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古城めぐり(群馬) ブログトップ
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仙人窟陣城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2438.JPG←仙人窟
(2021年2月訪城)
 仙人窟陣城は、手子丸城をめぐる攻防の際に真田信幸の軍勢が陣を置いた場所と伝えられる。1582年に小田原北条氏に奪われていた手子丸城を奪還するため、1586年、真田信幸は500騎を率いて北条氏邦・芳賀伯耆守綱可の2千騎と戦った際、仙人窟に伏兵を置き、大返しに返して大勝し、手子丸城を奪還したと伝えられる。しかし、手子丸城はその後も北条氏が保持していたらしく、真田方による奪還が実際にあったのかは不明である。

 仙人窟陣城は、史跡となっている仙人窟にある。陣城と言うが、あるのは仙人窟の遺構だけで、窟の前の平場をそのまま伏兵の待機場所として使用したのだろう。しかし、すぐ眼前には手子丸城がそびえているので、手子丸城からは丸見えで、伏兵を置くにしてももっと城から見えにくい場所に置くのではないかと少々疑問に思う。実際に真田方による手子丸城奪還戦があったのかも確実ではなく、城よりも仙人窟詣でとして行った方がよいだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.518078/138.777698/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣城
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手子丸城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2212.JPG←主城部の腰曲輪群
(2021年2月訪城)
 手子丸城は、大戸城とも呼ばれ、元は大戸浦野氏の城であったものを小田原北条氏が改修したと推測される大規模山城である。浦野氏は滋野氏の一族で鎌倉中期に信濃からこの地へ移り、浦戸氏あるいは大戸氏を称した。手子丸城の築城時期は不明であるが、1513年に箕輪城主長野憲業が榛名山神社に捧げた祈願文に「大戸要害」とあり、この時期に手子丸城があったことが確認できる。1561年、浦野中務少輔重成は武田信玄に従い、信玄は箕輪長野氏の一族羽田彦太郎を逐って、その跡を重成に与えた。1563年、武田氏に抗して岩櫃城主斎藤憲広は手子丸城に押し寄せたが、重成は武田の加勢と共にこれを撃退し、翌年には岩櫃城は落城して斎藤氏は没落した。以後、浦野氏は吾妻を領有した武田氏家臣の真田氏に属した。1582年、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、元武田領国の支配権を狙って北条氏直の侵攻が始まった。神流川合戦で織田氏部将の滝川一益を駆逐した北条氏は上野全域の支配を目指し、吾妻を領有して北条氏に抗していた真田昌幸の岩櫃城を攻撃するため、その前哨戦が三ノ倉で始まった。真田方であった手子丸城主大戸真楽斎・権田城主大戸但馬守兄弟は三ノ倉で北条勢を迎撃したが、多勢に無勢で手子丸城まで退き、そこで激戦の末討死した。以後、手子丸城は北条氏の支配するところとなり、吾妻作戦の前線拠点となった。一説には1586年の一時期、真田信幸が500騎を率いて奪還したとも言われるが、詳細は不明。その後も北条氏の前線拠点であり、1587年頃には城は改修強化され、上野方面を管轄した鉢形城主北条氏邦は重臣斎藤摂津守定盛を城代として置き、周辺地域支配を管轄させた。1589年、北条勢は手子丸城に集結して岩櫃城を衝く気配を見せたが、豊臣秀吉の北条氏討伐(小田原の役)が決定されたため、北条勢は撤退した。

 手子丸城は、温川と見城川の合流点東側にそびえる、標高649m、比高170m程の山上に築かれている。北麓まで伸びる支尾根が大手で、登道が付いている。東西500m以上に及ぶ主尾根に曲輪群を配置し、それぞれの峰から北に伸びる支尾根に更に曲輪群と堀切を配置した広大な城である。東西に伸びる主尾根中央の堀切を境に、西が主城部、東が外郭部と分かれている。
 主城部は、山頂に主郭とその東に副郭を置き、そこから北斜面に幾重にも腰曲輪群を築いている。この腰曲輪群は、主郭北側のものと副郭北側のものに中央の尾根で区画されている。主郭北側のものは曲輪がより大きく、下方で2つの支尾根に分かれて段曲輪が連ねられている。それぞれ先端近くに堀切が穿たれている。主城部の東から長く北に伸びる支尾根が大手で、大小3本の堀切と物見台状の曲輪や腰曲輪が配置されている。大手尾根をずーっと降った先にはやや広い平場が広がり、櫓台の様な土壇も見られ、大手の登り口を監視する出丸だった様である。
 一方、外郭部は、合計5つの峰があり、それぞれ頂部に曲輪が置かれ、周囲に腰曲輪群や堀切、竪堀が構築されている。間にある土橋を境に、西を中城、東を東出城とここでは便宜上呼称する。中城は、鉄塔のある曲輪から堀切を挟んで西に物見台の峰があり、その北尾根には『日本城郭大系』や『境目の山城と館 上野編』の縄張図にない堀切が2本穿たれている。東出城では東端に近い部分にも主尾根の北斜面に3段の腰曲輪群が連ねられている。東端の物見台の東側に城域東端の二重堀切が穿たれ、物見台の裏には横堀が築かれ、その西端は直角に曲がって竪堀となって落ちている。この辺りの防御構造は長野原城によく似ている。
 手子丸城は、覚悟はしていたが予想に違わぬ広大な城で、多段式腰曲輪群が多数かつ広い。一つ一つの曲輪はそれほど大きくはないが、全体ではかなりの数となり、一体どれほどの兵を置いていたのかと思う。城の形態としては、主城部は長野原城に、長い主尾根を主軸に多数の支尾根に曲輪群を配置した構造は松井田城によく似ている。また横堀から落ちる竪堀の雰囲気は岩櫃城のものに似ている印象もある。真田氏と北条氏双方による改修をうかがわせる城である。
大手尾根の堀切→DSCN2004.JPG
DSCN2225.JPG←主城部と外郭部を区画する堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.514853/138.780938/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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山の固屋城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1938.JPG←竪堀と腰曲輪群
(2021年2月訪城)
 山の固屋城は、歴史不詳の城である。城は深沢川沿いの道の西側にあるが、この道は榛名湖畔まで通じており、往古は草津街道の脇道として重要な間道であったと思われる。おそらくこの間道を押さえる目的で築かれた城で、天正年間(1573~92年)の小田原北条氏の吾妻侵攻期に、真田氏によって築かれた城と推測されている。

