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古城めぐり(群馬) ブログトップ
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諏訪の木城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9840.JPG←主郭と空堀
 諏訪の木城は、真田氏の支城である。1581年6月、真田昌幸はこの城に塩原源太左衛門を置いて守らせた。しかし1589年に豊臣秀吉による沼田領帰属問題の裁定があり、小田原北条氏に引き渡され、以後は北条氏滅亡まで望月主計・塩原清左衛門が置かれたと言う。

 諏訪の木城は、赤谷川北岸の標高456m、比高40m程の段丘先端部に築かれている。城内は耕地化で改変されており、一部遺構の湮滅が見られるが、主郭などの曲輪の形状は比較的明瞭に残っている。段丘先端部の崖端城にしては珍しく、主郭は台地基部側に当たる城域西側の南に偏して築かれている。方形の曲輪で外周を空堀で囲んでいたと思われるが、北側の空堀は耕地化で埋められてしまっていて切岸の段差が残っているだけとなっている。東西の空堀は大きく、その形状を残している。主郭の北から東にかけてはニノ郭で、二ノ郭先端にも大きな竪堀(片堀切?)が穿たれて、更に東の三ノ郭との間を区画している。この竪堀のすぐ東には、三ノ郭後部の大きな櫓台が築かれている。三ノ郭は広大な曲輪で、現在は空き地となっているが、辺縁部の一部に土塁が残っている。『日本城郭大系』では三ノ郭を捨曲輪としており、所収の縄張図では長円形の曲輪としているが、実際には北に角状の突出部を持った形をしている。また三ノ郭の東側先端部に小堀切が穿たれ、笹曲輪が築かれている。笹曲輪の南東下方にも腰曲輪が築かれている。諏訪の木城は、主郭は薮に埋もれているが、二ノ郭・三ノ郭は歩きやすい。ただ『大系』に、土居・堀の斜面が野面積みの石垣で被覆されている、とあるが、これは既に湮滅してしまった様である。
三ノ郭の櫓台→IMG_9869.JPG
IMG_9897.JPG←三ノ郭先端の小堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.681791/138.949006/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本



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明徳寺城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9815.JPG←東腰曲輪の横矢掛かりの屈曲
 明徳寺城は、小田原北条氏から真田昌幸が奪取した城である。元は南北朝期に、荘田城主沼田氏が会津の葦名氏の来攻に備えて天神山砦を築いたのが始まりと推測されている。明徳年間(1390~94年)に僧の松庵が城郭の下に明徳寺を開山したことから、明徳寺城の名が一般的になった。戦国後期になると、関東管領上杉憲政を駆逐した北条氏の勢力が一旦は沼田城まで伸びたが、1559年に上杉謙信が越山するとその後しばらくは越後上杉氏の勢力下に入った。1579年、上杉家の家督を巡る内訌「御館の乱」が上杉景勝の勝利で終結すると、上杉氏の勢力圏は後退し、明徳寺城は北条氏の領有する所となった。この頃、東上州進出を窺っていた武田氏重臣の真田昌幸は、岩櫃城を拠点に名胡桃小川両城を攻略し、利根川西岸の支配を固めた為、北条氏家臣の沼田城代藤田能登守は明徳寺城を構築し、沢浦隼人・渡辺左近・西山市之丞・師大助等を置き、名胡桃・小川両城と対峙した。翌年8月1日の夜半、昌幸は明徳寺城を急襲して奪取した。明徳寺城の守将矢部豊後守は奮戦の末に敗れ、沼田城に撤退した。昌幸は弥津志摩守・出浦上総守等を明徳寺城に置き、更に城を補強した。その後、北条氏から沼田領帰属問題の裁定を求められた豊臣秀吉は、1579年に裁定を下し、)の盟約により、名胡桃城を除く利根、沼田の地が北条領として認められた。しかし、鉢形城主北条氏邦の重臣で沼田城代の猪俣邦憲が名胡桃城を奪取したことで、秀吉の惣無事令違反となり、小田原の役が開始され、北条氏は滅亡した。その後、再び利根・沼田の地は真田氏の所領となり、明徳寺城は廃城となった。

 明徳寺城は、三峰山南西の山裾の標高460m、比高60m程の丘陵上に築かれている。茄子の様に大きく西向きに湾曲した広い主郭を持ち、外周に腰曲輪を廻らした縄張りで、ほぼ単郭の城となっている。しかし主郭は広く、内部は南に向けて下り勾配となって傾斜している。主郭の外周には高さ2~3mの土塁が築かれ、先端部の南西辺と西辺の北1/3以外は全て土塁で防御されている。主郭周囲の腰曲輪は北斜面以外の全周に築かれている。主郭西側は単に弓なりに緩やかに湾曲した塁線となっており、腰曲輪には土塁もないが、主郭東側はところどころ複雑な折れを持った塁線で、腰曲輪への横矢掛かりを強く意識している。途中数ヶ所に虎口も確認できる。腰曲輪外周にも土塁が築かれ、こちらも横矢の屈曲が多く見られる。また更に東下方にも腰曲輪が築かれている。主郭の台地基部には二重堀切が穿たれ、大土塁で大手虎口を防御し、主郭は食違い虎口となっている様である。全体を見ると、東側に対する防備を厳重にしていることがわかるので、真田氏が北条氏から奪取した後に沼田方面からの攻撃に備えて改修したものかもしれない。
 明徳寺城は、遺構はよく残っているが、主郭内部以外は全体に激薮とバンブー地獄で、あまり見栄えしない。みなかみ町、もっと史跡整備に頑張れ!
主郭東辺の土塁→IMG_9705.JPG

IMG_9669.JPG←主郭の大手虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.683718/139.005718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本


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上川田城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9627.JPG←主郭の堀切
 上川田城は、沼田城主沼田氏の支城である。その歴史には諸説あり、沼田景家が築城し、その後は発知氏が居城とした(『日本城郭大系』)とも、或いは沼田氏3代景盛の子三郎景宗が発知城に分家して発知氏を称し、その弟兵部為時が上川田城を築いた(「発智兵部左金吾平為時の墓」の解説板)とも言われている。いずれにしても、沼田氏の一族が築き、後には同じ沼田一族の発知氏の居城となったという点では共通している。天正年間(1573~92年)には、発知氏は沼田に進出した真田昌幸に属して、北上してきた小田原北条氏の軍勢と戦っている。

 上川田城は、利根川西岸の比高50m程の段丘上に築かれている。東先端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を一列に並べ、主郭の南側には南郭を置いた縄張りとなっている。主郭と南郭との間には空堀が穿たれ、薮がひどいが堀底に降りると堀の東端部は規模が大きいことがわかる。主郭は外周に一段低く帯曲輪を廻らし、東端部に一段低く腰曲輪を置いている。主郭の西側には、二ノ郭との間を分断する深い堀切が穿たれているが、北半分しか残っていない。ニノ郭も西側に三ノ郭との間の堀切がわずかに残るが、これも北半分しか残っていない。三ノ郭は宅地になっており、改変されている。この他、南郭から北に上る道の脇に土塁らしきものが見られ、虎口の土塁であった可能性がある。上川田城は、広い城域で遺構も部分的によく残るが、多くが耕作放棄地となっており全体に薮がひどい。特に主郭先端や主郭の堀切付近は激薮で糖鎖が大変である。史跡として整備してくれるとよいのだが・・・。
虎口の土塁?→IMG_9645.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.649639/139.015718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


