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朝比奈城(静岡県藤枝市) [古城めぐり(静岡)]

DSC02186.JPG←「松山遺構」の土塁と堀切
 朝比奈城は、今川氏の重臣朝比奈氏の一族が築いた城である。朝比奈氏は、鎌倉時代後期の1284年に朝比奈郷の地頭となって入部し、以後朝比奈氏を称して、当地がその本領となった。南北朝時代に入ると、駿河に入部した北朝方の今川氏に、岡部氏と共に早い時期から帰属した為、一族の多くが重職に抜擢され、特に駿府と掛川に移った2系統が「両朝比奈」と呼ばれる大身となった。一方、当地には「孫左衛門」系統と呼ばれる一族が残り、朝比奈又八郎義周や朝比奈孫左衛門尉泰元の名が伝わっている。泰元は、武田信玄の駿河侵攻の際、いち早く武田氏に従属して本領を安堵された。一方、朝比奈城に関する明確な歴史は不明であるが、おそらく平地の居館に対する詰城として、入部当初より築かれたものと推測される。

 朝比奈城は、殿集落背後の比高110~120mの山上に築かれた山城である。大きく二つの遺構群から成り、東側に張り出した細尾根上の「殿山遺構」とその西側の10m程高所にある「松山遺構」が存在する。南麓の萬年寺から伸びるハイキングコースを登ると最初に現れるのが「松山遺構」で、ただ単に広く平坦な曲輪が広がっているだけであり、北側の基部に土塁と堀切が築かれているだけの単郭の縄張りである。そこから尾根を北に150m程進み、東に派生する尾根筋を降って行くと「殿山遺構」に到達する。「殿山遺構」は「松山遺構」よりもしっかりと普請された城郭遺構で、細尾根を3本の小堀切で分断し、その先に数段の曲輪群からなる主城部を築いている。主郭の周囲にと前面に数段の腰曲輪を廻らし、南側の虎口から降った所にも小郭を置き、主郭背後にもニノ郭と思われる細長い曲輪を置いた、小規模で簡素な砦である。この他、殿山遺構の基部の西尾根にも小堀切と段曲輪状の平場が確認できる。いずれにしても単純連郭式で古い形態であり、鎌倉時代からそれほど改修を受けていない城の様である。

 尚、朝比奈城の東麓には、朝比奈家の居宅があり、朝比奈氏の屋敷跡であると言う。その地名も「殿」と言うことからも、当地の中心的存在であったことが伺われる。
「殿山遺構」の堀切と土橋→DSC02221.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.954408/138.255419/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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朝日山城(静岡県藤枝市) [古城めぐり(静岡)]

DSC01969.JPG←巨大竪堀とされる谷戸地形
 朝日山城は、今川氏の重臣岡部氏が築いた山城である。岡部氏は入江氏の庶流で、鎌倉時代に岡部郷の地頭となり、南北朝時代の頃に岡部郷に居住する様になったと考えられている。そして詰城として朝日山城を築いたと考えられる。その後、駿河に入部した今川氏に、朝比奈氏と共に早い時期から帰属し、歴代の重臣となった。しかし朝日山城の歴史については不明である。
 朝日山城は、標高100mの丘陵上に築かれた山城である。山頂に舟形状と形容される主郭を置き、その東側にニノ郭・三ノ郭を段状に築いていたと推測されているが、主郭以外は朝日稲荷神社となって改変されており、遺構は明確ではない。主郭は半楕円形状で、西側外周に低い土塁が築かれ、北辺には腰曲輪が置かれている。主郭の西尾根は明確な遺構は確認できなかった。一方、城への登道沿いに巨大な「竪堀」とされる遺構があるとされるが、実質は自然の谷戸に多少改変を加えた程度のもので、明確な遺構とは判断し辛い。この他、現地の推定図には南出曲輪が記載されているが、茶畑で改変されており、明確な遺構は確認できなかった。今川氏の重臣にしては、ささやかな城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.904622/138.268937/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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徳願寺山城(静岡県静岡市駿河区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01929.JPG←南尾根の堀切と小郭
 徳願寺山城は、歴史不詳の山城である。かつてこの山上には大窪寺と言う寺院があり、鎌倉時代には久能寺・平澤寺・建穂寺と並ぶ「駿河四大寺」とされ、格式高い寺院であった。とすれば、南北朝時代の山城によくある、山上の寺院をそのまま城塞化した寺院城郭であった可能性も考えられる。その後、康生年間(1455~57年)に寺院を山頂から中腹の「大段」に下ろし、得願寺と名を改めた。1529年には、今川義忠の正室北側殿(伊勢宗瑞の姉または妹)が没し、当寺を菩提寺として中興したと伝えられている。この辺りの歴史からは、今川氏の関係か強く推察され、府中館防衛のための周辺城砦群の一つとして、室町~戦国期にも活用された可能性が考えられる。

 徳願寺山城は、標高352m、比高322mの山上に築かれている。城域は、「仏平」と呼ばれる山頂部と、東側中腹に位置する徳願寺周辺の「平城」と伝承される平場、徳願寺の北側に隣接する平場「大段」に跨がり、広い城域を有していたらしい。現在、中腹の「平城」「大段」は、畑や寺の境内となって改変され、数段の平場以外に明確な遺構は確認できない。一方、山上の「仏平」は、一部山林伐採などで遺構が不明瞭なものの、堀切や曲輪の遺構が良く残っている。車道から整備されたハイキングコースの右回りルートを登って行くと、山の北尾根に出て、そこから尾根筋を登ると、2本の堀切が現れる。堀切はいずれも深さ2~3mのしっかり穿たれたもので、2本目は巾の広い尾根に穿たれているため、横に長く横堀形状を呈している。その上に数段の腰曲輪群があり、尾根筋を登って行くとニノ郭に到達する。ニノ郭の西側には、西郭があり、横矢の掛かった小さい横堀でニノ郭と区画されているが、この横堀はかなり浅いもので、ほとんど溝に近く分断効果はあまりない。西郭の先には虎口があり、その先を小堀切で防御している。主郭はニノ郭より更に尾根筋を登った所にあるが、切岸はあまり明瞭ではない。しかし西側には腰曲輪群を備え、そこから南に降った所に堀切と小郭が築かれている。以上の様な感じで、明らかに城郭として築かれた遺構であり城域も広いが、遺構としては比較的簡素なものである。尚、徳願寺には北川殿の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.959684/138.346957/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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持舟城(静岡県静岡市駿河区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01803.JPG←大堀切
 持舟城は、用宗城とも言い、今川氏が築いた水軍の拠点である。築城時期は不明であるが、おそらくは天文年間(1532~55年)の頃、花倉の乱に勝利して家督を継承した今川義元が、花沢城の築城と前後して築いたのではないかと思われる。義元の時代には関口刑部少輔親長が在城し、氏真の時代には一宮左兵衛尉元実が城主であったと言われている。この地は駿河湾に面した天然の良港で、今川氏は持舟城を水軍基地とすると共に、西方の日本坂から侵入する敵を防ぐ城砦とした。その戦略的重要性の故に、持舟城は度々激しい合戦の舞台となり、多数の将兵が討死した。1568年、甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻した武田信玄は、駿河を制圧すると今川氏の水軍を再編して武田水軍を新たに組織し、駿河先方衆の三浦兵部義鏡が在番し、持舟城を水軍基地として活用した。また水軍の将向井伊賀守政重も持舟城に在駐した。1579年、越後上杉氏の内乱「御館の乱」を巡って、武田勝頼が小田原北条氏と敵対関係に陥ると、徳川家康は北条氏と同盟を結び、軍勢を西駿河海岸部を東進させて持舟城を攻撃した。この戦いで、向井政重・三浦兵部ら30人ほどが討死した。その後は朝比奈駿河守信置が在城した。1582年2月、織田信長の甲斐侵攻に呼応して、徳川勢は当目越えから持舟城を攻撃した。外郭を落とされ、支えかねた信置は持舟城を明け渡し、久能山城に退却した。その後、持舟城は廃城となった。