 山の固屋城は、深沢川とその支流の合流点南側にそびえる、標高680m、比高90m程の山上に築かれている。主郭の北東斜面に高圧鉄塔が建っており、その保守道が北東麓から整備されているので、迷うことなく登ることができる。山頂の主郭は、南東から北西に向かって伸びた細長い曲輪で、主郭の北西側には腰曲輪群が築かれている。その最上段にある小郭は、竪土塁で主郭の北辺と繋がり、東側に虎口を築いている。やや特殊な形態の虎口郭と考えられる。その下の腰曲輪には、低土塁が築かれ西端から竪堀が落ちているもの、下段付近で竪堀・横堀がL字型に穿たれているもの、等が構築されている。この北西の腰曲輪群の北東側には竪堀が穿たれている。この竪堀は、最上部でV字に繋がった2本の竪堀のうちの一つで、V字の頂点部分の脇には前述の虎口郭に入る虎口が作られている。竪堀から北に伸びる尾根には、2本の堀切を挟んで小郭群が続き、先端に物見台が築かれている。また主郭の背後には2段の段曲輪が築かれ、その下に南尾根を区画する堀切がある。北東の尾根には二ノ郭が置かれ、二ノ郭の先端部外周には2段の帯曲輪が円弧状に廻らされている。前述の鉄塔保守道は、この帯曲輪に繋がっている。
 以上が山の固屋城の構造で、主郭の北西部だけが一点豪華主義の様にやや複雑な構造を有している。一方で、山自体は傾斜があまりきつくなく、要害性はさほど高くない。堀・土塁などの普請も規模は小さく、真田氏が北条氏に備えたにしては、ちょっと中途半端な印象である。地元の地衆が逃げ込み城として築いた可能性も考えられないだろうか?
主郭に繋がる虎口郭の竪土塁→DSCN1880.JPG
DSCN1933.JPG←北尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.527105/138.825785/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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タグ:中世山城
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丸山城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1792.JPG←三ノ郭跡の畑
(2020年12月訪城)
 丸山城は、須賀尾上城とも言い、大戸城(手子丸城)主大戸真楽斎の家臣丸山勘解由・高橋丹後が守った城と伝えられる。1582年9月、北条勢によって大戸城と共に陥落したと言う。また一説には、鷹繋・丸山両城を合わせて須賀尾城とし、大戸へ進出した北条勢に対抗して、真田昌幸が須賀尾峠で阻止するため両城を強化したとも考えられている。

 丸山城は、須賀尾集落のほぼ西端の、国道406号線北側の丘陵上に築かれている。現在城跡はほとんどが畑、一部が民家の敷地となっている。これらの内、明確に曲輪の形状を残しているが三ノ郭で、方形の区画で北側に空堀を穿ち、それ以外の3面を切岸で区画している。三ノ郭の北側に二ノ郭・主郭があったとされ、これら2郭の間は空堀で区画されていたらしいが、現在は埋められてしまっている。主郭西端の最上段の平場には、現在給水施設が置かれている。そこから東に向かって段状に畑が続いている。三ノ郭の東側には、道路を挟んで四ノ郭があるが、改変されている可能性が高く、周りの切岸跡の段差以外に城跡を思わせるものはない。三ノ郭の南東には枡形虎口があったとされるが、それも現状ではよくわからなくなっている。主郭の背後から四ノ郭の東側にかけては、沢跡の水路が天然の外堀となっている。結局、三ノ郭だけは明瞭だが、それ以外は改変が多く、城の痕跡を思わせるものは少ない。
三ノ郭背後の堀切→DSCN1787.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.502427/138.685645/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
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タグ:中世平山城
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丸岩城(群馬県長野原町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1760.JPG←土塁で囲まれた主郭
(2020年12月訪城)
 丸岩城は、真田氏が北条勢に対抗して守りを固めた城である。『日本城郭大系』によれば、元は元亀年間(1570~73年)に羽根尾城主羽尾幸全入道の城であったと伝えられるが、羽尾氏の城であったことが事実ならば、それは1563年の武田氏による岩櫃城攻略以前のことであろう。1582年8月、武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際、大戸方面から侵入する北条方の内藤大和守に備えて、真田昌幸が丸岩城に湯本・西窪・横谷・鎌原等の吾妻諸将を交代で駐屯させ、岩櫃城と信州上田方面間の要路を確保した。その後、1584年3月に上杉景勝が岩井備前守に宛てた書状に、信州高井郡の地侍須田信正・市川信房が羽尾源六郎を助けて長野原・丸岩両城を奪取したと記載されていると言う。また1589年8月には、真田氏配下の北衛門・西窪治部・同甚右衛門が守備した。即ち、戦国末期に真田氏が北条氏の侵攻に抵抗していた時期には、丸岩城は北条勢の進出を防ぐための最前線となっていた。

 丸岩城は、標高1124mの丸岩の山上に築かれている。丸岩は、三方が100m余りの絶壁となった見るからに峻険な山であるが、南だけが尾根続きになっており、須賀尾峠を通る国道406号線脇から登道が付いている。南の尾根暗部に小さい平場があり、大手の平場とされている。そこから北の斜面を登ると、城から南に伸びる大手の尾根に至る。ここには中央に土塁が走り、その両側に腰曲輪が築かれている。中央の土塁は風除け土塁とされているが、それほど高さがあるわけではないので、土橋と言う方が合っているように思う。この尾根を登りきると、山頂の主郭に至る。主郭は東西に細長い狭小な曲輪で、周囲に土塁が築かれ、南西に大手の尾根に通じる虎口が築かれている。主郭の東側には段差の先に細尾根上の曲輪が続き、北斜面には腰曲輪群が3段程築かれている。この腰曲輪の下は前述の絶壁であり、掴まれる木も多くないので、下手に降りたら滑落して死ぬかもしれない。この他、主郭の北西には段曲輪群が築かれている。以上が丸岩城の概要で、城自体は細尾根の小城砦であるが、草津路の要衝須賀尾峠を押さえると共に吾妻渓谷沿いを監視する物見の城だったと思われる。
北斜面の腰曲輪群→DSCN1737.JPG
DSCN1732.JPG←北西の段曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.528312/138.662449/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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西窪城(群馬県嬬恋村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1653.JPG←物見台に挟まれた窪地状の主郭
(2020年12月訪城)
 西窪城は、信濃国滋野氏の庶流とされる西窪氏の居城である。西窪氏は、滋野源氏・海野氏の一族で、信州小県郡から幸盛の弟幸房が平安時代末期に三原庄下屋に来住して下屋氏を称した。幸房の3男伊弥平三郎が西窪に入部して西窪氏の祖となったと言う。西窪氏当主は代々、治部左衛門を称した。西窪氏は、一族の鎌原城主鎌原氏と共に関東管領兼上野守護の山内上杉顕定に属していたが、大永年間(1521~28年)頃に岩櫃城主斎藤憲次の幕下となった。やがて武田信玄が吾妻に侵攻すると、鎌原氏と共に武田氏に属した。武田氏滅亡後は真田氏に属し、そのまま沼田藩に仕えた。西窪氏は、1681年に沼田藩が改易となると、鎌原氏・湯本氏・横谷氏等と大笹関所番となった。

