだろう。娘の覚安尼像は、運慶・快慶などで知られる慶派の彫像とされ、慶派で生身の人間を模した木像はこれだけだとのこと。更に、女性の身分の低かったこの時代に、生身の女性の像が作られることは極めて稀であるので、娘の像を当時を代表する芸術家集団に掘らせた赤松氏の権勢の強さが窺える。また赤松氏勃興の英傑円心は勿論、6代将軍足利義教を暗殺する嘉吉の乱を引き起こした赤松満祐すらも、地元では名君と伝えられているという。だから赤松氏が討伐を受けて一旦廃絶となった後も、旧臣による再興運動が起きてお家再興が成ったのかと納得した。宝物館にはこれらの木造のほか、円心の愛用した椀や着用した冑などが残っており、一代の梟雄赤松円心の息吹を感じることができる。

 尚、宝林寺の寺堂は数年前に佐用町を襲った集中豪雨による洪水で流されてしまい、現在は建て直したものとのことで、小さな建物になってしまっている。つい先月も台風で豪雨に見舞われている地域なので、その後ご住職やお寺が無事であるのか心配である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.915954/134.352483/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

※ご好意により三尊像の写真を撮らせていただくことができたが、掲載許可は頂いてないのでブログには写真は掲載しません。あしからず。
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山名時氏墓所(鳥取県倉吉市) [その他の史跡巡り]

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 山名伊豆守時氏は、新田氏の一族で上野国山名郷を本拠としていた。南北朝の動乱期に実力でのし上がった有力守護大名の一人で、新田党には珍しく足利尊氏に従って武功を挙げ、室町幕府が成立してからは、尊氏の弟直義に従った。幕府の内訌、観応の擾乱では終始直義に従い、直義が鎌倉で死んでからも直義の養子直冬に従って、尊氏に抗し続けた。そんな中にあって、実力で領国の周辺諸国を切り取り、伯耆・因幡・美作・丹波・丹後の5ヶ国を実効支配した。2代将軍足利義詮の時、幕府に降参したが、「降参」とは名ばかりで、切り取った5ヶ国の守護職をそのまま安堵され、実際には和睦であった。そのため、長年幕府に忠勤を励んできた武士たちは、「多く所領を持ちたいと思ったら、ただ敵になりさえすればいい」と憤慨したと言われている。一方で時氏は苦労人でもあり、文字も読めない無学の武人であったが、「自分は、元弘以前はただ民百姓の様な状態で、上野の山名という所から出てきたので、渡世の悲しさも身の程も知っている。又、戦で難儀したことも思い知っている。(だが息子たちはおのれの分を知らず、心任せに振舞っているから、子の代になったら家を滅ぼすだろう)」と常々人に語っていたと言う(今川了俊著「難太平記」)。その言葉は現実となり、子の代に一族で11ヶ国を領有する強勢を誇ったが、3代将軍足利義満の強豪守護打倒の目標となり、一族の内訌につけこまれて明徳の乱を引き起こし、大きく勢力を減退させることになった。しかしそれでも、三管領家(斯波・細川・畠山)に次ぐ四職家(山名・赤松・京極・一色)に名を連ねる有力守護で、山名宗全の時に西軍の総帥となって応仁文明の大乱を引き起こす張本となった。

 山名時氏の墓は、田内城から目と鼻の先、倉吉市内の山名寺にある。「六分ノ一殿山名家始祖」と袖書きされた標柱が脇に立った墓は、摩耗の進んだ古い宝篋印塔で、その大きさは、往時の勢威を忍ばせる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.440184/133.832520/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
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船上山(鳥取県琴浦町) [その他の史跡巡り]

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 船上山は、1333年の元弘の乱の際に、後醍醐天皇が立て籠った山である。配流地の隠岐を脱出した帝は、伯耆国名和湊にたどり着くと、当地の土豪名和長年を頼った。長年はこれに応じ、要害性に乏しい自邸を焼き払い、帝を奉じて大山の支峰で峻険な船上山に立て籠った。この時、帝を山上まで馬でお連れしたとも(梅松論)、長年の弟長重が鎧の上に荒ごもを巻き、帝を背負ってお連れした(太平記)とも言われている。また長年は、商才に長けた土豪らしい才覚で、「米俵を山上に運んだものには銭500づつ与える」と近隣に振れ回り、わずか1日で兵糧5千余石を運び込んだ。名和軍は、わずか150騎の小勢に過ぎなかったが、山上に多くの旗を立てて大軍のように見せかけ、また天険の要害に拠って善戦し、幕府軍を翻弄した。そうこうしている間に、京都では挙兵した足利高氏が六波羅探題を数日で滅ぼし、時代は大きく動いていくこととなった。