読む年表 利根沼田の歴史

読む年表 利根沼田の歴史

  • 作者: 金子蘆城
  • 出版社/メーカー: 上毛新聞社 出版部
  • 発売日: 2016/11/24
  • メディア: 単行本


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川田城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9533.JPG←主郭
 川田城は、下川田城とも言い、沼田城主沼田氏の庶流川田氏の居城である。沼田氏系図によれば、沼田景久の子、景信が川田氏を称したのが始まりとされ、その後、信光・信清・光清・光行と続いたとされる。1552年の小田原北条氏による沼田進攻により川田氏は滅亡したと考えられている。その後、天文年間以降は山名義季が城主であったが、1582年に武田勝頼・織田信長が相次いで滅びると、徳川家康との天正壬午の乱を経て、上野の大半が北条氏の勢力下となった。そして北条氏が中山城を築いて拠点化すると、川田衆に動揺が走り、北条方へ離反する者が増えた責めを負って山名氏は沼田へ移され、替わって禰津幸直が城主となった。沼田城の西の守りとして、北上州を押さえる真田氏と、上州の完全制圧を目指す北条勢氏との間での激戦地となり、山名主水(義季の子)ほか地侍が多く討死にした。1590年に北条氏が滅亡すると、真田信幸が沼田城主となり、一領国一城により廃城となったと言う。

 川田城は、利根川西岸の比高20m程の段丘上に築かれている。主郭は民家の裏にあり、訪城にはこのお宅の許可が必要だが、解説板が立っているぐらいなので、声掛けすれば快く了解頂ける。五角形の主郭の周囲に空堀を巡らし、更に帯曲輪を築き、東には半月形の小郭を置いている。しかし北辺以外の主郭空堀はかなり湮滅しており、主郭の南も東もわずかな段差しか残っていない。北側の堀・帯曲輪はよく残るが、薮がひどくて形状把握が困難である。西側は堀跡がややはっきり残っている様である。激戦が行われたとは信じられないほど小規模で単純な城であるが、それでも戦国期の歴史に名を残している。
 尚、東の小郭に建つ薬師堂の奥には、戦国後期の沼田・吾妻の歴史を綴った『加沢記』の著者、加沢平次左衛門の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.631767/139.031446/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


真田三代 その強さの秘密に迫る! (幸隆・昌幸・幸村 戦いの系譜)

真田三代 その強さの秘密に迫る! (幸隆・昌幸・幸村 戦いの系譜)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ダイアプレス
  • 発売日: 2014/10/30
  • メディア: ムック



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権田城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9445.JPG←主郭背後の空堀
 権田城は、大戸城主大戸真楽斎の弟大戸但馬守の居城である。伝承によれば、当初は権田淡路守の居城であったとされる。その後、大戸氏の支配となり大戸城主大戸真楽斎の弟大戸但馬守が城主となった。1564年頃、武田氏の家臣真田幸隆が岩櫃城を攻めた時、大戸城主大戸真楽斎と権田城主大戸但馬守は幸隆に降伏し、人質を出して武田氏に降った。1582年、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、徳川家康との天正壬午の乱を経て、上野一国の支配権を狙って小田原北条氏の勢威がこの地にまで及んできた。吾妻を領有して北条氏に抗していた真田昌幸の岩櫃城を攻撃するため、その前哨戦が三ノ倉で始まったとされ、真田方であった大戸城(手子丸城)主大戸真楽斎・権田城主大戸但馬守兄弟は三ノ倉で北条勢を迎撃したが、多勢に無勢で大戸城まで退き、そこで激戦の末討死した。1590年に北条氏が滅亡すると、関東に入部した徳川家康の家臣松平近正が5000石で三ノ倉城主となり、権田城もその支配下となったと考えられる。

 権田城は、烏川の北岸、鉄火集落背後の標高556mの丘陵上に築かれている。最高所に方形の主郭を置き、その前後を空堀で分断し、南に伸びる斜面に沿って段々に曲輪を築いている。城内はほとんど畑となっているため、遺構の細部が失われているので、城域は明確ではない。『境目の山城と館 上野編』によれば概ね5つの曲輪で構成され、主郭から先端の5郭までの東側に大きな空堀が穿たれて、鉄火集落側との分断を図っている。南端付近の曲輪は耕作放棄地となっていて、深い薮に埋もれている。権田城は、緩斜地を利用した城で、要害性よりも居住性・当地拠点としての機能を優先した城だった様である。縄張りとしては少々面白みに欠ける。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.447989/138.776615/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国北条氏五代 (中世武士選書)

戦国北条氏五代 (中世武士選書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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大明神山の砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9436.JPG←主郭下方の2本の円弧状堀切
 大明神山の砦は、駒形城とも呼ばれ、歴史不詳の城砦である。確証はないが、吾妻を領有していた真田昌幸が、1582年から始まった小田原北条氏の侵攻に備えて築いたものと考えられている。烏川を望む断崖の上にあり、烽火台としても利用されたと言う。戦国時代には麓に浅間寺があり、そこの修験者達がこの城の烽火師を務めたと伝えられる。隣接する天狗山の砦と併せて、別城一郭を為している。

 大明神山の砦は、標高570m、比高80mの山上に築かれている。山麓に浅間神社があり、その裏から遊歩道が整備されているので訪城はたやすい。小規模な城ではあるが、天狗山の砦よりも一回り大きく、普請も徹底されている。頂部の主郭には西と南に土塁が築かれ、主郭の南西には合計4本の堀切が穿たれている。1本目は、主郭の下方を南から西側まで横堀となって廻らされている。2本目は南西尾根に円弧状に穿たれており、1本目との間に馬蹄形のニノ郭を置いて、堀底への防御陣地としている。2本目の更に外側に穿たれた2本の堀切は、間に方形の小郭を置いているが、堀切はいずれも浅い。また1本目と2本目の堀切の東端部は腰曲輪となり、浅間神社から伸びる大手道を防衛する曲輪群として機能している。この他、主郭の北側下方にも小郭が置かれている様である。
 標高は低いが烏川沿いの街道監視に好適な大明神山の砦は、天狗山の砦より大型で防御も固い。天狗山の砦はより高所にあるが小規模であり、大明神山の砦の情報をより遠方に伝達する烽火台として機能したのであろう。両者の機能の違いがその縄張りから推測できる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.444986/138.768632/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


真田幸綱・昌幸・信幸・信繁―戦国を生き抜いた真田氏三代の歴史

真田幸綱・昌幸・信幸・信繁―戦国を生き抜いた真田氏三代の歴史

  • 作者: 柴辻 俊六
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2015/11
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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天狗山の砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9339.JPG←二ノ郭と主郭
 天狗山の砦は、歴史不詳の城砦である。確証はないが、吾妻を領有していた真田昌幸が、1582年から始まった小田原北条氏の侵攻に備えて築いたものと考えられている。隣接する大明神山の砦と併せて、別城一郭を為している。
 天狗山の砦は、標高600m、比高120mの山上に築かれている。主郭に角落山権現社が祀られているため山麓から参道があるとされるが、実際には参道とは名ばかりで、急な尾根筋の直登で階段もなく、わずかな踏み跡だけしかない。苦労して尾根を登っていくと、標高570m付近で東尾根の緩斜地となり、大手の曲輪であったと考えられる。更に登っていくと、数段の腰曲輪の先に主郭がそびえているのが見えてくる。主郭は三角形の曲輪で、周囲に低土塁を築き、更に外周に帯曲輪を廻らしている。主郭南西には二ノ郭が置かれ、小堀切で南西の尾根を区画している。その先は自然地形の尾根である。遺構としてはこれだけで、極めて簡素な城砦である。標高は低いが烏川沿いの街道監視に好適な大明神山の砦が、より大型で防御が固いのに対して、天狗山の砦はその規模・構造から考えて岩櫃城方面への烽火台として機能したのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.440032/138.767281/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ぶらり真田昌幸・信繁の城跡&温泉めぐり (ご当地戦国武将・旅行ガイドブック)