 西窪城は、鎌原城から吾妻川を隔てた対岸の丘陵上に築かれている。非常に変わった形態の城で、大きく東に向かって傾いた斜面全体を城域としている様である。斜面の下半分はひな壇状の平場群となっているが、現在は畑となっているので、どこまで往時の形を残しているのかよくわからない。斜面の北東端は小高い丘になっていて、ここが城の中心とされている。丘の西側は堀切となっている。丘の上に2つの物見台土塁に挟まれた窪地状の平場があり、主郭と推測されている。主郭の東側には大きく傾斜した斜面が広がり、その下に傾斜の緩くなった平場が広がっている。この裾の平場には中央にわずかに竪土塁が見られ、下方に虎口らしい部分もある。これらの城の中心部は、ほとんど居住性のない砦の様なもので、珍しい形をしている。ここから西側には起伏のある斜面が広がり、西にやや離れたところに大きな空堀が穿たれて、丘陵部を区画している。これは遠堀の様なもので、その上に物見台の土壇があるが、斜面全体が広すぎ、明確な普請のない場所もあることから、実際に城の曲輪として使われていたのかは不明である。結局、縄張りがうまく捉えられない、異型の城である。
西の空堀→DSCN1680.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.523346/138.538467/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

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タグ:中世平山城
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鎌原城(群馬県嬬恋村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1606.JPG←二ノ郭に残る堀切
(2020年12月訪城)
 鎌原城は、信濃国滋野氏の庶流とされる鎌原氏の居城である。鎌原氏は、滋野源氏・海野氏の一族で、平安時代末期より三原庄を支配した豪族下屋氏の後裔と伝えられる。三原庄を開拓した下屋将監幸房の子孫幸兼がこの地に入部し、鎌原氏を称したと言う。築城は1397年と伝えられる。関東管領兼上野守護の山内上杉憲政が北条氏康によって越後に逐われると、吾妻地域は岩櫃城主斎藤憲広の支配するところとなり、鎌原城主鎌原宮内少輔幸重も斎藤氏に従った。1560年、鎌原氏は同族の真田幸隆を介して武田信玄に通じ、武田氏の吾妻侵攻に当たってその尖兵として岩櫃城攻略に掛かった。対する斎藤氏も鎌原城を攻撃した。以後、1563年に岩櫃城が武田氏に攻略されるまで、鎌原城は武田氏の吾妻侵攻の拠点として重視され、上杉氏の後援を受けた斎藤氏との間で激しい争奪戦が繰り広げられた。1562年には斎藤氏麾下の羽尾氏に鎌原城を奪われ、信濃へ退去したが、その後武田氏の支援を受けて鎌原城を奪還した。以後武田氏に仕え、1575年の長篠合戦で嫡男幸澄は討死した。武田氏滅亡後は真田氏に属し、そのまま沼田藩に仕えて家老などを務めた。1615年の元和一国一城令で鎌原城は破却された。鎌原氏は、1681年に沼田藩が改易となると、西窪氏・湯本氏・横谷氏等と大笹関所番となった。

 鎌原城は、吾妻川東岸の比高90m程の段丘上に築かれている。段丘西側は吾妻川に臨む垂直断崖で隔絶された要害の地である。先端が二股に分かれたY字状の段丘を利用しており、台地基部に広大な三ノ郭を置き、Y字の左の先に二ノ郭・主郭・笹曲輪を南から順に連ねている。三ノ郭・二ノ郭・主郭の西側には広大な腰曲輪が築かれている。またY字の右の先には谷状になった窪地に東曲輪を配置している。主郭・二ノ郭・三ノ郭の背後にはそれぞれ堀切が穿たれているが、耕地化で多くが埋められてしまっており、明確に残っているのは二ノ郭のものだけである。但し、わずかな段差が残るほか、崖縁に堀形が残っており、その位置を知ることができる。その位置からすると、三ノ郭だけは食違い虎口になっていたらしい。また主郭・二ノ郭の堀切は西の腰曲輪まで貫通して掘り切っている。主郭の先端には電波塔が建ち、その先に断崖に面した細尾根上の笹曲輪がある。笹曲輪は小郭でただの物見であろう。一方、東曲輪は谷の緩傾斜地となっているが、東西に突き出た高台で挟まれ、先端には一段高く物見台が築かれている。尚、城は主要部が公園化されていて、各所に標柱も建っているが、三ノ郭の標柱だけは実際の三ノ郭から少し南に離れた所に立っている。鎌原城は、それほど技巧的な縄張りではないが、城域が広く、吾妻川上流部を押さえる拠点城郭であったことが伺われる。
主郭→DSCN1538.JPG
DSCN1504.JPG←西腰曲輪を貫通する堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.524467/138.544518/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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鷹川城(群馬県嬬恋村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1453.JPG←城址の平場群
(2020年12月訪城)
 鷹川城は、鎌原城主鎌原氏の支城である。伝承では、1193年4月に源頼朝が三原野狩りを行った際に狩屋を設けた場所であると言われている。時代は降って1560年10月、岩櫃城主斎藤憲広が羽根尾城主羽尾入道に鎌原城を攻撃させた際、鎌原宮内は嫡子筑前守重澄を赤羽根の台に出陣させ、西窪佐渡守知昭を大将として今井・樋口を鷹川城に置いて戦ったと言う。

 鷹川城は、吾妻川曲流部に南から突き出た台地上に築かれている。この台地は下袋倉の集落から50mほど高く、上は城の平と呼ばれる広大な平坦地が広がっており、現在は一面の畑となっている。その北端部は高台となっていて、ここが城跡と伝えられている。諏訪神社が建てられており、3段程の平場が見られる。周囲は断崖となっている。鷹川城は先端だけが小高くなった異型の台地に築かれた城で、物見と烽火台として活用するには絶好の地であることがわかる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.545346/138.573958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史 (県史)