 持舟城は、比高70m程の城山に築かれている。主郭とニノ郭を大堀切で分断した一城別郭構造の縄張りで、基本的な形状は花沢城に酷似している。また主郭の北西側には腰曲輪が何段も築かれ、その先の堀切がミカン畑の中の小道として残っている。この他、ニノ郭の西側から南側にかけても腰曲輪が多数築かれている様である。ただ、主郭が公園として整備されているものの、それ以外はものすごい薮城で、遺構の確認は困難である。またニノ郭はミカン畑に変貌しているので、無断での進入はできない。また大堀切には、井戸跡の様な大穴が残っている。武田氏滅亡まで運用された城でありながら、武田氏による改修の跡は殆ど無い様で、花沢城と同じ今川氏の縄張りが残っている城の様だ。主郭以外にももう少し整備の手を入れてもらえるとありがたいのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.925032/138.359617/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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花沢城(静岡県焼津市) [古城めぐり(静岡)]

DSC01705.JPG←主郭~ニノ郭間の大堀切
 花沢城は、武田信玄の駿河制圧の際に激戦が展開された城である。花倉の乱に勝利して今川家の家督を継承した今川義元は、1537年に遠江と接する西駿河の押さえとする為、花沢城、徳一色城(後の田中城)の2城を築城した。今川氏の時代には駿府への西の交通路を押さえる関門としての役割を担ったと考えられ、天文年間(1532~55年)には関口越後守氏録が在番したとされる。1568年12月に始まった武田信玄の駿河制圧戦は、1570年1月の花沢城・徳一色城の攻略を以って完了したが、この際武田勢は大原肥前守資良の籠もる花沢城を包囲し、14日間の激戦の末開城させた。その後、花沢城は廃城になったと思われる。

 花沢城は、東名高速と国道1号線の日本坂トンネル手前の西側にそびえる標高140mの丘陵上に築かれた城である。広やかな主郭とニノ郭を大堀切で分断した一城別郭構造で、その周囲に腰曲輪を廻らしただけの簡素な縄張りである。主郭北側には浅い堀切に土橋が架って出曲輪に繋がっている。この他、周辺の広い範囲に平場が散在し、大手とされる西側にも堀跡の切通し道とその両側に大手曲輪と考えられる平場が存在する。城の中枢部は、主郭だけは城址碑が建って整備されているが、腰曲輪やニノ郭は茶畑の耕作放棄地となっており、茶の薮で覆われており遺構の探索が容易ではない。いずれにしても縄張り的にはささやかな城で、遠く三河まで版図を広げた義元の時代には、膝下の西駿河は既にそれほどの厳重な防備を必要としなかったことを物語っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.898146/138.331035/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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石脇城(静岡県焼津市) [古城めぐり(静岡)]

DSC01653.JPG←主郭
 石脇城は、まだ今川氏の客将であった頃の伊勢新九郎長氏(後の宗瑞、いわゆる北条早雲)の居城である。室町幕府将軍の奉公衆であった備中伊勢氏の庶流伊勢盛貞の娘(北川殿)は、今川義忠の正室となっていた為、その縁故で盛定の子新九郎長氏(宗瑞)は1473年頃、今川氏に客将として迎えられ、石脇の地を与えられて石脇城を築いたと言われている。1476年、義忠は遠江遠征の帰途、塩買坂で襲撃されて不慮の戦死を遂げ、跡目争いが生じた。義忠の嫡子竜王丸(後の今川氏親)はまだ幼く、伯父の小鹿範満を推す一派により、範満が一時的に当主となった。この時、自身にとっては甥に当たる竜王丸を支持する長氏は、東奔西走して調停したとされる。(但し近年の研究では、この時点での長氏の駿河下向には否定的見解が出ている。)竜王丸成人後、範満は当主の座を返すことになっていたが、範満は一向に譲位する気配がなく、北川殿の要請によって長氏は、1487年、府中館の範満を奇襲して攻め滅ぼし、竜王丸を当主の座に据えることに成功した。その功によって、長氏は新たに富士下方12郷を与えられ、興国寺城を築いて移ったと言う。長氏の石脇城在城は短かったと推測されるが、石脇在城を証する文書が残っており、一時期、石脇城を居城としていたことは間違いないらしい。長氏が興国寺城に移ると、石脇城は廃城になったと思われる。

 石脇城は、東名高速、日本坂PA東側に位置する、比高30m程の独立小丘に築かれている。最上部に主郭を置き、その南側にニノ郭・三ノ郭を連ねている。主郭は、西端に大日堂が鎮座するほか、その東側の大半はみかん畑に変貌しているが、わずかに土塁が残っている様である。ニノ郭は主郭の下方に位置し、上部が傾斜した曲輪で、一部が墓地に改変されているほか、西側に腰曲輪を伴っている。三ノ郭には城山八幡宮が鎮座し、背後に土塁らしき土盛りが見られるが、改変もあって遺構はあまり明確ではない。石脇城はかなり小規模な城で、明確な堀切遺構も見られず、平場群だけで構成された簡単な城砦だった様である。石脇城と興国寺城の規模を比べると、宗瑞の今川家中での立場の変遷が見て取れるようだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.888611/138.324429/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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方ノ上城(静岡県焼津市) [古城めぐり(静岡)]

DSC01588.JPG←狼煙台跡とされる巨石群
 方ノ上城は、駿河の戦国大名今川氏の跡目を巡る内紛「花倉の乱」において、玄広恵探方の一拠点となった山城である。その創築は明確ではないが、一説には南北朝時代に安倍城主狩野介貞長によって築かれたとも言われるが定かではない。1493年、駿河における領国支配を確立した今川氏親は、遠江へ進撃する上での連絡拠点として方ノ上城を改修した。1536年、今川氏輝が病没し、その跡目を巡って弟の玄広恵探と梅岳承芳(後の今川義元)との間で国を二分する抗争が勃発した。これが「花倉の乱」で、この時、恵探派の福島彦太郎・斎藤四郎衛門・篠原刑部少輔らによって方ノ上城は占拠された。しかし承芳派の岡部左京進親綱によって攻め落とされたと言う。その後の歴史は不明である。

 方ノ上城は、高草山から西に張り出した、標高230mの峰に築かれた城である。小規模な細尾根上の城砦で、山頂部に削平の甘い主郭を置き、背後の尾根筋を数本の小堀切で分断しただけの簡素な城である。堀切は最大でも深さ2m程しかない。尾根の鞍部も堀切と考えられるがほとんど自然地形に近い。この堀切の西側には谷戸内に緩斜面が広がり、兵の駐屯地であった可能性がある。この平場内には「幻の池」という表示のある水溜りも見られ、水の手だったのかもしれない。一方、主郭の前面にはニノ郭と思われる平場があるが、ここには狼煙台跡とされる巨石がゴロゴロと散在している。城のすぐ北側まで車道が延びており、道も整備されているので、簡単に訪城できる。山上からは周囲への眺望に優れ、狼煙台や物見としては好適であったことがよく分かる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.897944/138.309145/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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丸子城(静岡県静岡市駿河区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01455.JPG←大鑪曲輪の三日月堀
 丸子城は、甲斐武田氏がその末期に、存亡をかけて大改修したハイテク城郭である。元々は、応永年間(1394~1428年)の頃に今川氏の家臣斎藤加賀守安元の居城であったとされる。その後、今川氏親は駿河府中の西を押さえる要衝として、丸子城を斎藤氏から接収し拡張した。1568年になると、武田信玄は甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻し、興津河原で今川勢を撃破し、駿河府中を焼き討ちした。駿府に陣を敷いた信玄は、西駿河の今川方勢力に対応するため、重臣山県昌景を丸子城に駐屯させて守りを固めた。1570年に駿河全域を支配下に置いた信玄は、室賀兵部大輔(後の屋代勝永)・関甚五兵衛を丸子城に在番させ、勝頼の代に移ってからの1579年頃には徳川家康による西駿河侵攻が激しくなり、この頃に丸子城は大改修された。1581年、遠江の要衝高天神城の落城を前に、武田勢は徳川勢に丸子城を明け渡して退去した。徳川氏は城代の松平備後守を駐留させたが、1590年に家康が関東に移封となると廃城となったとされる。(静岡古城研究会著『静岡県の城跡』では、1582年廃城説を採っている。)

