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古城めぐり(群馬) ブログトップ
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簗瀬城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9172.JPG←主郭北側の空堀・土塁
 簗瀬城は、原市城とも言い、歴史不詳の城である。この城に関する史料は全く無いが、『日本城郭大系』では安中松井田両城の間にあり、碓氷川の数少ない渡河点を押さえていることから、両城を支配する安中氏の城と推測している。一方、『境目の山城と館 上野編』では、武田信玄が安中・松井田両城を分断する前線基地として八幡平陣城をすぐ近くに築いていることから、武田氏の西上州侵攻の際に何らかの役割を果たしたのではないかと推測している。

 簗瀬城は、碓氷川北岸の比高20m程の断崖上に築かれている。主郭には城山稲荷が建てられており、その周囲には土塁が明瞭に残っている。また主郭北側には、空堀と一直線の土塁も見られる。その他は、宅地化・耕地化で遺構は湮滅しているが、東に数段の曲輪が築かれ、西側にも外郭があったらしい。周辺一帯が宅地化されている中で、奇跡的に主郭部の遺構が残る城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.310941/138.863089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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八幡平陣城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9142.JPG←八幡平の首塚
 八幡平陣城は、永禄年間(1558~70年)に西上州を攻撃した際の、武田信玄の陣城と推測されている。しかしこれは群馬県の城郭研究家であった山崎一氏の推論で、確定できる根拠はまだないらしい。信玄は1561年にこの陣城を築いて安中城松井田城を分断した。当時、松井田城主安中忠政、安中城主安中忠成の父子は、箕輪城主長野業盛の配下であった。信玄はこの陣城を拠点として安中氏を攻撃したと言う。

 八幡平陣城は、碓氷川北岸の比高40m程の台地上に築かれている。しかし城跡は畑や宅地、集合住宅に変貌しており、遺構は湮滅している。既に戦後の航空写真でも城跡の形跡は見られない。この付近はなだらかな丘陵地帯の頂部に当たるが、あまり城を築くに好適な要害地形とは思えない。作戦上の陣城だから、大軍団を駐屯させる都合を重視したものであろうか。
 尚、城域の東部に首塚があり、昭和27年に行われた調査の結果、戦国時代に近くの城が落ちた際の犠牲者をまとめて埋葬したものを、江戸時代に村民によって偶然発見されてここに改装されたものと考えられている。また城の東側には簗瀬二子塚古墳という大型の前方後円墳があり、公園として整備されているので、ほとんど何も残っていない八幡平陣城よりも見応えがある。信玄はなぜ古墳を城砦化しなかったのか、近畿・北陸の古墳転用の城の例を見ると少々疑問に思う。信玄の信仰心によるものであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.309774/138.856995/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


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菅沼城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9111.JPG←主郭北側の空堀・土塁
 菅沼城は、徳川家康の関東移封後に、その家臣菅沼治郎右衛門定清が城主となった城である。定清は、三河田内城主菅沼定勝の子で、家康に従って関東に入部し、1593年頃に菅沼城を居城とした。それ以前に菅沼城が存在していたかどうかは伝わっていない。

 菅沼城は、碓氷川北岸の比高30m程の断崖上に築かれている。城跡は現在海雲寺の境内となっている。外周を二重の空堀で囲まれたほぼ単郭の城であったらしい。二重の堀は、北側では土塁を挟んだ二重横堀の形状となっていたが、東側と西側では堀同士の間が広く空いていて、曲輪となっていた。南側は断崖に臨んでいるため、堀はない。以上が『日本城郭大系』に見える縄張りの概要だが、しかし現在内堀は、東側と南西部以外はほとんど湮滅しており、一重の堀にしか見えない。南西の内堀は、崖下にある郷原緑地公園に繋がる遊歩道になっているが、堀底に井戸跡が残っている。東側の内堀はかなり埋まっているが、横矢の屈曲があるのがわかる。
 尚、古い航空写真を見ると、主郭の北西に幅広の堀跡の様な畑が伸びているのが見え、主郭の西側に2つ程の外郭があったようにも見える。果たして遺構であろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.304491/138.842425/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:近世崖端城
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後期高田氏館(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8888.JPG←館跡とされる陽雲寺
 後期高田氏館は、この地の土豪高田氏の室町後期以降の居館と推測されている。高田氏の事績については、高田城の項に記載する。高田氏は、元は妙義町下高田の「堀の内」に居館を置いていたが、宝徳~長禄の頃(1449~60年)にこの地に移ったと推測されている。
 後期高田氏館は、現在陽雲寺の境内となっている。位置的には諸戸城菅原城の中間にあり、妙義山の支峰金鶏山から東に伸びる2つの尾根に挟まれた低い緩傾斜地の奥に築かれている。特に明確な遺構はないが、境内は高台となっており、境内前面には堀跡の様な池があり、また背後の墓地に高田氏の墓所がある。なお陽雲寺は、高田大和守憲頼が1506年に開基したと伝えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.281818/138.771894/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