群馬県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2014/01/01
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タグ:中世平山城
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羽根尾城(群馬県長野原町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1392.JPG←主郭から見た堀切と二ノ郭
(2020年12月訪城)
 羽根尾城は、信濃国滋野氏の庶流とされる羽尾幸全入道の居城である。羽尾幸全は、舎弟海野長門守幸光・能登守輝幸と共に、この城を根拠地として勢威を振るい、草津の湯本氏・嬬恋の西窪・鎌原両氏等と並んで吾妻を舞台に活躍した。1562年、岩櫃城の斎藤憲広を降した武田信玄は、長野原城に真田幸隆の弟常田俊綱(隆永)を入れて守らせたが、翌63年9月の長野原合戦では、海野兄弟は斎藤方の大将として長野原城を攻略した。信玄は直ちに兵を発して岩櫃城を攻略し、羽尾氏も真田幸隆に服属した。1565年に斎藤氏が滅亡すると、信玄は幸隆を吾妻郡代に任じ、幸隆は翌66年に戦功のあった海野兄弟を岩櫃城代とした。しかし1581年、真田昌幸は、海野兄弟に対する誤解から海野兄弟を急襲し、幸光は岩櫃城で自刃し、輝幸は迦葉山へ退いたが追手に敗れて自刃した。その後1583年、昌幸の命により羽根尾城には湯本三郎右衛門が在城したと言う。

 羽根尾城は、吾妻川北岸の標高758m、比高100m程の山上に築かれている。北の西吾妻福祉病院の裏手から車道が延びており、城のすぐ近くまで車で行くことができる。北から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を連ねた連郭式の縄張りとなっている。主郭の背後には堀切が穿たれ、その上に主郭がそびえている。主郭は長円形の小さな曲輪で、外周を土塁で防御しているが、冬場でも灌木の多い薮になっている。また主郭の東辺には鉄塔が建っていて、遺構が一部損壊を受けている。主郭の東側には腰曲輪が置かれている。主郭南東には虎口があり、主郭前面の堀切を越えて二ノ郭に通じている。二ノ郭は、中央に土塁を走らせた狭小な曲輪で、ほとんど兵の居場所がない。二ノ郭の南には傾斜地を挟んで三ノ郭があるが、ここも大した面積はない。この他、主郭・二ノ郭の西側には竪堀が1本ずつ落ちている。この他、羽根尾城の南西麓には、平坦な高台があり、羽尾氏の居館があったらしい。ここには現在海野幸光の墓が残っている。羽根尾城はその規模から考えて、あくまで有事の際の詰城の位置付けであったと考えられる。
主郭背後の堀切→DSCN1374.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.553896/138.607539/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

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タグ:中世山城
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長野原城(群馬県長野原町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1244.JPG←主郭群の段状の平場群
(2020年12月訪城)
 長野原城は、吾妻地方を手中にした武田氏の支城である。元々はこの地方の豪族羽尾氏の持ち城であったと伝えられる。1562年、岩櫃城の斎藤憲広を降した武田信玄は、長野原城に真田幸隆の弟常田俊綱(隆永)を入れて守らせたが、翌63年9月、憲広は俊綱を倒して城を奪い、羽尾・海野兄弟を入れた。信玄は直ちに兵を発して岩櫃城を攻略し、長野原などを湯本善大夫に与えた。善大夫は1575年の長篠合戦で重傷を負って死去し、甥の三郎右衛門が継いだ。三郎右衛門は真田氏に属し、後に同心衆31人を付され、合わせて630貫余を知行したと言う。

 長野原城は、吾妻川と白砂川に挟まれた東西に長い山稜上に築かれている。城の中心部は西の標高750mの峰にあり、そこから東の尾根伝いに秋葉山出丸・第2出丸・箱岩出丸・第4出丸・天狗岩物見台と連珠状に続いている。南麓から登道があり、瑠璃光薬師堂脇から登ると箱岩と言う巨岩の下を抜けて腰曲輪を経由し、秋葉山出丸と第2出丸の間の尾根上に至る。この道は途中、薬師堂から箱岩までの間が立入禁止となっているが、箱岩の下だけちょっと荒れている程度で、実際にはそんなに危険な状態ではない(但しこの道を使う時は、あくまで自己責任でお願いします)。
 東尾根にある各出丸には腰曲輪が付随し、普請の痕跡が見られる。特に秋葉山出丸には武者溜りの小郭があり、南支尾根の先にも舌状曲輪と腰曲輪群が築かれている。尚、東の天狗岩物見台まで行くには、箱岩出丸の先で岩の絶壁を降りる必要があるので、岩場の登り降りに自信のない人は、箱岩出丸から先は止めた方が良い。
 秋葉山出丸の西尾根を登っていくと主城部で、主郭群最上段の櫓台に至る。この櫓台は、削り残しの尾根がそのまま西に伸びていて、主郭背後を防衛する高土塁を形成している。主郭群は、北西斜面に広大な曲輪群を段状に3段築いている。上段の主郭西には枡形虎口が構築されていて、下の曲輪に通じている。主郭群の西側には、長い竪堀を挟んで二ノ郭群が築かれている。この竪堀によって、城の中心部は一城別郭の構造となっている。二ノ郭群は、主郭群より小さな曲輪が段状に5段程築かれ、最上部は削り残し尾根による土塁となっている。二ノ郭の南には舌状曲輪が2段築かれている。二ノ郭群の西側は広い谷戸地形になっている。この西端部に大手防衛の曲輪が築かれ、その東側に谷戸下方を防衛する土塁と腰曲輪、更にその下方に「く」の字に大きく曲がった長い横堀とその前面を防衛する堡塁が築かれている。この谷下方の土塁の脇には木戸口があり、形状が明瞭なのだが、何故か縄張図には描かれていない。主城部の更に西の尾根が大手とされ、前述の大手防衛の曲輪の下に、二重堀切が構築されている。この二重堀切は右手だけ三重っぽい形に見える。
 以上が長野原城の構造で、主城部の広い曲輪群は、この城がこの地域の中心的城郭であることを物語っている。
二ノ郭西の舌状曲輪群→DSCN1342.JPG
DSCN1290.JPG←谷戸を防衛する土塁
谷戸下方の横堀→DSCN1296.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.554568/138.639253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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雁ヶ沢城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1119.JPG←主郭背後の二重堀切
(2020年12月訪城)
 雁ヶ沢城は、信濃国滋野氏の庶流とされる横谷氏の城と伝えられる。横谷氏は、木曽義仲に仕えた土豪が吾妻に来住し、湯本氏が兄の系統で弟の系統が横谷氏になったとされる。『加沢記』に記載される1563年の真田幸隆による岩櫃城攻略の時にはこの城はなかったらしいことから、真田氏による岩櫃城攻略後に築かれたらしい。戦国後期に横谷重行は武田氏に降り、真田昌幸に属した。この頃には吾妻郡四騎(湯本・横谷・鎌原・西窪)とまで言われ、1582年の武田氏滅亡後は北条氏の侵攻に対して大戸城(手子丸城)、或いは倉内城に籠城した。北条氏滅亡後は沼田城主真田信幸に属して本領の横谷村を安堵された。関ヶ原合戦の際には、東西両軍に分かれた真田氏に従って横谷氏も東西に分かれて戦った。雁ヶ沢城を預かっていた横谷左近は真田昌幸に属し、下野国犬伏から上田へ帰城する昌幸軍の通過を容易にし、その後、上田の伊勢崎城を守ったと言う。

