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宇津山城(静岡県湖西市) [古城めぐり(静岡)]

DSC05345.JPG←本城の腰曲輪の石塁
 宇津山城は、1524年に今川氏親によって遠江・三河国境の押さえとして築かれた城である。遠江を制圧した氏親は、更に三河進出のため軍を進めたが、戸田氏や松平氏の反攻によって三河進出は一進一退を繰り返し、その影響を受けて西遠江も決して安泰というわけにはいかなかった。この頃今川氏の西遠江の拠点は曳馬城(後の浜松城)であったが、手狭な上、三河の手前に浜名湖という障壁が横たわっていて三遠国境の押さえとしては不十分であった為、新たに浜名湖西岸の半島状に突き出た宇津山に、宇津山城を築いた。宇津山城は重要な位置を占めていた為、城将は重臣から選ばれ、初め長池六郎左衛門尉親能、次いで小原備前守親高が在城し、享禄年間(1528~32年)以後は朝比奈氏が4代に渡って在城した。1560年、桶狭間の合戦で今川義元が討死すると、松平元康(徳川家康)は今川氏から離れて自立し、三河を今川氏から取り返した。その後も徳川氏の攻勢は続き、1568年には湖西方面に侵攻して宇津山城を攻略した。宇津山城を手に入れた家康は、松平家忠を入れて城を拡張し、遠江中部への前進基地とした。その後、1572年には松平備後守清善を在番させたことが知られるが、廃城の時期は不明である。

 宇津山城は、前述の通り浜名湖西岸に半島状に突き出した、標高50mの宇津山に築かれている。城域は大きく2つに分かれており、高山と呼ばれる最高所に本丸を置いた南北に長い本城(仮称)と、正太寺鼻と呼ばれる東側の突端に築かれた出城(仮称)がある。
 本城は、東麓の正太寺から登っていった先にあり、主郭は墓地横の広場となっている。ここまでは寺から車道が延び、主郭南側は地形が大きく改変されてしまっている。しかし本丸の北辺に大土塁と空堀が残っている。その先に南北に長いニノ郭と、その北側から西側にかけて三ノ郭が広がっている。二ノ郭は藪が多く、形状の把握がやや難しいが、周囲にわずかに土塁が築かれている。その下方の三ノ郭は、周囲に石塁が築かれている。この石塁は遺構とされているが、外側でなく内側に積まれていることからすると、後世の耕地化に伴う土留であった可能性も捨てきれない様に思う。また三ノ郭内には井戸跡が2ヶ所明瞭に残っている。三ノ郭の北面から西面にかけての斜面には腰曲輪群が多数ある。ここにも見事な石塁群が散在し、これも後世の耕地化に伴う改変の可能性が残るが、一部には明らかな虎口構造も見られ、遺構と見て良いだろう。この城は浜名湖の水運を利用していたらしく、湖面まで腰曲輪群が続いている様だ。
 一方、正太寺鼻の出城であるが、日本城郭大系の要図に記載された湖岸から登る城道は、かろうじて藪の中に見つかったが、その先を登っていった先の主郭は耕作放棄地の藪で、遺構の確認は困難である。城道に沿って腰曲輪群が展開しており枡形状の地形も見られる。この湖面から通じる城道は、この城が浜名湖水運を利用していたことの証拠なのだろう。出城には、西側の車道から通じる道もあるようだが、民家の私道らしく、この道の先にあるとされる虎口と空堀は未確認である。

 宇津山城は、本城の遺構がよく残るが、後世の改変の疑いもあり、中々判断に迷う城である。遺構とすれば、今川氏の城では数少ない石垣の残る城である。
本城本丸の土塁と空堀→DSC05280.JPG
DSC05430.JPG←出城の枡形状地形

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.755964/137.533325/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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吉美城(静岡県湖西市) [古城めぐり(静岡)]

DSC05252.JPG←馬出し状の平場
 吉美城は、境目城とも呼ばれ、1567年に今川氏が新たに築いた城である。1560年の桶狭間の合戦で今川義元が討死し、その後松平元康(徳川家康)が離反するなど弱体化した今川氏が、三河・遠江国境の情勢が緊迫する中で、宇津山城の前衛とする為、妙立寺を接収して城郭として取り立てたのが吉美城である。この頃、今川氏は既に三河を失陥しており、吉美城は家康の遠州進出を阻止する為の前衛基地であった。しかし翌68年、遠江に侵攻した徳川氏の部将酒井忠次によって攻略され、逆に宇津山城攻略の為の付城となった。また宇津山城攻略の際、家康は妙立寺に本陣を置いたと言う。

 吉美城は、日本城郭大系などによれば、東海道本線の施設の際に、土砂が削り取られしまい、既に遺構は明確ではないとされている。その為、城の位置も明確ではないが、東海道本線と妙立寺の間に小丘があり、そこが城域の一部ではないかと推測される。この小丘には登り口があり、そこを登って行くと山頂部には平場があり、平場の西辺部には土塁状の土盛りが見られる。また、この平場の東側には前述の登道が堀切状になっており、土塁で囲まれた馬出し状の小郭の様なものや、小さな社殿の鎮座する平場もある。確証がないのでなんとも言えないが、この小丘がかつての城域の一部であった可能性は十分あると思う。
 尚、近くの妙立寺境内には、本陣を構えた家康が旗を建てたという旗立松の碑が建っている。
堀切状の道→DSC05254.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.720275/137.526137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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志津城(静岡県浜松市西区) [古城めぐり(静岡)]

DSC05237.JPG←丘陵上の平場
 志津城は、今川氏と斯波氏が激しい争奪を行ったと考えられる浜名湖畔の城の一つである。伝承によれば、その創築は古く平安時代にまで遡るとされ、993年に巡見使として遠江に下向した藤原共資が、遠江国司として城を築いたとされる。その子共保は、井伊谷に移って井伊氏の祖となり、城は一旦廃されたと言う。時代は下って戦国時代初期、駿河の今川氏親は、参謀でもあった伯父伊勢宗瑞(北条早雲)に命じて遠江に頻りに侵攻し、1501年頃より斯波義達の軍勢と激しい衝突が繰り返された。志津城を始めとする浜名湖畔の城をめぐっての今川氏と斯波氏の抗争は激烈であったとされ、史料的な裏付けはないが、志津城でも争奪戦が繰り広げられたと考えられている。浜名湖畔での抗争は1513年に斯波氏が敗北するまで続き、その後は今川氏の支配下となったと考えられる。