ぶらり真田昌幸・信繁の城跡&温泉めぐり (ご当地戦国武将・旅行ガイドブック)

  • 作者: マコト出版
  • 出版社/メーカー: マコト出版
  • 発売日: 2016/08/16
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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鑰掛城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9280.JPG←堀切と主郭切岸
 鑰(かぎ)掛城は、歴史不詳の城である。一説には三ノ倉城の詰城であったとも、また別説では相間川沿いに信濃に抜ける善光寺道と称する間道の押さえの砦であったとも推測されている。

 鑰掛城は、相間川の流れる渓谷の北にそびえる標高690m、比高140mの山上に築かれている。ここから烏川沿いの平地まで直線距離でも3km以上もあり、全く眺望も効かない奥地に立地している。相間川沿いの未舗装の林道(途中から未舗装)の先に城まで伸びる分岐の林道があり、そこを歩いて登っていけば城跡まで行くことができる。苦労はしないで済むが、残念ながらこの林道が城内を走っており、堀切や腰曲輪が破壊を受けてしまっている。基本的には尾根に沿って東西に曲輪を連ね、堀切で各曲輪を分断した連郭式の縄張りである。頂部に主郭があり、祠が数基散在している。土塁はなく、それほど大きな曲輪ではない。主郭の東には堀切を挟んで二ノ郭があり、二ノ郭の東にも先端の曲輪があるが、前述の林道が先端曲輪の基部を走っており、やや改変されている。基部の北側に竪堀が確認できる。また主郭の南にも5郭があるが、ここも林道が貫通している。主郭背後(西側)には堀切を挟んで数段に分かれた三ノ郭群があり、西端が最も高い曲輪となっている。その背後にも堀切・四ノ郭・堀切と続くが、ここの2本の堀切は林道を通すために掘り広げられてしまっている。大きな城ではなく、縄張りも比較的単純であるが、一定の籠城戦には堪えられる程度の普請はされていた様である。

 さて、集落もない寂れた間道の上にある鑰掛城は、一体何のために築かれたのだろうか?西股総生氏の『「城取り」の軍事学』という著書では、街道との関係では読み解けない場所にある城について、「敵に不本意な兵力運用を強要するための戦術拠点」との見方を示している。即ち、侵攻軍がわざわざ兵力を割いて、このように街道筋から外れた城を攻略せざるを得なくすることで、侵攻速度と兵力集中を遅らせる効果が期待できると推測している。鑰掛城もこうした役割を負っていたものだろうか?或いは、村人たちの逃げ込み城であった可能性も考えられる。鑰掛城は、街道から外れた奥地の城の役割を考察する上で好適な材料である。
林道で破壊された三ノ郭堀切→IMG_9306.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.416534/138.752818/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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三ノ倉城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9219.JPG←土塁が築かれた主郭
 三ノ倉城は、栗崎城とも言い、大戸城(手子丸城)の支城である。木部氏か浦野氏(大戸氏)が築いたと推測されるが定かではない。三ノ倉地区は、室町期には木部氏の支配下にあり、麓の全透院は1489年に木部新九郎が開基しているので、この時には三ノ倉城が築かれていた可能性がある。その後、この地は大戸の浦野氏の支配下となり、その支城となったと推測される。北西にある権田城も浦野氏の一族が城主であった。1582年、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、徳川家康との天正壬午の乱を経て、上野一国の支配権を狙って小田原北条氏の勢威がこの地にまで及んできた。吾妻を領有して北条氏に抗していた真田昌幸の岩櫃城を攻撃するため、その前哨戦が三ノ倉で始まったとされ、真田方であった大戸城(手子丸城)主大戸真楽斎・権田城主大戸但馬守兄弟は三ノ倉で北条勢を迎撃したが、多勢に無勢で大戸城まで退き、そこで激戦の末討死した。その後、三ノ倉城には北条氏の家臣小笠原長範が入った。1590年に北条氏が滅亡すると、関東に入部した徳川家康の家臣松平近正が5000石で三ノ倉城主となった。1600年の関ヶ原合戦の際、近正は伏見城の守備に就いて、鳥居元忠と共に西軍の攻撃を受けて討死した。近正の子・一生は、父の軍功によって一万石に加増され、下野国板橋へ転封となり、三ノ倉城は廃城となった。

 三ノ倉城は、標高460m、比高60m程の全透院の裏山に築かれている。小規模な城で、細長い長方形の主郭と、その周囲の1~2段の帯曲輪が遺構のほぼ全てである。主郭は、北東部に虎口を設け、北面以外の三方は土塁で防御している。帯曲輪は、東と南の2辺では2段築かれている。南の尾根には大手の段が見られ、城の背後に当たる西尾根には鞍部に堀切と、尾根上に小堀切1条が穿たれている。鞍部の堀切の外側には桝形虎口が築かれていた様である。又、全透院には居館があったとされる。
北条氏の支配を経て近世まで使われた城にしては、古い形態を留め、しかも規模も普請もささやかに過ぎ、歴史と城の縄張りがアンマッチである。山上の城はあくまで詰城で、基本的には山麓居館が城の本体として機能していたと思われる。
東側の2段の帯曲輪→IMG_9203.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.419970/138.801913/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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原城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9129.JPG←豪快な円弧状の二重空堀
 原城は、戦国後期にこの地の土豪長壁道観が、賓将の斎藤半兵衛竜政と共に築いた城と伝えられている。竜政は、美濃の蝮と恐れられた美濃の戦国大名、斎藤道三の末流とされるが、確かなことは不明。どのような経緯でいつ頃この地に移って来たかもよくわからないが、この付近の斎度原は、元亀年間(1570~73年)に竜政の提唱によって開拓されたと伝えられることから、1567年に織田信長によって美濃が攻略されて斎藤竜興が没落した際に、上野に逃れてきたものであろうか?その他の原城の歴史については、不明である。

 原城は、標高428mの段丘西縁部に築かれている。台地から大きな空堀で分断された、南北に細長い独立堡塁を主郭としている。主郭とは言うものの、郭内は傾斜し、居住性はほとんど無い。また東の畑となっている外郭(中屋敷の地名が残る)の南西部に、円弧状に土塁が伸び、その南側にも大空堀が穿たれて、大型の円弧状二重空掘となっている。中間土塁の西端部も小さな独立堡塁となっており、背後を土塁で防御している。この他、外郭(中屋敷)の北辺には土塁が僅かに残り、その北側は水路が流れる堀となっており、主郭の北側まで掘り切られている。小規模な城ではあるが豪快な二重空堀があり、見応えがある。縄張りも特異で、貴重な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.401959/138.828285/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)

斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)

  • 作者: 横山住雄
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/09/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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松山城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9072.JPG←堀切と二ノ郭
 松山城は、1582年に小田原北条氏の家臣上田信善(信義)によって新造された城である。時に武田勝頼、織田信長が相次いで滅びると、徳川家康との天正壬午の乱を経て、権力の空白地帯となった上野国は北条氏の勢力下に入った。しかし吾妻郡には依然として真田昌幸が独立勢力として割拠し、北条氏の上野全域制圧にとって目の上のたんこぶとなっていた。そこで武州松山城主上田安独斎朝直の子、信善にこの城を築かせ、吾妻真田領の大戸城・岩櫃城攻略の足掛かりとしたと言う。しかし北条氏は真田方の頑強な抵抗に遭い、岩櫃城を攻略できないまま1590年の小田原の役を迎えることとなった。前田・上杉連合軍による北国勢が来襲し、松山城は無血開城したと言う。尚、松山城の名は上田氏の本拠であった武州松山城に由来している。