 丸子城は、東海道の宿場町、丸子宿西側の標高140m、比高120mの山上に築かれた山城である。極めて技巧的な、精緻を極めた縄張りの城で、武田流のハイテク築城術が遺憾なく投入されている。大手口とされる匠宿方面から整備された登山道を登ると、兵の駐屯地とされる広い平坦地が現れ、ここから先に行くと本格的な城域に入る。まず鈎状の横堀と腰曲輪で防御された大手曲輪が構えられている。大手の曲輪をこの様に横堀とその周りの腰曲輪で防御した例は、犬居城などにも見られる駿河、遠江方面の武田系城郭でよく見られる構造である。この先、大手ニノ曲輪・北曲輪・三ノ曲輪・ニノ曲輪・本曲輪と、主要な曲輪は尾根に沿って大きく「く」の字に曲がって配置されている。これらの曲輪は、堀切・竪堀・土塁で動線を巧みに屈曲、遮断させ、枡形虎口を2ヶ所に配置して備えを固めている。特にニノ曲輪と本曲輪の間は深い堀切となっており、更にニノ曲輪側に張り出した橋台があり、対岸の本曲輪に大手枡形があることから、木橋が架かっていたと推測されている。本曲輪の西側には平虎口の外に張り出した小郭があり、狼煙場と言われている様だ。この下に合計4段の段曲輪が築かれているが、城道の要所を竪堀で動線拘束し、最下段の曲輪へは土橋状になった土塁で連絡され、その土橋横も竪堀で動線拘束して敵の侵入を阻止している。しかし何よりこの城で圧巻なのは、徳川軍の来攻方向である西側への備えの厳重さである。北曲輪から本曲輪まで長大な横堀が穿たれ、その外側に腰曲輪を廻らしている。この、曲輪周囲の横堀と外周の腰曲輪は、北条氏の滝山城滝の城山中城小机城などに見られる構造と酷似する一方、信濃の武田系城郭では見られない構造である。武田の領国内では、おそらく信玄治世の末期に併合された西上州と駿遠地域でしか見られないもので、滝山城戦を始めとする北条氏との抗争から会得した築城法ではないかと思う。この横堀に沿って、三ノ曲輪西側に半月型の独立堡塁がそびえ、下方に対して睨みを効かせている。また本曲輪西側にも、腰曲輪を間に置いた二重の横堀の外側に大鑪曲輪と呼ばれる独立堡塁に近い形の丸馬出がそびえ、その外周に三日月堀が穿たれている。更にその側方に100mに及ぶ長大な竪堀が穿たれている。この付近の構造は厳重さを極め、側方を横堀・竪堀で動線拘束した狭い土橋でのみ連結されている。この2ヶ所の独立堡塁は、これほど完全に捨曲輪としての意図を明確にした構造を私は見たことがない。ここの守備兵は、周囲を敵に囲まれた中、絶対死守を命じられた完全な捨て駒で、あまりの冷酷な縄張りに戦慄さえ覚える。この他、腰曲輪に食い違いに竪堀を穿ってクランク状土橋とするなど、技巧的構造には枚挙に暇がない。とにかくこれでもかというぐらい素晴らしい縄張りで、静岡県内で武田の城といえば、諏訪原城とこの丸子城が双璧であろう。
横堀とクランク状土橋→DSC01327.JPG
DSC01313.JPG←半月型の独立堡塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.951205/138.328338/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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久住砦(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01185.JPG←段曲輪の先のわずかな堀切
 久住砦は、安倍城の出砦と考えられている。安倍城を築いた狩野介貞長は、本城の安倍城周辺に多くの城砦群を築いたが、久住砦もその一つと考えられている。しかし文献上は安倍城との関係は明確ではなく、今川氏重臣の福島氏の守備した砦とも言われるが、定かではない。

 久住砦は、安倍城の南の尾根続きの峰の上に築かれている。腰曲輪に鉄塔が建っているため、一部破壊を受けていると思われるが、遺構はほぼ完存している。安倍城以上に素朴な作りの砦で、主郭を取り巻く数段の腰曲輪と、西に伸びる尾根上にやはり数段の曲輪を連ねただけである。堀切もあることはあるが、埋もれているのか安倍城以上に浅い堀切で、それと言われないと気付かない程である。遺構を見る限り、南北朝時代以降に積極的に使われた形跡は無さそうだ。尚、安倍城から一旦尾根の鞍部に降り、そこから久住砦に登る道は思いの外急峻でロープに掴まりながらの登攀となる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.002933/138.336743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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安倍城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01136.JPG←わずかに残る石垣
 安倍城は、南北朝時代に駿河南朝方の武将狩野介貞長が築いた山城である。貞長は駿河の在地豪族で、建武の新政の時、武者所結番を勤めて禁中警護のために都にいたが、1337年に後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を樹立すると、貞長は本拠の駿河に戻り、南朝方として北朝方の足利一門の武将今川範国と対立した。狩野氏の本拠は内牧城であったが、より峻険な山城の安倍城を築き、更にその周辺に城砦群を築き、安倍城を中心として今川氏と戦闘を繰り広げた。後醍醐天皇の皇子宗良親王・興良親王が、一時、安倍城に入城したこともある。今川範国は、遠江南朝方の井伊氏を攻撃した後、1338年に安倍城に籠る南朝方を攻撃した。1350年には、安倍城を拠点とする狩野孫左衛門尉、石堂義房の家人佐竹兵庫亮、中山左衛門尉らの出撃に対し、今川範氏の援将伊達景宗(駿河伊達氏)が今川勢を率いて駿府周辺で戦い、翌年9月にも手越河原で激戦を展開し、更に同年11月に駿河府中を占拠する中賀野掃部助、入江駿河守らと戦い、これらを久能山城に撃退した。こうして南朝方勢力は徐々に今川氏に押し込まれ、14世紀末頃には狩野氏も今川氏に服属し、安倍城は廃城となったと推測される。

 安倍城は、標高435m、比高385mの峻険な山城である。築城技術の発達していなかった南北朝時代の城は、高所にある天険の要害に拠ったものが多いが、安倍城もそうした城の一つである。ネット上で見ると、西側の洞慶院から登っているのが一般的だが、私はより距離が短そうな東側の増善寺からの登山道を選択した。この道でも登頂比高380mを数え、安倍城から伸びる東尾根の鞍部の鉄塔を経由し、尾根筋の急坂を直登する大変きつい登り道であった。この道を登ると、途中標高370mの地点に平たい尾根があり、その先端付近に腰曲輪を備え、周辺を低土塁で防御した木戸口防衛の小さな砦が確認できた。安倍城の登城道の一つを防衛する出丸であろう。そこから更に尾根筋を登って行くと、数段の段曲輪群を経由してようやく本城に到達する。虎口手前にも小郭が置かれている。城の主要部は大きく4つの曲輪で構成され、これらの曲輪はいずれも比較的広く、兵の駐屯が可能な規模であるが削平は少々甘い。また曲輪間を分断する堀切も浅く、南北朝期の山城の特徴をよく残している。同じ様な特徴は下野長谷場城でも確認できるので、長谷場城もやっぱり南北朝期の城だなとあらためて実感した。石碑の建つ山頂の主郭からは絶景が望め、清水湊から駿河湾、遠く伊豆半島の南端まで眼下に収める。主郭から南に降る尾根には数段の腰曲輪が築かれており、小規模な石垣や虎口部には門跡の石も残っている。南北朝期の石垣としては備中福山城の例があるので、決して後世の戦国時代に改修を受けた遺構というわけではないだろう。南の峰には久住砦があるが、久住砦との間は高低差が大きく、別城一郭的な造りだった様だ。この尾根の途中に穿たれた堀切は、鞍部ではなく安部城寄りの鞍部から少々登った所に穿たれており、両城の分断を狙ったものではなく、安部本城への接近を阻む目的で構築されたものであることがわかる。安倍城は、遺構は比較的ささやかな一方、登るだけで小一時間掛かる山城なので、決して楽ではないが、歴史的に重要な城である。
ニノ郭の堀切→DSC01106.JPG
DSC01082.JPG←土塁のある東尾根の出丸