 志津城は、浜名湖に突き出した庄内半島の東岸に近い、「浜名湖国際頭脳センター」西側の比高30m程の小丘にある。日本城郭大系などによれば、城のあった城山は埋立用土砂の採取地となり、城跡一帯は切り崩されてしまったとされるが、前述の小丘は一応残っている。これが往時の城域のどの部分に相当するのか、またどれだけの改変を受けているのかも定かではないが、藪に埋もれかけた小丘の上には小さな社殿が建ち、その周りは曲輪状の広い平坦地となっている。またその東側下方には、腰曲輪らしき平場も確認できる。どこまでが遺構かははっきりしないが、わずかに城跡らしさは留めている様だ。なお、この小丘からやや南に離れた道路沿いには、「志津古城址」と刻まれた石碑が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.728076/137.604175/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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藤丸館(静岡県菊川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04913.JPG←館跡とされる高台
 藤丸館は、横地氏最後の若君と言われる藤丸の居館である。横地氏は、1476年、遠江に侵攻した今川義忠の大軍に攻められ、横地城は落城し、横地秀国・勝間田修理亮両将は討死した。しかし勝った義忠もその凱旋の途次、夜半に塩買坂に差し掛かったところで、横地・勝間田両軍の残党によって襲撃されて討死した。この時の横地氏の遺児が藤丸と言われ、その後、横地氏の再興を図ったが、今川氏親の軍師となった伊勢宗瑞(北条早雲)による遠江の反今川勢力掃討作戦によって駆逐されたと伝えられている。
 藤丸館は、横地城の築かれた丘陵地西端の台地上に位置している。斯波武衛館の更に西方に位置しているが、一面の茶畑に変貌しており、明確な遺構は確認できない。ただ広い高台の平坦地となっており、居館を置くには好適だったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.725329/138.106338/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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斯波武衛館(静岡県菊川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04904.JPG←空堀跡
 斯波武衛館は、横地城の築かれた丘陵地の中程に位置する、斯波義廉の居館である。斯波氏は、足利一門でも最高の家格を有し、3代将軍足利義満が定めた幕府の礼式では、守護大名家でも最高の三管領家に名を連ねた名家であった。室町幕府において斯波氏の嫡流は代々左兵衛督を歴任し、兵衛府の唐名「武衛」の名を冠して「武衛家」と呼ばれた。大守護であった斯波氏は、越前・尾張の守護を兼帯し、室町中期には更に遠江の守護も兼ねた。応仁文明の大乱では斯波氏家中の内訌も乱勃発の一因となり、西軍に属した斯波義廉は、東軍に属して遠江に侵攻した駿河守護今川義忠に対抗する為、遠江に下向したと言われている。横地城を本拠とした横地氏は、遠江守護斯波氏の家臣であった為、この地に館を築いて義廉を迎えたとされる。
 斯波武衛館は、横地城の本丸より800m程西に位置している。平坦な平場が広がっており、薮に覆われて確認が大変であるが、居館背後に当たる東側には高さ2m程の土塁と深さ3m程の空堀が明瞭に残っている。この地に管領家の斯波氏が、多くの家臣団と共に滞在したのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.726016/138.109257/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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横地城(静岡県菊川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04821.JPG←「東の城」(本丸)の腰曲輪群
 横地城は、遠江の豪族横地氏の居城である。横地氏は、八幡太郎源義家の庶長子家長を祖とする名族で、滅亡までの約400年間に渡って当地に武威を振るった。横地氏は、保元の乱で源義朝に従って戦い、1180年の源頼朝の挙兵の際にも参陣し、鎌倉幕府の御家人となった。鎌倉末期の元弘の乱の際には、後醍醐天皇の籠もる笠置城攻めで功を挙げ、南北朝時代になると北朝方として南朝方の井伊氏・天野氏と戦って支配地を広げた。応仁文明の大乱の時には、同族とされる勝間田氏と共に西軍方の遠江守護斯波義廉に属し、東軍の主将細川勝元の指令で遠江に侵攻した駿河守護今川義忠に激しく抵抗した。1476年2月、義忠は500騎を従えて大井川を越え、勝間田城、次いで横地城を攻め落とし、横地秀国・勝間田修理亮両将は討死した。義忠はその凱旋の途次、夜半に塩買坂に差し掛かったところで、横地・勝間田両軍の残党によって襲撃されて討死した。今川氏では、これをきっかけにして義忠後継を巡る争いが起き、これを収めて活躍したのが伊勢宗瑞(北条早雲)であった。成長した今川氏親が家督を継承すると、叔父に当たる宗瑞は氏親の軍師となり、1506年、遠江・三河の反今川勢力を掃討し、横地氏は滅亡し、わずかに残った者達は各地に四散した。

 横地城は、菊川市東部の東西に伸びる比高80m程の丘陵上に築かれた山城である。大きく西の城、中の城、東の城から成る一城別郭の縄張りで、東西400m、南北450mに及ぶ広大な城域を有している。横地城を含む城下遺跡群は「横地氏城館遺跡群」として国指定史跡となっており、城跡はよく整備されている。山上の小さな駐車場から東に向かって歩くと、一騎駆けの土橋の先に横地神社の鎮座した西の城があり、ここが二ノ丸に当たる。周囲に多くの段曲輪や腰曲輪で囲んだ曲輪群で、南側は緩斜面に5段の曲輪が形成され、横堀と土塁で防御している。その南に千畳敷と呼ばれる広場があり、その東に隣接して中の城が築かれている。中の城は、西の城と東の城を繋ぐ出丸で、土塁で囲まれた櫓台的な小郭を頂部に置き、周りに数段の腰曲輪を廻らし、背後に堀切を穿って木戸口を設けている。その先に本丸に当たる東の城がある。東の城はさすがに中核の曲輪群らしく、西の城以上に広い多くの腰曲輪が築かれている。腰曲輪は北西に伸びる尾根上に多数展開し、要所を堀切で分断している。頂部の本丸はそれほどの広さを持たず、詰城的な臨時の曲輪であったのだろう。その西側背後は堀切となり、更に一騎駆けの土橋となって、搦手口を防御している。この他に西の城から北西に500m程離れた位置に「詰城」の標柱が建っていて、標柱の横は茶畑となり、その西側の高台が詰城だったものと推測されるが、明確な曲輪にはなっておらず、場所がよくわからない。横地城は、堀切の規模や多くの段曲輪など、勝間田城によく似た雰囲気の城で、室町期の山城の特徴をよく残している。ただ惜しむらくは、車道建設で堀切などの遺構が結構破壊されてしまっている。
「西の城」(二ノ丸)の横堀→DSC04735.JPG
DSC04844.JPG←東の城北西尾根の堀切と曲輪群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.728176/138.117746/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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高田大屋敷(静岡県菊川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04678.JPG←北辺の土塁
 高田大屋敷は、国指定史跡「菊川城館遺跡群」の一つで、小地頭領主の下郷内田氏の本拠地と考えられている。菊川と上小笠川の合流点付近の、標高約11mの微高地に位置し、西隣には信州への「塩の道」であった秋葉街道が通っており、古くから交通の要地であったと推測される。
 高田大屋敷は、民家周囲のだだっ広い低湿地帯の中に築かれた居館で、北辺に土塁と堀跡が明瞭に残り、西側にも堀跡らしい溝状の窪地が残っている。ただ後世の改変が多く、どこまで遺構か不明な部分もある。しかしこの地の小土豪の居館としては、かなり規模が大きかった可能性があり、貴重な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.722003/138.077577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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能ヶ坂砦(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04643.JPG←県道東の峰に見られる小郭
 能ヶ坂砦は、1579年10月に徳川家康が高天神城を攻略するために築かせた「六砦」と呼ばれる付城群の一つである。
 能ヶ坂砦は、六砦の中では唯一、私には正確な位置がつかめず、標柱の建つ県道38号線東側の丘に登ったが、ほとんど細尾根しかなく、はっきりした遺構は確認できなかった。一応小さな平場と段曲輪らしきものはあるが、せいぜい物見程度の小郭で、どうも砦本体とは違うようである。どうやら県道の西側の山が主城域であったらしいが、ナビにトラブルが発生したせいもあって登道がわからず、こちらの探索は断念した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.712726/138.048137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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火ヶ峰砦(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04555.JPG←尾根鞍部のS字状土橋
 火ヶ峰砦は、1579年10月に徳川家康が高天神城を攻略するために築かせた「六砦」と呼ばれる付城群の一つで、大須賀康高の持ち口であったと言われている。茶畑背後の標高65.8mの山上に築かれており、大きく主郭とその東側のニノ郭から構成された陣城で、主郭背後には堀切が穿たれ、更にその先の尾根の鞍部には、食違い堀切で構築されたS字状土橋が架けられている。その先の北端には、物見台が置かれ、明確な城域はここで終わっているようである。一方、ニノ郭東側にも堀切と枡形虎口が構築されており、この他では主郭南斜面に馬蹄段郭群が築かれている。ささやかな規模の砦であるが、高天神城六砦の中では、家康本陣が置かれた小笠山陣城に次ぐ技巧的な縄張りで、高天神城東方を押さえ、武田方の補給線を遮断する重要拠点であったと推測される。