 船上山は、標高687m、周囲を屏風岩と呼ばれる50mもの高さの垂直断崖で囲まれた、見るからに威圧感のある山である。登山道は幾つかあり、私は山の北東から登る東坂登山道を登った。途中には、後醍醐天皇が京都還幸の折、籠を立てて休んだという籠立場の説明板がある。苦労しながら登り切ると、山上は広く緩やかな勾配の広場になっており、東端の高台上に「船上山行宮碑」が建っている。この高台は「お休み場」と呼ばれ、更にその奥の緩斜面を西に登って行くと、智積寺跡に建つ船上神社に至る。船上山は、中世には山岳仏教の霊山でもあった為、山上には多くの僧坊跡が残っている。各僧坊は大きな土塁と空堀状通路で囲まれた方形区画で、いくつも連なっており、土塁には門跡(虎口?)も確認できる。正に寺院城郭の趣きで、当時から多くの寺院が並んでおり、そのまま名和長年が城塞化したのだろう。後醍醐天皇が最初に拠った笠置山もそうだし、北畠顕家が奥州で根拠地とした霊山もそうだった。南北朝の時代、山岳寺院はそのまま城に転用されていたのだろう。一番奥の智積寺跡本堂跡の右側を入った所に、後醍醐天皇行宮跡が残っている。これも周囲を低い土塁で囲まれた方形区画で、解説板の横は門跡の様である。又ここには石が散乱しており、石積みの門だった様だ。奥が行宮と言うことは、手前の僧坊は名和氏手兵の駐屯地として利用されたものだろうか。帰りは横手道を通りたかったので、健脚向きという正面登山道を下ったが、これが岩だらけでほとんど道の体を成していない急坂道で、降るだけでも大変だった。こちらのルートはお勧めはしないが、横手道から望む眼下の大パノラマと頭上にそびえる屏風岩は絶景である。

 尚、麓の船上山ダム近くの万本桜公園の丘の上に、「史跡船上山」の石碑が建っている。それから、国土地理院や各社の地図に記載されている「船上山行宮跡」の位置は全く間違っていることを付記しておく。正確な場所は、下記のリンク先である。
行宮跡→DSC05940.JPG
DSC05923.JPG←僧坊の土塁
屏風岩→DSC05976.JPG
DSC05993.JPG←史跡船上山碑

 場所:【船上山行宮跡】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.428225/133.591207/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
    【史跡船上山の碑】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.429379/133.605412/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


後醍醐天皇 (岩波新書)

後醍醐天皇 (岩波新書)

  • 作者: 兵藤 裕己
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/04/21
  • メディア: 新書


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名和の庄(鳥取県大山町) [その他の史跡巡り]

DSC05770.JPG←元弘帝御着船碑
 名和の庄は、建武の新政で三木一草と謳われた名和長年の本拠地である。長年はこの地で海運業などで財を成していた土豪と考えられているが、その出自ははっきりしない。村上源氏の裔を称したとも言うが、出自をよく見せるためのよくある創作であろう。