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【安倍本城】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.006131/138.338726/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

    【東尾根の出丸】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.006536/138.342332/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


静岡県の歩ける城70選 初心者から楽しめる名将ゆかりの城跡めぐり

静岡県の歩ける城70選 初心者から楽しめる名将ゆかりの城跡めぐり

  • 作者: 加藤理文
  • 出版社/メーカー: 静岡新聞社
  • 発売日: 2016/12/21
  • メディア: 単行本


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賤機山城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00991.JPG←籠鼻砦の大堀切
 賤機山城は、駿河の戦国大名今川氏の詰城と考えられている。本拠は、現在は駿府城に変貌してしまった「府中館」で、その北西背後を押さえる有事の際の詰城であったと考えられる。しかし城の歴史は不明確な部分が多く、南北朝初期に今川氏初代範国が駿河南朝方の拠点安倍城の狩野氏に備える為に築いたとも、また今川氏4代範忠在世中の1410~11年頃に築かれたとも言われるが確証はない。しかしいずれにしても、その後室町時代から戦国時代に至るまで、府中館の詰城として機能しただろうことは間違いないと思われる。1568年、武田信玄は甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻すると、賤機山城かその出城と考えられる「籠鼻砦」に陣を敷いて駿府の城下町を焼き払った。その後、今川氏救援のため薩埵山に布陣した北条氏に対して、3ヶ月の対陣の後、信玄は甲斐に敗走し、今川家旧臣の人々は賤機山城を修築した。しかしその後、武田氏が駿河を制圧すると、賤機山城は武田氏の支配下に入った。1582年、徳川家康が駿府に攻め入り、賤機山城も再び落城し、以後廃城となったと考えられる。

 賤機山城は、臨済寺背後の標高171m、比高161mの賤機山山頂に築かれている。山稜南端の浅間神社からハイキングコースが整備されており、容易に登ることができる。尾根に沿って北から順に三ノ郭、主郭、ニノ郭を連ねた連郭式の山城で、派生する尾根や各曲輪の先に出丸や腰曲輪を設けている。南の城域入口部にはかなり埋もれた堀切らしい地形があり、その先のニノ郭手前には深さ5m程の中規模の堀切がしっかりと穿たれて守りを固めている。ニノ郭は南の大手道側にのみ土塁が築かれており、大手からの侵入を意識した縄張りとなっている。主郭はかなり複雑な技巧的構造で、櫓台と土塁で囲まれた凹んだ方形郭を持ち、櫓台の南には一騎駆け状の土塁が一直線に伸び、その南端に前衛となる鏃状の櫓台を備えている。一騎駆け土塁の東側は倉庫か何かが置かれた様な広い曲輪になっている。この様な主郭の構造は類例がなく、かなり特徴的である。主郭北側には数mの段差の下に三ノ郭が広がり、その先は腰曲輪群と堀切があって北出丸の平場となっていて、この付近だけ畑となっている。一方、ニノ郭から西の尾根には段曲輪群があり、その先に城内最大規模の深さ8mの大堀切があって、その先は籠鼻砦と呼ばれる出砦が築かれている。この他、主郭の東尾根にも出丸があるようだが、そちらは未踏査である。以上が城の遺構で、今川氏の城郭の特徴を色濃く残す貴重な遺構である。また賤機山は朝からハイキング客が多数登る、静岡市街を一房の下に収める風光明媚な山である。
主郭の土塁で囲まれた方形郭→DSC01022.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.994915/138.374928/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小瀬戸城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00888.JPG←主郭手前の堀切
 小瀬戸城は、南北朝時代に駿河南朝方の拠点、安倍城の支城であったと言われている。安倍城主狩野介貞長は後醍醐天皇の皇子宗良親王・興良親王を迎えて、北朝方の駿河守護今川範国に頑強に抵抗した。そして、小瀬戸集落の「御所の谷」に、親王のための御所を造営したと言われている。しかし南朝方の劣勢は如何ともし難く、安倍城と共に小瀬戸城も落城し、狩野氏も今川氏に降伏したとされる。その後は今川氏の重臣朝比奈氏がこの地を領したことから、朝比奈氏の持ち城となっていたと推測されている。1569年には、武田信玄の駿河侵攻に際して早くから武田氏に従属した朝比奈孫左衛門尉がこの地を領有したことが知られている。

 小瀬戸城は、藁科川南岸にそびえる標高170mの山上に築かれた山城である。小規模な城で、遺構もささやかなものである。その上、山上は主郭の広場以外は大半が茶畑に変貌している上、近年新東名の建設によって、北尾根が途中まで削られてしまい、遺構がかなり湮滅してしまっている。しかし、新東名の側道から登城道(階段)が伸びており、楽に登城することができる。高速脇のコンクリート製の踊り場に、「北の出丸」という標柱が建っているが、以前は実際に平場があったのだろう。そこから北の尾根筋を登っていくと、1本目の堀切は既に湮滅しているが、2本目はしっかりと残っている。しかしかなり小規模なものである。堀切に面した小郭の上に主郭があり、城址碑が建てられている。ここからは周囲の眺望が殊の外優れている。主郭背後には、かつては二重堀切があったようだが、茶畑に変貌して湮滅してしまっている。ほぼ単郭の、物見に近い役割の城砦だった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.982964/138.297690/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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愛宕山城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00835.JPG←美しい北尾根の堀切
 愛宕山城は、歴史不詳の山城である。この地は、駿河の戦国大名今川氏の重臣朝比奈氏相伝の所領で、1439年には今川義忠の有力家臣朝比奈妙光が地頭で、今川氏滅亡まで同氏系が続いていることから、朝比奈氏の城であったとも言われるが、確かなことは不明である。いずれにしても、今川氏が府中館防衛の為に築いた城砦群の一つであろう。