 尚、他の多くの方のHPに記されている砦の位置はおそらく間違いで、私はHP「Shizuoka城と戦国浪漫」の城総覧の記述から見当を付けて目指したところ、遺構を確認できた。
主郭背後の堀切→DSC04564.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.703377/138.057064/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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獅子ヶ鼻砦(静岡県菊川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04496.JPG←主郭東尾根の堀切
 獅子ヶ鼻砦は、1579年10月に徳川家康が高天神城を攻略するために築かせた「六砦」と呼ばれる付城群の一つである。大須賀康高の持ち口であったとされる。比高40m程の丘陵上に築かれており、蓮池公園の一部となっている為かなり改変を受けている。最上部に主郭を置き、その北西側に5段程の曲輪が築かれ、主郭東側にも段々状になった腰曲輪群が置かれ、その先に堀切が穿たれている。しかしかなりざっくりした縄張りで、どこまで往時の遺構を残しているのかはっきりしない。一方、HP「Shizuoka城と戦国浪漫」の城総覧によれば、谷戸を挟んで南に横たわる東西に細長い丘陵上にも移行があるとされ、登ってみると確かに段郭群と僅かな堀切が確認できる。しかしかなりささやかな遺構であり、簡素な陣場であったものであろう。
南の丘陵地に残る堀切→DSC04546.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.695438/138.071011/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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中村城山砦(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04488.JPG←中村城山砦の近景
 中村城山砦は、1579年10月に徳川家康が高天神城を攻略するために築かせた「六砦」と呼ばれる付城群の一つである。比高わずか15m程の小さな独立丘に築かれている。しかし丘の周囲は宅地化され、住民の方から怪しまれないような無難な登り口が見つけられなかった。おまけに丘の上は見るからにすごい薮で、登ったところでとてもまともに遺構の確認ができそうになく、若宮神社にある標柱だけ見て撤収した。

 お城評価(満点=五つ星):‐(遺構未確認のため評価なし)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.678782/138.063179/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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三井山砦(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04460.JPG←南丘陵部の土塁跡
 三井山砦は、1579年10月に徳川家康が高天神城を攻略するために築かせた「六砦」と呼ばれる付城群の一つである。酒井与四郎重忠が守備したと言われている。六砦の中では規模が大きく、徳川方の前進拠点であった横須賀城と付城群を中継する兵站拠点として重視されたと考えられる。
 三井山砦は、標高89mの山王山を中心に構築された砦である。かなり広い城域を持っていたらしく、山頂の主郭の周囲に多数の腰郭群が明確に確認できる。主郭部には横堀と土塁も見られ、西側にある大浜公園との間には、大堀切と思われる切通しも確認できる。山王山は、南に広い緩斜面を持ち、現在は茶畑と未整備の藪に覆われているが、これらも曲輪跡だったと推測される。また、ここから谷戸を挟んで南に位置する丘陵部も城域であったらしく、平場群と一部には土塁と思われる土盛りも確認できる。いずれにしても、広大な砦であったことは間違いない様だが、藪も多くどこまで城域かは判然としない。もっと整備されていれば、わかりやすいのだが。
主郭周囲の腰曲輪→DSC04436.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.675323/138.034941/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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渥美源五郎屋敷(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04372.JPG←民家周囲に残る土塁
 渥美源五郎勝吉は、徳川家康の家臣である。横須賀七人衆の筆頭で、大須賀康高配下でただ一人槍の名人であった。伝承では、1578年、源五郎は康高に命ぜられて斥候に行った際、高天神城兵と出くわした。時あたかも夜明け時で朝霧が立ち込め、辺りがよく見えないのを幸いと、源五郎は伏兵が大勢いるように見せかけ、慌てて坂を下ろうとした武田軍6人の首を討ち取り、以来「首取り源五」と呼ばれるようになったと言う。
 渥美源五郎屋敷は、高天神城の北東800m程の位置にあり、現在は民家の敷地となっている。しかし北側と西側に土塁が残り、標柱が立てられている。たまたま高天神城の帰りに標柱を見つけ、訪問した。わずかでも遺構が残っているのは、やはり嬉しいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.703818/138.040670/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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高天神城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04242.JPG←堂ノ尾曲輪の横堀と腰曲輪
 高天神城は、武田軍玉砕の城であり、武田氏滅亡を決定付けた城である。難攻不落の要衝として知られ、戦国期には「高天神を制する者は遠州を制す」と言われた程重要な拠点であった。

 その創築は、室町時代に今川氏によって築かれたと言われる。今川氏没落後は、遠江に進出した徳川家康の持ち城となり、その家臣小笠原長忠(信興)が城主となった。1571年、武田信玄は2万余の軍勢を率いて遠江に侵攻し、高天神城を攻めた。しかし城主小笠原長忠は2千騎を以って守りを固め、軍監大河内政局・武者奉公渥美勝吉以下500騎と遊軍170騎が本丸に籠り、武田勢は高天神城を攻めきれず撤退した(近年の研究では、この戦いは誤伝であるとされる)。信玄が病没すると、その子勝頼は1574年5月、再び2万余の大軍を率いて高天神城を包囲した。小笠原長忠は、匂坂牛之助を密使として家康の元に走らせて救援を請うたが、後詰を約束した家康は頼みの織田信長の援軍が遅れたため、結局軍勢を出さず、長忠は激戦の末、勝頼の開城勧告を受け入れて降伏した。勝頼は城の攻略を優先して城兵の寛大な処置を約束し、開城後に城兵は、武田方に降る者と徳川方に残る者と東西に分かれて退去した。大河内政局のみは捕らえられても勝頼に服さず、怒った勝頼は政局を土牢に幽閉した。その後勝頼は、城番に横田甚五郎尹松を置いて城を守らせ、尹松は政局の義に感じて政局を密かに厚く持て成したという。
 翌75年、長篠合戦で大敗した勝頼は劣勢となり、徳川家康に西から徐々に蚕食されて諏訪原城も陥落し、高天神城は徳川領東部沿岸域に孤立した突出点となった。家康は、高天神城に対抗する拠点として馬伏塚城を築いていたが、1578年、前進基地として大須賀康高に命じて横須賀城を築城した。翌79年、勝頼は猛将岡部丹波守真幸(元信)を城将とし、横田尹松を軍監とした。同年10月、家康は高天神城の周囲に6つの砦(小笠山砦獅子ヶ鼻砦中村砦能ヶ坂砦火ヶ峰砦三井山砦)を築き、武田方の後方支援を遮断して完全包囲し、翌年には更に城の間近に砦を構えて兵糧攻めとした。1581年には、北条・徳川と東西を敵に挟まれた勝頼は余力がなく、高天神城の後詰を諦め、城からは家康に向けて降伏の申し出があった。しかし家康から報告を受けた織田信長は、「降伏を受け入れれば遠江は簡単に奪回できるが、計画中の武田攻めのために高天神城の降伏を許すな」と厳命した。降伏も許されず、10ヶ月に渡る兵糧攻めで飢えに瀕した城兵は、1581年3月22日夜半、大将岡部真幸・軍監江馬直盛以下残兵800が二手に分かれて敵勢に突撃し、激闘の末全滅した。横田尹松は、「犬戻り猿戻り」の険から抜け出て甲府に逃れた。武者奉行孕石元泰は捕らえられ、入城検視に来た家康の命で、旧怨を以って誅殺された。土牢から救出された大河内政局は、長期の幽閉で歩行困難となっていたが、家康は過分の恩賞を与えて労をねぎらい、津島の温泉で療養させた。こうして家康は、遠江における武田方最大の拠点を攻略し、以後高天神城は廃城となった。
 そして、高天神城を見殺しにした勝頼は家中の信望を失い、1582年、織田信長が大軍で武田征伐を行うと、武田家臣団は大した抵抗もせずに逃亡または投降し、総崩れとなって、新羅三郎義光以来の甲斐源氏の名門武田氏はあっけなく滅亡した。