 1333年、配流地の隠岐を脱出した後醍醐天皇は、小舟で海を渡り伯耆国名和湊にたどり着いた。ここでこの地の土豪名和又太郎長年を頼り、長年はこれに応じ、幕府軍に対抗するため、大山の支峰で峻険な船上山に帝を奉じて立て籠った。名和軍は寡勢ながらも天険の要害に拠って善戦し、幕府軍が攻めあぐねている間に、幕命により船上山攻めの為に西上していた足利高氏(後の尊氏)が丹波篠村で倒幕に挙兵し、わずか数日にして鎌倉幕府の出先機関、京都六波羅探題を滅ぼした。ほぼ同じ頃、関東では新田義貞が挙兵して鎌倉を攻略し、ここに鎌倉幕府は滅んだ。京都に還幸した帝は建武の新政を開始し、倒幕に大功のあった楠正成・結親光・名和長年(伯)・千種()忠顕を顕職に挙げて近臣とした。これを世に三木一草と称し、「朝恩に誇った」と言われる。しかし失政相次いだ建武の新政は間もなく破綻し、1335年、中先代の乱を契機として足利尊氏が新政に反すると、時代は一気に南北朝の動乱へと突き進んでいった。新田義貞を伊豆竹之下で破り、一旦は京都を制圧した尊氏であったが、間もなく奥州軍を率いる北畠顕家を含めた後醍醐天皇方の反攻によって大敗し、九州まで落ち延びた。しかしわずか3ヶ月で頽勢を立て直した尊氏は再挙東上し、摂津湊川で新田義貞を破り、楠木正成は自刃し、再び京都に攻め込んだ。後醍醐天皇は比叡山に逃れて籠もり、入京した尊氏は東寺に本陣を置き、京都では両軍による合戦が引き続いた。この合戦の中で、名和長年も三条猪熊で戦死したと言われる(梅松論)。約半年にわたった京での攻防は和睦という形で終結し、光厳院を戴いた北朝政権・室町幕府が樹立された。しかし動乱はまだ終わっていなかった・・・。

 長年戦死後も、名和一族は南朝方として戦い続けたが、本拠の名和の庄は伯耆守護の幕将山名時氏に制圧され、一族はすり潰されていった。長年の孫長興は、同じ南朝方の菊池一族を頼って肥後八代に移り、そこで名和氏の命脈を保った。

 南北朝の動乱にはいくつもの重要な場所があるが、名和の庄もその一つで、建武の新政は正にここから始まったと言ってもよい。それ故、寡勢で帝を護った名和長年の戦功は群を抜き、寵臣となったのも当然であったろう。周辺にのどかな田園風景の広がる小さな漁村に、名和一族の足跡を見ることができる。

<後醍醐天皇腰掛岩・元弘帝御着船所碑>
腰掛岩→DSC05774.JPG
 隠岐を脱出した後醍醐天皇を乗せた船が着いた場所と言われている。腰掛岩は、船から降りた帝がしばらく休息された場所と言う。現在は御来屋漁港の手前に鎮座しているが、以前は浜辺にあり、波に洗われていたそうだ。昭和51年に漁港を改修した際に、位置はそのままに高さを上げて据えたと書かれている。御着船所の石碑は、船から降りた帝をしばらく匿った家に対して、江戸時代に鳥取藩がその功を賞して碑を建てたものと言う。

 場所:【腰掛岩】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.511863/133.494626/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【御着船所碑】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.511234/133.494862/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<名和神社>
DSC05791.JPG←拝殿の帆掛船紋
 名和長年を始め名和一族42人を祀った神社。名和氏の米倉があった場所に建てられており、何でも船上山合戦の際に焼き払った米が、今でも神社裏から出てくるそうだ。神社に掲げられているのは、当然ながら長年が帝から賜ったという帆掛船紋。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.504369/133.495120/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<名和氏館>
DSC05825.JPG
 名和氏2代の館の跡で、「又太郎屋敷」または「デーノヤシキ(殿の屋敷)」と呼ばれているそうだ。土塁が残ると大山町役場 観光商工課のHPにあるが、わからなかった。集落の中の公園に石碑が残るのみ。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.497854/133.499089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<名和公一族郎党の墓>
DSC05813.JPG
 名和長年の菩提寺である長綱寺の裏山に名和一族の夥しい数の墓がある。ほとんどは五輪塔であるが、再上段真ん中にひときわ大きい宝篋印塔がある。これが名和長年の墓であろうか。その下には墓室入口があるので、中には名和一族の骨壷が置かれているのかも知れない。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.497941/133.500935/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<的石>
DSC05833.JPG
 名和一族が弓矢の稽古をするときに的にしたと伝えられている石。表面にうっすらと、的にしたと思われる二重の輪が見えるが、当時のものかどうかは不明。弓の名人と言われた名和長年は、5人張りの強弓を引き、一矢で敵兵二人を射倒したと言う。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.498780/133.499862/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<三人五輪>
DSC05796.JPG
 名和長年、長男義高、3男高光の3人の首塚と伝えられている。場所が少々わかりにくい。すぐ脇には現代の名和家の墓もあり、名和氏の血脈が現代までこの地に息づいていることを物語っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.501505/133.501128/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