 雁ヶ沢城は、吾妻川と鍛冶屋沢川の合流点西側に突き出た、比高60m程の尾根上に築かれている。吾妻峡の険を避ける道陸神峠を往来する間道を押さえるための砦とされ、南麓に居館があったらしい。八ッ場ダム建設に伴い付け替えとなったJR吾妻線の旧線路を越えると東麓に松谷諏訪神社があり、そこから城へ登る道が付いている。登りきった細尾根上の平坦地が主郭で、後部が櫓台状に一段高くなっていて、祠が祀られている。主郭の背後の尾根に降ると、浅い二重堀切が穿たれている。しかしあまりに浅くて、ほとんど防御の役に立たないように見える。また堀切以外は明確な普請は少ない。『境目の山城と館(上野編)』でも記載している通り、道押さえの物見といった趣の小城砦である。
主郭→DSCN1105.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.569063/138.729011/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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大前田内出居砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2028.JPG←砦の遠望
(2020年7月訪城)
 大前田内出居砦は、歴史不詳の城砦である。一応市の史跡に指定されているが、現状は宅地で、宅地北側の竹林付近に遺構が残っている様である。盛夏に訪城したので、薮がひどくて遺構の確認がほとんどできなかったが、ある程度薮払いされている北西部に、西側の切岸や北側の堀跡らしいものが見られる。史跡標柱が立っているが、薮に埋もれていてよく見えないし、夏場は近づくことも難しい。昭和20年代前半の航空写真を見ると、どうも南北に長い長方形をした単郭の砦であったように見受けられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.424908/139.187583/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本



タグ:中世平城
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荒子砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2012.JPG←公園内に残る土塁
(2020年7月訪城)
 荒子砦は、歴史不詳の城砦である。現在は大きな忠霊塔が建つ「荒砥林の広場」という公園になっている。小河川東岸の台地の縁に築かれており、昭和20年代前半の航空写真を見ると、かなり広幅の堀のような形の水田が北と東に見られるが、実際に堀跡であったのかどうか、今ではよくわからない。ただ、公園を散策すると、西辺部に土塁が見られ、この土塁は忠霊塔の北側まで屈曲しながら伸びている。忠霊塔建設や公園化に伴う土盛りと考えるのが普通だが、西辺部などは遺構であった可能性が高い様に思う。いずれにしても謎の多い城砦である。尚、公園の南側に砦跡の標柱が立ち、公園入口にも砦跡の表札があるのは、ちょっと嬉しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.379953/139.173743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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小坂子城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1998.JPG←主郭西側の切岸
(2020年7月訪城)
 小坂子城は、西新井城とも言い、嶺城の支城である。城主は五十嵐和泉守で、元は関東管領山内上杉氏の家臣で、上野漆原城主であった。弓の名人で、長野氏の守る箕輪城と連携して西上州を押さえていたが、1566年に武田信玄の上州攻めで箕輪城が落城し、長野氏が滅亡すると、和泉守は厩橋城に落ち延びた。厩橋城主北条丹後守高広は、和泉守を家臣に取り立て娘を嫁がせるなど厚く待遇した。この時に和泉守は小坂子村を賜って、小坂子城主となったと言う。その子荘左衛門久和は仏門に入っていたが、厩橋城主酒井雅楽頭忠世に見出されて世子安房守忠行の旗本に取り立てられ、大坂冬の陣・夏の陣に従軍し、大きな手柄を立てたと言う。

 小坂子城は、小坂子八幡神社とその北側に伸びる段丘上に築かれている。神社境内は南の外郭に当たり、主郭は神社から160m程北にある。主郭は縦長長方形の曲輪で、周囲より高くなっており、北・西・南の三面に切岸が残る他、南には堀切が残存している。この堀切道の入口に城址解説板が立っている。主郭内は畑に変貌しており、主郭の東辺部はどこまで広がっていたのか、現状ではよくわからない。主郭の南北にも曲輪が連なっていたと思われるが、地勢以外は不明瞭である。主郭だけでも完存していればと惜しまれる。
主郭南側の堀切跡→DSCN1997.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.430071/139.112288/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

群馬県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2013/01/15
  • メディア: 文庫


タグ:中世平城
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兎貝戸砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1954.JPG←主郭南の堀跡
(2020年7月訪城)
 兎貝戸(うさぎかいと)砦は、歴史不詳の城砦である。芳賀東部工業団地北方の小河川西側の段丘上にある。昭和20年代前半の航空写真を見ると、空堀で囲まれた東西2郭が明確にわかる。現在は、南側の空堀以外の堀は全て埋められ、また東西に並んだ曲輪の内、西の主郭の東半分だけが耕作放棄地となって、概ねその形状を残している。ここには解説板も建っている。主郭の南には空堀が窪地となって残っている。東の二ノ郭は、主郭より一段低くなっており、畑となっている。二ノ郭も南に堀跡がわずかに残り、北の空堀は湮滅しているものの、塁線が段差となって残っている。私が訪城した時は、主郭の西半分は砕石が敷かれ、駐車場の様になっていた。これ以上の改変がされないように望みたい。
二ノ郭、奥に見える窪地が堀跡→DSCN1958.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.424097/139.111258/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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勝沢城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1946.JPG←主郭西の大堀跡の道路
(2020年7月訪城)
 勝沢城は、鎌倉初期の武士、藤沢次郎清近(清親)の居城と伝えられている。清近は、射術に秀で、源頼朝の腹心として抜擢されて戦功があったと言う。従って勝沢城は鎌倉時代に始まるが、近代まで残っていた遺構は戦国期のものと推測され、嶺城の支城であったと考えられている。支城であったことから、「番城」の地名が残されていると推測されている。