 高天神城は、小笠山山系の南端の近く、標高132m、比高100m程の高天神山に築かれた山城である。尾根が東に張り出した先端に築かれており、H字形になった二つの尾根にまたがって築城されている。東の峰に本丸や三ノ丸を構え、東西を繋ぐ鞍部を介して西の峰に西ノ丸や二ノ丸を置いた、一城別郭の縄張りとなっている。大手は南東部にあり、駐車場から登って行くと、東峰の曲輪群を最初に巡ることになる。登り口の左手には、段々に曲輪が築かれ、その上に着到櫓の曲輪があって、大手門を防御している。それらの曲輪群の上部に広い三ノ丸があり、周囲を低い土塁で囲んでいる。三ノ丸の先には緩斜面の曲輪が続いた後、急峻な崖の上に御前曲輪がそびえ、真ん中に一段高い元天神社を挟んで、北側に広い本丸が築かれている。本丸も低い土塁で囲まれ、北側には食い違い土塁の虎口を置き、そこから西側下方に的場曲輪などの広い腰曲輪が数段築かれている。これら東の曲輪群は、基本形は平易な連郭式である。そこから西の鞍部の井戸曲輪を経由して西の曲輪群に繋がっている。西の曲輪群は最上部には西ノ丸(丹波曲輪とも言う)を置き、その北に二ノ丸、更に北に堀切を介して堂ノ尾曲輪・井楼曲輪を連ねている。二ノ丸の、西ノ丸直下には浅い横堀が残るが、数本の畝が見られ、畝堀であったらしい。二ノ丸は外周に横堀や腰曲輪を備え、北側には袖曲輪を介して堂ノ尾曲輪・井楼曲輪と連なっている。それぞれ堀切で分断されており、この部分だけは西側に長い横堀・腰曲輪による防御線を構築している。しかし丸子城のものほど技巧的ではなく、割りと平易な構造である。西ノ丸の更に西には堀切を介して馬場平があり、その先は横田甚五郎が逃れたという甚五郎抜け道の一騎駆けが繋がっている。西ノ丸の南側にも物見台とされる細長い曲輪群が連なり、2本の堀切や三重竪堀が見られる。西の曲輪群は東の曲輪群と比べると、横堀や堀切が効果的に構築され、築城法に違いが見られる。
 高天神城は、さすがに長い籠城戦に耐えた要衝だけあって、広く見所が多いが、横堀も堀切も中規模で、丸子城ほどの技巧性はない。しかし全体に遺構はよく整備されており、歴史的重要性も高く、必見の城であろう。
二ノ丸の畝堀→DSC04166.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.698629/138.035643/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小笠山陣城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC03988.JPG←中郭群の丸馬出
 小笠山陣城は、一般には小笠山砦と呼ばれ、徳川家康が掛川城包囲戦と高天神城包囲戦の際に築いた陣城である。1568年、甲相駿三国同盟を破棄して駿河に攻め込んだ武田信玄によって、今川氏真は駿府を逐われ、重臣朝比奈備中守泰朝を頼って掛川城に逃れた。信玄と時を同じくして西から今川領に攻め入った徳川家康は、氏真の籠もる掛川城周辺に砦を築いて包囲し、自身は小笠山山頂に本多忠勝、榊原康政を従えて本陣を敷いたと言う。また1579年には、遠江の武田領を蚕食していった家康は、武田氏の東遠江の拠点高天神城を包囲攻撃する為、周囲に6つの砦(小笠山砦、獅子ヶ鼻砦中村砦能ヶ坂砦火ヶ峰砦三井山砦)を築き、その一つとして再び小笠山砦を築いて石川長門守康通を守将とし、家康自身が数旬に渡って本陣を敷いた。家康の本陣があった為、小笠御殿とか笹ヶ峰御殿とも呼ばれた。

 小笠山陣城は、標高264.8mの小笠山の山頂付近一帯に築かれた陣城である。砦という名称が誤解を生んでしまう程の本格的な構築のハイテク陣城で、城域は広大で横堀を多用し、更に竪堀を絡めた技巧的縄張りを有している。城内はいくつかのブロックに別れており、便宜上、ここでは東郭群・本城・中郭群・西郭群・南郭群と呼称する。

 東郭群は、本城の前衛の曲輪群で、最も広い面積を有する曲輪を持っていたと思われるが、現在小笠神社やビジターセンターが建てられているため改変を受けている。明確な遺構は少ないが、土塁状の土盛りなどが見られ、本城とは堀切で区画されている。
 本城は、最上部に御殿と呼ばれる主郭を置き、その前面には櫓台を兼ねた大土塁と中規模の堀切が穿たれている。更に堀切の前面には櫓台状の小郭がそびえ、その南面と北面に数段の帯曲輪を備え、その外周を長い横堀を巡らして防御を固めている。特に北側の横堀は、一部を屈曲させて横矢を掛け、北端には小郭も設けている。本城と中郭群の間は、一騎駆け状の狭い土橋のみで連結されている。
 中郭群は北から南にかけての斜面上に数段の曲輪を築いており、現在多聞神社などが建てられている。中郭群の主要部の背後に当たる西側には畝を持った横堀が穿たれ、南側には丸馬出が築かれている。この丸馬出は、丸子城の様な独立堡塁式のものではなく、腰曲輪の虎口側に構築された武者溜まり的な造りとなっている。これは武田勝頼の兵を捨て石にする思想ではなく、家康の兵を生かす思想との違いによるものだろうか?丸馬出の外周には中間に櫓台を築いた二重横堀が穿たれており、1本目は馬出しに沿って円弧状となった半三日月堀となっている。
 中郭群の先はY字状に二つの尾根に遺構が分かれる。西郭群は、やはり一騎駆け状の狭い土橋でのみ中郭群と連結されている。西郭群は主郭の南側斜面に腰曲輪と横堀・竪堀を穿ち、西側には竪堀の間に架かる土橋でニノ郭に繋がっている。ニノ郭の下に1段腰曲輪が取り巻き、その外周は横堀で防御している。北に伸びる支尾根にも、物見曲輪や小堀切がある。
 一方、中郭群から分かれたもう一つの南郭群は、前述の二重横堀の先に南曲輪群Ⅰと更にその先の南曲輪群Ⅱが連なる。南曲輪群Ⅰは3段程度の曲輪で構成された小さな遺構群であるが、主郭には後部に土塁が築かれ、背後に堀切が穿たれている。更にその先は長い細尾根で南曲輪群Ⅱに繋がるが、南側が垂直絶壁で完全崩落した、転落死必至のスーパー一騎駆けで、さすがに危なくて近寄れない。もちろん往時はもっと幅があり危険も少なかったのだろう。南曲輪群Ⅱは土壇を有した狭小な主郭と数段の曲輪で構成され、やはり外周に横堀の防御線を築いている。この曲輪群だけはやや藪が多く、明確に確認できない遺構もある。

 以上の様に小笠山陣城は、本格的な籠城戦も可能な広さと構造となっており、その縄張りからは家康の高天神城奪還に懸ける意気込みと執念が伝わってくる様だ。また、武田遺臣団を吸収する以前の徳川氏独自の築城技術の見本であり、徳川氏が西遠江での攻防の中で武田氏の築城技術を取り込んでいった過程を垣間見ることもできる、極めて貴重な遺構である。

 尚、城の名称についてであるが、陣城としては高度な縄張りと広大な城域を有した破格の遺構で、いわゆる「砦」と言う名称から想像するようなささやかな城砦ではない。その為ここでは、一般的な「小笠山砦」の呼称を使わず「小笠山陣城」とした。
本城外周の横堀→DSC03733.JPG
DSC03762.JPG←本城の堀切
南郭群Ⅰの堀切→DSC03937.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.737008/138.010879/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