タグ:居館
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今井城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8777.JPG←主郭北側の堀跡の遠望
 今井城は、大胡城の支城で、斎藤氏の居城であったと伝えられている。その他の歴史は不明である。
 今井城は、荒砥川西岸の平地に築かれている。主郭は民家の敷地となっているので立入りできないが、微高地となっており、民家敷地の北と西に堀跡の低地が遠目にも確認できる。主郭の北には堀跡の低地を挟んで東西に長い微高地があり、北郭であったと思われる。その他は宅地化などの改変が激しく、縄張りは不明瞭である。主郭南東の公園に城址標柱が立っているが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、荒砥川は河川改修で流路が変わっており、この公園はかつて荒砥川が流れていた場所であったことがわかる。残念な現況ではあるが、主郭の形状がおぼろげに残っているだけマシであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.373690/139.146137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―

【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/03/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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赤石城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8768.JPG←腰曲輪跡の畑
 赤石城は、那波氏の家臣赤石左衛門尉が築いたとされる。赤石城は2つあり、後に伊勢崎陣屋となった地にも赤石城があった。赤石氏は、最初はこの飯土井の赤石城に居たが、後に伊勢崎の赤石城を新たに築いて移ったと言われている。但し城の名が同じ為、後世に歴史の混同などがあり、詳細は不明であるらしい。

 赤石城は、神沢川とその支流に挟まれた段丘南端に築かれた城である。『日本城郭大系』の縄張図によれば、南北に連なる4つの曲輪で構成されていたらしい。その形態は、昭和20年代前半の航空写真でも確認できる。北西に突出した北郭があり、その南に土塁と空堀・腰曲輪で囲まれた方形の主郭、更に南にニノ郭・三ノ郭と置かれていたらしい。現在城内は宅地化で改変され、遺構は完全に湮滅している。わずかに主郭部の切岸が段差となって民家裏に残るほか、主郭東側の腰曲輪が畑となって残っているだけである。台地の形状も、周りの河川改修に伴って変えられてしまっている。主郭北側を東西に貫通する車道脇に、城址標柱が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.355720/139.179375/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本



タグ:中世崖端城
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新土塚城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8744.JPG←東側の空堀跡
 新土塚城は、金山城主由良氏の家臣増田繁政の居城と伝えられている。繁政は、永禄年間(1558~70年)に由良氏の下で大胡城代を務めている。
 新土塚城は、荒砥川東岸の段丘上に築かれている。東の神沢川との間を南に突き出た台地の南西端を、空堀で分断して城域としている。城内は現在一部が民家となっている他は、耕地と薮となっている。内部は改変されているので、往時の縄張りは明確ではないが、空堀でいくつかの曲輪に分かれていたらしい。現在明確に残っているのは、東の堀跡と西の櫓台(文殊尊堂が建っている)だけである。堀跡は畑となっていて埋まっているが、幅が大きく、往時の規模が想像できる。解説板はないが、城址標柱が民家敷地の端っこに立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.347615/139.165471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭史の研究 (小和田哲男著作集第六巻)

中世城郭史の研究 (小和田哲男著作集第六巻)

  • 作者: 小和田 哲男
  • 出版社/メーカー: 清文堂出版
  • 発売日: 2002/05/20
  • メディア: 単行本


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今村城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8738.JPG←微高地の主郭
 今村城は、那波氏の戦国後期の居城である。那波刑部太夫宗俊が築いたと言われ、家臣の長浜越前を置いて守らせた。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、赤石城を攻略して北条方の宗俊を没落させ、宗俊は嫡男次郎(後の顕宗)を人質として謙信に差し出した。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられた。宗俊は間もなく没し、人質となっていた次郎が跡を継いだ。顕宗は今村城を本拠とし、後に北条方に付いて旧領回復を図った。また天正年間(1573~92年)には、一時上杉勢の金山城攻撃の拠点となったと言う。

 今村城は、韮川西岸に築かれた平城である。現在城跡は宅地化と耕地化が進み、主郭以外の遺構は湮滅している。元々、古墳を主郭の櫓台として利用した城だったとされるが、どれが古墳なのかよくわからない。ただ、主郭は周囲よりやや高い三角形状の台地となっているのがわかるだけである。主郭南端の民家敷地脇に、城址石碑と解説板が立っている。高度成長期以前の航空写真を見ると、本丸の周囲の曲輪には堀跡の田んぼが廻らされ、『日本城郭大系』にある縄張りがほぼ確認できるが、現在は前述の通り壊滅状態である。南の大手付近には堀跡の水路があり、民家の入口の橋に「今村城跡 廣間橋」と刻まれた石碑が立っている。ここが外郭の大手口であったらしい。遺構は残念な状況だが、石碑や解説板があるのが救いである。
大手口の廣間橋の石碑→IMG_8729.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.327754/139.143133/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 作者: 加藤理文
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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力丸城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8695.JPG←堀跡の水路
 力丸城は、那波氏の庶流力丸氏の居城である。1367年に那波一族の日向守広宗がこの地に分封されて、力丸城を築いて居城とし、力丸氏を称したと言う。後に箕輪城主長野信濃守の管轄下に入った。戦国末期には他の上野諸豪と同様に小田原北条氏に服属したらしく、1590年、力丸佐介宗也とその子伊賀守の時、北条氏滅亡と共に没落した。