太平記の群像  南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 森 茂暁
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2013/12/25
  • メディア: 文庫


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洲崎古戦場(神奈川県鎌倉市) [その他の史跡巡り]

DSC03591.JPG←赤橋守時の腹切りやぐら
 洲崎古戦場は、新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場である。1333年5月8日、上野の野からわずか150騎で挙兵した義貞は、上野国府を襲った後、疾風のように南下し、一路鎌倉を目指した。途中多くの武家を味方につけた義貞の軍勢は大軍に膨れ上がり、瞬く間に武蔵野を席巻した。笛吹峠を越えた新田勢は、小手指ヶ原で幕府軍を一蹴し、分倍河原・関戸でも激戦の上、得宗(北条氏の嫡流のこと)北条高時の舎弟泰家を総大将とした軍勢を打ち破った。鎌倉に迫った義貞は、軍勢を3手に分け、三方より鎌倉を攻めた。その内、堀口貞満・大嶋守之を左翼の将として、巨福呂坂へ指し向けた。この時既に京では、足利高氏(後の尊氏)が後醍醐天皇側に付いて六波羅探題を攻略し、京の幕府軍を壊滅させていた。最後の執権北条(赤橋)守時は、妹登子が高氏に嫁いでおり、高氏の謀反と、預けられていた登子と高氏の嫡子千寿王(後の義詮)が密かに鎌倉から逃れたことによって、幕府内での立場は悪化していた。しかし守時は、先陣を賜って堀口らの軍勢と洲崎で一歩も引かずに激戦を展開し、斬り結ぶこと1日で65度に及んだと太平記に記されている。しかし勢いに乗る新田勢の前に頽勢覆い難く、守時は自刃し、守時配下の南条高直ら90人の将兵も守時に続いて自刃して果てたと言う。

 洲崎古戦場は、湘南モノレールの通る県道脇に石碑が建っている。そして、この地から西に200m程の場所、深沢多目的スポーツ広場の一角には、千代塚と呼ばれる守時の腹切りやぐら、そして洲崎の戦いから約20年後に戦没者の供養の為に建てられたと言われる泣塔が残っている。義貞の鎌倉攻めの中でも最も壮絶な戦場であり、その悲しい歴史を今に伝えている。

 場所:【古戦場碑】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.334996/139.520971/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【腹切りやぐらと泣塔】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.335276/139.518868/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


太平記の群像  南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

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タグ:古戦場
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藤沢敵御方供養塔(神奈川県藤沢市) [その他の史跡巡り]

DSC03246.JPG
 藤沢敵御方供養塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養する為、1418年に造立された石塔である。上杉禅秀は上杉四家の一、犬懸上杉家の当主で、鎌倉公方足利持氏の下で関東管領を務めていた。しかし持氏と対立し、関東管領を罷免された禅秀は、1416年10月、広く関東諸豪を巻き込んで大規模な反乱を起こした。しかし室町幕府が持氏に援軍を送った為、翌年1月に禅秀ら一族は鎌倉雪ノ下で自害し乱は集結した。
 藤沢敵御方供養塔の銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌に当たる。「敵御方」とは戦乱の勝者である鎌倉公方足利持氏に対しての敵味方を指し、持氏が発願主となって、時の遊行寺住職太空上人を導師として造立したものと考えられていると言う。
 高さ1m程しかない比較的小さな石塔であるが、国指定史跡となっている。かつての戦乱の日本では、戦いの勝者も「明日は我が身」ということで、敵であっても供養した例は多い。持氏も、供養塔造立の20年後に永享の乱という戦乱を起こして滅びたことを考えると、感慨深いものがある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.347721/139.488655/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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中丸山古戦場(神奈川県横浜市瀬谷区) [その他の史跡巡り]