南曲輪群の一騎駆けは、本当に危険です!武蔵の戸吹城小鹿野要害山城よりも危険です。一騎駆け部分だけは高齢者は勿論、全ての人にお勧めできません。行く方はあくまで自己責任でお願いします。
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青田山砦(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC03682.JPG←東陣場の平場
 青田山砦は、掛川城包囲戦の際に徳川家康が築いた砦である。1568年、甲相駿三国同盟を破棄して駿河に攻め込んだ武田信玄によって、今川氏真は駿府を逐われ、重臣朝比奈備中守泰朝を頼って掛川城に逃れた。信玄と時を同じくして西から今川領に攻め入った徳川家康は、掛川城周辺に4つの砦を築き、その内の一つ青田山砦には、松平清宗が形原・東条両松平氏と共に拠り、掛川城攻城戦で戦功を挙げたと言う。しかし徳川勢は掛川城を攻めあぐね、攻城戦は半年に及び、氏真を無事に北条領の伊豆まで移すことでようやく講和が成立し、掛川城は開城、青田山砦も廃された。しかしその後の1574年、武田勝頼が高天神城を包囲した際には、徳川方の城将小笠原長忠が匂坂牛之助を使者として援軍派遣を家康に要請し、その是非を青田山で狼煙を上げて連絡するよう命じたとされる。

 青田山砦は、東名高速掛川IC出口のすぐ南に位置する標高108mの山上に築かれた砦である。大きく西陣場と東陣場で構成され、その間の古道を望む谷が天然の大堀切となっている。現在、東陣場は公園となり、平場の中央に土壇があり石碑が建てられている。平場がある以外、遺構ははっきりしないが、塩の道と呼ばれる古道が通る東陣場からは掛川城や掛川古城がよく見え、絶好の陣場であったことがよく分かる。一方、西陣場を隔てる大堀切は猛烈な薮に埋もれており、トライはしたもののあまりの酷さに突入は断念した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.758926/138.026122/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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堀田城(静岡県菊川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC03673.JPG←主郭南西の二重堀切
 堀田城は、松下城とも呼ばれ、歴史不詳の山城である。室町時代に堀田正法が築城したとも、戦国末期に松下嘉兵ヱの城であったとも言われるが、詳細は不明である。遺構の特徴から、遠江を巡る争奪戦の中で武田氏か徳川氏による使用が推測されている。
 堀田城は、西方川の南に位置する比高45m程の城山に築かれている。K字に近いH型の尾根を利用して築かれており、尾根上を多数の堀切で分断した縄張りである。主郭・ニノ郭・三ノ郭など主要な曲輪は、いずれも堀切で分断され、派生する尾根筋も二重堀切などで防御している。確認できただけでも二重堀切が4ヶ所もあり、それ以外にも単発の堀切が数本あるなど、非常に堀切の多い城である。また主郭の北西尾根の曲輪群は、中央に盛り上がった小郭群が連なり、その側方には城道を兼ねた腰曲輪が巡らされ、丸子城などの武田氏の築城法に似ている印象がある。この他、主郭の南西に伸びる広尾根は「権現原」と呼ばれ、千畳敷に相当する広い曲輪であったらしいが、現在は茶畑に変貌しており改変が甚だしい。この権現原の名は、この城の、徳川家康に関する伝承と関連している様である。権現原の先は一騎駆けの細尾根になっていたというが、現在ではわずかにその跡を留めるものの、やはり改変が多く遺構としてははっきりしない。いずれにしても、比較的小さな城であるが、二重堀切の多用など八幡平ノ城などとの共通点も見られることから、私見としては主に武田氏によって使用された城と考えたい。
北西尾根の曲輪群→DSC03626.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.760054/138.073028/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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富田城(静岡県菊川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC03540.JPG←主郭~ニノ郭間の堀切
 富田城は、長行山城とも呼ばれ、歴史不詳の城である。元々国人クラスの豪族の城であったと推測され、戦国末期には武田氏の遠江の拠点諏訪原城を攻める徳川氏によって、高天神城との連絡を断つ為に再度利用されたと考えられている。
 富田城は、菊川と東富田川の合流点西側の、比高40m程の丘陵上に築かれた城である。現在、主郭と腰曲輪は茶畑に変貌し、ニノ郭には櫓台跡と思われる高台に神社が建てられており、その南側に腰曲輪が確認できる。主郭とニノ郭の間は、幅3m程の堀切で分断され、そこをちょっと降って行った左側に主郭の大手虎口があり、藪の中に標柱が建っている。主郭の東尾根には堀切と腰曲輪がつらなっている。一方、ニノ郭の西側は緩斜面の茶畑になっているが、三ノ郭であったらしい。しかし明確な遺構は既に確認できない。この他、主郭西側にも西ノ郭があったらしいが、車道建設やゴルフ場造成で破壊されてしまっている。かなり遺構の湮滅が進んでいる上、城の直下には新幹線が貫通しており、結構うるさいのも興を削ぐ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.776059/138.107017/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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滝堺城(静岡県牧之原市) [古城めぐり(静岡)]

DSC03514.JPG←三ノ郭の二重堀切跡
 滝堺城は、1571年に遠江に進出した武田信玄が、重臣の馬場美濃守信房に命じて築いた城である。1571年2月、遠江に侵攻した信玄は、まず小山城を築き、更に海岸沿いを南下して滝堺城を築いた。近くには元々勝間田氏が出城として築いた滝堺古城があったが、城地があまりに狭小な為、その北方に新城を構築したと伝えられている。小山城・滝堺城は、いずれも遠江の要衝高天神城攻略の為の橋頭堡であった。しかし信玄存命中は高天神城を落とすことができず、信玄没後の1574年、父の遺志を継いだ武田勝頼は全力で高天神城攻略に臨み、遂に落城させた。その時、滝堺城は武田方の有力な後方基地となった。しかし翌75年の長篠合戦で大敗した勝頼は劣勢となり、徳川家康に西から徐々に蚕食されて、1581年3月には高天神城が家康に奪還された。この間、滝堺城でも幾度かの戦闘が繰り広げられた。1582年2月、織田信長は大軍で甲州征伐を開始し、それと連動して武田領に大挙侵攻した家康は、同年3月の武田氏滅亡前に滝堺城を手に入れた。家康が駿遠二州を制圧すると、滝堺城は戦略的意義を失いそのまま廃城となった。

 滝堺城は、牧之原台地の南東端の比高60mの丘陵上に築かれている。先端に主郭を置き、ニノ郭・三ノ郭・外郭を連ねた構造で、この地域の武田氏系城郭には珍しく、単純な直線連郭式の縄張りとなっている。城域は全て一面の茶畑に変貌している為、遺構は湮滅が進んでいるが、二ノ郭~三ノ郭間の堀切以外は、藪の中に深い堀切が残っており、三ノ郭には二重堀切まではっきりと残っていて、その規模からは往時の城の規模が想像できる。唯一完全湮滅している二ノ郭~三ノ郭間の堀切は、わずかに茶畑の中の段差や窪みとなって残っている。主郭の堀切には、農道が土橋状に架っており、位置関係からすると堀に対して斜めに土橋が架かっていた可能性がある。各曲輪には土塁もあったらしいが、現在は湮滅している。主郭からは駿河湾を眼下に納める眺望が素晴らしい。ただ、馬場信房の手になる城にしては、縄張りが単純で面白みには欠けるのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.711536/138.210703/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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龍眼山城(静岡県牧之原市) [古城めぐり(静岡)]

