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新田の庄 その3(群馬県太田市・伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

 新田一族が蟠踞した新田の庄。太田市周辺は、知る人ぞ知る新田源氏一族の史跡の宝庫である。以前に2度にわたって各所に散在している史跡を訪問しているが、今回はその補遺。

<田中館>
DSCN9990.JPG←北側に残る土塁跡らしい土盛り
 田中館は、新田氏の一族田中五郎義清の居館である。義清は、新田義重の子里見義俊の5男で、田中村に分封されて田中氏を称した。承久の乱の後、大島・大井田・鳥山などの新田一族が越後に移住して越後新田党を形成すると、田中氏も越後に移り、越後新田党の一員となった。南北朝の動乱では、新田義貞の挙兵に従った一族の中にも「越後国の一族、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々」と『太平記』(第10巻)にあり、田中修理亮氏政は湊川合戦や武蔵野合戦など各地に転戦した。
 田中館は、現在長慶寺の境内となっている。元は放(宝)光寺と言ったらしいが、南朝第3代長慶天皇を新田一族が奉じて戦ったことから、長慶天皇の伝承の御陵塚を祀り、長慶寺と名を改めたと言う。遺構としては、境内北側に土塁跡らしい土盛りが残るだけである。尚、境内には長慶天皇と田中義清の宝篋印塔が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.299424/139.277576/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<上田中屋敷>
周囲の水堀→DSCN9998.JPG
 上田中屋敷は、上田中馬場館とも言い、新田氏の庶流田中氏の一族と思われる岩崎氏の居館である。現在は民家の敷地となっているが、四周を囲む水堀がしっかりと残っている。この水堀は、国土地理院の1/25000地形図でもしっかりと描かれている。これほどしっかりと全周の水堀が残っている民家は珍しく、貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.305598/139.269959/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<西今井館>
DSCN0007.JPG←館跡の民家
 西今井館は、鎌倉時代に新田氏の一族今井氏の居館で、後の戦国時代には茂木氏の居館であったと伝えられる。茂木氏は桐生から移り住んだと言われ、当時境城主であった小此木氏と結縁があったと言う。
 西今井館は、西今井中世居館跡という史跡名で市の史跡に指定されている。現在は民家になっており、南と東に堀跡の水路が流れているようだが、夏場だと草むらに隠れてしまっていて、一部しかよくわからなかった。ちょっと残念な状況である。尚、堀は早川の水を貯水し、堰は水量調節の役目を果たすなど用水管理の一面を持っていたとされる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.285865/139.264723/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<安養寺館>
館跡の明王院→DSCN0110.JPG
 安養寺館は、新田義貞の館であったと推測されている。峰岸純夫著『新田義貞』によれば、義貞の法号は「安養寺殿」で、安養寺は義貞の菩提寺でもあった。また南の「寺屋敷」の部分から南北朝期の板碑・陶磁器類が多数出土し、明王院南西隅の一角で大規模な堀の一部が確認されたと言う。
 安養寺館は、現在は安養寺明王院の境内となっている。遺構は全く無い。ただ、義貞の弟で義貞死後も南朝方として各地を転戦し、最後は伊予で病没した脇屋義助を供養する板碑が、境内裏手に残っている。尚、明王院は、新田触れ不動尊としても知られる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.258912/139.303240/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<一井兵部屋敷>
DSCN0006.JPG←北側の堀跡
 一井兵部屋敷は、新田氏の一族一井兵部大輔貞政の屋敷である。一般には「蛇屋敷」とよばれるが、兵部屋敷の転訛である。貞政は、新田政義の3男堀口家定の2男で、一井(現・市野井)に分封されて一井氏を称した。貞政は、新田義貞に従って各地を転戦し、1337年に越前金ヶ崎城で厳しい籠城戦の末、新田義顕(義貞の嫡男)・尊良親王(後醍醐天皇の第1皇子)と共に戦死した。しかしその後も越前で戦った一井兵部少輔氏政が知られ、氏政は畑時能と共に鷹巣城に立て籠もり、城を包囲した斯波高経率いる幕府軍に徹底抗戦した。
 一井兵部屋敷は、現在工場と民家の敷地となっている。工場の北側に唯一の現存遺構である湧水の堀が残り、「新田の湧水 一の字池」という解説板が立っている。その中に、一井貞政の事も書かれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.313880/139.308304/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※過去の新田の庄の記事は、こちらこちら


新田義貞 (人物叢書)

新田義貞 (人物叢書)

  • 作者: 峰岸 純夫
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2005/05/01
  • メディア: 単行本


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廣瀬屋敷(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9888.JPG←西側の水堀跡
 廣瀬屋敷は、群馬県遺跡地図では本郷A館と記載され、市野井・本郷遺跡(市野井城館群)の一つである。現地解説板によれば、廣瀬氏の環濠屋敷で、廣瀬氏は15世紀の末に近江国廣瀬村から金山城主岩松氏の家臣としてこの地に来住したと言う。

 廣瀬屋敷は、新田義貞挙兵の地として有名な生品神社の南方約700mの位置にあり、現在も廣瀬家の宅地となっている。北西から南西にかけての西面に水堀が残る他、東側にも堀跡が水路となって残っている。北側に湧水地があるらしく、ここからの湧き水が堀跡に流れ込んでいる様である。廣瀬屋敷に限らず、新田荘は大間々扇状地の扇端部を中心とすることから、豊富な湧水地に恵まれており、それを堀に引き込んで屋敷の防備を固めていたのだろう。宅地内は、周囲より一段高くなっており、西側には林の中に土塁らしい跡も残る。西側の堀の前に、湧水に関する解説板が立っており、その中に廣瀬屋敷の歴史が簡単に書かれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.310975/139.307338/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田義貞:関東を落すことは子細なし (ミネルヴァ日本評伝選)

新田義貞:関東を落すことは子細なし (ミネルヴァ日本評伝選)

  • 作者: 山本隆志
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2005/10/10
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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小金井館(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9878.JPG←西側の水堀と土塁
 小金井館は、村田本郷館とも言い、岩松氏の一族で金山城主岩松昌純の家臣であった小金井繁光の居館と伝えられる。
 小金井館は、生品幼稚園の東方200m程の位置に築かれている。現在は民家の敷地になっているが、周囲に土塁が築かれ、西面から北面にかけては水堀も明確に残っている。市の史跡にも指定されていないが、貴重な遺構であるので、行政による保存の措置が望まれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.315730/139.319633/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田岩松氏 (中世武士選書 第 7巻)