 勝沢城は、藤沢川とその支流の小河川に挟まれた台地上に築かれていた。現在は一面の住宅団地に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。昭和20年代前半の航空写真とGoogleMapの航空写真を照合すると、主郭は「高花台一丁目駐車場」という広い駐車場の西側にあったらしい。前述の昭和20年代前半の航空写真を見ると、主郭はやや横長の長方形に近い形状の曲輪で、その北側にはわずかに横矢の掛かった空堀を挟んで東西に長い帯曲輪があり、主郭の南にも空堀を挟んで南郭があった。またこれらの曲輪の西側に南北に貫通する大堀があり、この大堀によって西側の曲輪群と分断された一城別郭の縄張りであったらしい。主郭の西にあるのが二ノ郭とされ、その南北にも曲輪が付随していた様である。これらの内、大堀跡の南半分には車道が通り、主郭跡に建つ民家よりも道路面が若干低くなっていて、わずかにその名残を感じさせる。尚、ネットで確認したところ、勝沢城のことを取り上げているHPの多くが、城の位置を誤認している。主郭の位置は、下記のリンク先が正しい。
主郭の現況→DSCN1943.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.426393/139.105979/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


源頼朝-武家政治の創始者 (中公新書)

源頼朝-武家政治の創始者 (中公新書)

  • 作者: 元木 泰雄
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/01/18
  • メディア: 新書


タグ:中世平城
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鳥取砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1928.JPG←砦跡に建つ大鳥神社
(2020年7月訪城)
 鳥取砦は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の際に、越後守護上杉房定の子・定昌が在陣したと伝えられる砦である。定昌は、享徳の乱の中で上杉方の本営五十子陣に在陣していたが、1477年に長尾景春が山内上杉氏に対して叛乱を起こすと、景春の攻撃を受けて五十子陣は崩壊し、定昌は上野国に退いて白井城に長らく在城していた。長尾景春の乱終結後、1483年の都鄙和睦により享徳の乱が終息したが、今度は山内・扇谷両上杉氏の間で対立が生じ、1487年に長享の乱が勃発した。定昌は、実弟の山内上杉顕定を支援するため、足利長尾氏の居城勧農城の攻撃を企図して、一時この城に在陣したとされる。また赤堀氏らの上野衆も在陣している(赤堀文書)。

 鳥取砦は、藤沢川とその支流の小河川に挟まれた台地上にあったらしい。大鳥神社付近一帯が城域とされるが、現在はほとんどが宅地となっており、明確な遺構は見られない。ただ大鳥神社の背後は周囲より一段高くなっており、曲輪の土壇の残欠である可能性がある。尚、大鳥神社の解説板には、「戦国時代の田中(嶺)城の砦跡」と記され、嶺城の支城としている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.417138/139.103619/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東上杉氏一族 (中世関東武士の研究22)

関東上杉氏一族 (中世関東武士の研究22)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/12/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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上泉城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1865.JPG←主郭西側の堀跡
(2020年7月訪城)
 上泉城は、大胡城主大胡氏の一族とされる上泉氏の居城である。剣聖として名高い上泉伊勢守信綱(秀綱)の所縁の城でもある。上泉伊勢守の事績については諸説あるが、通説をまとめると大略次の通りとなる。永禄年間(1558~70年)に上泉城主であった信綱は、上杉謙信が関東に出馬すると上杉方に属し、箕輪城主長野業正の配下に入って奮戦した。業正が病死すると、武田信玄が上州攻撃を開始し、1566年、業正の後を継いだ業盛を滅ぼし、箕輪城を攻略した。この時信綱は、武田信玄からの仕官の誘いを断り、下野して武者修行者として諸国巡歴の旅に出たとされる。そして新陰流の開祖として、柳生宗厳(石舟斎)らに新陰流を伝授した。一方、信綱の子秀胤は、これより先に父信綱によって人質として小田原北条氏の元に送られ、そのまま北条氏の家臣となった。その後、第二次国府台合戦で討死したと言う。その後、秀胤の子と言われる主水泰綱が父の跡を継いだが、1590年の北条氏滅亡後は浪人となった。1600年の関ヶ原合戦前に、上杉景勝より軍備強化の一環で仕官を求められ、それに応じて上杉氏家臣となった。慶長出羽合戦の際、長谷堂城の戦いで直江兼続の配下で戦い、討死した。

 上泉城は、桃ノ木川と藤沢川に挟まれた段丘上に築かれている。城内は宅地化が進んでおり、明確な遺構は少ない。上泉町自治会館の北側に方形の小さな主郭があり、周囲より一段高くなっている。主郭内には江戸時代の郷蔵が残っている。主郭の西側は窪地状になっており、堀跡であることが明瞭であるが、西以外の三方は切岸だけになっており、堀跡はわからなくなっている。主郭の南には、堀を挟んで二ノ郭があったようだが、現在は自治会館等が建っており、遺構は湮滅している。ここには上泉伊勢守の銅像や石碑が立っている。西にやや離れて信綱の墓のある西林寺があるが、ここも城の一郭であったらしいが、段丘上にあるという他は明確な遺構に乏しい。また西の外れに玉泉寺があり、出城であったとされる。ここにはわずかに墓地裏に土塁らしい遺構が残っている。以上が上泉城の現況で、遺構としてはかなり残念な状況である。しかし城内やその周辺は「剣聖上泉伊勢守」の看板だらけで、地元の人の伊勢守への強い愛着を感じさせる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.398643/139.109477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史 (県史)

群馬県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2014/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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八幡山砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1835.JPG←東側から見た砦跡の丘
(2020年7月訪城)
 八幡山砦は、歴史不詳の城砦である。東側の小河川に臨んだ段丘南端の小塁で、赤城山南西麓の裾野の先端部に当たる。現在は八幡山南橘聖霊廟が祀られている。小高い丘になっており地勢は残っているが、改変されているため明確な遺構は見られない。『日本城郭大系』では、「砦跡というが疑問」と注釈されているので、実際に砦があったのかどうかも不明瞭らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.421248/139.076346/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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金古代官屋敷(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0628.JPG←雑草に埋もれた表門
 金古代官屋敷は、三国街道の宿場町金古宿を支配した旗本松田氏の代官神保家の屋敷である。神保家は、代々名主を務めた豪農であった。幕末には世直し一揆の襲撃を受けたと言う。その主屋と表門、圏舎(牢屋)が残っている。県道25号線沿いにあるが、表門は周りが雑草だらけになってしまっている。圏舎は南東の角にあるが、あまり手入れされておらず朽ちかけている。主屋は門越しに覗いただけだが、無住になっているらしく、これも雑草に埋もれている。市の史跡に指定されているが、ちょっとひどい有様で、行政の文化財保護の姿勢が問われる現況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.412165/139.002897/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


旗本・御家人の就職事情 (歴史文化ライブラリー)

旗本・御家人の就職事情 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 山本 英貴
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/09/18
  • メディア: 単行本