 松山城は、滑川北岸の標高265m、比高50m程の山上に築かれている。北条方が真田攻撃の橋頭堡とした城にしては、コンパクトで簡素な縄張りの城となっている。金比羅神社の鎮座する山頂が主郭で、堀切を挟んで東側にあるのが二ノ郭である。堀切の南側は二ノ郭に入る桝形虎口となっている。主郭・二ノ郭の南斜面から東を回って北斜面まで、段々に腰曲輪群が築かれており、下野皆川城の様な縄張りである。南東尾根の段曲輪基部には堀切も穿たれている。松山城の築かれた山と北の山地とを結ぶ尾根鞍部はほとんど自然地形のままであるが、西斜面に二重竪堀が落ちている。
 縄張りとしては以上で、大した技巧性もなく大きな城でもない。しかし、北条氏は堅固な鷹留城を敢えて使わずに簡素な城砦である松山城をわざわざ新たに築いて利用したのである。宮坂氏も指摘している通り、鷹留城では街道(=軍道)から奥まっているため軍勢の集結に不便で、積極的な攻勢に出るに当たっては適さなかったことが考えられよう。この城は、戦国期の作戦面での城の使い方を考察する上で格好の材料を提供してくれている。
北斜面の腰曲輪→IMG_9043.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.388366/138.884976/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/05/01
  • メディア: 単行本


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上里見城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8996.JPG←墓地裏の堀跡
 上里見城は、歴史不詳の城である。一説には里見義時の本拠の要害城であったとも言われるが、確証はない。里見義時は南北朝期の武将とされ、1349年に吾妻に進攻して吾妻太郎行盛を討ったが、1357年に新田義宗の味方をして上杉憲顕によって滅ぼされたと言われる。しかし里見義時なる武将の実在は確認されておらず、詳細は不明である。但し、里見氏の一族の者が南北朝期にこの地に拠っていたことは十分あり得る話で、上里見城も里見氏関連の城であった可能性がある。
 上里見城は、烏川南方の丘陵中腹にあり、街道を見下ろす要地にある。北方には松山城鷹留城が良く見える。城跡は墓地や畑となってかなり改変されており、あまり城跡らしさを感じられないが、墓地の北側は窪地になっており、堀跡であるらしい。そのほかは明確な遺構はなく、段々になった平場が曲輪と推測されるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.376722/138.885448/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国大名の軍勢

戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国大名の軍勢

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2012/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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雉郷城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8935.JPG←主郭の堀切
 雉郷城は、伝承等不明の城である。箕輪城主長野業政に属した里見河内守が築城したと言われ、里見城の詰城であったともされる。いずれにしても鷹留城防衛の重要拠点かつ最前線で、1566年の武田信玄による箕輪城攻撃の際、雉郷・里見両城は武田勢の先鋒によって真っ先に攻略されたと言われている。

 雉郷城は、烏川南方に秋間地区との間に横たわる山稜上の標高373.7mの峰に築かれている。城の北中腹まで車道が通っており、登道も付いているので簡単に登ることができる。車道の通っている北の広幅の尾根も城域で、道路の北側は最下段の曲輪で現在は堆肥置き場となり、道路の南側は3段程に分かれた梅林となっている。その上には中央に虎口を設けた小さな土塁があり、その先を登っていくと主城部に至る。基本的には東西に伸びる山稜上に曲輪を連ね、それぞれ堀切で分断した連郭式の縄張りとなっている。西から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭…と連ね、東端は6郭となる。主郭の北側下方には7郭があり、前面に堀切が穿たれている。7郭から竪堀を挟んで東に腰曲輪が長く伸び、その東端は二ノ郭~三ノ郭間の堀切が竪堀となって腰曲輪を貫通して落ちている。その西側には竪堀道から登る桝形虎口が形成され、下段の腰曲輪に通じている。前述の堀切から落ちた竪堀が腰曲輪を貫通している部分は、雰囲気が朝日山城によく似ており、武田氏による改修の可能性も考えられる。雉郷城は、標柱や解説板など城を示すものはないが、遺構がよく残る上、城内は薮払いされてきれいに整備されている。地主さんに感謝!である。
竪堀道から登る桝形虎口→IMG_8974.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.360688/138.894439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本


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里見城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8847.JPG←主郭東側の堀切
 里見城は、戦国期にこの地を領した里見氏の居城である。永禄年間(1558~70年)頃に里見河内守が箕輪城主長野業政に属して、この城を築いたらしい。河内守は、安房里見氏の一族であったとも言われるが、系譜は不明。一説には、河内守の名は宗義、その父は里見家連と言い、家連は東上州の仁田山城主であったが上杉謙信に城を攻められ討死し、子の宗義はこの地に逃れて里見城を築いたとも言われる。いずれにしても1566年、里見城は箕輪城落城に先立って武田勢の攻撃を受け、落城したとされる。
 尚、里見城の築城には別説があり、新田義重の子義俊が新田氏の所領である里見郷に分封されて里見氏を称し、里見城を築いたとも言われるが、確証はない。

 里見城は、里見川南岸の標高180m、比高30mの丘陵先端部に築かれている。西端に主郭があり、東側に土塁と堀切を築いて台地基部を分断している。主郭内には廃屋があり、城址標柱と解説板が立っている。主郭の南辺には高さ数mの土塁が築かれ、その下には腰曲輪が築かれている。この他、主郭の東側の平場も曲輪であったと思われるが、耕地化で改変されているので、どこまでが城域だったのかはよくわからない。里見城は、主郭部の遺構はよく残っているものの、単純かつささやかなもので、小土豪の城であったと推測される。それを考えると、里見河内の出自(安房里見氏の出)というのも、少々怪しげに思える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.359410/138.914695/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


房総里見氏の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ 9)

房総里見氏の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ 9)

  • 作者: 小高春雄
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/08/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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神戸の砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8822.JPG←高台となった戸榛名神社境内
 神戸の砦は、箕輪城防衛の為に築かれた長野氏の支城である。戸榛名神社の社人桜沢伊賀守が守っていた。箕輪城の第2の防衛線が、高浜の砦を中心とした住吉城・七曲りの砦・神戸の砦・駒寄の砦という烏川北岸の段丘崖に沿ったラインに構築されていたとされる。1566年の武田信玄による箕輪城・鷹留城攻撃の際、桜沢氏は武田勢に降伏したが、社殿は焼き払われ砦は廃されたと言う。
 神戸の砦は、烏川北岸の標高210m、比高55mの段丘上に築かれている。戸榛名神社の社殿を中心とした平地が砦跡であったらしいが、周囲は一面の耕作放棄地で、深い薮に覆われて全く旧状がわからない。戸榛名神社のところだけ高台となっており、基本的には神社を武装化した簡素な砦であったと思われる。言われない限り、ここが砦跡とは誰もわからないだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.375167/138.916991/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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高浜の砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8800.JPG←北側の堀切
 高浜の砦は、箕輪城防衛の為に築かれた長野氏の支城である。守将は匂坂常陸介長信と伝えられる。長野氏の防衛の最前線は、雉郷城を中核とした中核とした秋間境の山嶺に置き、第2の防衛線を烏川北岸の段丘崖に沿った、高浜の砦を中心とした住吉城・七曲りの砦・神戸の砦・駒寄の砦のラインに置かれていたとされる。1566年に始まった武田信玄の箕輪城攻撃は、前哨戦としてまず雉郷城を、次いで高浜の砦への奇襲から開始された。安中・松井田両城を攻略した信玄は、箕輪・鷹留両城間の防衛線を分断するため、那波無理之助宗安に高浜の砦への奇襲を命じた。宗安は、秋間の諸城に次いで雉郷城を突破して里見城に達し、更に烏川を渡河して不意に高浜の砦を攻撃した。時に守将匂坂長信は箕輪城にあって不在であり、小勢の砦は陥落した。宗安は砦に火を放って白岩へ進撃したが、箕輪から出撃した安藤九郎左衛門勝道と交戦し、激戦の末に勝道を討ち取ったが、続いて駆けつけた青柳金王・下田大膳らの援軍に敗れて退却した。翌日午後、武田勢の飯富・小宮山両氏の部隊が白岩に進出したことで箕輪・鷹留両城は分断され、孤立した鷹留城は落城した。この後、箕輪城を攻略し長野業盛を滅ぼした信玄は、高浜の砦に木暮但馬守を守将として配置したと言う。