新田岩松氏 (中世武士選書 第 7巻)

  • 作者: 峰岸 純夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/09/08
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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彦部家屋敷(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9822.JPG←搦手の枡形虎口
 彦部家屋敷は、足利氏の譜代家臣高氏の庶流彦部氏の屋敷である。高氏は高階氏の出自で、古くは平安時代から源氏との関係を有し、鎌倉時代には代々足利氏の執事となって家政全般を取り仕切っていた。高氏で最も有名なのは足利尊氏の執事であった高師直で、その事績は師直塚の項に記載する。彦部氏の初代は光朝で、鎌倉時代に足利氏の一族斯波氏に仕えて陸奥国斯波郡彦部郷に入部し、彦部氏を称した。その後彦部氏は、南北朝の動乱の中で足利一門に従う高一族の一として活躍し、太平記にもしばしばその名が現れている。その後、多くの足利一門と同様、彦部氏も京都の室町将軍に仕える系統と、鎌倉府に仕える系統に分かれたらしく、彦部家屋敷の彦部氏は室町将軍に仕えた系統であったらしい。戦国後期の1560年、関白近衛前嗣が上杉謙信の招請に応じて関東に下向した際、彦部信勝は前嗣に供奉して桐生城を来訪した。前嗣はその後、越後を経由して京都に帰還したが、信勝は一族を頼って桐生広沢郷に留まり、金山城主由良成繁の庇護を受けて、1562年にこの屋敷を築いたと言われる。背後の山上には手臼山砦が築かれた。信勝は将軍家側近の格式であったことから、由良氏とは政治的に一線を画しており、豊臣秀吉の命で由良氏が常陸牛久城に移封となった後も、所領を安堵されてこの地に留まった。以後、この地で帰農し、現在に至るまでその系譜は連綿と続いている。

 彦部家屋敷は、現在は国の重要文化財「彦部家住宅」の敷地となっている。南西側以外の三方に土塁を廻らし、北西側には堀跡も明瞭に残っている。北東には櫓台を築き、その西脇に搦手の枡形虎口が残っている。屋敷地内には、主屋の他に長屋門・冬住み・文庫倉・穀倉が残っている。近代には桐生の織物業界で指導的立場だったとのことで、織物工場や寄宿舎も残っている。寄宿舎は重文の指定外のため、保存に頭を痛めているとのことである。また敷地奥の八幡神社は、源義国が石清水八幡宮(源氏の氏神)から勧進したと伝えられている。彦部家屋敷は、戦国時代の武家屋敷の面影を色濃く残す、貴重な史跡である。
北東側の櫓台と土塁→DSCN9873.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.373543/139.348258/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


高 師直 -室町新秩序の創造者- (歴史文化ライブラリー)

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2019/05/17
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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本矢場城(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9725.JPG←神社周囲の土盛り
 本矢場城は、上野の豪族由良氏の庶流矢場氏の城である。由良氏は元は横瀬氏と言い、足利氏・新田氏両方の流れを汲む金山城主岩松氏の重臣であったが、下克上で主家を追い落とし、自身が国主となって由良氏に改称した。永正年間(1504~21年)に横瀬国繁の弟国隆が、矢場郷に入部して矢場氏を称し、矢場城を居城とした。国隆の子植繁が、本矢場城に在城したとされる。その他の詳細は不明である。

 本矢場城は、現在は住吉神社の境内となっている。平地に築かれた平城で、神社境内の周囲には土塁らしい土盛りが見られる。但しこの土盛りは、神社建立の際の構築とも考えられ、城郭遺構かどうかは全く確証が持てない状況である。周りは住宅地で囲まれ、往時の雰囲気も失われてしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.305338/139.418339/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上野岩松氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)

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  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/05/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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入沢城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8145.JPG←堀切跡
 入沢城は、渋川城とも言い、この地の豪族入沢氏の居城である。元々は鎌倉時代に足利氏の一族渋川氏の祖、足利義顕が渋川保を領して城を築いたことに始まるとされる。渋川氏は、1335年の中先代の乱の時、渋川義季が女影原の戦いで岩松経家と共に討死している。義季の妹は足利直義の正室で、義季の娘幸子は2代将軍足利義詮の正室となるなど、足利将軍家と近い間柄で、義季の孫義行以降は九州探題に補任され、西国に活動の拠点を移した。時代は降って戦国中期の1544年3月、信州佐久の豪族入沢治部少輔時吉がこの地に移住して渋川故城の主郭跡に屋敷を築いた。1557年、入沢氏は吾妻大戸城(手子丸城)主大戸氏から軍功により渋川西部を与えられ、元亀・天正年間(1570~92年)には上州西部を支配した武田氏に仕えた。武田氏滅亡後は上州の大半を制圧した小田原北条氏に仕えたが、1590年に北条氏が滅亡すると時吉の子吉広は館を廃し、帰農したと言う。

 入沢城は、榛名山の東麓、平沢川と黒沢川の合流点に突き出た舌状台地の東端に築かれている。元屋敷という地名の東の主郭と、五輪平という地名の西の二ノ郭から構成されている。主郭・二ノ郭共に大半が耕地となっているが、間には堀切跡が浅くなっているものの明確に残っている。主郭は先端部が一段低くなっており、2段の平場で構成されている。『日本城郭大系』では二ノ郭の西側には土塁が残るとしているが、現地標柱では積石猪鹿防ぎ跡とされる。城の土塁跡をそのまま猪鹿防ぎに転用したのかも知れない。いずれにしても、居館機能を主とした城であった様だ。
 尚、入沢城・引越山の砦鐙山の砦などで構成された入沢城砦群があり、入沢城はその中心であった。『日本城郭大系』群馬編を著した山崎一氏は「地域城」という概念を導入して、この城砦群も「入沢地域城」としているが、私はこの概念には懐疑的で、城砦群や支城群と何が異なるのかさっぱりわからない。そこでここでは「入沢城砦群」と記載した。
 また入沢氏の墓が、鐙山の砦の北東麓の墓地内に残っている。
主郭下段平場からの眺望→DSCN8139.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.499857/138.982834/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)