 力丸城は、力丸町の集落のほぼ全部を城域とした平城である。現在は宅地化と耕地化で遺構は湮滅している。昭和20年代前半の航空写真を見ると、堀跡の水路が縦横に走り、主郭跡もはっきりと分かる。しかし現在は、わずかに曲輪間の堀跡が水路となって名残りを残しているだけである。力丸町会議所の西側の道路脇に城址石碑が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.332240/139.114895/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城を攻める 城を守る (講談社現代新書)

城を攻める 城を守る (講談社現代新書)

  • 作者: 伊東 潤
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2014/02/19
  • メディア: 新書


タグ:中世平城
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宿阿内城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8681.JPG←三ノ郭の土塁
 宿阿内(しゅこうち)城は、単に阿内城とも呼ばれ、「長尾景春の乱」の際に両上杉氏が退避した城である。景春の父、白井長尾景信は山内上杉氏の家宰であったが、その死後の1473年、家宰職は景信の弟・惣社長尾忠景に与えられた。これは山内上杉氏当主の顕定が、白井長尾氏の勢力増長を恐れてのこととも言われている。景春はこれを不服として、主家上杉氏に反発、3年後の1476年に鉢形城を築いて立て籠もり、反旗を翻した。これが長尾景春の乱である。この頃は享徳の大乱の真っ最中で、山内上杉顕定と扇谷上杉定正は共に武蔵国五十子(いかっこ)に陣営を連ねて、古河公方足利成氏と長期に渡って対峙していた。1477年、景春はこの両上杉氏の本営である五十子を攻撃し、五十子陣を崩壊させた。この時、顕定・定正の両上杉氏が退避したのが宿阿内城である。当時の宿阿内城は、三輪右丹という武士が守っていたらしい。その後、扇谷上杉氏の家宰太田道灌の活躍によって、両上杉氏は武蔵に帰ることができたと言う。

 宿阿内城は、端気川西岸の微高地に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、主郭・二ノ郭は環郭式に構えられ、南に三ノ郭、北に北郭など、周囲に曲輪を巡らした城だったらしい。しかし現在は、ほとんどが耕地整理で湮滅してしまっている。わずかにニノ郭北東部の塁線が畑の輪郭として残るほか、三ノ郭北東の土塁の一部が、民家の裏にL字状に残っているだけである。ニノ郭南辺に当たる道路際に「下川淵カルタ」の看板が立ち、そこに力丸城と共に宿阿内城の名が書かれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.346682/139.092107/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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岩鼻陣屋(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8666.JPG←北辺の土塁と空堀
 岩鼻陣屋は、江戸後期に徳川幕府が築いた陣屋である。戦国期の永禄年間(1558~70年)には岩鼻砦があった所と言う。1793年、幕府はこの地に岩鼻陣屋を造営し、初代代官として吉川栄左衛門貞寛と近藤和四郎が任命された。貞寛は、この陣屋に居住して、1810年に病没するまで代官職にあり、善政を行ったという。岩鼻代官には吉川氏を始め良吏が多かったとされる。当初は規模の小さな陣屋であったが、その後2度にわたって拡張され、農兵を募集して幕府から派遣された教官が洋式調練を行った。幕末の1865年、木村甲斐守が関東郡代として着任し、上野国の幕府直轄地(天領)・旗本領・寺社領・大名の預り所と武蔵国六郡の50万石を管理した。また世直し一揆の鎮圧にあっては、江戸北辺の守りの中心となった。1868年、明治維新が成ると新政府は6月に岩鼻県を設置し、大音龍太郎を軍監兼当分知県事に任じ、陣屋跡を岩鼻県庁とした。

 岩鼻陣屋は、烏川北岸の段丘上に築かれている。中山道と烏川渡河点を押さえる交通の要衝であったらしい。ややひしゃげた方形に近い形状の陣屋で、南の大手には石垣・土塁で構築された長い枡形があったらしい。枡形は残っていないが、陣屋は東半分の遺構がよく残っている。日本化薬研修センターの南側には空堀跡が残り、陣屋敷地の東辺には切岸跡が明瞭である。また、特によく残っているのは陣屋北側で、東半分だけ土塁と空堀が明瞭である。その他は日本化薬の社宅団地が建設されており、湮滅している。周囲を歩くと、規模の大きな陣屋であったことがよく分かる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.295291/139.074104/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


代官の日常生活 江戸の中間管理職 (角川ソフィア文庫)