 高浜の砦は、烏川北岸の標高180m、比高30mの段丘上に築かれている。西側は高浜川に削られた急崖に面しており、要害地形であることがよく分かる。砦内部は耕地と民家になっており、かなり改変されているため、内部がどの様な構造になっていたのかは現状からではわかりにくい。しかし北側の竹林の中には北辺の土塁と堀切がよく残っている。この堀切は、東半分は民家・畑となってほとんど湮滅しているが、僅かな窪地となっており、堀の名残を残している。また砦の東側を通る県道137号線は、かつての東の堀跡を通っており、道路の東側は低地となっている。以上が遺構の現状であるが、高浜の砦は要害地形とは言うものの、郭内はだだっ広い平場が広がっており、これだけ広いとある程度の兵数を籠めないと到底守りきれないだろう。箕輪・鷹留両城の間の防衛線であったと同時に、兵站拠点でもあったものだろうか。この砦の役割について少々考えさせられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.368533/138.925231/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


箕輪城と長野氏 (中世武士選書)

箕輪城と長野氏 (中世武士選書)

  • 作者: 近藤 義雄
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2010/12
  • メディア: 単行本


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内出城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8529.JPG←宅地の中にわずかに残る堀跡
 内出城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では秋間地域城の核堡とし、吉良氏・飽間氏の居城であったとしている。即ち、奥州探題であった吉良治家は、鎌倉公方足利基氏に召還されて関東に入り、1356~65年頃に上野国碓氷郡飽間郷に移って、内出城に拠ったとされる。これは、飽間郷には新田義宗の挙兵に応じた南朝方の飽間三郎が勢力を持っていたため、基氏は飽間氏に対抗させるため吉良氏を内出城に入れたというものである。治家の孫の頼氏が世田谷城を築いて飽間を去るまで内出城が吉良氏の本拠で、その後は茶臼山城の飽間氏が内出城に移って居城とし、明応年間(1492~1501年)に飽間氏が讃岐国丸亀城に移ると廃城になったとされる。しかし、足利一門の中でも家格の高い吉良氏の居城としては内出城はあまりに小さすぎ、『安中市史』の伝承には無理があるように思う。又、「地域城」と言う概念にも私は懐疑的で、城砦群や支城群と何が異なるのかさっぱりわからない。

 内出城は、久保川北岸の比高30m程の段丘上に築かれている。この付近に長野新幹線の安中榛名駅ができたため、大々的に宅地造成され、城址一帯は住宅地に変貌してしまっている。従って遺構はほとんど残っていないが、地勢は往時のままで、各所の段差や腰曲輪状の平場など、城の雰囲気が良く残っている。北東部にはわずかに堀跡も残っている。また南斜面の切岸と畑になった腰曲輪も遺構の様である。ささやかではあるが城の名残が感じられるのは良かった。解説板でもあれば更に良かったのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.355150/138.850772/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=v


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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後閑城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8473.JPG←主郭北側の二重堀切
 後閑城は、信濃出身の依田忠政によって、嘉吉・文安年間(1441~49年)に築かれたと言われている。以後、約90年に渡って依田氏が城主であったが、1538年、孫の光慶の時に板鼻の鷹ノ巣城に移ったとされる。その後、北条政時が入城したが、1555年に丹生城主新田景純は後閑城を攻略した。1559年、景純は武田信玄に属し、翌60年に上杉謙信が関東に進出すると、甲斐に移ったと言う。翌61年、信玄は国峰城を攻略して小幡信実を国峯城に復帰させると、丹生も信実に与えたらしい。一方、景純は甲斐で亡くなったが、その子信純は信玄の西上州制圧後に後閑城を与えられて後閑氏を称した。信純には3人の男子がいたらしく、1578年に長男信重は総社に分家して石倉城主となり下野守を称した。翌年、信純が死去すると次男重政が後閑氏を継ぎ、3男信久は信玄の命で上条家を継いだ。1582年に武田氏が滅び、そのわずか3ヶ月後に織田信長の横死によって上野を支配していた滝川一益が没落すると、上野の大半は小田原北条氏の支配下に入り、信重は厩橋城主北条高広に従い、後閑重政・信久兄弟は北条氏に服属し、信久も後閑の姓に戻り、両後閑と称された。1584年、高広が北条氏直に降って大胡城に移ると、氏直は両後閑に厩橋在番を命じた。1590年の小田原の役の際には、両後閑氏は小田原城に籠城し、総社の後閑又右衛門は松井田城の守将大道寺政繁の指揮下に入った。北条氏が滅亡すると、後閑氏も没落し、後閑城は廃城となった。
 尚、後閑信純・信久については、1569年の武田氏による駿河攻撃の際、信純・信久共に今川勢との戦いで討死し、信久の子真純が後閑氏を継いだと言う説もある様だ。いずれにしても後閑氏については、その出自も含めて謎が多い。

 後閑城は、後閑川の東岸に張り出した、標高277m、比高87mの山上に築かれている。城跡は大半が城址公園となっているが、適度な公園化で改変は限定的で、全体に遺構がよく残っている。山頂の主郭を中心に、西・南・南東・東・北の各尾根に曲輪群を配して防御を固めている。まず主郭の東直下には東郭が築かれ、そこから南東に大堀切を挟んで南東尾根に配された二ノ郭群がある。ニノ郭は大型の櫓台があり、ニノ郭先端には小堀切が穿たれ、更に曲輪群が数段続いている。一方、主郭の西側には大型の3段の曲輪で構成された西郭群が築かれ、更にその下方の竹薮の中にも腰曲輪群が築かれている。腰曲輪群には残念ながら、軽のバンやたくさんのタイヤが不法投棄されている。西第3郭から南尾根に向かって腰曲輪が伸び、南郭の大堀切に繋がっている。南郭も最上段の平場の他に、西から南にかけて広い平場が広がっている。主郭の北には大きな二重堀切が穿たれ、その北に北郭が築かれている。北郭の西斜面には5段程の曲輪が段々に築かれ、両側を堀切から落ちる大竪堀で分断している。また前述の二重堀切の中間土塁からは、竪堀に沿って竪土塁が落ちている。北郭の北に堀切を介して北尾根の外郭があり、先端に小堀切が穿たれて城域が終わっている。この他、東郭の下方に東郭群があり、段曲輪が数段築かれている。
 以上が後閑城の縄張りで、西郭群の下段部と北尾根の外郭以外は全体的に隅々まで薮が伐採されてきれいに整備されている。城址公園と言うと得てして整備しすぎて返って遺構を損壊してしまうことが少なくないが、ここでは節度を持った公園化により、先端の段曲輪群などは薮払いされているが、歩道を無理に作っていないので遺構がよく残っている。妙義山や浅間山などの眺望も素晴らしく、良好で見やすい遺構と相まって素晴らしい城である。
3段の広大な西郭群→IMG_8508.JPG
IMG_8411.JPG←東郭群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329717/138.841760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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小日向城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8292.JPG←べんしょう山と呼ばれる帯曲輪
 小日向城は、小日向の砦とも呼ばれ、歴史不詳の城である。武田氏支配時代に松井田城の北東の出城として築かれたのではないかとの説が提起されている。尚、主郭には倉屋敷の名が残っているが、1786年に幕令により城跡に郷倉が建てられたからと言う。