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  • 作者: 佐藤 進一
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2005/01/01
  • メディア: 文庫


タグ:中世平山城
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引越山の砦(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8117.JPG←丘上の平場と眺望
 引越山の砦は、入沢城を中心とする入沢城砦群の一つである。尚、『日本城郭大系』群馬編を著した山崎一氏は「地域城」という概念を導入して、この城砦群も「入沢地域城」としているが、私はこの概念には懐疑的で、城砦群や支城群と何が異なるのかさっぱりわからない。そこでここでは「入沢城砦群」と記載する。

 引越山の砦は、入沢城の入り口を押さえる砦で、比高5~6m程の東西に細長い小丘となっている。『日本城郭大系』では「最近土地改良で消滅」とあるが、昭和20年代前半の航空写真と見比べると、小丘は北と東が削られて形状が変わっているものの、概ねの形状は残しているようである。小丘の登り口である西側に城址石碑が立ち、丘上はただの平場が広がっているだけである。この平場からは、東に視野が開け、渋川市街地から遠く赤城山の西麓まで見渡すことができる絶好の物見場である。警戒のために構築された物見の砦だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.499908/138.987533/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

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  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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鐙山の砦(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8070.JPG←土塁と空堀
 鐙山の砦は、入沢城を中心とする入沢城砦群の一つである。尚、『日本城郭大系』群馬編を著した山崎一氏は「地域城」という概念を導入して、この城砦群も「入沢地域城」としているが、私はこの概念には懐疑的で、城砦群や支城群と何が異なるのかさっぱりわからない。そこでここでは「入沢城砦群」と記載する。

 鐙山の砦は、黒沢川南岸の比高60m程の台地の辺縁部に築かれている。砦の名の通り、簡素な城砦で、西側の台地続きに幅広の空堀を穿ち、内側に低土塁を築いている。土塁の中央付近には櫓台があり、その部分で塁線が屈曲し、横矢を掛けている。東側には斜面に沿って3段程の曲輪があるが、曲輪間の段差は小さく、普請はわずかである。曲輪群の南側は自然の谷戸が入り込み台地との間を隔絶している。城域の東端は境界がはっきりせず、自然地形の尾根が続いている。縄張りは簡素であるが、城域は広く、まとまった数の軍団の駐屯地だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.497821/138.984743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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行幸田城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN7972.JPG←主郭西側の空堀(藪が酷い)
 行幸田城は、永禄年間(1558~70年)の頃、小林出羽守が城主であったと考えられている。その名は、上杉謙信が初めて関東に出馬した際に参陣した諸将を記載した『関東幕注文』に記されている。小林氏は、坂東八平氏の一であった秩父氏の庶流高山党の出自とされる。高山党は、高山城を本拠とした一族である。

 行幸田城は、榛名山東の中腹の標高310mの段丘先端部に築かれている。選地としては、1.7km南にある有馬城と同じである。東端に小さな主郭を置き、西側を空堀で分断している。主郭の空堀沿いには土塁が築かれている。主郭の南北には腰曲輪が築かれ、特に南の腰曲輪は南端に虎口があり、そこから東に降る山道が残っている。主郭から空堀を介して西側には広大な外郭が広がり、中央付近に高圧鉄塔が建っている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、この鉄塔の南北に、食い違いとなった堀切が南北に穿たれていたらしいが、現在はほとんど埋められてしまっている。外郭の南辺には一段低い帯曲輪が置かれている。外郭の西端は、現在車道が通っているところと思われ、形状から推測して車道が通るのは空堀の跡と思われる。以上が行幸田城の概要だが、外郭は耕作放棄地で一面の薮、主郭と空堀も深い薮に覆われて、その形状を追うことも難しい。有馬城も藪がひどかったが、ここも未整備で残念な状態である。
腰曲輪から降る小道→DSCN8003.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.481381/138.990108/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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下小屋城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN6307.JPG←主郭周囲の土塁
 下小屋城は、1572年の甲斐武田氏の侵攻に際し、伊香保地衆が築いた城と言われる。その他の歴史は不明である。

 下小屋城は、伊香保温泉にほど近い榛名山の北側中腹に築かれている。沼尾川とその支流の西沢によって南北を深く削られた断崖地形の上に位置している。県道155号線の脇の空き地に車を停めると、目の前に削り残し土塁のような大きな土壇がある。その脇から城に向かって小道が伸びている。道の両側に互い違いに土壇があり、往時の虎口の名残のように思われる。土壇の基部には石積みが見られるが遺構かどうかは不明である。道を先に進むと広大な平場が広がっており、これが主郭であるらしい。耕作放棄地の様だが薮払いはされており、内部の踏査は容易である。林の中に入っていくと、主郭の周囲には土塁が延々と築かれているが、西端ではその外側の二ノ郭の方が主郭より高くなっており、不思議な縄張りである。また主郭の東側には下郭(三ノ郭?)が築かれている。下郭の外周から主郭南側にかけては崩落地形の断崖で、いつ崩れるかも知れず、あまり縁には近づきたくない。一方、二ノ郭の北側下方にはいくつもの腰曲輪があり、断崖に面している。下郭の形状も含めて、この腰曲輪付近の様子は『日本城郭大系』の縄張図とあまり合っておらず、豪雨時の断崖の崩落によりかなり地形が変化しているのではないかと思われる。断崖に面した主郭の南辺や北辺の縁には低土塁が築かれているが、崩落しやすい地質なので往時のものではなく、耕地化に伴うものと推測される。この他、主郭の台地基部には堀切があったらしいが、現在は埋められてしまっている。下小屋城の構造は以上で、断崖の地勢だけを頼みとした技巧性のない縄張りで、秩父方面によく見られる、武田軍の略奪侵攻に備えた、有事の際の地衆の逃げ込み城だった様である。
二ノ郭北側の腰曲輪→DSCN6264.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.513310/138.918504/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東アジアの中世城郭: 女真の山城と平城 (城を極める)

東アジアの中世城郭: 女真の山城と平城 (城を極める)