DSC00562.JPG←古戦場の解説板
 中丸山古戦場は、室町・戦国期の2度にわたる戦いの舞台である。
 第1回目は、上杉禅秀の乱の時のことである。1416年に関東管領上杉禅秀(氏憲)は、鎌倉公方足利持氏と対立し、広く関東諸豪を味方につけて挙兵した。これに対して知らせを受けた幕府中央は、直ちに禅秀討伐軍を繰り出した。そして1417年正月、禅秀は、江戸氏を初めとする武蔵の大軍を相手に相州世野(瀬谷)の中丸山を決戦場として、各街道から押し寄せる大軍と激戦を交えたが大敗した。禅秀は鎌倉雪ノ下に逃れて、正月10日、一族郎党と共に自刃した。
 第2回目は戦国時代初期、関東の古豪扇谷上杉氏と新興勢力小田原北条氏の合戦である。1529年、上杉朝興は着々と勢力を拡張する北条氏綱に戦いを挑んだ。これを迎え撃つ北条勢は、初陣となる氏綱の嫡男氏康を大将に中丸山一帯に戦線を広げて上杉勢を撃破敗走させた。この時氏康、若干16歳の青年武将であり、後の大器の片鱗を既に垣間見せていた。

 中丸山古戦場は、現在の瀬谷市民の森付近に当たり、森を抜けた北側の遊歩道沿いに解説板が立っている。付近は緩やかな丘陵地で、森林公園のほかは一面の畑となっている。尚、解説板の位置から西北西2.7kmの位置に深見城があり、小さい城ながらも非常に技巧的な縄張りを持っているので、もしかしたら中丸山合戦の際に後方支援拠点として両軍のいずれかが築いたものではないかと、個人的には推測している。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.482898/139.496273/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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三増峠古戦場(神奈川県愛川町・相模原市) [その他の史跡巡り]

DSC09532.JPG←古戦場碑
 三増峠古戦場は、小田原北条氏と甲斐武田氏の有名な古戦場である。全国有数の戦国大名同士の直接対決であり、しかも戦国史に数少ない大兵力による山岳機動戦として稀有なものである。事の起こりは、1568年。武田信玄は、桶狭間で今川義元が討たれた後、弱体化した今川家を併呑しようと駿河に侵攻した。これをきっかけに甲相駿三国同盟が崩壊し、今川氏を支援する北条氏と武田氏の間は極度の緊張状態となった。翌1569年10月、信玄は2万の大軍を率いて小田原遠征を行った。しかし北条氏康の居城小田原城の守りは固く、わずか数日の包囲で信玄は小田原を引き払い、相模川から北上して三増峠越えルートで甲斐へ引き揚げを始めた。氏康は、信玄の帰路を察知し、息子の滝山城主北条氏照や氏邦、猛将の北条綱成らに武田勢の前面を塞ぐよう指令した。そして氏康自身は、嫡男氏政と共に小田原の兵を直率して武田勢の後を追った。企図するところは挟撃戦であった。この時、武田勢は危地一歩手前だったと言ってよい。百戦錬磨の信玄は、自軍の置かれた危機的状況を知悉しており、背後から氏康の軍勢に追いつかれる前に、正面の氏照・氏邦らの軍勢の中央突破を決断した。そこで激戦が繰り広げられたのが三増峠合戦である。

 武田勢が三増峠に差し掛かる前に、既に氏照らの軍勢が三増峠に着陣して押さえていたが、武田勢が接近するに従って、氏照らは半原の台地上に移って迎撃体制を整えようとしたらしい。この時信玄は、桶尻の高地に自ら進出して本陣を構え、左右両翼に軍勢を展開した。一方で小幡信貞を先行させて、戦場の後背地で甲斐への帰路に当たる津久井城の北条勢の動きを封じ、山県昌景を三増峠西方の志田峠へ迂回進出させて遊撃部隊として温存した。氏照らの北条勢は武田勢に攻め掛かり、山麓一帯で激戦が展開された。その中で、信玄の部将浅利信種は、北条綱成の鉄砲隊に撃たれて戦死した。この激戦の最中、山県隊は北条勢の側背を急襲し、一気に北条勢は総崩れとなったと言う。信玄は、勝ち戦となるや直ちに兵をまとめて相模湖方面の反畑に引き揚げ、勝利を祝うとともに戦死者を弔い、甲府へ引き揚げた。一方の氏康・氏政の北条方本軍は、厚木まで進出していたが、自軍の敗北を知って追撃の無駄を悟って撤収した。