 愛宕山城は、駿府城の北東2.5km、標高90mの愛宕山上に築かれている。『日本城郭大系』に「静岡市内における城址のうち、特に遺構を現在まで完全に残す点で丸子城に次ぐ」と記されている通り、遺構が良好に残っている。一部、公園化で遺構が破壊された部分もあるようだが、あくまで部分的な破壊にとどまっているらしく、縄張りをほぼそのまま残している。山頂に広いニノ郭を置き、その中央やや東寄りに一段高く主郭を設けている。主郭には愛宕神社が鎮座している。ニノ郭周囲に派生する各方向の尾根に段曲輪群を連ね、要所に堀切を穿って防御している。堀切は小規模なものが多いが、中でも大きなものは北西尾根に見られる堀切とその下方の北尾根の堀切で、見事な形を残している。この他、腰曲輪に櫓台らしき土壇を設けるなど、防御を厳重にしている。静岡古城研究会発行の『静岡県の城跡』では、城域の北半と南半で、「北半のみ重層的な導入系構造と大規模な堀切による遮断系構造が強化されている」ことから、南半が古い今川系の縄張りを残す一方、北半は1569年以降に武田氏か徳川氏によって改修された可能性を指摘している。個人的には、割りとシンプルな縄張りであることから、基本的には今川時代の縄張りをそのまま引き継いでいるのではないかと思う。街中にあるとは思えないほど、見所の多い遺構である。数少ない今川氏築城の遺構を伝える点でも貴重である。
ニノ郭、左側が主郭→DSC00779.JPG
DSC00816.JPG←段曲輪
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.990936/138.408104/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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有東砦(静岡県静岡市駿河区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00697.JPG←主郭に残る土塁
 有東砦は、八幡山城の南方わずか400mの位置に築かれた小城砦である。府中館防衛のため、今川氏が築いた周辺城砦群の一つと推測される。今川氏重臣の福島氏の居城であったとも言われ、永禄年間(1558~69年)には甲斐を追放されて今川氏に身を寄せた武田信虎(信玄の父)が居住したとも言われている。
 有東砦は、標高35.4mの有東山に築かれている。城内は神社や墓地が造成され、主郭は公園になっているが、主郭周囲に土塁がわずかに残る他、腰曲輪状の平場や虎口が残り、八幡山城よりは城の遺構をよく残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.966610/138.403911/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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八幡山城(静岡県静岡市駿河区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00636.JPG←主郭周囲の腰曲輪群
 八幡山城は、1411年頃に駿河府中に入った駿河守護今川範政が、居館の府中館を防衛する城砦群の一つとして築いたとされるが定かではない。1476年の今川義忠の塩買坂での討死によって生起した、竜王丸(後の氏親)家督継承を巡る内紛の際には、内紛への介入のため関東の扇ヶ谷上杉氏から派遣された太田道灌がこの山に陣取ったと言われている。またこの時、龍王丸後見の伊勢新九郎長氏(北条早雲)が、府中を占拠していた小鹿範満に対抗するために築いた陣場ともされるが、近年の研究ではこの時点での長氏の駿河下向には否定的見解が出ている。時代は下って1568年の武田信玄による駿河侵攻の際には、武田勢がやはりこの山に陣取ったと『甲陽軍鑑』に記載されていると言う。

 八幡山城は、駿府城の南東約2kmに位置する標高63.5mの八幡山に築かれた城である。隣接する有東砦と共に、駿河府中に入る久能街道の押さえとなっていたと推測されている。現在は公園化されている為、改変が多く明確な遺構には乏しいが、南東に伸びる尾根上には公園に登る道沿いに段曲輪群が構築され、主郭周囲にも腰曲輪らしい平場が何段も残っている。主郭には櫓台状の土壇も備わっているが、郭内は全体に削平が甘く、どこまで遺構なのかは判然としない。同じく府中館を防衛する城砦群の一つであった愛宕山城と比べると、古い形態の簡素な山城であった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.970023/138.402532/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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久能山城(静岡県静岡市駿河区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00603.JPG←家康廟背後に見える愛宕曲輪
 久能山城は、駿河を制圧した甲斐武田氏が築いた城である。岩殿城岩櫃城と並ぶ武田三堅城の一とも言われる。元々久能山には久能寺があり、南北朝期に在地領主の入江駿河守が久能寺を寺院城郭として城塞化し、安倍城の狩野氏と結んで北朝方の駿河守護今川氏に対し、南朝方として激しく抵抗した。戦国時代後期の1568年、武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻すると、小田原の北条氏康は今川氏救援のため、大軍を薩埵山まで派兵し、武田軍と対峙させた。『甲陽軍鑑』によれば、今川氏旧臣の庵原弥兵衛の進言により、信玄は久能寺を清水北矢部に移して久能山城を築城し、北条氏の伊豆水軍に備えさせたと言う。武田氏は、3ヶ月に渡る北条勢との対陣の末、甲斐へ敗走したが、その際、板垣信頼、今福浄閑斎・丹波守父子を久能山城の守備に残した。1569年、武田氏が3度目の侵攻で駿河を併呑すると、今福氏が久能山城主となった。以後、久能山城は、新たに編成された武田水軍の根拠地袋城持舟城を両翼として、駿河湾の制海権確保の要となった。今福丹波守は、1573年に遠州諏訪原城城番を命ぜられたが、1575年に徳川氏が諏訪原城を落城させると、再び久能山城に入り、1581年に父浄閑斎が死去すると、跡を継いで久能山城主となった。この頃には徳川氏の軍勢は遠江を制圧し、更に駿河の武田領国を侵食した。1582年、江尻城主穴山梅雪が徳川氏に降伏して江尻城を明け渡すと、丹波守も久能山城を開城して甲州に退去した。以後は徳川氏の持ち城となり、松平勝俊が在番した。1590年の小田原の役の後、徳川氏が関東に移封になると、新たに駿府城主となった中村一氏の管理下に入り、松下吉綱が在番した。関ヶ原合戦後の1606年、榊原清政・照久父子を久能山城に入れたが、1616年に家康が没すると、その遺言により久能山城を廃城にして家康を葬り、東照宮が造営された。

 久能山城は、駿河湾に面した標高216mの久能山の山頂から南斜面にかけて築かれた山城である。周囲を断崖で囲まれた屈指の要害で、山頂の愛宕曲輪の南に展開する広い緩斜面に城を築いていた。現在城域は、前述の通り久能山東照宮の境内となっており、ほとんど神域で遺構を見て回ることはできない。見て回れる範囲で確認できる城の遺構は、大手枡形虎口と勘助井戸の残る大手曲輪ぐらいで、山頂の愛宕曲輪やその南側の段曲輪群、また東の物見台などはわずかに遠目にその姿を見ることぐらいしかできない。しかし、城跡以上に素晴らしいのは東照宮の建築物で、ふんだんに漆と金を使った装飾は華麗なことこの上ない。やはり久能山は、城跡として行くより東照宮を見に行った方が感嘆する。
奥に見える東の物見台→DSC00533.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆ (これは城としての評価)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.964889/138.467420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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庵原山城(静岡県静岡市清水区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00454.JPG←ニノ郭北東の腰曲輪群と堀切
 庵原山城は、今川氏の重臣庵原氏の居城である。庵原氏は、今川義元の軍師とされる太原雪斎を輩出した一族で、1568年に武田信玄が駿河に侵攻した際には、清見寺に本陣を構えた今川氏真に対し、庵原安房守は最前線の薩埵山に布陣したと言う。武田氏が駿河を制圧すると、庵原郷はいち早く武田氏に従った朝比奈駿河守信興の所領となり、庵原山城を改修し居城とした。1582年に武田氏が滅亡すると、信興は当城を退去して庵原館で父子共に自刃し、城は廃城となった。