  • 作者: 臼杵 勲
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/05/22
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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市城砦(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN6161.JPG←南部郭の曲輪
 市城砦は、岩井堂砦と関連した城砦と考えられている。この地は真田幸隆による岩櫃城攻略以降、武田方の吾妻勢と上杉方の白井勢との間で度々争奪の場となっている。『吾妻記』『加澤記』等には、「市城口岩井辺の要害」「市城岩井堂」「市城表」などと記述されており、はっきりと岩井堂城(岩井堂砦)とは書かれていない。しかし眺望に優れた岩井堂砦に対して、その山陰に寄り添うように築かれた市城砦は、峻険すぎてまとまった数の兵を置くことができない岩井堂砦を背後から支援する小軍勢の駐屯基地で、岩井堂砦と一体となって機能した城砦であったことが考えられるだろう。

 市城砦は、岩井堂砦のある山から深い谷を挟んですぐ北西の丘陵地に位置している。南部郭と北部郭から構成され、登り口が整備されているのは南部郭である。登り口から南部郭の広い曲輪に登ると、以前は柵や櫓が建っていたようだが、現在はなくなっていた。この平場の南側には数段の腰曲輪が築かれている。背後にそびえる細尾根は物見か烽火台と考えられ、尾根裏には小郭と堀切状の鞍部が見られる。北部郭は耕作放棄地らしく、現在は薮だらけだが、何段かの平場がある。一部に石積みが確認できるが、往時の遺構ではなく、耕地化に伴うものだろう。わずかに藪の中に堀切も確認できる。曲輪群の先端部は幅の細い物見のような平場となって、平地の上に突き出ている。以上が市城砦の概要で、小規模な軍勢の駐屯地らしい遺構である。
北部郭の曲輪→DSCN6184.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【南部郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.562583/138.897475/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【北部郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.563669/138.897818/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


古写真で見る幕末の城

古写真で見る幕末の城

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2020/06/01
  • メディア: 単行本



タグ:中世平山城
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岩井堂砦(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN5490.JPG←岩井堂砦の遠望、
                          主郭は左下の平場
 岩井堂砦は、白井城岩櫃城の中間にあり、両者の間で抗争が繰り広げられた砦である。一説には、平安時代の延久年間(1069~74年)に山田太郎為村が築き、数代にわたり村上氏、後に下川辺朝村氏、藤原氏の居城となったと言う。戦国後期に武田氏配下の真田幸隆が岩櫃城を攻略して吾妻郡を支配下に収めると、上杉方の白井城との間にあるこの地は互いの動向を見定める絶好の物見場として、武田・上杉両氏の抗争の場となった。1579年には真田昌幸の家臣海野長門守が城主となり、その後、富沢伊賀が在城したともされる。1587年7月には、上野北部に激しい攻勢をかけていた鉢形城主北条氏邦の軍勢が岩井堂砦を攻略している。

 岩井堂砦は、この地域に多い屹立する岩山に築かれている。南麓から登山道が整備されているが、なかなか険しい岩場の道である。途中、天然の堀切のような岩場を抜け、この道を登りきると、小さな小屋の建つ平場に至る。展望台として手摺やベンチが整備されており、ここが砦の主郭と思われる。ここからは吾妻川流域が一望できる。主郭の後部は一段高くなっており、その裏には天然の堀切地形がある。堀切地形の先にも「岩井堂砦登山道 狼煙洞」と表示があり、鎖場が続いている。屹立する岩の横を抜けて進むと、狼煙洞と思われる岩の大穴に至る。遠くから岩井堂砦を望むと、この上にも平場らしいものが見えていたので、その先にも登ってみたが、ハードなロッククライミングコースで、足を滑らせたら滑落必至の難所である。登った先の山上は猫の額ほどの小さい岩場で、立っているだけでも大変で、風の強い日だったらかなり危険である。国土地理院地形図を見ると三角点があるのは更にこの上だが、絶壁が続いており、本格的なロッククライマーでなければ、三角点にはとても近づけない。この様に岩井堂砦は、主郭部以外はほとんど城らしい普請のない、自然地形をそのまま利用した小城砦である。普通に考えれば争奪に値しないような砦だが、その優れた眺望によって、戦略的な重要性があったのだろう。
 尚、主郭から先はかなり健脚の人でないと危険な道なので、特に高齢者にはお勧めできないことをお断りしておく。
主郭→DSCN5466.JPG
DSCN5473.JPG←狼煙洞という岩場の大穴

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559636/138.899943/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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金山城・九十九山砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0480.JPG←主郭西側の段差と堀跡の道路
(2019年12月訪城)
 金山城は、この地の土豪高山氏の城と伝えられている。城址石碑にある刻文によれば、高山氏の祖、源義政が築いたと伝えられると言う。義政は新田義重の孫に当たると伝えられるが、新田氏の系図には見られず、後世の仮託の可能性が高い。戦国時代の城主は高山山城守で、元亀年間(1570年~1573年)に廃城になったと言う。

 金山城は、現在細ヶ沢川東岸の台地上に築かれた城である。現在は宅地化・耕地化が進んでおり、明確な遺構は少ない。主郭は東城と呼ばれ、宅地と畑であるが、周囲より一段高くなった高台で、概ねその形状は残っている様である。主郭北辺の県道101号線沿いに、城址標柱が立っている。この県道も含めて、周囲の道路は空堀の跡であるらしい。主郭の西側には、堀跡の車道を挟んで中城・西城の地名が残る二ノ郭・三ノ郭があるが、宅地化・耕地化による改変が多く、その形状を追うことは難しい。この他、県道の北側も外周の曲輪であったと考えられ、北西部には細ヶ沢川に繋がる深い水路があり、大外堀を為していたと思われる。主郭東側には虚空蔵郭と言う外郭があり、かつてはその東端を区切る谷筋が入り込んでいたが、現在は耕地整理で谷が埋められており、全く城跡らしさを残していない。

 九十九山砦は、金山城の南東300mにある比高25m程の九十九山にあり、金山城の烽火台であったとされる。散策路があるので容易に登ることができる。山頂には前方後円墳があり、それをそのまま烽火台や物見台として使用していたのであろう。城砦としての改変は見られない。
九十九山山頂の前方後円墳→DSCN0456.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【金山城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.440567/139.059395/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【九十九山砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.438133/139.060940/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田義貞 (人物叢書)

新田義貞 (人物叢書)