 以上が、主に甲陽軍鑑に基づく三増合戦の経緯であるが、よく知られている通り甲陽軍鑑は信頼性に疑問の余地の多い史書であり、三増合戦の経緯については諸説あることを付記しておく。いずれにしても武田勢の優勢で終わった合戦のようである。ただ、勝利した武田方でも有力武将が戦死するなど損害が大きく、一方的に北条方が大敗した合戦ではなかったと思われる。北条氏が、その勢威に比して今一つ現代に人気がないのは、この三増合戦の敗北と、小田原の役で撃って出ることなく消極的な籠城戦の末、みすみす自滅したことが大きいのだろう。

 三増峠古戦場には、古戦場碑の他に、永禄戦士供養塔、信玄本陣跡の旗立て松、首塚、胴塚、浅利明神などが点在し、案内板も多数あって親切である。またやや遠いが北東10kmの寸沢嵐には首洗池がある。尚、三増合戦は山岳戦とは言うものの、それほど山深い地勢ではなく、平地から山地に至る裾野を主戦場とした戦いだったようである。

<三増峠古戦場碑>
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.535090/139.294420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<永禄戦士供養塔>
DSC09541.JPG
 畑の中に塚が三つあり、整地して塚を1ヶ所に集めて懇ろに弔ったもの。道端に塚石2つと石碑2枚が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.535055/139.294828/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<旗立て松>
DSC09551.JPG
 三増合戦の際に、信玄が大将旗を立てたと言われる高台。この高台を中心にして鶴翼の陣を張り、信玄自らは麓の桶尻に本陣を置いて北条軍を迎え撃ったという。東名厚木カントリー倶楽部というゴルフ場の中の小山の上にある。案内板が多数出ていて迷うことなく行ける。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.543314/139.287983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<首塚>
DSC09593.JPG
 戦死者の首を葬った場所と伝えられている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.533571/139.291245/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<胴塚>
DSC12247.JPG
 合戦で討ち取られた首級は首塚として祀られたが、首級を除いた遺骸は志田沢の右岸脇に埋葬され、胴塚が築かれた。道路脇に解説板があり、その奥を降って行った沢沿いに、円丘状の塚がある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.533012/139.292446/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<浅利明神>
DSC01398.JPG
 浅利右馬助信胤は、甲斐源氏の後裔で、武田24将にも数えられる信玄の侍大将だった。信胤は丘の下で銃弾に当たって討死し、信玄は墓を作って篤く供養した。その後、1789年に村人が墓の脇を掘ったところ骨壷が出てきたので、信種の遺骨として浅利明神として祀ったという。私が訪れた時は、たまたま墓の周りの社の改築中だった。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.545392/139.296201/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<首洗池>
DSC01328.JPG
 三増合戦で勝利を収めた武田勢は、甲州に帰還する途中、反畑で軍団の立て直しと北条勢の首実検を行った。武田方が北条方の首を埋葬する前に洗った所と言われている。小さな公園の様になっていて、水の枯れた池が残っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.600491/139.222087/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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朝倉義景墓所(福井県大野市) [その他の史跡巡り]

IMG_6053.JPG
(2004年9月訪問)
 越前の戦国大名で一乗谷城主朝倉義景は、1573年8月、刀禰坂の戦いで織田信長の軍勢に大敗すると、一旦は本拠の一乗谷に帰陣したが、従兄弟の大野郡司朝倉景鏡の進言を容れて、一乗谷を捨てて越前大野に落ち延びた。しかし景鏡の裏切りによって、8月20日宿所の六坊賢松寺を囲まれ、自刃して果てた。また、残された遺児愛王丸 、愛妾の小少将、義景母の光徳院は捕らえられ、信長の命によって処刑された。
 朝倉義景墓所は、応仁の乱以来、5代102年に渡って越前に覇を唱えた戦国大名朝倉氏の滅亡の地である。ただ実際に義景が死んだのは違う場所で、現在の墓所は1800年に曹源寺境内に朝倉家旧臣の松田氏の子孫が建立した五輪塔を、1822年にこの地に移したものである。義景墓の周りには、殉死した側近の高橋景倍・鳥居景近の墓や、愛王丸・小少将・光徳院の墓が並んでいる。住宅地の一角の木立の中にひっそりと墓所があり、時の流れを忘れさせてくれるようである。義景に、もっと天下を狙う覇気と武略があったならば、日本の歴史はまた違う道を辿ったことだろう。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.981097/136.485611/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
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