DSC03428.JPG←ニノ郭の堀切
 龍眼山城は、歴史不詳の城である。一般には、勝間田城を本拠とした東遠江の豪族勝間田氏の支城であると言われるが定かではない。縄張りの類似性から、戦国後期に遠江に進出した甲斐武田氏が、小山城滝堺城の間を結ぶ「繋ぎの城」として築き、川崎港へ出入りする船を監視したのではないかとも言われている。
 龍眼山城は、比高60m程の丘陵上に築かれており、現在は榛原公園や茶畑に変貌している。公園と化した先端の主郭からは、眼下に駿河湾を一望できる、絶好の物見であった事がわかる。主郭とその背後のニノ郭との間には土塁がわずかに残っているが、あったと思われる空堀はほとんど埋没している。ニノ郭はほぼ全域が茶畑となってしまっているが、台地基部には藪の中に堀切跡がはっきりと残っている。かつては二重堀切だった様だが、現在は1本しか確認できない。ニノ郭の北東側にある三ノ郭も茶畑になっており、ニノ郭との間にあったとされる二重堀切は、わずかにその名残りを留めている。かなり湮滅が進んでしまっている城であるが、わずかでも堀切跡がはっきり残っていたのはちょっと嬉しい。尚、南西側山腹の山道に、城の解説板が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.746341/138.225517/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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小山城(静岡県吉田町) [古城めぐり(静岡)]

DSC03339.JPG←圧巻の三重の三日月堀
 小山城は、遠江に侵攻した武田信玄が新造した城である。その前身は、今川氏が築いた山崎の砦とも言われるが明確ではない。1568年より今川領への侵攻を開始した信玄は、大井川を境として徳川氏と旧今川領を分割領有したが、これを反故にして更に兵を西進させてこの地を占領した。ここに徳川家康との間で攻防戦が繰り広げられ、1570年には一旦徳川氏の手中に帰した。しかし、翌年信玄は2万5千の兵で小山を攻めて奪還し、馬場美濃守信房に命じて新たに小山城を築いた。そして信玄は、越後上杉氏から亡命した客将大熊備前守朝秀の子長秀を小山城主として守らせた。以後、東海道を押さえる諏訪原城と共に、横須賀街道の押さえと海上監視のため、武田氏の東遠の拠点の一つとして重視された。1575年の長篠の合戦で武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗すると、遠江の武田領に対して家康は激しい攻勢をかけて圧迫し、1581年には難攻不落と言われた遠江の要衝高天神城をも攻め落とした。1582年2月、織田信長が大軍で本格的な甲州征伐を開始すると、城将大熊長秀は勝頼救援の為、甲斐に急行し、城兵も自ら城に火を放って甲斐へ落ち延びた。以後、小山城は廃城となった。

 小山城は、湯日川南岸の段丘先端に築かれた崖端城である。主郭・ニノ郭を連ねて堀切で分断した、よくある縄張りであるが、特徴的なのは武田氏の城郭特有の丸馬出が築かれていることである。主郭の丸馬出は小規模なものであるが、ニノ郭西側に築かれた丸馬出は、三重の三日月堀で防御された圧巻の規模のもので、特に三重の三日月堀というのは数多い武田の城でも類例がない。虎口は、この巨大な三重堀で囲まれた丸馬出の北側と南側に作られており、北側が大手である。大手虎口の北側も自然地形に手を加えた堀状の窪地となっており、北端に物見台状の独立した土壇がそびえている。丸馬出南側の搦手虎口には、虎口側面を防衛する腰曲輪が築かれ、屈曲した堀で周囲を区画している。現在城址は能満寺公園に変貌しているため、改変を受けたせいか、主郭周囲の土塁などは低いささやかなものしか残っていない。堀切は直線状の単純なもので、丸馬出がある以外、横矢掛かりはほとんどない。堀の南端部だけ、わずかに横矢を掛けているだけである。ニノ郭の三重三日月堀の丸馬出と、それ以外の遺構の規模と構造がミスマッチで非常にバランスが悪い縄張りに見えるが、後世の改変の影響が大きいのであろう。いずれにしても三重三日月堀は希少であり必見である。ちなみに模擬天守は全く余計な飾り物である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.779373/138.247350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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勝間田城(静岡県牧之原市) [古城めぐり(静岡)]

DSC03117.JPG←ニノ郭土塁と三ノ郭
 勝間田城は、この地の国人領主勝間田氏の居城である。勝間田氏は、保元の乱の頃より勇名を馳せた一族で、勝間田平三成長は鎌倉幕府の御家人となり、その子孫の長清は『夫木和歌抄』を編纂するなど、地方豪族としては文化的にも高い水準にあったことを示している。鎌倉末期の元弘の乱の際には、楠木正成の籠った赤坂城、千早城の戦いで、勝間田一族は攻守両陣営に分かれて参戦した。室町時代に入ると、将軍の直属軍として応永の乱(1399年)や永享の乱(1439年)で活躍した。勝間田城は、この頃の応永年間(1394~1428年)に勝間田定長が築いたと推測されている。応仁文明の大乱が生起すると、勝間田氏は遠江守護で西軍に属した斯波義廉に属し、東軍主将の管領細川勝元の指令で遠江制圧に乗り出した駿河守護今川義忠に対抗した。しかし1476年、今川勢の猛攻によって勝間田城は落城し、一族は四散した。ここに平安以来の名族勝間田氏は実質的に滅亡した。

 勝間田城は、牧之原台地の東に伸びる支尾根に築かれた山城である。広い面積を有した城で、主郭を中心として、北側に2つの北尾根曲輪と広大なニノ郭・三ノ郭・西三ノ郭が連なり、南側には南曲輪と腰曲輪、東には東尾根曲輪と物見台を備えている。要所は堀切で分断され、特に主郭背後の堀切は深さ5m程と規模が大きい。その他の堀切は小規模であるが、東尾根の曲輪群は五重堀切で分断されており、厳重な防御を施している。南曲輪は主郭より高所にあるが、主郭背後の高土塁で南曲輪からの視界を遮っている。ニノ郭・三ノ郭・西三ノ郭は、土塁などで仕切られた広い曲輪で、土塁は折れを持ち、虎口が形成されている。主要な曲輪の周囲には、幾つもの小郭や腰曲輪が配置され、そこへ降る城道・虎口も明瞭に残っている。南曲輪の先の尾根にもわずかに3つほどの堀切が確認され、一騎駆けの細尾根を防御していた様である。城の主要部では、堀切の手前に土塁が築かれて堀切の分断効果を増す定石通りの縄張りとなっており、やや古い形態とはいえ、しっかりした普請がされている。大正12年に、城跡の破壊を惜しんだ地主の方が土地を町に寄付したそうで、現在ではほぼ全域が綺麗に公園化され、遺構が素晴らしく整備されている。遠江の戦国期以前の中世城郭として、非常に貴重である。
主郭背後の堀切→DSC03187.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.778396/138.157099/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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火剣山砦(静岡県菊川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC03023.JPG←火剣山の細尾根
 火剣山砦は、徳川家康が諏訪原城攻略のために築いた付城と言われている。1575年5月、武田勝頼が長篠・設楽が原の戦いで織田・徳川連合軍に大敗すると、徳川家康はすぐさま武田領への侵攻を開始した。最初の標的となったのが諏訪原城で、伝承によれば、徳川方の部将酒井忠次が兵を率いて火剣山上に砦を築き、木製火砲で狼煙を上げて武田軍を大いに悩ませたとされている。
 火剣山砦は、諏訪原城の南西約1.5kmに位置する標高283mの火剣山に築かれている。山の南中腹まで車道が延びており、駐車場も整備され、ハイキングコースもしっかり付いているので、簡単に登ることができる。火剣坊大権現が祀られているピークはわずかな平場となり、その南東下方にも公園化された平場があるが、後世の改変が多く、どこまで往時の遺構なのかは不明である。火剣坊大権現より北にある、三角点のあるピークも自然地形で遺構は確認できない。わずかに北西に伸びるハイキングコース上に堀切らしい地形が見られ、他の城郭サイトではこれを堀切遺構としているが、遺構とは俄には断定し難い。ただ、火剣山からは、牧之原台地の辺縁部に築かれた諏訪原城をよく望むことができ、諏訪原城を眼下に収める絶好の陣場であったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.809751/138.105472/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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諏訪原城(静岡県島田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC02722.JPG←大きな丸馬出と空堀
 諏訪原城は、武田勝頼が築いた遠江侵攻の重要な橋頭堡である。その重要性故に、武田・徳川両軍の間で激しい攻防戦が繰り広げられた。その創築は、一説には駿河に侵攻した武田信玄が1569年に金谷台地に築いた5砦の一つとされる。諏訪原城が歴史上に明確に現れるのは、1573年に勝頼が馬場美濃守信房に命じて築城した時である。守将を今福丹波守顕倍とし、ここを拠点として徳川氏の遠江の拠点城郭であった掛川城久野城、更には父信玄さえ落とすことのできなかった難攻不落の要衝高天神城をも攻め落とした。しかし、この勝頼の積極的な外征は、武田氏転落への序章であった。1575年5月、勝ちにはやる勝頼は、長篠・設楽ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を強攻して大敗し、信玄以来の多数の重臣を失った。この戦いを境として、遠江での攻守は逆転し、翌6月には徳川家康は掛川城に入り、諏訪原城に激しい攻撃を掛けた。2ヶ月に渡る激烈な攻城戦の末、武田方の城兵は夜中に諏訪原城を捨てて小山城に逃れ、以後諏訪原城は徳川氏の持ち城となった。家康は、古代中国において周の武王が殷(商)の紂王を牧野(ぼくや)の戦いで撃ち破ったことにちなんで、この城を牧野城と改称し、松平康親、松平家忠、牧野康成らを在番させ、武田領の駿河・遠江東部攻略の前線基地とした。1582年、武田氏が滅亡すると、松平康親は三枚橋城に移り、諏訪原城は明き城となって掛川城に預け置かれた。1589年頃には廃城になったと思われる。