  • 作者: 峰岸 純夫
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2005/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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引田城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0438.JPG←北側の切岸状の斜面
(2019年12月訪城)
 引田城は、この地の土豪引田氏が築いたと推測されている。1560年に上杉謙信が初めて関東に出馬した際に、参陣した武士達の家紋をまとめて書き上げた『関東幕注文』には、引田伊勢守の名があり、この伊勢守が森山に引田城を築き、厩橋城の長野氏に従っていたと考えられている。尚、引田城の北西麓には小館跡があり、応永年間(1394~1428年)に引田左衛門尉盛利が拠った館と推測されている。

 引田城は、比高10mに満たない独立小丘(森山と言う)に築かれている。小丘上には現在工場が建っている。そのため、敷地内に入ることができず周囲から見るだけであるが、丘という地勢以外は遺構は湮滅している。丘の周囲は切岸状の斜面で囲まれている。『日本城郭大系』の縄張図では、土塁で囲まれた南北にやや長い主郭と、その北側半周に土塁を有した腰曲輪を廻らしていたとされる。一応、斜面のガサ薮に突入してみたが、腰曲輪は確認できなかった。
 一方、北西麓にある小館は、民家の敷地になっている。背後に当たる西側が高台となっていて、その崖に面した珍しい地勢に築かれた居館である。遺構はほとんど無く、北側に堀跡らしい水路があるだけである。
水路がある小館北側→DSC_8479.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.454358/139.066647/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)

長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/12/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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田島城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0416.JPG←二ノ郭西側の横堀と土塁
(2019年12月訪城)
 田島城は、歴史不詳の城である。小河川の東岸にある比高10m程の丘陵地に築かれている。主郭は現在、ソーラー発電所に変貌している。10年ほど前までは耕作放棄地で進入は困難だったようだが、発電所になったおかげで外周部を歩くことができる。主郭の西側には土塁が残っている。この土塁の西斜面には比較的大型の石が多数転がっている。ネット上の意見では、石垣があったのではないかとの推測もあるが、昔畑だったことを考えると、畑から出てきた石を捨てただけのように思われる。あまり遺構っぽくは感じられないが、土中から出てきた石にしてはちょっと大きく、形も角張った石なので、少々解釈に苦しむ。主郭の南には、空堀を挟んでニノ郭があるが、薮が酷すぎて全く踏査できない。空堀も薮の隙間からわずかに分かる程度である。ニノ郭の西側には横堀が穿たれ、横堀の外側には土塁が築かれている。これは嶺城と同じ構造で、築城主体が同じであった可能性を示唆するものかもしれない。確認できた遺構は以上で、薮がひどかったり民家だったりして入れない部分も多く、改変されている部分も多く、全体像をはっきりと掴むことはできなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.451596/139.072784/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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嶺城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0261.JPG←弧を描く四ノ郭北側の空堀
(2019年12月訪城)
 嶺城は、田中城とも言い、厩橋城主北条丹後守高広の家臣田中大弐の居城である。高広は越後の上杉謙信の家臣で、1560年に初めて関東に出馬した謙信は、1563年に上杉方の上野支配の拠点厩橋城に高広を置いて、関東方面の政治・軍事を差配させた。上野に入った高広は、嶺城を築いて田中大弐を置いて守らせたと言う。

 嶺城は、南に向かって張り出した比高20m程の舌状丘陵に築かれている。主郭を中心に、南北に曲輪を連ねた連郭式の縄張りを基本としている。主郭の南に二ノ郭を置き、北には三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭を連ね、それぞれ空堀で分断している。空堀は、二ノ郭と主郭の間のものは規模が小さいが、それ以外は規模が大きい。特に四ノ郭北側の空堀は、弓形に弧を描く大空堀である。三ノ郭北側の空堀は、東側で横矢掛りのクランクを設けている。これらの空堀は、西側斜面で竪堀となって落ちている。また主郭から五ノ郭まで、西側には横堀が穿たれ、外側を土塁で防御している。前述の空堀は、この横堀・土塁を貫通して分断している。主要な曲輪の内、しっかりと土塁が築かれているのは主郭だけで、二ノ郭・三ノ郭には部分的に見られるだけである。この他、二ノ郭の南側は台地が削られているらしく、また五ノ郭の北にある城域北端の空堀は、西側1/4だけが残り、残りは埋められてしまっている。嶺城は、良く遺構が残っており、また小さな駐車場が整備され、主郭まで散策路も作られている。整備されているのは主郭だけで、二ノ郭は竹林、三ノ郭は畑、四ノ郭は未整備の薮、五ノ郭は民有地である。しかし地元の人達の、城に対する愛情を感じさせる状態となっている。
主郭西側の横堀・土塁→DSCN0319.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.438909/139.107739/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東国の戦国争乱と織豊権力 (動乱の東国史)

東国の戦国争乱と織豊権力 (動乱の東国史)

  • 作者: 池 享
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2012/09/01
  • メディア: 単行本


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荻窪城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0238.JPG←主郭西側の空堀
(2019年12月訪城)
 荻窪城は、大胡城の出城で、足利氏の庶流とされる赤萩氏が城主であったと推測されている。この地に伝わる古文書には、1353年に赤荻主馬之介智宜、同弾正智則が居城とし、字向山に城の守本尊として大日如来を祀り、城の安泰を祈ったと伝えられている。

 荻窪城は、小河川の流れる低地帯に臨む台地南端部に築かれている。東西南北に田の字状に4つの郭を並べた構造で、北西が主郭であったらしい。現在、主郭は城址公園となって整備されている。郭内には井戸跡と解説板があり、背後には土塁が築かれている。主郭の北側から西側にかけてL字状に空堀が廻らされ、更にL字の角部から西斜面に竪堀が落ちている。主郭の東が二ノ郭で、背後に土塁の残欠が見られ、かなり埋もれているが北側に空堀があった様である。主郭・二ノ郭の南側には切岸だけで区切られた2つの曲輪があるが、いずれも民家となっている。主郭・ニノ郭の間から南に向かって小道が降っており、大手道であったと推測される。現地解説板の推定復元図を見ると、この他に主郭・ニノ郭の北側に外郭があった様に描かれているが、現在は宅地や耕地に改変されており、往時にどこまでが城域であったのかは明確ではない。荻窪城は、城の構造を見る限り素朴な構造で、古い時代の形態をそのまま残していると考えられる。
主郭の土塁と井戸跡→DSCN0230.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.413547/139.133359/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: 新書