 小日向城は、九十九川北側の微高地に築かれている。現在はほとんどが宅地となり、ソーラーパネルも敷地内に多数設置されており、城跡の雰囲気は乏しくなっている。しかし周囲よりは高くなっており、主郭に当たる民家の北側には空堀を挟んで「べんしょう山」と呼ばれる大土塁の様な帯曲輪が東西に長く築かれている。但しものすごい竹薮で踏査が大変である。べんしょう山の東端には虎口を兼ねたと思われる堀切が穿たれ、帯曲輪を分断している。城の中心部は倉屋敷の名の残る主郭と、水路を挟んで東側に三角形に張り出したニノ郭であるが、主郭の西側にあった土塁はソーラーパネル設置でほとんど削られ、ニノ郭もほぼ大半がソーラーパネルで埋め尽くされている。かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.320710/138.829186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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名山城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8217.JPG←主郭の土塁
 名山城は、歴史不詳の城である。安中忠政が松井田城を改修した後に、安中・松井田両城の繋ぎの城として築かれたのではないかと推測されている。
 名山城は、碓氷川と九十九川に挟まれた標高290m、比高50mの山上に築かれている。登道はないので、西側を通る小道の脇から薮をかき分けて登城した。低土塁で囲まれた方形の主郭を山頂に置き、南から東にかけて2段の腰曲輪が廻らされている。その東斜面に更に2段の腰曲輪が築かれている。北側には段曲輪と堀切があり、その北側は自然地形の尾根となっている。堀切の西側には腰曲輪がある。一方、主郭周囲の腰曲輪から堀切を挟んで南東に大手の尾根があり、細長い大手郭群が築かれている。大手先端には段曲輪群が築かれて登り口を防衛しているが、この段曲輪群は『日本城郭大系』『境目の山城と館 上野編』のいずれの縄張図にも描かれていない。名山城は、遺構は比較的ささやかなもので、全体に薮も多く、この地域の城の中では少々見劣りする。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.310197/138.821955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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人見城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8135.JPG←互違いになった堀の十字路
 人見城は、南北朝期に足利方の武将であった人見四郎恩和の館であったものを、戦国期に改修したものと考えられている。但し、人見四郎恩和の伝承については検討を要する。おそらく人見四郎恩阿のことを言っているのだと思うが、恩阿は武蔵七党猪俣党の一流で、武蔵国の住人であった。その事績は人見氏館の項に記載する。本拠が武蔵であった土豪なので、西上野に館を構えていたとは考えにくい。おそらく人見の郷名に基づく仮託であろう。

 人見城は、柳瀬川南岸の比高40m程の段丘の縁に築かれている。少々変わった縄張りで、ほぼ方形に区画された曲輪を横一線に連ね、北側斜面にそれらより低く長方形の曲輪を並べている。曲輪はいずれも空堀で分断され、段丘上の曲輪と斜面の曲輪とはまるで碁盤の目の様に整然と配置されているので、空堀の十字路ができている。しかし堀のクロス部は僅かに互違いになって横矢を掛けている。縦の空堀は斜面を竪堀となって落ちている。曲輪には土塁も築かれ、特に北斜面に横一線に並んだ曲輪群は背後が大土塁となっている。また主郭だけ、北側に堀を挟んだ小さな出曲輪と、その右方に張り出した塁線があり、より防御を固めていた様である。主郭を始めとする段丘上の曲輪群は、北側の遺構は残っているが、南半分は宅地などになって改変されており、空堀も湮滅している。この他、曲輪群の東に馬出しとされる独立堡塁が築かれている。その東側は斜面となっており、腰曲輪らしい平場があり、その東に細流が落ちている。ここには鶯井戸と呼ばれる湧水点がある。
 人見城は、北側遺構は完存し、少々薮っぽいものの地主さんと地元の方たちの努力で一応の散策路が整備されている。尚、解説板にある城のイラストで、馬出しに馬が描かれているのには笑った。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.292645/138.830838/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記(一) (岩波文庫)

太平記(一) (岩波文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/04/17
  • メディア: 文庫



タグ:中世崖端城
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丹生東城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8070.JPG←東側の腰曲輪跡らしい平場
 丹生東城は、丹生城の出城である。しかし城の歴史ははっきりせず、いつの時代のどの城主によって築かれたのか、詳細は不明である。
 丹生東城は、丹生湖の西側にある標高245m、比高35m程の丘陵上に築かれている。残念ながら、10数年前の耕地整理で破壊され、現在は地勢以外に遺構を留めていない。この地は城山と呼ばれ、畑となった丘陵の東と北に、一段低く帯状に平場が廻っているが、これがかつての堀や腰曲輪の跡であるらしい。耕地整理前の発掘調査では、ここに畝堀が見つかっているというので、小田原北条氏の上州進出後に関連する勢力によって改修された可能性も考えられる。いずれにしても現在では、現地に標柱も何もなく、極めて残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.266248/138.824165/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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丹生城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7902.JPG←主郭背後の二重堀切
 丹生城は、岩松氏が築いたと推測されている。後閑氏の系図では、新田義貞の末弟に新田四郎義重なる人物がいて、足利方として戦功を挙げて丹生を与えられたと言うが、そもそも新田四郎義重の実在が確認できない。しかも新田一族の多くが敵対し続けた足利氏に、義重だけが属したと言うのも奇異である。後閑氏による系図の創作であろう。実際には岩松満長が鎌倉公方足利持氏から丹生郷を与えられて丹生城を築いたと考えられている。岩松氏は、新田氏と足利氏の両方の流れを汲み、足利氏に従って軍功を挙げ、新田嫡流家が南北朝内乱で滅亡すると、新田氏に変わって新田荘を支配し、後には新田姓を称した。1555年に丹生城主新田景純は後閑城を攻略し、59年には武田信玄に属し、翌60年に上杉謙信が関東に進出すると、甲斐に移ったと言う。翌61年、信玄は国峰城を攻略して小幡信実を国峯城に復帰させると、丹生も信実に与えたらしい。一方、景純は甲斐で亡くなったが、その子信純は信玄の西上州制圧後に後閑城を与えられて後閑氏を称した。以後は後閑城が本拠となり、丹生城の帰趨は不明である。