 諏訪原城は、大井川西岸に広がる牧之原台地北端近くに位置する崖端城である。城として実質的に機能したのはわずか10年に満たない短命の城であるが、その規模は雄大で、遺構の充実度も相俟って、屈指の大城郭である。東に向いた台地先端部に主郭を置き、大きな空堀を挟んでニノ郭・三ノ郭を扇状に配置し、更にその外側に幅20m程もある巨大な空堀を穿ち、2ヶ所に巨大な丸馬出を配置し、その他にも小規模な馬出しを数ヶ所設けている。主要な曲輪は、以前は茶畑として開墾されてしまっていたが、現在では市が土地を買い取ったらしく、国指定史跡として整備途上にある。各曲輪や馬出しは、全て土橋のみで連結され、防御を固めている。主郭・ニノ郭・三ノ郭には、いずれも外周に土塁が築かれ、特に主郭の大手虎口の土塁は、どうも大型の櫓門の土台であった様である。主郭の西側下方には、中間に土塁を置いた二重空堀が穿たれ、土塁両端は竪堀で遮断した堅固な造りとなっている。主郭からこの方面に降りる搦手筋には、虎口防衛と二重空堀への横矢掛かりを意図した小郭が置かれ、主郭北側の腰曲輪にも城道が連絡しており、巧妙な動線構造を有している。また、主郭南側の腰曲輪には竪堀が2本穿たれ、その間に小郭がそびえ立って堀底を睥睨している。この竪堀は城道としても機能していた様である。また城域南端には類例の少ない重ね丸馬出しも構築されている。丸子城が小技の集積で作り上げられた技巧的山城であるのに対し、諏訪原城は大技の連発で構成された大兵力の駐屯地である。遺構の全てが武田氏時代のものと言う訳ではなく、重層的馬出し部分などは徳川氏時代の改修と考えられているが、基本的な結構は武田氏時代のものを引き継いでいると見られる。静岡県内で武田の城といえば、丸子城とこの諏訪原城が双璧であろう。
外周の大空堀→DSC02748.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.818067/138.119677/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

【2019年12月加筆】
 2019年5月に諏訪原城に再訪する機会があった。前回の訪城後に城跡の整備が進み、大手入口付近には「諏訪原城ビジターセンター」というガイダンス施設が3月にできたばかりであった。そこで城の説明を受けて認識を見直さなければならないことがあった。それは、10年ほどに及ぶ発掘調査の結果、諏訪原城の最大の特徴である2ヶ所の大型の丸馬出や、その内側の広大なニノ郭では武田時代の遺構が検出されず、これらは徳川氏の改修によって築かれたと考えられていることだ。武田の遺構と思っていたものが、実は徳川による大改修によるものとは!徳川はどうも、武田の築城技術を吸収しつつ、より巨大化した形で城普請を行っていた様である。
IMG_8271.JPG←ビジターセンターの解説
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湯日城(静岡県島田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC02679.JPG←主郭東端の堀切
 湯日城は、遠江の国人領主勝間田氏の支城と言われるが定かではない。一説には、湯日城の山裾を鎌倉街道が通過する交通の要地である点から、この付近を支配していた土豪の居城とも言われている。かつては三日月堀をもつ武田氏特有の丸馬出しがあったことから、戦国後期には武田氏が諏訪原城小山城の繋ぎの城として改修したと推測されている。

 湯日城は、静岡空港の北隣、牧ノ原台地の東側縁端に位置する、東西方向に延びる丘陵先端部に築かれている。かつて堀切を介して連なっていた主郭・ニノ郭は、昭和30年台の耕地化で破壊され、数年前まで一面の茶畑となっていたようであるが、現在は全て耕作放棄地となり、一面の薮となって荒れ果てている。あまりの薮の酷さに、主郭内への突入を断念した程である。東側の養勝寺から登ると、平坦な平場があり、それを突き抜けて尾根を登って行くと、主郭に到達する。耕地化に伴う破壊が徹底していたらしく、明確な遺構はほとんど残っていないが、わずかに主郭東端の堀切が確認できた。それにしても、わざわざ遺構を破壊して耕地化したのに、今では耕作放棄地となって荒れるがままになっている現実は、戦後の高度成長期の負の側面を思い知らされる。一体何のために遺構を破壊したのか、と。いつの日か、市が地権者から土地を買い取り、遺構の発掘・復元をする日が来るのを期待したい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.803655/138.177913/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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今川城(静岡県島田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC02668.JPG←「今川の段」と呼ばれる平場
 今川城は、駿河守護となった今川範氏が、駿府に進出する以前に築いた居館と言われている。しかしこの時の守護館としては、遍照光寺城の方が有力である。しかし慶寿寺背後の丘陵に「今川の段」と呼ばれる平場が存在し、何らかの城砦が築かれていた可能性が指摘されている。或いは、範氏がほんの一時的な陣城にでも取り立てたものであろうか。現地標柱には、何を典拠としたかは不明であるが、「1352年築城、15世紀初期に廃城」と記載されている。慶寿寺には今川範氏の墓があることから、今川氏関連の何らかの城砦があったのだろう。
 今川城は、前述の通り、慶寿寺背後の丘陵に位置している。寺の背後の主郭らしい平場は、現在茶畑となっており、遺構は不明である。ここには県の天然記念物となっている枝垂れ桜があるが、その解説板には範氏が父範国の遺徳と仏恩を感謝して、本丸と二ノ丸に枝垂れ桜を植えたという伝承が紹介されている。しかし「遺徳(故人の残した人徳)」とされるこれも史実からすれば間違いで、実際には範氏は父範国に先立って死んでいるので、「遺徳」とは言えないはずである。いろいろと歴史的経緯に謎の多い城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.866356/138.180381/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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大津城(静岡県島田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC02532.JPG←北郭の櫓台
 大津城は、南北朝の動乱期に駿河南朝方の佐竹兵庫入道・中山三郎左衛門尉らが立て籠もった城である。佐竹・中山らは石塔義房の家人で、義房は足利一門であったが、直義方であった為、1350年に生起した観応の擾乱では、南朝と和睦した直義に従って尊氏と敵対した。従って、佐竹・中山らも南朝勢力と協力して安倍城に立て籠もり、尊氏方の今川範国と抗争したのである。しかし尊氏の命で派遣された援将伊達景宗が今川勢を率いて安倍城を攻め落とすと、佐竹・中山らは大津庄の山中に退去して大津城を築き、今川氏に抵抗を続けた。直義死後の1352年9月、伊達景宗は今川範氏と共に大津城を20日間に渡って攻め続け、落城させた。