タグ:中世平山城
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大胡城 その2(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0088.JPG←近戸郭外周の空堀
(2019年12月訪城)
 大胡城の近くを通りかかったので、11年ぶりに再訪した。今回の目的は、城域北端の近戸郭と大手口の遺構の確認である。これらの遺構は、11年前はその存在を知らず見逃していた。

 まず近戸郭は、大胡神社の裏手に大規模な遺構が残っている。高さ2m程の土塁で外周を囲み、北西部に横矢掛りの塁線の折れを設け、その外側には深さ7~8mの大空堀が穿たれている。これらはほとんど手付かずで改変を受けておらず、公園化・市街化された大胡城内では最も往時の雰囲気を残している。
近戸郭外周の土塁→DSCN0106.JPG

 次に大手(追手)付近。大手口は城域南端にある。前橋市役所大胡支所の建つ南郭の更に南で、現在は東西に車道が通っている。これが往時の大手道で、堀跡の用水路を越えて緩い登り坂を西に登っていくと、左手に秋葉台と呼ばれる土壇がある。おそらく大手口を守る物見台だったのだろう。上には御嶽山座王大権現などと刻まれた石祠が建っている。
DSCN0181.JPG←秋葉台

 場所:【近戸郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.421680/139.159216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【秋葉台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.417052/139.157671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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宿の平城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0054.JPG←主郭
(2019年12月訪城)
 宿の平城は、この地の土豪阿久沢氏の要害で、苗ヶ島城に対する詰城であったとされる。阿久沢氏といえば、東毛地区では深沢城の阿久沢氏が知られるが、それと同族であろう。ただ宿の平城は苗ヶ島城から5km以上も離れており、遺構面でもあまり普請の手が入っていないので、戦国期以前の逃げ込み城のようなものであったかもしれない。また一説には、桃井播磨守が築いた城との伝承もあるらしいが、阿久沢氏の要害とする方が自然である。

 宿の平城は、赤城山南中腹にある標高740mの御殿山と言う峰に築かれている。すぐ北側に車道があり、北西麓に城址標柱が立っている。この標柱の南に、物見台のような高台があり、その上に岩があって「見張石」と書かれた標柱が立っている。宿の平城に関連したものか、それともこの地で有名な国定忠治にまつわるものなのか、よくわからない。山上まで明確な道はないが、比高60m程なので、適当に斜面を直登し、西尾根に取り付いて登城した。山頂の主郭は明確に削平された平場になっており、南にはニノ郭の平場、西尾根にも小郭2つが確認できる。また北尾根を降った先には物見台が築かれている。その北側下方には小さな桝形虎口のような屈曲した動線が築かれている。遺構としてはこれだけで、堀切も土塁もなく、至って素朴な作りの城である。
北尾根の物見台→DSCN0076.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.493802/139.185609/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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柏倉殿替戸砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0009.JPG←台地西側の堀状地形
(2019年12月訪城)
 柏倉殿替戸砦は、この地の土豪大崎氏の砦である。大崎屋敷と呼ばれるものと同一のものらしい。阿久沢氏の苗ヶ島城の支城とも言われるが、詳細は不明である。市の指定史跡で、囲郭式の複郭との情報もあるが、現地の状況と合わない様に思う。

 柏倉殿替戸砦は、赤城山南麓の2つの小河川に挟まれた緩傾斜地に築かれている。民家の入り口前左手に砦跡の標柱が立っている。しかし普通に考えれば民家のある敷地ではなく、民家背後の台地が砦跡と思われる。民家背後は民家の敷地よりも数mの高台になっており、現在は山林となっている。西側には堀っぽい溝があり、西側の墓地脇から山林内に突入すると、堀状の溝地形や虎口状地形が見られる。南の屋敷地とは切岸で明確に区画されている。しかし民家の敷地には入れないこともあって、結局どの様な遺構なのか、全容は把握できなかった。尚、ここから北東に離れた場所を殿替戸館としているHPがあり、少々混乱も見られるようである。
山林内の堀状の溝→DSCN0020.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.454893/139.156855/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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高林代官陣屋(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1808.JPG←陣屋遺構の門と長屋門
 高林代官陣屋は、徳川家の旗本本多氏8000石の代官陣屋である。本多氏は三河国西端を本領としており、この地には来住せず、代官に在地の富沢氏を任じて所領支配を行った。
 高林代官陣屋は、現在は民家になっている。東側に立派な門と長屋門があり、これは陣屋の遺構であるらしい。これほど立派なのに、なぜ市の文化財になっていないのか、不思議である。北側には土塁と空堀が残るようだが、店舗敷地の裏手にあるため近づけず、見える部分も夏場だったので雑草で土塁しかわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.260020/139.369447/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

  • 作者: 米田 藤博
  • 出版社/メーカー: 株式会社クレス出版
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
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仙石城(群馬県大泉町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1782.JPG←大堀切の跡
 仙石城は、岡山城とも言い、赤岩六郎左衛門尉厚親と言う武士が築いた城と伝えられる。築城の時期は、元弘・建武の頃(1331~36年)と伝えられていたが、近年の研究では1415年頃とされているらしい。その後、厚親の子孫は奈良原氏を称したと言う。戦国末期には、小泉城主富岡氏の家臣岡山播磨守が仙石城を守ったと言う。