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山子田城(群馬県榛東村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0621.JPG←主郭背後に残る土塁
 山子田城は、桃井城(桃井西城)とも言い、和田義盛と共に滅んだ土屋義清の館であった。後に、足利氏の庶流桃井氏の本拠地となったと考えられている。東方約1.1kmの位置に桃井城(桃井東城)があり、別城一郭の構えを成していたとされる。しかし現在残る遺構は、桃井地衆により戦国時代に築かれたものと推測されている。

 山子田城は、榛名山東の中腹の緩傾斜地に築かれている。城内のほとんどは耕地整理で改変されており、明確な遺構に乏しい。大きな主郭とその東側の南北に長い二ノ郭から構成されていたとされ、主郭と二ノ郭の間には大きな用水路が流れている。明確な遺構は主郭後部(西側)の土塁だけで、南西隅には小さな神社が祀られ、城址解説板が立っている。主郭の東部には「御堀の五輪塔」と呼ばれる古い五輪塔が残っている。主郭の北・西・南の三方は空堀で囲繞されていたようだが、現在はわずかな段差しか残っていない。二ノ郭の南東角には櫓隅の地名が残っていたが、現在は耕地整理で塁線を追うこともできない。かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.439065/138.984121/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野国が生んだ足利氏

下野国が生んだ足利氏

  • 作者: 下野新聞社編集局
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2017/12/14
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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勝保沢城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0461.JPG←出丸周囲の空堀
 勝保沢城は、小田原北条氏の家臣齋藤加賀守安清が城主であった城である。安清は元々武州勝沼郷の領主(元は勝沼城主三田氏の家臣か?)で、北条氏康に仕え、妻の父狩野筑前守安元と共に北条領国の北方警備のため一族を挙げてこの地に移住したと伝えられる。1590年に北条氏が滅亡すると安清は浪人となり、城地の方一町を寄進して曹洞宗宗玄寺を開いたと言う。
 一方で、宗玄寺の寺伝では、1615年に信州松本城主小笠原秀政が開基したとされ、寺の山門・本堂には小笠原氏の家紋が描かれている。しかし秀政とこの地に何の縁があったのかは不明で、謎の多い伝承である。

 勝保沢城は、赤城山西側の中腹に築かれている。南北を沢筋で遮断された地勢で、西の段丘先端部、直線距離で1.4kmの位置には不動山城がある。不思議な縄張りの城で、主城域と思われるのは宗玄寺の付近一帯の傾斜地で、北に向かって段々と高くなっている。城内は、宗玄寺の境内・墓地と畑、山林となっている。改変が多いので明確でない部分もあるが、西にある保育園・幼稚園との間に明確な空堀が残っている。宗玄寺の周りにも空堀があったらしいが、現在は湮滅している。結局、空堀以外に明確な城郭遺構は主城域には残っていない。一方、この主城域とは別に、北西の山林の中(赤城村歴史資料館の北東)に空堀で囲まれた長円形の孤塁があり、遊歩道で散策できるようになっている。ここを主郭とする資料もあるが、周囲に付随する曲輪がなく、独立した出丸と考えた方が良い。しかし出丸をここに築いた意図はさっぱりわからない。この出丸周囲の空堀は、北西部で北斜面に竪堀となって落ちている。以上が勝保沢城の遺構で、何とも理解し難い、消化不良な印象の城である。
 尚、宗玄寺の墓地には、齋藤加賀守安清の墓があり、一番高い所には後裔である現代斎藤家の大きな墓が立っている。先祖の墓を、同じ墓域に祀らないのも不思議なことである。
幼稚園との間の堀跡の畑→DSCN0578.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.520777/139.046348/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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田野城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9302.JPG←主郭の遠望
 田野城は、小野子の砦とも呼ばれ、歴史不詳の城である。柏原城の対岸の丘陵地に位置し、白井城の境目の城として吾妻勢力に対峙していた城と推測されている。

 田野城は、東を田野沢という深い沢筋で隔絶した、丘陵中腹に位置している。南は吾妻川に臨む断崖となっている。城内は畑となっているので、踏査には地主の方の許可が必要である。たまたま畑仕事をされていたので、立ち入りをお願いした所、快く承諾いただけた。基本的には金原城と同じ段曲輪群のみで構成された城で、西側や南側は段々になった平場群が連なっている。最頂部には長円形の小さな主郭があり、周囲を高さ2m程の切岸で囲んでいる。東側の藪の中の切岸には小規模な石積みが見られるが、遺構かどうかは定かではない。しかし畑の土留にしては位置が不自然であり、遺構である可能性も十分あると思う。遺構面で特筆するような特徴はないが、主郭付近の平場群の形状は、いかにも城っぽい感じがする。
南の平場群→DSCN9334.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.552345/138.942246/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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役原城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9255.JPG←主郭北東側の切岸
 役原城は、関東管領山内上杉氏の重臣で白井城主であった長尾景春の3男長尾重儀が築城したと伝えられる。長尾景春といえば、関東全域を戦乱の渦に巻き込んで太田道灌と渡り合った大規模な叛乱「長尾景春の乱」で有名である。重儀は、後に尻高城を築城し、尻高左馬頭重儀と改めた。明応年間(1492~1501年)頃に息子に尻高城主を譲り、役原城に隠居したと言う。

 役原城は、役原川西岸の段丘の縁に築かれている。城の東側は川に臨む崖となっており、西側を堀で台地との間を断ち切った城だった様である。現在城址標柱と解説板が立っている畑が主郭で、縦長の長円形をしている。主郭は北から東にかけては段丘崖の切岸で囲まれ、西側は堀跡が一段低い道路となって残っている。主郭の南には、堀切跡の道路を挟んで、台形状に広がった二ノ郭があった様である。城内は宅地や畑に変貌しており、改変が多いので、城域がどこまで広がっていたのか、判断が難しい。尚、堀跡の道路から西側の台地の方が、城内の曲輪より高い位置にあるのも少々謎である。
堀跡の道路→DSCN9258.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.631182/138.924962/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

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  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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金原城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9217.JPG←主郭と思われる畑
 金原城は、白狐城とも言い、応永年間(1394~1428年)に金原左衛門尉という武士の居城であったと伝えられている。

 金原城は、吾妻川南岸の比高35mの丘陵先端部に築かれている。登り口に城址標柱があり、そこから登っていくと腰曲輪状の平場を経由して忠霊塔の建つ平場に達する。これがどうも二ノ郭であるらしい。その上にももう一段、畑になっている平場があり、おそらくこれが主郭なのだろう。主郭の後部は一段高くなっている他、東側にも段々になった腰曲輪状の平場がある。しかし城とするには、背後の台地基部を分断する堀切も見られず、段曲輪群のみで構成された城で、しかも後世の改変もあるので全てを遺構とみなせるかどうか、少々疑問に思うところもある。『群馬県古城塁祉の研究』では、「階段状になった地形を遺すのみで遺構は明らかでない」と書かれているそうだが、その通りの状況である。尚、吾妻川を挟んで目の前には岩井堂砦の奇岩がそびえている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.551190/138.902775/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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深津坂田城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2066.JPG←堀跡の段差か?
 深津坂田城は、深津館とも言い、この地の土豪であった深津氏の居館であったと伝えられている。