 丹生城は、標高290m、比高90mの山上に築かれている。北尾根の先に車道が通っており、案内板が出ているので、訪城は容易である。城内は一部の曲輪が整備されているものの、少々薮が多い。広い城域の城で、山頂に主郭を置き、主郭周囲に腰曲輪を廻らし、南・南南東・南東の3つの尾根に曲輪群を築いている。ところどころ堀切が穿たれているが、規模は大きくなく、全面に土塁を盛ってちょっとした障壁の様な形で築かれているものもある。南東の先端のピークには物見曲輪が築かれている。主郭の北側腰曲輪から東に伸びる尾根が大手筋で、切り通し状の坂虎口や曲輪の先の長い尾根に、4~5本の堀切が穿たれている。この尾根は、一部が墓地などに改変されているが、堀切はよく残っている。この他、主郭の背後には二重堀切が穿たれ、その先に二ノ郭群、三ノ郭が続き、また小さな二重堀切を挟んで四ノ郭があり、その先を北端の堀切が穿って城域が終わっている。全体に多数かつ比較的大きな腰曲輪群が築かれているが、横矢掛かりはほとんど無く、あまり技巧性は感じさせず、面白みにはやや欠ける。ただ二重堀切が多用されているところなどは、武田氏勢力による普請の可能性を感じさせる(静岡などは、二重堀切と言うとほとんど武田氏の専売特許の様になっていたので)。
大手尾根に残る堀切→IMG_8031.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.264380/138.815260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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長井坂城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7035.JPG←主郭・二ノ郭間を通る沼田街道
 長井坂城は、沼田城攻略の拠点となった城である。1560年、関東に出陣した上杉謙信は、沼田城攻略に当たり、沼田を迂回して長井坂に布陣したとされる。この当時、小田原北条氏が関東管領山内上杉氏を関東から駆逐したことで、上野の国衆の多くが北条氏に降っていた。沼田氏では家中で内訌があり、これに北条氏が介入して前当主の沼田顕泰を越後に逐い、北条綱成の次男が入嗣して沼田康元となって沼田城を守備していた。しかし謙信の出馬によって形勢不利と判断した康元は沼田城から退去し、沼田城は謙信に攻略された。謙信死後の1580年、沼田城を攻略した武田氏の部将真田昌幸は赤城西麓を南進し、長井坂城を守備していた白井長尾氏の家臣牧弥六郎・須賀加賀守を駆逐し、これを占領した。1582年10月、武田氏滅亡・本能寺の変後に鉢形城主北条氏邦が5000余騎で長井坂城を囲み、真田方守将の恩田越前守・下沼田豊前守は奮戦の後脱出した。その後、長井坂城は北条氏の属城となり、氏邦の家臣猪俣邦憲が在城して、沼田城攻撃の拠点としたと言う。

 長井坂城は、利根川と永井川に刻まれた比高210mの急崖の上に築かれた城である。棚下砦と同じ段丘が、北端に突き出た部分に当たる。崖端城の通例と異なり、方形郭を並立させた珍しい縄張りとなっている。しかも城の中央部を沼田街道が貫通しており、街道を城内に取り込んだ形態も有している。崖に面した街道西側に主郭を置き、街道東側には二ノ郭を配置している。街道はちょうど2つの曲輪の間の堀底道となっている。主郭も二ノ郭も、基本は方形郭であるが、主郭は街道に向かって横矢の張り出しを設け、二ノ郭も南東角に横矢の張り出しを設けている。また主郭は崖側以外の三方に土塁を築き、南東部に空堀に繋がる大型の虎口を設けている。二ノ郭も街道側以外の三方に土塁を築いており、いずれの曲輪も東に広がる平地からの攻撃に対する防御を強く意識している。主郭・二ノ郭の外周には空堀が廻らされ(但し、二ノ郭北側のみ湮滅)、主郭北側には角馬出が配置され、その周囲にも空堀が穿たれている。主郭・二ノ郭の南側には三ノ郭が置かれ、その南側も土塁と空堀で防御している。三ノ郭は中央を街道が貫通しているので、東西で別郭となっているが、相対する虎口が確認できるので、三ノ郭東西は木橋で連結していたと考えられる。木橋を街道上に架けることによって、防衛線にもなるわけである。東三ノ郭の土塁は高さ5m程もある大土塁で、しかも横矢掛かりを持ち、重厚な防衛陣地となっている。三ノ郭の東にも空堀が伸びて台地東端まで掘り切っており、城の中枢部の東から北にかけて四ノ郭を設けている(現地標柱では三の丸だが、四ノ郭が正しいと思う)。この他、北側は断崖なのに腰曲輪も築かれている。以上が長井坂城の縄張りで、畑となっている二ノ郭以外は史跡として整備されているので、薮も少なく遺構が見やすい。横矢掛かりを多数設けた、戦国末期の築城技術を堪能できる。
 尚、縄張図に関しては、『日本城郭大系』のものより『中世城郭事典』のものがより正確である。
主郭南側の空堀→IMG_7120.JPG
IMG_7048.JPG←二ノ郭の横矢掛かりの土塁・空堀
三ノ郭の大土塁→IMG_7063.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.585157/139.065220/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/06/17
  • メディア: 文庫


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棚下砦(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6983.JPG←丸馬出
 棚下砦は、棚下御殿砦とも南雲御殿遺跡とも呼ばれ、上杉謙信に関連する城砦と考えられている。長井坂城津久田城との間に位置し、沼田城から厩橋城に至る要路中間を押さえる砦であったとされる。永禄年間(1558~70年)の北条景広宛上杉輝虎書状に「棚下之寄居」の表記があり、それが棚下砦のことであろうと推測されている。

 棚下砦は、利根川東岸の比高170mの断崖上に築かれている。北と南に深い谷が刻まれた天険の要害そのものの地形にある。遺構も見事で、先がすぼまった防弾形の主郭と、土橋で連結された細長の丸馬出で構成されている。東の車道から歩いていくと、空堀で区画された丸馬出が前面に見えてくる。丸馬出は、北面から東の先端部まで土塁を築き、独立堡塁として機能するように構築されている。馬出外周の空堀は、主郭との間を分断する堀切に接続し、更に主郭北側に回り込む横堀にも屈曲しながら繋がっていて、横矢を掛けている。主郭は東に土塁を築き、中央南寄りに櫓台らしい土壇を設けている。前述の主郭北側の横堀は、途中で竪堀となって落ち、その西側は帯曲輪となって主郭先端まで伸びている。主郭の先端(西端)には物見台があり、眼下には利根川の曲流部が一望できる。この他、丸馬出の東側の平場は、『日本城郭大系』の縄張図によればニノ郭で、東端に土橋の架かった堀切があった様だが、現在は車道が建設されて堀切が破壊されている。棚下砦は小規模な城砦であるが、丸馬出や大きな空堀が見事で、一見の価値がある。
馬出し・主郭周囲の空堀→IMG_6954.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.572630/139.060650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名の山城を歩く

戦国大名の山城を歩く

  • 作者: 小和田 泰経
  • 出版社/メーカー: 新紀元社
  • 発売日: 2019/03/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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津久田城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6946.JPG←城址中心部の現況
 津久田城は、白井長尾氏の支城である。築城時期は不明であるが、永禄年間(1558~70年)に津久田地衆によって築かれたと推測されている。1580年8月、沼田城の真田昌幸は、海野輝幸らに命じて、3千余騎でこの城に迫り、城将牧弥六郎、須田加賀守らを白井城に逐って、津久田城を占領した。1582年に武田氏が滅び、織田信長の重臣滝川一益が上野を与えられると、その甥滝川義太夫が沼田城に入城し、津久田城は白井長尾氏の支配に戻って、牧和泉守が守った。本能寺の変後、一益は神流川合戦で北条氏直に大敗して本領の伊勢に逃れ、その際に沼田城は真田氏に返還された。この時、白井長尾氏は北条氏に帰属し、津久井城も北条氏の支配下に入った。沼田城代となった真田氏の重臣矢沢頼綱は、中山右衛門尉らに津久田城を攻撃させたが、返って敗れ討死したと言う(牧和泉守の奮戦は、猫山城にも伝わっている)。その後の歴史は不明であるが、北条氏の属城として続き、小田原の役で廃城になったのだろう。