代官の日常生活 江戸の中間管理職 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 西沢 淳男
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2015/05/23
  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
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八幡原館(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8627.JPG←水堀のクランク部
 八幡原館は、源頼朝の近臣安達盛長によって築かれた館と伝えられる。頼朝が平家打倒に立ち上がって鎌倉に本拠を構えた後、1184年に盛長は上野国奉行人となった。その際に、上野の支配拠点としてこの館を築いたらしい。1189年には比企能員が上野守護となったが、1203年に比企一族が滅ぼされると、盛長の嫡男景盛が上野守護となり、1285年に安達泰盛が平(長崎)頼綱と争って滅亡するまで、八幡原館は安達氏の上野の支配拠点として機能したと考えられる。

 八幡原館は、井野川東岸の段丘上に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、二重の堀・土塁で築かれた館(陣屋という方が適切か?)で、主郭は、東西に長い長方形の二ノ郭の中央北側に偏して築かれている。二ノ郭はほとんど湮滅しているが、民家となっている主郭は南側から西側にかけて水堀と土塁が残っている。南の水堀は、南東部でクランクして横矢が掛かっている。遺構はわずかで、標柱も解説板もないが、館跡の雰囲気は残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.299442/139.089875/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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川井城(群馬県玉村町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8598.JPG←主郭櫓台跡の八千戈神社
 川井城は、烏川対岸にある金窪城の支城である。金窪城主斎藤定盛の弟・石見守基盛が在城したとされる。定盛・基盛の兄弟は、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に加賀国篠原で木曽義仲の軍勢と戦って壮絶な戦死を遂げた斎藤別当実盛の末裔とされる。戦国末期には、小田原北条氏に属し、1582年の神流川合戦の際には、滝川一益の軍勢の攻撃を受け、落城した。その後、箕輪城主長野氏の家臣清水内記邦正が定盛の長女を娶り、この地を譲り受けたと言う。

 川井城は、滝川北岸の段丘上に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、往時は4つの曲輪から成る城だったようだが、現在は城の西から南にかけては堤防建設で失われ、その他の部分も宅地化で遺構はほぼ湮滅している。唯一主郭の櫓台が、八千戈神社が祀られた高台となって現存しているだけである。また前述の縄張図には記載されていないが、昭和30年代の航空写真を見ると、城の北東側にも大きな方形の外郭があった様に見受けられる。それは、北辺と東辺に堀跡の様な低い水田が写真に写っているからである。しかしそれも現在では耕地整理で失われているので、実際にどうであったのかは現在では知るすべもない。櫓台跡に城の解説板があるのだけが、せめてもの救いである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.285571/139.139829/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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那波城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8549.JPG←本丸跡の石碑
 那波城は、堀口城とも呼ばれ、この地の豪族那波氏の居城である。那波氏は、大江広元の3男政広を祖とし、上野国那波郡の郡地頭としてこの地に入部し、那波氏を称した。元々この地には、藤姓足利氏庶流の那波氏がいたが、藤姓那波弘澄は討死し、その子宗澄には子がなかったため、政広は弘澄の娘を娶って入嗣し、那波氏の名跡を継承した。その子孫は鎌倉幕府引付衆に、また室町時代には鎌倉公方足利持氏の奉公衆となって活躍した。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、赤石城を攻略して北条方の那波宗俊を没落させ、宗俊は嫡男次郎(後の顕宗)を人質として謙信に差し出した。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられた。宗俊は間もなく没し、人質となっていた次郎が跡を継いだ。顕宗は今村城を本拠とし、後に北条方に付いて旧領回復を図った。1584年に由良氏が北条方から離反し、旧那波領は由良勢の攻撃を受けたが、北条方の那和顕宗は茂呂城と堀口城(那波城)を固守し、奮戦して由良勢を撃退したと言う。その後、攻勢に出た北条氏に抗しきれず由良氏が降伏すると、大和晴親が北条氏から派遣されて那波城に在城した。1590年に北条氏が滅亡すると、顕宗は上杉景勝を頼ってその家臣となり、同年の仙北一揆の鎮圧の際に討死し、那波氏は滅亡した。

 那波城は、名和幼稚園の南の平地にあったらしい。現在は一面の耕地と学校敷地に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。第二次大戦中の航空写真を見ても、既に城の痕跡は見られないので、早くに遺構が失われた様である。耕地の只中の道端に「那波城址 本丸跡」の石碑が立ち、西の名和小学校敷地の県道沿いにも「那波城址」の石碑が立っている。小学校の石碑の方には、裏に碑文が刻まれているらしいが、残念なことに学校敷地に入らないと見ることができない。時節柄、校地への入場を避けたので、碑文を見ることができなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.290846/139.184654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国北条五代 (星海社新書)

戦国北条五代 (星海社新書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/04/27
  • メディア: 新書