 仙石城は、利根川北岸の比高10mに満たない低台地に築かれている。現在、いずみ総合公園の西側にある南北に長い台地と、その北側に広がる広い住宅地が城域である。総合公園となっている場所には、かつては東武鉄道仙石河岸線の貨物駅、仙石河岸駅があり、南北に長い台地の先端を線路が貫通していたので、破壊を受けている。また戦後には線路の西側も採石場となって削られたらしい。昭和20年代前半の航空写真を見ると、北から南に向かって鷲の爪のように台地上の曲輪が伸びていたことがわかる。この航空写真を見ると、長く伸びた爪の部分は、3つの曲輪に分かれていたようで、南東端に笹曲輪、その西に主郭、その北に堀切を挟んでニノ郭、更に大堀切を挟んで北に広がる外郭で構成されていた様に見える。現在は笹曲輪全部と主郭の南東半分は削られて消滅し、主郭の残り部分と二ノ郭が残っている。主郭の主要部は民家が建っているので確認できず、二ノ郭は夏場だと雑草が伸び放題で台地があること以外の確認は困難である。それでも主郭と二ノ郭の間の堀切跡は、中央部は民家が建っているものの両側は窪地状になってわずかに見られる。最も明確なのは、二ノ郭と外郭を分断する大堀切で、深さはないが幅が広く、往時の堀の様子を忍ばせる。外郭は前述の通り全域が住宅地に変貌しているので、遺構は湮滅しているが、曲輪の北側塁線の名残りが住宅地内の段差となって残っている。解説板も標柱もないが、城跡らしい名残りは残っている。
外郭北側に残る段差→IMG_1802.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.240535/139.386270/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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中島将監屋敷(群馬県千代田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1756.JPG←土塁跡らしい土盛り
 中島将監屋敷は、中島館とも言い、舞木駿河守持広の居館とされる。また現地石碑の刻文によれば、古く宝亀年間(770~81年)頃に中島三郎太郎家綱という土豪の居館であったとも伝えられる。諸国巡検のため都から下向した藤原小黒麿が中島館に滞在し、家綱の娘との間に男子をもうけた。この子が佐貫太郎資高で、資高は外祖父中島将監家綱の訓育と、朝廷で大納言まで昇った実父小黒磨の後援により、無双の壮者に成長して佐貫太郎資高を称し、佐貫氏の祖となった。その後、子の太郎資綱、孫の次郎太郎嗣綱と続き、いずれも知勇に優れ、赤岩城を築いて佐貫荘一円(邑楽・館林地方)を治めたと言う。

 中島将監屋敷は、中島神社の東側にあったらしい。現在は畑などが広がり、遺構らしいのは道端の土塁跡らしい土盛りが1ヶ所だけ残っている。この上に、中島将監屋敷の石碑が立っている。尚、周りにある道端の木は、最近問題になっているクビアカツヤカミキリによって食い荒らされており、被害が甚大である。幹に網を巻くなどの対策が取られているが、痛々しい状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.225823/139.420688/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


武士の誕生 (講談社学術文庫)

武士の誕生 (講談社学術文庫)

  • 作者: 関 幸彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/01/11
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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舞木城(群馬県千代田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1753.JPG←城跡に立つ藤原秀衡の石碑
 舞木城は、享禄年間(1528~32年)に俵秀賢とその子五郎秀覧の居城であったと推測されている。俵氏は、承平天慶の乱の際に平将門討伐で功を挙げて鎮守府将軍となった藤原秀郷の末裔とされ、舞木城も元々は秀郷が承平年間(931~8年)に築城したとの伝説もある。またそれだけでなく、秀郷の誕生地であるとの伝説も残る。また『館林盛衰記』には、享禄の頃に大袋城主赤井照光が舞木城の俵氏の元へ年賀に行く途中で子狐を助け、その狐の導きによって館林城を築いたとの伝説も記されている。虚実入り交じった伝説の多い城である。

 舞木城は、現在は公園や住宅地となっており、遺構は完全に湮滅している。元々は小学校があったらしく、南にはわずかに堀跡もあったと言うが、小学校は昭和44年に移転しており、その後たわら住宅団地が造成されたため、わずかに残っていた遺構も消滅したらしい。すぐ南を利根川が流れており、赤岩城と共に赤岩の渡しを押さえる城だったのかもしれない。尚、現在公園には舞木城の解説板の他、藤原秀衡公誕生之地と刻まれた大きな石碑が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.212026/139.432511/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


伝説の将軍 藤原秀郷〈新装版〉

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  • 作者: 野口 実
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2019/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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御門城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9534.JPG←主郭北西の堀跡
 御門城は、箕輪城主長野氏の支城である。長尾景忠が城主であったと伝えられる。長尾景忠と言えば、南北朝期に関東管領の上杉憲顕配下に居た武将が知られているが、前述の伝承が正しければ時代的に合わないので、南北朝期の景忠とは別人が城主であったのだろう。

 御門城は、2つの小河川に挟まれた比高10m程の舌状台地に築かれている。南北2郭から成っていたらしいが、現在北の主郭は景忠寺となり、南の二ノ郭は墓地に変貌しているので、あまり明確な遺構は残っていない。これら2郭の間には車道が貫通しているが、堀切跡であろう。主郭の北西側の台地基部には堀跡の窪地が残っているが、これも車庫が建てられるなど改変を受けている。この他、主郭・二ノ郭の両翼には腰曲輪らしい平場が残る。二ノ郭の先端には台地下に降りる虎口状の小道も付いている。主郭南東に標柱は立つが解説文はないのが残念。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.362295/138.945465/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

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  • 作者: 加藤 理文
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2017/03/14
  • メディア: 単行本


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住吉城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9507.JPG←城址石碑
 住吉城は、仲村城とも言い、箕輪城主長野氏の支城である。烏川渡河点を押さえる要衝の地にあり、住吉玄蕃が築城したと伝えられる。1561年に武田信玄が西上州に侵攻した際には、長野業政は清水小内記正智を城主としてこの城を守らせた。1565年7月、上杉謙信が小幡・安中の奪還を図って出撃した際には、箕輪勢は住吉城を拠点とし、上杉方の先鋒となって武田勢の殿軍に肉迫し、若田原で激戦を交えたと言う。

 住吉城は、烏川と榛名白川の合流点近くに築かれている。現在は榛名白川の西側にあるが、榛名白川は戦後の河川改修で流路が大きく付け替えられており、改修以前は榛名白川の東側に位置していた。従って、周辺の地形は大きく改変されてしまっているので、現状から城の縄張りを推測するのは困難である。ただ、城の北側には東西に水路が流れ(この水路も近代に改修されている様である)、堤防脇のスナックの前に城址石碑が建てられているのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.357094/138.955743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


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浜川館(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9495.JPG←主郭南西部の堀跡
 浜川館は、浜川の砦とも言い、箕輪城主長野氏の支城である。長野氏は、箕輪城築城以前にはこの付近に本拠を置いていたと言われ、浜川館は長野氏の居館であった可能性もある。長野氏が箕輪城を居城としてからは、名将長野業政の重臣藤井豊後守友忠、或いは浜川右京亮が浜川館に居住していたと伝えられる。また道場長野氏の祖・弾正業忠も、一時期浜川館の館主であったらしい。