 庵原山城は、山切川西岸の比高40m程の丘陵上に築かれた平山城で、近年まで良く遺構を残していたが、新東名高速の清水連絡路が建設された際に遺構の大半が破壊されてしまった。しかし、わずかに北東部遺構とニノ郭のみ残っている。ニノ郭背後には腰曲輪が残り、その北東にミカン畑となった2段の小さな腰曲輪が連なり、堀切と土橋が良く残っている。ニノ郭は耕作放棄地らしくかなりの薮で覆われ確認が困難であるが、内部は耕地化に伴うと思われる段差が残っている。その他、かつては先端に主郭があり、ニノ郭西側には馬出し曲輪に二重堀切と武田氏の城郭特有の構造まで残っていたそうだが、こちらは高速道建設で完全に破壊されてしまった。高度成長期ならいざ知らず、いまだに遺構の破壊が続いていることに失望を禁じ得ない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.052573/138.484634/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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横山城(静岡県静岡市清水区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00303.JPG←主郭背後の堀切
 横山城は、興津城とも呼ばれ、今川氏の重臣となった国人領主興津氏の居城である。興津氏は入江氏の一族で、入江右馬允維清の孫維道を祖とすると言われている。平安末期にはこの地に入部していたらしく、『保元物語』や『承久記』にその名が見える。南北朝時代に足利氏の一族今川氏が駿河守護となると、興津氏はその被官となり、延文年間(1356~61年)に興津館より本拠をこの地に移し、山上に横山城を築き、山麓に土塁を巡らした居館を構えた。興津氏は連歌師宗長と親交があり、『宗長手記』に城のことが記されている。興津氏は今川氏の下で勇名を馳せたが、1568年に武田信玄が駿河に侵攻すると、落城して武田氏の支城となった。武田氏は城を改修して一族の穴山梅雪に守らせた。1569年、今川氏救援のため出兵した小田原北条氏の大軍が薩埵山に陣を構えると、横山城を最前線の拠点とした武田氏は3ヶ月に渡って北条勢と興津川を挟んで対峙し、両軍の間で度々激しい戦闘が行われた。その後、駿河を制圧した武田氏は、横山城に城番を置いて支城として重視したが、1582年に武田氏が滅亡すると、廃城となった。

 横山城は、興津川西岸に突き出した標高97m、比高67mの山上に築かれた山城である。Y字状に曲輪を連ねた縄張りで、主郭背後には堀切を挟んで西曲輪を置き、その南と西に腰曲輪を連ねている。南側の腰曲輪群には、横堀が巡らされている。主郭は背後に土塁があり、急峻な10mの切岸となっている。全体にかなり藪化が進んだスーパー薮城で、遺構が良好なのに曲輪も堀切も横堀も薮で埋もれており、遺構の把握が難しい。せっかく石碑や解説板が城の入口にあるのに、全く未整備なのは残念である。また、南麓には居館があり、民家とミカン畑になっているが、周囲に土塁が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.078468/138.518410/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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薩埵山陣場遺構群(静岡県静岡市清水区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00142.JPG←大規模な東堀切遺構
 薩埵山陣場遺構群は、薩埵山合戦の際に築かれた陣城遺構である。歴史的経緯は薩埵山古戦場の項に詳述したが、ここには前後3回軍勢が布陣している。最初は、1351年の観応の擾乱の際に、足利尊氏が布陣したもの。次は1568年に、今川氏の軍勢が駿河に侵攻した武田氏から駿府を防衛するため布陣したもの。最後はその翌年、駿府を占領した武田氏に対して、今川氏を支援する小田原北条氏の軍勢が布陣したもの。現在残された遺構群は、この3度に渡る布陣の際の複合遺跡であるが、特に北条氏が布陣したものが、軍勢の規模も布陣の期間も圧倒的で、遺構の殆どを占めていると推測されている。

 薩埵山陣場遺構群は、薩埵山から北方の浜石岳に伸びる尾根上に全長約2.5kmに渡って築かれている。その詳細は、静岡古城研究会発行の『静岡県の城跡』に記載されている。尾根上には現在でも、陣場、陣場口、西堀切、廓、釜場、東堀切など、城砦関係の地名が残っている。ここにはハイキングコースが伸びており、それに沿って主要な遺構を見て回ることができる。特に重要な遺構は3つ。まず、「東堀切遺構」。これは遺構群の中でも圧倒的な存在感を示す雄大な堀切(竪堀)で、幅約20m、深さは最大で10m程に達する圧巻の遺構である。堀の東側に沿って土塁が盛られ、櫓台らしいものも確認できる。2つ目は「鯵ノ平遺構」で、広い数段の曲輪群と枡形状の地形、更に下方の谷戸には横堀状遺構が確認できる。ここは周辺3ヶ所に残る「陣場」地名に囲まれた場所で、北条軍の主力が布陣した場所ではないかと静岡古城研究会が推測している。3つ目は、標高500mの最高所「陣場山」に築かれた「久留ハ(くるわ)遺構」で、広い緩斜面が広がっている。明確な遺構には乏しいが、腰曲輪状の平場や小規模な堀切が残っている。小規模で形式が古いことから、尊氏軍の本陣か今川軍の陣場と推測されている。この他にも、数ヶ所に堀状遺構が残るなど、1日潰すつもりでゆっくり歩けば、かつての武将たちの息吹に思いを馳せることができる。
鯵ノ平遺構の枡形遺構→DSC00159.JPG
DSC00230.JPG←久留ハ遺構の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【陣場山の久留ハ遺構】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.091997/138.536900/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

    【東堀切遺構】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.079352/138.538706/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

    【鯵ノ平遺構】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.084939/138.535570/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: 新書


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薩埵の本城(静岡県静岡市清水区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00113.JPG←堀切に架かる土橋
 薩埵の本城は、薩埵山付近の山稜上に展開する陣場遺構の一つである。戦国時代に今川氏から興津氏に薩埵山に関する指令が出されており、同城の関連が推測される他、1569年の武田・北条両軍の対陣の際に北条方が陣場として改修した遺構と推測されている。薩埵山合戦については、薩埵山古戦場の項に記載する。
 薩埵の本城は、薩埵峠の西にそびえる海抜130mの山上に築かれている。主郭と考えられる広い削平地の他に、南の最高所には物見台らしき小郭があり、周囲や北の尾根筋に平場を設けている。主郭北側には堀切と土橋遺構も明確に残っている。ただあまり技巧的な縄張りではなく、峠や街道を押さえる見張り台か、一時的な陣城として築いたものと推測される。尚、城の大半は耕作放棄地となって藪化しているが、一部はミカン畑であるので、畑内に無断侵入しないよう注意を要する。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.067231/138.538705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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白鳥山城(静岡県富士宮市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00027.JPG←山頂の狼煙台跡
 白鳥山城は、甲駿国境を押さえる城である。物見及び狼煙台として好適な位置にあるため、今川氏以来、武田氏による駿河支配時代にも重視された。具体的には、1535年の今川氏輝・北条氏綱連合軍と武田信虎との間で繰り広げられた万沢口の戦いや、1568年の武田信玄の駿河侵攻時に使用されたと言う。
 白鳥山城は、甲駿国境にそびえる標高568mの白鳥山山頂に位置している。白鳥山は公園となって駐車場や登山道が整備されており、容易に訪城できる。城としての遺構はかなり不明確で、山頂はほとんど自然地形に近いが、狼煙台とされる土壇がわずかに残っている。山の北側斜面には、広い緩斜面が広がり、遊歩道が整備されている。ここには人為的な造作の跡を残す謎の土盛や、横堀状の地形(現地表示では「横堀阻塞」)が散在している。『静岡県の城跡』によれば、東尾根にも遺構らしいものが存在するとされるが、堀切状の窪地以外はよくわからなかった。遺構は不明確だが、山頂からは眺望に優れ、富士山の雄大な景観はもとより、甲斐の富士川流域が手に取るように見える。そうした立地条件だけでも、兵を置くに十分な意義があったことが伺える。
横堀阻塞跡→DSC00062.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.207688/138.532995/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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北松野城(静岡県富士市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09983.JPG←西尾根の二重堀切
 北松野城は、駿河の戦国大名今川氏の被官荻氏の詰城である。荻氏の出自は必ずしも明確ではないが、武田太郎信義の弟奈古義行の後裔で、長義が初めて荻氏を称したとされる。その孫の萩次郎左衛門尉氏誉が北松野城を築城し、初代城主となった。以後、9代200年に渡ってこの地を領した。5代慶徳の頃には今川氏の被官となっており、慶徳は1521年、今川氏の重臣福島正成に属して甲斐一条原で武田信虎の軍と戦い討死した。その子清誉は、1568年の武田信玄の駿河侵攻に際して、今川方として松野山上内房口に出陣し、信玄の重臣山県三郎兵衛昌景と戦って討死したとされる。清誉の子久誉は、駿河を制圧した武田氏から旧領の内、松野郷だけを安堵され、久誉の弟君誉は武田氏の一族穴山梅雪に仕えた。1582年に武田氏が滅亡すると、荻氏は徳川家康の9男信吉に仕えて水戸に移った。