タグ:中世平城
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茂呂城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8530.JPG←三ノ郭北の堀跡の川
 茂呂城は、この地の豪族那波氏の支城である。『日本城郭大系』ではその創築を永禄年間(1558~70年)としているが、主郭にある退魔寺の寺伝によれば、南北朝期の1371年に茂呂城主茂呂勘解由左衛門尉義輝が城内の光円坊を改め香華院を創立したのが退魔寺の始まりということなので、茂呂氏が南北朝期には茂呂城を築いて居城としていたらしい。茂呂氏の事績は不明であるが、戦国時代には那波氏の家臣となっていたのであろう。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、北条方の那波宗俊を攻撃して没落させた。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられ、その家臣根岸三河が茂呂城に在城した。1584年、由良氏・足利長尾氏が小田原北条氏から離反すると、旧那波領は由良勢の攻撃を受けたが、北条方の那和顕宗は茂呂城と堀口城(那波城)を固守し、奮戦して由良勢を撃退したと言う。1590年、北条氏が滅亡すると廃城となった。

 茂呂城は、広瀬川東岸の段丘上に築かれている。前述の通り、主郭には現在退魔寺が建っている。境内には茂呂城と書かれた標柱があるが、土塁や堀等の遺構は確認できない。主郭の周囲には広瀬川に面した西側以外の三方に二ノ郭が巡っていたらしいが、これも現在は宅地化されて遺構は湮滅している。二ノ郭の北に三角形状の三ノ郭があったとされ、その北側の堀は現在も深い小川が流れている。三ノ郭の北西に北郭があり、宅地・畑のほか、一部が竹林となっており、竹林の中に北郭の土塁らしいものが見受けられるが、形状がはっきりせず遺構なのかどうか確信が持てない。この他、城の東側に大きく外郭が広がっていたらしく、その東側の堀跡が水路として残っている。以上のように、茂呂城は遺構がほとんど湮滅しており、ほとんど城らしい姿を残していないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.303557/139.202592/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国時代の終焉: 「北条の夢」と秀吉の天下統一 (読みなおす日本史)

戦国時代の終焉: 「北条の夢」と秀吉の天下統一 (読みなおす日本史)

  • 作者: 齋藤 慎一
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/12/13
  • メディア: 単行本



タグ:中世崖端城
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伊勢崎陣屋(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8481.JPG←西から見た城跡の現況
 伊勢崎陣屋は、1681年に酒井忠寛によって築かれた陣屋である。その前身は、戦国時代に那波氏の家臣赤石左衛門尉が築いた赤石城とされる。赤石城は2つあり、前橋市飯土井町にも赤石城がある。赤石氏は、最初は飯土井の赤石城に居たが、後に伊勢崎の赤石城を新たに築いて移ったと言われている。この地域は小田原北条氏と越後上杉氏の勢力の接壌地帯となった為、両者の勢力争いに巻き込まれた。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、伊勢崎の赤石城を攻略して北条方の那波宗俊を没落させた。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられ、その家臣林高成が赤石城に在城した。この後、由良氏は北条方に付いたが、1584年に再び北条方から離反し、金山城を北条方の軍勢に攻撃された。この時、北条氏の麾下にいた那波顕宗(宗俊の次男)は赤石城を占拠した。由良氏が北条氏に降伏した後、大和晴親が北条氏から派遣されて那波城に在城し、赤石城はその支配下に入った。1590年の北条氏滅亡後、徳川家康が関東に移封となると、白井城主本多広孝の支配地となった。1597年、稲垣長茂が大胡の樋越から赤石城に移った。1616年、稲垣氏の越後三条への転封により、赤石城は廃された。その後、厩橋城主酒井忠世に伊勢崎2万石が与えられ、1681年、酒井忠寛の時に赤石城の故地に伊勢崎陣屋が築かれ、幕末まで存続した。

 伊勢崎陣屋は、西を流れる広瀬川に臨む段丘上に位置し、伊勢崎市立北小学校の付近にあった。しかし残念ながら城跡は市街化されて遺構は完全に湮滅し、その縄張りを推測することも困難である。『日本城郭大系』の縄張図によれば、やや西に偏した本丸を取り囲むように、土塁と堀を築いた二ノ丸が置かれていた様で、陣屋と言うより完全に城の作りであったらしい。城跡には解説板はおろか標柱すら設置されておらず、極めて残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.322732/139.190941/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸三百藩大全 全藩藩主変遷表付 (廣済堂ベストムック287号)

江戸三百藩大全 全藩藩主変遷表付 (廣済堂ベストムック287号)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 廣済堂出版
  • 発売日: 2015/03/02
  • メディア: ムック


タグ:陣屋
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久永氏陣屋(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8437.JPG←西池際の陣屋跡の切岸
 久永氏陣屋は、徳川家の旗本久永氏が所領支配のために築いた陣屋である。久永氏は元々石見国の武士であったが、戦国時代に三河国に移って松平氏(後の徳川氏)に仕えた。久永源兵衛重勝は徳川家康に仕え、家康が関東に移封となるとこれに従って関東に入部し、江戸時代初期には武蔵・上野・常陸に所領を有する禄高3200石の旗本となった。江戸時代に東小保方村とよばれたこの地域を領し、その支配拠点として築いたのがこの陣屋で、明治維新後に廃された。