 津久田城は、利根川と沼尾川の合流点南東の比高50m程の段丘上に築かれている。広大な平地の北西端部に築かれ、主郭の周囲に空堀で囲まれた曲輪群を東西と南に連ねた、群郭的な縄張りとなっていた。しかし城内は、昭和42年の土地改良事業で破壊され、現在は宅地と農地に変貌し、遺構はほぼ完全に湮滅している。わずかに住宅裏の西斜面と北斜面に腰曲輪が残っているようだが、西の腰曲輪も杉の倒木で進入不能となっており、北の腰曲輪には到達できなかった。また住宅の裏に城址解説板があるのが辛うじて見えたが、民家の方にお断りをしないと、そこまで到達することもできない。昭和20年代の航空写真でははっきりと堀跡と曲輪の形状が確認でき、昭和42年に破壊されるまでは遺構が完存していたことがわかる。惜しいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.553344/139.043527/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/05/01
  • メディア: 単行本


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猫山城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6910.JPG←堀切と西郭群
 猫山城は、猫城とも言い、白井長尾氏の支城である。「猫」は根古屋の転訛らしい。当初は戸丸甚右衛門が在城し、1582年には牧和泉守が城を守り、牧氏は北条方として上杉方の真田勢と戦ったと言う。但し、牧氏の奮戦は津久田城にも伝わっており、城の遺構を見る限り、津久田城が攻撃を受け、攻撃中の真田勢を猫山城から出撃した軍勢が背後から急襲したと言う辺りが実相のような気がする。

 猫山城は、標高340m、比高100m程の山上に築かれている。東西に伸びる尾根上の2つに峰にまたがって築かれており、東郭群と西郭群から成る一城別郭式の縄張りである。『日本城郭大系』では、西郭群が本城で東郭群が別城(出城)としているが、東郭群の方が標高が高いので、こちらが本城のはずである。縄張りは全体的に簡素である。東郭群は長円形の主郭の周りに2段の腰曲輪が半周囲繞しているだけである。上段は幅が広いが、下段は帯曲輪状となっている。この東郭群の北に鞍部の自然地形が続き、北端に小堀切を挟んで西郭群が築かれている。西郭群あり、最上段の西主郭に城址標柱が立っている。その西側に小堀切を挟んで、猫山城では最大の面積を持っている西ニノ郭が広がっている。尾根は西ニノ郭の先で北に折れて伸び、そこにやはり堀切を挟んで西三ノ郭が築かれて、城域が終わっている。この他、城の築かれた尾根の北斜面下方にも傾斜の緩い平場が見られ、腰曲輪であった可能性がある。薮は少なく、遺構はよく確認できるが、普請の規模の小さいささやかな遺構で、恒常的な城砦と言うより、作戦上臨時に取り立てられた城砦と感じられた。
 尚、私は城まで北の谷筋の車道から斜面を直登したが、山上から遠望した限りでは西の車道から西尾根筋を登っても来られそうに見えた。それができれば、西からのアクセスの方が楽だと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.529795/139.039557/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


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不動山城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6784.JPG←三ノ郭から見た主郭
 不動山城は、見立城とも言い、白井長尾氏の重要な支城である。長尾氏の居城白井城から利根川を隔てて東方に位置している。元々は地衆見立氏らの寄居として築かれたが、白井城が攻撃された時には、二度も白井城主が不動山城に逃れて再起を図っている。1590年の小田原の役の際、前田・上杉らの北国勢によって攻め落とされ、廃城となった。

 不動山城は、利根川東岸の標高330m、比高130mの段丘上に築かれている。段丘先端に築かれた城としてはちょっと変わった縄張りで、空堀で段丘基部を分断しているのは普通だが、その先の段丘平坦面を2段に築き、上段を主郭・ニノ郭とし、下段をそれらに付随する腰曲輪状の三ノ郭としている。主郭・ニノ郭は、三ノ郭の上で堀切によって区画されている。三ノ郭の外周には広幅の空堀が穿たれ、その外側にL字状の四ノ郭が置かれている。三ノ郭の空堀には横矢掛かりのクランクも見られ、西端部でもクランクしながら斜面に落ちている。四ノ郭は内部が2段に分かれており、北端部が下段より3~4m程高い平場になっている。四ノ郭の外周にも空堀が穿たれている。三ノ郭南西角には坂土橋が付いて腰曲輪に通じ、更にもう一つの坂土橋で外郭に繋がっている。この他、北東に出曲輪が築かれ、四ノ郭との間の空堀は、北端でL字に折れている。出曲輪から北に伸びる尾根には、小郭群と堀切があり、北端に多重桝形虎口が築かれている。以上が不動山城の遺構で、一部耕地化による改変があるものの、遺構はほぼ完存している。主郭等の主要部は見やすいが、三ノ郭・四ノ郭は竹薮がひどいのが残念である。
三ノ郭の坂土橋→IMG_6796.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.516190/139.031253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


土の城指南

土の城指南

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2014/06/18
  • メディア: 単行本


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八崎城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6669.JPG←主郭の空堀
 八崎城は、白井長尾氏の支城である。本城である白井城の南方を押さえる重要な支城で、長尾景春・憲景などがしばしば在城し、長尾景仲も城主となったことがある。しかし普段は城代を置いて守らせていたと推測されている。戦国後期には、上杉・北条・武田の三大名による覇権争いの中で白井城と共に八崎城の帰属も変転し、戦国末期には北条氏の支配下にあった。1590年の小田原の役では、前田・上杉らの北国勢の攻撃を受けて開城した。

 八崎城は、利根川とその支流東川に挟まれた段丘先端部に築かれている。南端に主郭を置き、その北側にニノ郭・三ノ郭があり、それらの西側に西曲輪、更に主郭から東川の深い渓流を挟んだ南東の段丘上に新曲輪を築いている。現在明確にその姿を残しているのは主郭だけである。主郭の北側には深さ5m程の規模の大きな空堀が穿たれ、しかも西側で横矢掛かりのクランクが見られる。主郭東側は東川によって削られた断崖絶壁となっている。主郭内は民有地で廃屋が残っているが、現在は入口に解説板が立ち、空き地となって開放されている。ニノ郭以降の曲輪は、住宅地に変貌し、堀跡は車道に変貌していてほとんどその痕跡を見出すことはできない。新曲輪も耕地化で遺構は失われている。ちなみに解説板によれば、度重なる風水害で大部分が崩れ去っているとされ、主郭や西曲輪はもっと規模が大きかったらしい。いずれにしても主郭周りの僅かな遺構しか残っておらず、残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.484141/139.025331/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


大きな縄張図で歩く!楽しむ! 完全詳解 山城ガイド (学研ムック)

大きな縄張図で歩く!楽しむ! 完全詳解 山城ガイド (学研ムック)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/01/15
  • メディア: 単行本


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有馬城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6644.JPG←主郭西側の空堀
 有馬城は、歴史不詳の城である。利根川西岸の282.1mの段丘先端部に築かれている。北東端に主郭を置き、西と南に空堀を穿ち、外周にニノ郭を廻らした縄張りとなっている。しかしニノ郭は農地や工場・民家などに改変されており、西側に段差や土塁状の土壇が見られるが、どこまでが城域であったかも定かではなく、主郭南側の空堀もほとんど隠滅している。主郭は全体に薮が酷く、踏査が大変である。それでも西側の空堀は確認でき、主郭の北東側に腰曲輪が1段築かれているのが確認できる。主郭の北辺は大きく内側に湾曲し急崖に面しており、『日本城郭大系』の縄張図とは、主郭の形状は異なっている。昭和20年代の航空写真では、大系の縄張図に近い形状が見えるので、豪雨などで崖が崩れたものの様である。縄張図にある南東部の張出し部は薮が酷くて形状が確認できない。ニノ郭西側に描かれている馬出しは、前述の通り既に湮滅している。有馬城は、遺構の残存状況があまり良くなく、縄張り的に目立った特徴もなく、おまけに薮城なので、薮を強行突破してまで無理して行く城ではなかったのが残念。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.466352/138.993659/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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