 浜川館は、井野川西岸の台地上に築かれている。大きな主郭と南のニノ郭から成っていたと推測され、主郭の北側には井野川支流の小河川が流れ、北端を区切る堀となっている。主郭の南から西にかけては、堀跡の低地と土塁が残っている。主郭内は完全に宅地化されているが、概ねの曲輪の形状は残っている。二ノ郭は、東側は宅地、西側は水田となっているが、水田部分は田圃整理によって西から南に巡っていた堀跡の低地は失われている。それでも平地の城館としては、主郭の形状が追えるだけマシである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.372386/138.981535/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)

長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)

  • 作者: 久保田順一
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/12/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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並榎城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9438.JPG←主郭切岸と堀跡
 並榎城は、和田城主和田氏の騎馬衆並榎将監・同庄九郎の城と伝えられている。並榎氏は、武蔵七党の一、児玉党の一流阿佐美氏の一族とされる。また城主には別説もあり、箕輪城主長野業政の家臣飯塚忠則が城主であったとも言われる。

 並榎城は、烏川北岸の段丘南端に築かれている。城の東西は小河川によって周囲の台地と隔絶されており、城を築くに好適な地である。南端中央部に縦長の主郭を置き、その東・北・西にコの字状に二ノ郭を廻らし、その北側に横長の三ノ郭を配置していたらしい。現在城内は、中心部をJR信越本線が東西に貫通し、その北側一帯は宅地化されて、遺構はほとんど湮滅している。JRの南側は一面の畑となっているが、主郭東側をニノ郭と分断する堀跡は、現在でも堀状になっていて小道が台地下まで続いている。主郭とニノ郭周辺には、往時さながらの切岸地形が残っている。この他、二ノ郭東から三ノ郭の東・北を区切る小川が、河川改修を受けながらも往時の流れを残し、天然の外堀となっていたことが伺われる。部分的ながらも城跡らしさを残してはいるのだが、残念なことに城址碑も解説板もない。城の南には公園があるのだから、解説板の一つも欲しいところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.339725/138.984604/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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安中城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9378.JPG←東門の枡形跡
 安中城は、この地を支配した安中氏の城である。安中氏の出自は諸説あって明確ではない。はっきりするのは、1487年に安中忠親が松井田西城へ移住してからである。忠親の後は、弟の榎下城主安中忠清が家督を継ぎ、その子忠政の時、1559年にこの地に居た窪庭図書を退けて安中城を築いた。これに先立つ1556年、上州に侵攻した武田信玄と、上杉方の箕輪城主長野業政・安中忠政ら上野諸将は瓶尻(みかじり)で戦い、上杉方が敗北した。この敗戦によって武田軍の侵攻に晒されるようになった忠政は、新たに安中城を築いて嫡子忠成を置いて守らせ、自身は松井田城を強化して信玄の侵攻に備えた。1561年、信玄は安中・松井田両城の中間の八幡平に陣城を築いて両城を分断し、連年攻勢を掛けた。1563年に南毛地方を平定した信玄は、翌64年に碓氷に侵攻した。この時安中城はまだ完全ではなく、忠成は武田勢に降伏した。父忠政は松井田城を固守して徹底抗戦したが、衆寡敵せず降伏し、信玄の命で自害した。その後忠成は信玄に属し、名を景繁と改めて、そのまま安中城主となった。1575年の長篠合戦で、安中一族は景繁以下悉く討死にし、安中城は守る者なく荒廃した。1596年、井伊直勝が城を再興し、1615年に安中藩の初代藩主となった。その後、堀田氏・板倉氏・内藤氏と城主が変転し、1749年に再び板倉氏が入封するとそのまま幕末まで至った。

 安中城は、南北を碓氷川と九十九川に挟まれた段丘上に築かれている。城地は、旧中山道(現在の県道125号線)と安中宿を眼下に見下ろす高台に当たる。町中の城の宿命で、市街化によって遺構はほとんど失われている。本丸は安中小学校の校地に当たり、東側の民家の間に大手門跡の区画が空き地となっている。この東には太鼓櫓もあったらしい。本丸北東の堀跡は、現在は駐車場となっていて、わずかに西側の段差が切岸の名残りを残すだけである。台地東端には東門跡の枡形が、現在でも鉤の手の車道として残っている。南東の町口門跡は、道路の形状にその名残りを残し、安中宿を見下ろしている。本丸の北東には太郎兵衛屋敷という高台があり、往時は櫓台も残っていたが、現在は国道17号線が貫通して破壊されている。以上の様に遺構はかなり壊滅的な状況だが、前述の通り大手門跡・東門枡形・町口門跡は概ねその形状を推し量ることができる。また、各所に会所跡・鉄炮場跡などの表示板があり、それを探すのもなかなか楽しい。この他、郡奉行役宅・藩士長屋・碓氷郡役所の建物が残り、大泉寺には井伊直政室・直勝室の墓も残る。これらを探して城の名残りを散策するのも一興である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329993/138.896134/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸三百藩全史【増補改訂版】

江戸三百藩全史【増補改訂版】

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: standards
  • 発売日: 2017/12/22
  • メディア: 大型本



タグ:中世崖端城
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榎下城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9226.JPG←北辺の外堀
 榎下城は、安中伊賀守忠清の居城である。忠清は松井田西城主安中忠親の弟で、1525年に榎下城を築いて居城としていた。忠親が死ぬと、忠清が跡を継いで当主となった。忠清の後はその子忠政が家督を継ぎ、引き続き榎下城を居城としたが、1559年に安中城を新たに築いて嫡子忠成を置いて守らせ、忠政は松井田城に入って城を強化し、信玄の侵攻に備えたと言う。
 榎下城は、現在久昌寺の境内となっている。台地北縁部に築かれた、回字状に二重の堀で囲まれた城だったらしいが、現在はかなりの遺構が失われている。寺の背後に当たる北側から西側の墓地裏にかけて、堀と土塁が残っているだけである。しかし、北辺は二重の空堀がはっきりと残っていて、往時の雰囲気をよく残している。西側の墓地もよく見ると段差があって、堀跡の痕跡を残している。それにしても、この様に台地辺縁部に二重空堀で囲まれた居館を築く例は珍しい。尚、久昌寺の墓地には安中忠清の墓が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.319257/138.861651/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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