 久永氏陣屋は、現在は大東神社が鎮座している。陣屋は東西75m、南北120mの規模で、周囲に濠・土塁が巡らされ、郭内は外側より2.5m程高く、南大手には枡形が築かれていたらしい。陣屋が廃された後、濠は拡幅されて池になっており、現在では南池の南端と西池の東端に往時の面影を残すだけということで、確かに池の際に陣屋の切岸らしい地形が残っている。しかしその他の遺構は改変され、土塁は残っておらず、枡形も痕跡すら残していない。これを陣屋と言われても、わかる人は少ないだろう。神社境内の標柱と解説板だけが往時の歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.332085/139.249928/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸三百藩全史【増補改訂版】

江戸三百藩全史【増補改訂版】

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: standards
  • 発売日: 2017/12/22
  • メディア: 大型本


タグ:陣屋
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萩生城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2904.JPG←主郭外周の空堀
 萩生城は、大戸城(手子丸城)の支城である。大戸浦野氏の家臣小林石見が在城していたと伝えられる。1582年、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、元武田領国の支配権を狙って北条氏直の侵攻が始まった。神流川合戦で織田氏部将の滝川一益を駆逐した北条氏は上野全域の支配を目指し、吾妻を領有して北条氏に抗していた真田昌幸の岩櫃城を攻撃するため、その前哨戦が三ノ倉で始まった。真田方であった大戸城主大戸真楽斎・権田城主大戸但馬守兄弟は三ノ倉で北条勢を迎撃したが、多勢に無勢で大戸城まで退き、そこで激戦の末討死した。この戦いの中で、萩生城も北条勢に攻略され、小林石見は没落したと言う。

 萩生城は、境野集落に北側に隣接する比高30m程の舌状に伸びた低丘陵の中程に築かれている。城のすぐ東側には旧草津街道が切り通し状に貫通しており、街道を押さえる要害として機能していたことが伺われる。方形に近い形状の主郭を中心に、周囲に空堀を廻らし、前後にニノ郭・三ノ郭を設け、更に北西から北側を巡って南東まで空堀を廻らした縄張りとなっている。従って、主郭の北東側では二重横堀となっており、2つの横堀間には土塁が延々と伸びている。主郭は畑となっており、前述の旧草津街道から畑まで小道が伸びているので、訪城はたやすいが、主郭には無断では進入できない。主郭の北東側ははっきりとした二重横堀となっているが、南西側は改変されているのか、内側の空堀も一部を除いて腰曲輪状になっており、やや遺構が不明瞭になっている。主郭北西の三ノ郭(『境目の山城と館 上野編』の縄張図では郭4としている)の前面には土塁が築かれ、その前には尾根を断ち切る様に二重横堀の外堀が掘り切っている。その先の北西尾根はほとんど自然地形であるが、途中に2本の堀切が穿たれている。一方、南東の尾根は改変を受けているらしく、二ノ郭の南側などはわずかな段差しか残っていない。萩生城は、二重横堀で防御を固めているものの横矢掛かりは見られず、素朴な形態の城である。少々薮が多いのが難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.487868/138.776293/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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坂本城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2814.JPG←主郭群とニノ郭群を分断する堀切
 坂本城は、歴史不詳の城である。『安中史』に甘楽大夫朝政なる者の城と記載されるというが、元より当てにはならない。どちらかと言えば、中山道を押さえる愛宕山城を側面援護するために、武田氏か北条氏によって取り立てられた城の様に推測される。

 坂本城は、碓氷湖の南東にそびえる標高640m、比高120m程の山上に築かれている。坂本ダムの南にそびえている山で、碓氷湖周辺の遊歩道の脇から北西の尾根に取り付けば、そのまま尾根伝いに城まで行くことができる。山上に中規模の堀切で分断された主郭群とニノ郭群を並べた一城別郭式の縄張りとなっている。主郭群もニノ郭群も最上段を北端に設け、やや傾斜の緩い南斜面に数段の腰曲輪群を築いている。最上段の主郭とニノ郭の北辺には低土塁が築かれ、風除けを兼ねたものと推測されている。主郭群とニノ郭群を分断する堀切は、南に長い竪堀となって落ち、下端で弓形状の腰曲輪に繋がっている。この他、二ノ郭群の北西尾根には二重堀切が穿たれ、更にその下方にも小堀切が穿たれて城域が終わっている。比較的シンプルな縄張りであるが、かなりしっかりと普請されており、この城の重要性が垣間見られる。
二重堀切→IMG_2853.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.351391/138.708358/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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愛宕山城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2733.JPG←主郭東角の張出し
 愛宕山城は、碓氷城とも言い、歴史不詳の城である。旧中山道を押さえる位置にあり、横矢掛かりや馬出しを設けた構造から、武田氏か小田原北条氏による築城と推測されている。1547年、笠原城救援に出撃した関東管領上杉氏の上州勢を小田井原で撃破した武田勢は、一気に碓氷峠を越え、一部を坂本に駐留させて松井田衆と競り合っており、その際にこの城を構築したのではないかと推測されている。また後には小田原の役に備えて、松井田城将の大道寺政繁によって改修を受けたと言う説が一般的である。