 大津城は、現在「野田の城山」の山頂に残る城郭遺構(野田城とも呼ばれる)がそれではないかと推測されている。野田城については、『駿河志料』等では永禄年間(1558~69年)に武田氏の家臣初鹿野傅右衛門の城であったともされる。

 大津城と推測されている遺構は、標高153m、比高93mの独立丘陵上に築かれている。周囲を確認したところ北尾根の先端からわずかに山道があるのがわかり、そこから登城した。山頂部に主郭を置き、派生する四方の尾根に腰曲輪を配し、要所を堀切で防御した、比較的簡素な縄張りである。主郭は、薮で形状が掴みにくいが、段差があり上段・下段の平場に分かれている。東側は茶畑で改変されているが、腰曲輪になっていたらしい。主郭北側には堀切を介して、ニノ郭と思われるやや広い曲輪があり、そこから北西尾根には腰曲輪と堀切があり、この堀切は横堀形状で南側だけ直角に竪堀に曲げて落としている。登ってきた北尾根の先端には、方形の櫓台とその背後に空堀があり、北郭と思われる広めの腰曲輪、更にその上方に堀切が穿たれている。主郭の西尾根にも堀切と小郭、東尾根にも背後に土塁と堀切が築かれた腰曲輪がある。堀切はいずれも小規模で、曲輪もそれほど大きなものはないが、削平は明確で南北朝期以降に改修された可能性を示している。但し、戦国後期の城とするには、遺構的にやや充実度は低く、なかなか年代的な判断に迷う城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.849981/138.180488/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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瀬戸谷城(静岡県藤枝市) [古城めぐり(静岡)]

DSC02504.JPG←東端の堀切と土橋
 瀬戸谷城は、静岡古城研究会刊行『静岡県の城跡』では滝沢東城と呼称される、歴史不詳の山城である。その普請の未熟さから、『静岡県の城跡』では南北朝時代に北朝方の今川氏が築いた花倉城に対峙して、対岸の滝沢城(滝沢西城)と一対のものとして南朝方が築いた城砦と推測しているが、確かなことは不明である。
 瀬戸谷城は、瀬戸谷の城山と呼ばれる標高380.5mの山上に築かれている。城山の南東中腹まで極めて狭い車道が伸びており、その先は一応わずかな林業用の山道があったので、それを辿って登った。山頂はほとんど自然地形であるが、なだらかな平坦地となり、西側の一部にはわずかに切岸や塁線など段郭らしい構造が確認できる。但し、痕跡が僅かである為、即座に遺構とは断じ難い。唯一の明確な遺構は、山頂部東端に穿たれた小堀切で、中央に土橋の掛かった明確な形を残している。堀切の先は小郭の平場になっており、何らかの城砦が築かれたことは疑いない様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.925208/138.192290/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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花倉城(静岡県藤枝市) [古城めぐり(静岡)]

DSC02389.JPG←主郭の堀切
 花倉城は、葉梨城とも言い、今川氏の内乱「花倉の乱」の舞台として知られる城である。創築は1352年、今川範氏によるとされる。今川氏は、その祖範国が足利尊氏に従って各地を転戦し、室町幕府が開かれると遠江守護となり、1337年の北畠顕家率いる奥州勢の迎撃戦、青野原の戦い(現在の関ヶ原の地)で軍功を挙げ、駿河守護を兼帯した。しかし駿河は南朝方の勢力が強くて容易に入国できず、狩野氏の拠る安倍城などを徐々に制圧し、1352年、遂に駿河南朝方の最後の拠点大津城徳山城を攻め落とし、今川氏は16年の歳月を掛けて駿河南部の南朝勢力を駆逐した。そして範国の嫡子範氏は、遠江府中から葉梨荘に入部して居館を設け、詰城として花倉城を築いた。その後、戦国時代の1536年、今川氏輝が病没し、その跡目を巡って弟の玄広恵探と梅岳承芳(後の今川義元)との間で国を二分する抗争が勃発した。これが「花倉の乱」で、この時、花倉城は恵探の籠もる本城となり、内乱の決戦舞台となった。承芳方の主将岡部親綱は、方ノ上城と花倉城を攻撃して落城させ、逃れた恵探は瀬戸谷の普門寺で自刃した。この乱の後、花倉城は廃城となった。

 花倉城は、烏帽子形山の東の支峰、標高297mの山上に築かれている。麓から登れば比高200mを超える峻険な山城であるが、幸い東尾根の茶畑まで車で登ることができ、そこからハイキングコースが整備されているので楽に訪城できる。この東の尾根は小丘となっていて、大手筋に当たり、その先に一騎駆けの土塁を備えた腰曲輪があることから、出丸として機能した可能性がある。この窪地状の腰曲輪の東側の斜面には石積みが見られ、遺構の可能性がある。一騎駆けと呼ばれる長い土橋構造は駿遠地方の城独特のもので、古くは南北朝期の徳山城から戦国末期の高天神城まで多くの城で見られる。この先、主城部へはここからでも高低差は100m程もある。尾根が急になる登り口には、食い違いに穿たれた堀切によるS字状土橋があり、その先の城道を登って行くと、ニノ郭の腰曲輪に達する。山上の遺構は、南北に伸びる尾根上に曲輪を連ねた単純な連郭式の縄張りである。主要な曲輪は主郭とニノ郭だけで、あとは周囲の腰曲輪と削平の甘い南尾根の平場、あとは北尾根のかなり下方にやや広い曲輪状の緩斜面が広がっているだけである。花倉の乱で一方の拠点となった割りには、大きな兵力を籠められる様な城の規模ではない。しかし縄張りの随所には前述のS字状土橋等の様に戦国期の普請の工夫が見られ、主郭・ニノ郭の堀切も決して小規模なものではない。それ以外の堀切は、北尾根の先と南尾根の先にそれぞれ1本づつ穿たれていて、城域を区分している。この他では、主郭には不整形な物見台が構えられている。縄張りに目新しさはないが、今川系城郭の形態を今に残す貴重な遺構であろう。
東尾根のS字状土橋と堀切→DSC02368.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.915883/138.222588/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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遍照光寺城(静岡県藤枝市) [古城めぐり(静岡)]

DSC02294.JPG←東郭の堀切
 遍照光寺城は、花倉の今川氏館とも呼ばれ、駿河・遠江守護今川氏の初期の居館であったと考えられている。南北朝時代に足利尊氏に従って各地を転戦し、駿河・遠江の両国守護となった今川範国はこの地に館を構え、その後、範氏・泰範と3代に渡る居城となったとされる。或いは、1354年に範氏がこの地に進出して館を構え、合わせて遍照寺を創建したともされる。その後の城館の歴史は定かではないが、遍照寺は1536年の花倉の乱や1568~70年の武田信玄の駿河侵攻で度々兵火にあったと伝えられ、この頃にも何らかの城砦として活用された可能性も考えられる。
 遍照光寺城は、遍照寺の背後に広がる比高60m程の山上に築かれた城砦である。明確な削平はないが、細尾根の上に主郭と考えられる平場や南郭、東郭の様な平場があり、合計4本の小堀切が確認できる。古い小規模な詰城の形態を残していることから、守護館の背後を固める砦であったものであろう。一方、有事の際の詰城は、北にやや離れた花倉城であったと思われる。遍照寺には、今川範氏やその嫡子氏家の墓塔が残っており、今川氏館が一時期存在したことは確実だろうと、静岡古城研究会の『静岡県の城跡』では述べている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.896914/138.231686/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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