 北松野城は、有無瀬川北岸の比高50m程の山上に築かれた山城である。小規模な城砦で、いかにも小豪族の詰城という趣である。山頂に主郭を置き、周囲に腰曲輪と東側に数段の曲輪の先に小堀切を挟んでニノ郭を置いている。このニノ郭は切岸が甘く、曲輪の造作が若干雑な感じである。一方、主郭北側の腰曲輪には2本の竪堀が穿たれ、西側の尾根筋には二重堀切が穿たれて防御をしている。この二重堀切から城内へは土塁で防御された虎口構造が明瞭で、ニノ郭にあったと思われる大手虎口の不分明な造りとは随分異なっている。この辺りの構造が、武田氏支配時代に改修されたと見られている様だが、それにしては随分とささやかな遺構である。その先の西尾根にも平場があり遺構の様であるが、はっきりしない。尚、北東麓には荻氏の平時の居館があったが、現在は宅地化と耕地化で、遺構はわかりにくくなてしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.184531/138.584974/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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篠原城(静岡県静岡市清水区) [古城めぐり(静岡)]

DSC09931.JPG←東斜面の横堀
 篠原城は、2001年に静岡古城研究会によって初めて確認された城である。それ故、伝承等も全くなく来歴不明の謎の城であるが、地理的環境や構造から、1568年の武田信玄の駿河侵攻以後、今川氏支援のため駿河に進出した小田原北条氏が構築した可能性が指摘されている。
 篠原城は、標高575mの山上に築かれた山城である。ここから尾根筋を南下すれば、かなり距離があるが、浜石岳を経由して薩埵山に通じるところから考えれば、北条勢が武田勢と対峙して尾根上に陣を展開した際、ここにも陣城を築いたことはありうることであろう。城の遺構としては尾根を分断する堀切状の地形の他、尾根の東西両脇に横堀を備えている。西側の横堀の外側には、物見台らしき土壇も構えられている。主郭は山頂にあったと考えられるが、ゆるやかな丘になっており、特に削平した形跡は見られない。城内いずれにも明確な平場がないが、明確な横堀を構えていることから考えれば、城郭遺構であることは間違いない。城の近くまでは、やや荒れているものの車道が延びているので、訪城も比較的しやすい。但し、城内に熊らしい大型動物の糞と足跡があったので、危険度は高い。熊鈴は必須である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.134428/138.539010/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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常円寺城(静岡県静岡市清水区) [古城めぐり(静岡)]

DSC09861.JPG←台地先端の物見台と小堀切
 常円寺城は、川入城とも言い、駿河の守護大名今川氏の家臣で由比郷を領した由比氏の城である。由比氏は、鎌倉初期に高橋の領主高橋大次郎光延の3男大五郎光高がこの地に入部して由比氏を称した。室町時代に入ると今川氏の被官となり、1476年の今川義忠による遠江侵攻では、由比孫四郎直任が義忠に従って従軍した。戦国時代の天文年間(1532~55年)には光詔・光教が、1560年頃には正信が当主であったが、桶狭間の戦いで光教・正信共に討死し、子の出羽守正純が当主となった。1568年、武田信玄が駿河に侵攻すると、由比氏は今川氏真に従って掛川城に移り、徳川勢と戦って討死した。
 由比氏の居城には2説あり、一つは由比城とされ、もう一つがこの常円寺城である。常円寺城は、由比川とその支流に挟まれた台地上に築かれた崖端城で、城の主要部は常円寺の境内となっている。寺の背後には、台地基部を分断した堀切の名残りが窪地となって残り、堀切に沿って土塁も残存している。一方、寺の先は畑地と化しているが、更にその先には先端の櫓台と小堀切が残っている。遺構の大半は湮滅しているが、部分的に城の名残を残した城跡である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.116188/138.556985/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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蒲原城(静岡県静岡市清水区) [古城めぐり(静岡)]

DSC09667.JPG←石垣のある腰曲輪
 蒲原城は、駿河の戦国大名今川氏が築いた山城である。城の創築は明確ではなく、鎌倉期から南北朝期にかけて蒲原荘を支配していた在地豪族の蒲原氏(藤原南家流)が築いた城がその前身ともされるが定かではない。歴史上に明確に現れるのは室町期の永享年間(1429~41年)で、今川氏の庶流蒲原氏頼の頃には城が築かれていたらしい。蒲原城は、富士川以東からの敵の侵攻を阻止する支城として重視され、特に戦国時代に入ってからは、今川氏と小田原北条氏の抗争、河東一乱において、北条方の前進基地吉原城に対峙する境目の重要な城となり、城番を置いて守らせた。今川義元が桶狭間で討死し、今川氏の勢力が衰退すると、1568年12月、武田信玄は甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻した。今川氏救援の為、北条勢は駿河に進軍し、蒲原城に入った。北条氏は、一族の北条新三郎(北条幻庵の子)を城将に任じ、城を改修して北条方の駿河の最前線基地として武田氏に備えさせた。しかし1569年12月、三たび駿河に侵攻した信玄は蒲原城に攻めかかり、武田勝頼・信豊らの奮闘により、北条新三郎以下北条方将士を多数討死させて落城させた。以後は武田方の城となり、当地の土豪・地侍らを組織して蒲原衆を編成して守らせた。1582年、徳川勢の攻撃によって落城し、間もなく武田氏は滅亡、以後、徳川方の持ち城となった。1590年の小田原の役の際、東に向かう徳川勢は途次、蒲原城に着陣したが、これを最後に廃城となったと言う。

 蒲原城は、駿河湾に面した蒲原宿北方の標高149mの城山に築かれている。広大な城域を有した城で、山頂の本曲輪と大堀切を挟んで北側に善福寺曲輪があり、これらが城の中枢部に当たる。主郭の南西尾根には数段の平場で構成された二ノ曲輪、更に西側下方に開けた台地上には広い三ノ曲輪が築かれている。一応公園として整備されているが、整備されているのは本曲輪と善福寺曲輪付近だけで、それ以外の二ノ曲輪などはかなりの薮で遺構の確認が容易ではない。三ノ曲輪はミカン畑となっており、道の途中に井戸が残っている。また東名高速を跨いで南西に伸びる尾根がかつての大手筋で、大手の削平地群と竪堀状の大手道が藪の中に確認できる。この他、多数の腰曲輪が築かれ、善福寺曲輪の北側の腰曲輪には、石垣が残っている。城域は広いが、縄張り的にはそれほど技巧性はなく、割と平易な作りに感じられた。しかし歴史的にも重要な城であり、畑などに改変された部分でも遺構がかなり残っているので、整備の手がまだまだ及んでいないことは残念だが、今後の整備に期待したい。
本曲輪の大堀切→DSC09686.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.122892/138.600930/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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吉原城(静岡県富士市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09627.JPG←妙法寺南側の丘陵地
 吉原城は、小田原北条氏と今川氏の抗争、河東一乱の際に、北条氏康・氏政父子がしばしば本陣とした城である。史料上は名の知られた城であるが、現在では遺構はおろか所在地すら明確ではない。一説には、妙法寺南側の丘陵地が吉原城ともされるが定かではない。またそこから西に900m程離れた富士塚の辺りが「天香久山」とよばれ、天香久山砦があったとも言われ、ここが北条氏の本陣が置かれた場所ともされる。いずれにしても遺構がないので、何とも言えない。海岸まで200m程しか離れていないことを考えると、過去の津波で遺構が壊滅していることもあるのだろう。ここでは、妙法寺南側の丘陵地を吉原城としておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.139055/138.711716/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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間門城(静岡県富士市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09611.JPG←わずかに残る土塁
 間門城は、歴史不詳の城である。別名を夷(えびす)城〔蝦夷城〕とも言い、伝承では大和武尊が東征の際に滞在したと言われるが元よりただの神話に過ぎない。推測では、天文年間(1532~55年)の小田原北条氏と今川氏の抗争、河東一乱の際に、北条氏が築いた「河東十二塁」の一つとして築城されたものではないかとされている。
 間門城は、赤渕川と東沢に挟まれた段丘先端に築かれた城である。南半の主郭部は茶畑となり、北半は宅地化で遺構はほとんど湮滅している。わずかに工場脇の小道に土塁が残っているだけである。やや北にある浅間神社までが城域であったと伝えられ、神社境内脇に堀状の地形が残る他、「史跡蝦夷城跡」の石碑が建てられている。しかし碑文には小田原北条氏の名はない。地形と現在に残る「物見塚」「城前」などの地名だけが、往時城であったことを物語っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.185050/138.726629/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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田中城(静岡県藤枝市) [古城めぐり(静岡)]