 愛宕山城は、刎石山から南東に伸びる尾根の先端の、標高570m、比高70mの位置に築かれている。ほぼ単郭の城で、方形の主郭の周囲に空堀が穿たれて防御を固めている。主郭内部の大半は大藪で進入不能であるが、内部は上下2段に分かれている様である。主郭の東角部は横矢の櫓台が突出しており、南東と北東の堀底への攻撃を可能としている。また台地基部側の北西辺は中央部が外側に張り出し、ここでも横矢を掛けている。この他、南西には丸馬出しが設けられ、その外側は三日月堀が穿たれている。馬出しの南東にも土壇があり、物見台か何かがあったのだろう。主郭の背後の尾根は自然地形に近いが平たく伸びており、外郭として機能した可能性もあるが、先端には江戸時代の堂峰番所の施設があったので、江戸期の改変の可能性もある。愛宕山城は、遺構を見る限り、街道を押さえる防衛陣地として機能していた様である。
 尚、城からやや離れた旧街道の西側には、堂峰番所の石垣などの遺構も残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.356480/138.714838/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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星尾城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2628.JPG←南斜面の腰曲輪
 星尾城は、南牧衆の筆頭であった砥沢城主市川氏の初期の居城と言われている。市川右近四郎義継が南牧に来住して星尾城を築いたと伝えられる。その子、四郎左衛門真保の時に、砥沢城を築いて移り、以後は砥沢城が市川宗家の居城となり、星尾城はその支城となったと言う。

 星尾城は、標高690m、比高180mの山上に築かれている。峻険な岩山であるが、東の尾根下に林道が通り、トンネル脇から比較的楽に登ることができる。城とは言うものの、ほとんど自然地形を利用した小城砦で、山頂部は岩山そのままのただの物見台で、人のいるスペースはわずかしかない。そこから南西の尾根に何段かの小郭があり、南下に腰曲輪が築かれている。この辺りは普請が明瞭なので、城として使われたことは間違いない。大手は南に伸びる尾根にあったらしい。山深い場所にあるので、ほとんど烽火台としての使用が主だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.173470/138.656538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田勝頼:日本にかくれなき弓取 (ミネルヴァ日本評伝選)

武田勝頼:日本にかくれなき弓取 (ミネルヴァ日本評伝選)

  • 作者: 笹本正治
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2011/02/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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笹ノ平城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2576.JPG←主郭の櫓台
 笹ノ平城は、南牧六人衆の一人、高橋氏の城である。1567年に武田家家臣団が納めた生島足島神社の起請文に南牧衆のものがあり、ここに名を連ねた小沢源十郎行重、市川四郎衛門重久、市川四郎兵衛貞吉、懸河彦八郎直重、高橋左近助重行、市川兵庫助景吉ら6名を南牧六人衆と称している。笹ノ平城は高橋左近助重行が城主で、元は国峰城主小幡氏が磐戸の高橋氏に命じて築いたとされる。小幡憲重・信貞父子が同族の小幡景貞に国峰城を奪われた後、武田信玄の支援を受けて市川氏の砥沢城に入ると、景貞はこれを討つべく出兵し、この付近の桧平一帯で激戦となり、笹ノ平城も戦闘に巻き込まれたと言う。尚この合戦は、信貞が国峰城を奪還した際、信玄の下で大いに活躍していく端緒となった。その後、南牧六人衆は小幡氏に属した。更にその後は上州諸豪と同じく、武田氏が滅ぶと織田信長配下の滝川一益に属し、本能寺の変で織田政権が崩壊すると、小田原北条氏に服属したのだろう。

 笹ノ平城は、標高500m、比高150m程の山上に築かれている。東麓の民家の裏に尾根へ近づく緩斜面があり、そこを登って南東尾根に取り付けば、そのまま城まで登ることができる。ほぼ単郭の城で、山頂にはこの手の小城にしては広やかな主郭がある。北側に張り出した縦長の三角形状の曲輪で、主郭南東部には櫓台が築かれており、祠が祭られている。主郭の両端には堀切が穿たれているが、規模は小さくささやかなものである。主郭の前面に当たる東尾根には数段の小郭があり、そこからずっと降った先にも2段の段曲輪があり祠が祭られている。主郭の背後の尾根は自然地形で積極的な普請の跡は見られない。遺構を見る限り、山間の街道の監視と詰城として機能していた様だ。
主郭背後の堀切→IMG_2593.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.166974/138.723228/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名と国衆 (角川選書)