 深津坂田城は、前橋市の史跡に指定されており、資料によれば「堀の内と呼ばれる方160mの二重堀に囲まれた一郭が本丸跡と推測され、北東隅に一部堀跡が残る」とされる。しかし史跡の標柱もなく、場所もはっきりしない。おそらく市道脇の民家が主郭跡であったと思われるが、敷地の周囲に若干の段差が見られるほか、車道を挟んで西側にも畑に段差が見られる。これらが堀跡の段差なのであろうか?また民家の北西部が一段高くなっていて、祠と古風で小さな五輪塔数基があるのが、庭木の間から見える。今となってはほとんど失われてしまった城であるらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.400819/139.205489/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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善昌寺城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0146.JPG←善昌寺境内の五輪塔群
 善昌寺城は、歴史不詳の城である。この周辺の中心城郭とされ、谷津館・中塚城・北山館などは全て、善昌寺城の支城であったと伝えられる。善昌寺城のある善昌寺は、元は806年に伝教大師最澄が上野へ下向した際、先達であった最澄の弟子宥海によって創建された大同寺であったと言われる。南北朝時代の1338年、越前で斯波高経率いる北朝方と激しく交戦していた新田義貞が燈明寺畷で討死し、その首級が京都で晒されると、桃井次郎がその首級を密かに上野国に持ち帰り、新田義貞の執事であった船田長門守善昌に預けた。善昌は主君の首級を手厚く葬り、供養のためこの寺で生涯を終えたと伝えられる。大同寺はそれ以降、善昌にちなんで、善昌寺と称するようになったと言う。
 尚、『太平記』と『梅松論』では、善昌は1336年の第1次京都争奪戦の際、正月16日合戦で討死したとされる。最側近である執事が主君から遠く離れていたとは考えにくく、善昌寺の寺伝は伝説に過ぎないだろう。どちらかといえば、船田善昌の一族の者が、善昌の菩提を弔うために善昌寺を建立し、合わせて新田義貞の菩提も弔ったというあたりが事実に近いのではないかと思う。

 善昌寺城は、前述の通り善昌寺の境内となっている。特に遺構は確認できないが、寺の裏手の高台に新田義貞首塚を初めとする五輪塔群がある。寺の門前の掲示板では、義貞の3男新田義宗の墓もあるようだが、どれが義宗の墓なのかはわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.427912/139.249982/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

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  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2013/01/15
  • メディア: 文庫


タグ:中世平山城
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梅原館(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0071.JPG←土塁と堀跡
 梅原館は、桐生氏の初期の居館と考えられている。平安末期から鎌倉初期にかけて、この地を根拠とした足利俊綱(藤姓足利氏、藤原秀郷の後裔)の家臣桐生六郎(前桐生氏)は、梅原館を居館としたと推測されている。室町時代に桐生城が築かれると、桐生城の麓に新たに居館が築かれ、それ以降梅原館は下屋敷となっていたものと考えられている。

 梅原館は、梅原薬師堂・公会堂と民家の敷地となっている。西側に、南北に長いコの字型の土塁が良く残り、空堀らしい跡も見られる。南側に虎口があったらしいが、虎口東側の土塁は民家が建って削られてしまっている。また方形居館であったと思われるが、東側の土塁と空堀は桐生川に削られてしまったらしい。住宅地にしては土塁がよく残っており、見ごたえがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.432004/139.355221/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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桐生陣屋(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0045.JPG←陣屋跡地付近の現況
 桐生陣屋は、江戸初期に徳川幕府が設置した陣屋である。大久保石見守長安とその手代・大野八右衛門によって御陣屋敷が造られた。1779年に出羽松山藩主酒井石見守忠休に桐生5000石が加増され、1785年に御陣屋敷が新築された。以後幕末まで松山藩の上州分領であったが、明治維新後に陣屋は取り壊された。

 桐生陣屋は、現在の寂光院の辺りに築かれていたと言う。街道に面した傾斜地にあり、20m程の高台にある。明確な遺構はなく、保育園脇の神社のそばに「桐生陣屋空堀跡」の看板が立ち、また保育園の建物裏に、戦国時代に桐生氏の抜け道であったと言われる横穴が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.420471/139.340823/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

  • 作者: 米田 藤博
  • 出版社/メーカー: 株式会社クレス出版
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
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下田島城(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0021.JPG←南西部の櫓台跡
 下田島城は、現地解説板には岩松城と記載され、江戸時代前期の1663年に岩松秀純が構えた陣屋である。はっきりしないが、元々戦国時代に下田島城が前身として存在していたらしい。秀純の祖父守純は、重臣由良氏(横瀬氏)の下剋上によって没落していたが、1590年に徳川家康が関東に入部すると、家康に召し出された。岩松氏は新田一族の出自で、南北朝時代に新田宗家が南朝方に付いて衰亡した後、新田荘を掌握した岩松氏がその名跡を継承し、実質的に新田氏の嫡流となっていた。家康は、自身が新田氏の一族世良田徳川氏の後裔を称したことから、本家筋の守純に新田氏の系図を譲るよう要求したが、守純はこれを拒絶した。そのため家康の不興を買い、新田郡市野井でわずか20石の捨扶持を給されたのみであった。その後、豊純・秀純と続き、1663年に4代将軍家綱から100石を加増され、下田島城に陣屋を移した。明治に入ると新田姓を名乗り、男爵の地位が与えられた。

 下田島城は、現在太田フレックス高校(旧尾島女子高校)の校地に変貌している。『日本城郭大系』ではほぼ完全に遺構が残っていると記されているが、国土地理院の空中写真閲覧サービスで過去の航空写真を見ると、昭和40年代前半には校地拡張で破壊されている。現在はわずかに南西部の土塁と櫓台が残っている。『大系』の縄張図を見ると、北西に張出しの櫓台を持ち、北東に鬼門除けの角欠けを設け、全周を土塁で囲んだ単郭の城だった様だ。学校の校地拡張で遺構を破壊したことは、誠に残念でならない。解説板も消えかかっているのが悲しい。尚、学校の敷地内なので、見学に当たっては許可が必要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.265262/139.315073/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上野岩松氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)

上野岩松氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/05/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
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