DSC05255.JPG←二ノ丸の水堀
 田中城は、類例の少ない特異な円郭式の縄張りで有名な城である。田中城の前身は、今川氏が一色信茂に命じて築かせた「徳一色城」であった。1568年、武田信玄が三国同盟を破棄して駿河に侵攻すると、今川氏の家臣長谷川正長が徳一色城を守備して抵抗した。1570年、最後の今川方の拠点であった花沢城を攻略した信玄は、合わせて徳一色城を接収し、重臣の馬場信房に城を大改修させて田中城と改称し、山県昌景を城将とした。1575年の長篠合戦で武田氏が織田・徳川連合軍に大敗すると、徳川家康は遠江の武田領への本格的な侵攻を開始した。徳川方による田中城攻撃は1578年から始まり、城将依田信蕃は城を固く守って抗戦を続けたが、1582年、江尻城主穴山梅雪が徳川方に降ると、信蕃も田中城を開城降伏し、家康の家臣大久保忠世に城を明け渡した。その後、高力清長が城将となり、1586年に家康が居城を浜松城から駿府城に移すと、家康は田中城を度々鷹狩りの休憩所や宿泊所として利用した。1590年に、家康が江戸に移封となると、田中城には駿府城主中村一氏の家老横田村詮が入った。関ヶ原合戦後の1601年には、家康の譜代家臣酒井忠利が城主となり、忠利は田中城を拡張して近世城郭として整備した。江戸時代には城主が頻繁に交代しつつ、城は幕末まで存続した。

 田中城は、現在でも地図や航空写真を見ると、幾重にも取り巻く円形の道路があって特異な縄張りの名残を残している。国土変遷アーカイブの昭和20年代初頭の航空写真を見ると、土塁や堀、丸馬出、三日月堀などが戦後までかなり良好に残っていたことが伺われるが、高度成長期の宅地化で急速に遺構は失われ、現在ではかなり断片的な遺構しか確認できなくなってしまっている。しかしそれでも、一部ではあるが土塁や水堀がよく残っている。主郭は現在小学校になって遺構は完全に湮滅しているが、折しも運動会が開催されていて、堂々と構内に進入でき、本丸跡の標柱や石碑、城の模型を見ることができた。二ノ丸と三ノ丸の外堀の一部は、現在でも水を湛えた姿を残しており、湮滅している部分でも低地の畑などになっていて堀であったことが明瞭である。また曲輪外周の土塁も一部に残存しており、特に家老屋敷跡は私有地が市に寄贈されて一般に開放されている。場内のあちこちに標柱が多数建っており、木戸や虎口、三日月堀などの位置がわかりやすく親切である。外郭の外に当たる下屋敷には櫓が建っているが、これは本丸櫓の移築で現存遺構だそうである。ボランティアの方の話では、太平の世の月見櫓だったとのことである。たまたま台風直撃直前の駆け足の訪城となってしまったが、幸いギリギリで天気がもってくれて、城内一通りの遺構を全て確認することができた。
三ノ丸の土塁と堀跡→DSC05297.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.872148/138.274559/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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掛川古城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC05143.JPG←主郭~ニノ郭間の大堀切
 掛川古城は、1497~1501年に、駿河の戦国大名今川氏が遠江の支配拠点として重臣の朝比奈泰熙に築かせた城である。その後、今川氏の勢力拡大に伴い掛川古城では手狭となったため、泰熙の子泰能が、掛川古城から場所を移して1513年頃に掛川城を築いたと考えられている。
 掛川古城は、独立丘陵に築かれた城で、主郭には龍華院大猷院霊屋が建つなど、遺構は改変が進んでいるが、西側腰曲輪と大堀切は良好に残っている。大堀切を挟んでニノ郭・三ノ郭と連なるが、三ノ郭の先は破壊されてしまっている。掛川第一小の敷地は館跡だそうだ。市街地の中の中世城郭にしては遺構の残りが良く、特に大堀切は規模が大きく見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.777786/138.017431/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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掛川城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04950.JPG←掛川城の遠望
 掛川城は、遠江の支配拠点となった城である。駿河の戦国大名今川氏の重臣朝比奈泰能が、それまでにあった掛川古城から場所を移して1513年頃に築いたと考えられている。以後、今川氏の遠江支配の拠点となったが、今川義元が桶狭間に倒れて家運が傾くと、1568年に武田信玄が駿河に侵攻し、駿府を追われた今川氏真は朝比奈泰朝を頼って掛川城に逃れた。信玄と同時に三河から遠江制圧を目指す徳川家康は、掛川城を囲んだが攻めあぐね、攻城戦は半年に及んだ。その後、氏真を無事に北条領の伊豆まで移すことで講和が成立し、掛川城は開城した。その後、徳川氏の持ち城として、武田氏の遠江侵攻を防衛する拠点となったが、1590年に家康が江戸に移封となると、豊臣秀吉の家臣山内一豊が掛川城主となった。山内時代に、掛川城は近世城郭へと大々的に改修された。1600年の関ヶ原合戦の軍功により、山内氏が土佐に加増移封となると、その後は徳川譜代大名が歴代の城主となり、幕末まで存続した。

 掛川城は、小高い小丘の上に築かれた平山城で、有名な白亜の復元天守が建っている。この天守を初めて築いた山内一豊は、殊の外この天守を気に入っていたらしく、後に土佐に移封されてから築いた高知城天守は、この掛川城天守を模したものと伝えられている。しかし、近世城郭の天守としては小規模な三層四階のもので、外観もコンパクトに纏められている。天守の建つ天守丸は非常に小規模な曲輪で、いわば詰丸である。その下に本丸があり、現在は花広場に変貌している。その上には天守丸の腰曲輪や、腰櫓台などが備えられている。天守丸の東側下方には二ノ丸があり、全国的にも例の少ない御殿建築が現存している。御殿の中の城主執務室も狭く、高知城の御殿と類似している。一豊は華美を嫌う堅実な武将だったのだろうか。二ノ丸外周には土塁も残っている。本丸から東側下方の三ノ丸に向かう途中には、三日月堀がある。三日月堀で囲まれた小郭は、背後に十露盤堀が穿たれた独立性の高い曲輪で、二ノ丸との間は狭い土橋で接続していることから、現地に表示はないが丸馬出だと考えられる。三ノ丸は現在ただの広場で、主城部周囲の外郭部は市街化で改変が激しい。掛川城は、復元建築物と移築現存門が多いことも特徴で、特に油山寺に残る大手ニノ門は、珍しい江戸初期の城郭建築物で、見るからに威厳があり、必見の遺構である。
本丸下方の丸馬出→DSC04987.JPG
DSC00089.JPG←油山寺に残る大手ニノ門

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.775125/138.014041/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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