戦国大名と国衆 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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塩沢城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2553.JPG←城址推定地の現況
 塩沢城は、小塩沢屋敷とも呼ばれ、南牧六人衆の一人、市川兵庫助景吉の城である。1567年に武田家家臣団が納めた生島足島神社の起請文に南牧衆のものがあり、ここに名を連ねた小沢源十郎行重、市川四郎衛門重久、市川四郎兵衛貞吉、懸河彦八郎直重、高橋左近助重行、市川兵庫助景吉ら6名を南牧六人衆と称している。塩沢城は、元は懸河道丹の居城であったらしいが、1558年、国峰城の小幡景定が砥沢城主市川氏に道丹の討滅を命じ、市川氏は3男真好を派遣して夜襲を掛けて道丹一党を討ち取ったとされる。その後は塩沢市川氏の居城となった様だ。

 塩沢城は、小塩沢川の北岸の平地にあったらしい。現在は畑となっているが、何段かの石垣が組まれ、まるで城郭のように立派なものである。往時のものとは考えにくいが、なかなか見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.185213/138.728549/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

歴史家と噺家の城歩き (戦国大名武田氏を訪ねて)

歴史家と噺家の城歩き (戦国大名武田氏を訪ねて)

  • 作者: 中井均
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2018/12/05
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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小沢城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2511.JPG←帯曲輪北端部の石積み
 小沢城は、南牧六人衆の一人、小沢氏の城である。1567年に武田家家臣団が納めた生島足島神社の起請文に南牧衆のものがあり、ここに名を連ねた小沢源十郎行重、市川四郎衛門重久、市川四郎兵衛貞吉、懸河彦八郎直重、高橋左近助重行、市川兵庫助景吉ら6名を南牧六人衆と称している。小沢城は、小沢行重が城主であったと推測されている。小幡信貞が武田信玄の支援を受けて国峰城を奪還した際、信玄の命で南牧六人衆は小幡氏に属し、その後も小幡氏の配下とされた。その後は上州諸豪と同じく、武田氏が滅ぶと織田信長配下の滝川一益に属し、本能寺の変で織田政権が崩壊すると、小田原北条氏に服属したのだろう。1590年の小田原の役の際には、豊臣方に降った南牧の同族に攻められ、落城したと伝えられる。

 小沢城は、標高498m、比高190m程の城山に築かれている。南西麓に小沢神社があり、その脇から登山道が伸びている。山頂に数段の小郭群から成る本城があり、主郭には馬頭観音堂が建てられている。主郭の前の腰曲輪の下方に小堀切があり、更にその下に2段の段曲輪が築かれている。その下には長大な帯曲輪が延々100m以上に渡って築かれ、一番北の部分には石積みが見られる。またその西下にも帯曲輪があり、林業用のものだったと思われる古びた鉄塔が3本立っている。その下方にもやや広めの平場が広がっており、南端には物見だったと思われる小丘もある。遺構は以上で、基本的には小規模な詰城であるが、想像していたよりも帯曲輪が長大で、遺構も明瞭である。
主郭下方の段曲輪→IMG_2516.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.184485/138.751853/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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室沢砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2460.JPG←墓地の周囲に見られる土盛り
 室沢砦は、峰屋敷とも呼ばれ、中世の豪族の館跡と推測されている。神田沢と清水沢に挟まれた高台にある。一応、市の史跡に指定されているのだが、既に標注はなく、遺構も不明瞭でどれが館跡なのかもよくわからない。墓地の周囲に土盛りがあるが、遺構とは判断し難い。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.452874/139.206154/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 作者: 加藤理文
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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谷津館(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2449.JPG←西側の空堀と土塁
 谷津館は、新田氏の一族藪塚氏の居館である。藪塚氏は、新田義重の5代の裔孫朝兼を祖とする一族で、藪塚に居館(藪塚館)を構えていたが、戦国時代に由良成重の圧力を避け、谷津の地に土着したと伝えられる。尚、南北朝の動乱期、藪塚氏は、宗家の新田氏に従って戦ったことが太平記に記載されている。
 谷津館は、低丘陵先端に築かれた単郭方形居館で、市の史跡に指定されている。現在でも館跡南に屋敷を構えた藪塚家の所有であるらしい。周囲には土塁と空堀が良く残っている。郭内には段差があり、いくつかの用途に応じて区画されていたらしい。南側中央には虎口が構えられている。それほど大きな遺構ではないが、貴重な遺跡である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.423234/139.252439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田一族の中世: 「武家の棟梁」への道 (歴史文化ライブラリー)

新田一族の中世: 「武家の棟梁」への道 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 田中 大喜
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/08/20
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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五覧田城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2323.JPG←北郭群の堀切
 五覧田城は、深沢城と並ぶ黒川谷の重要城郭で、争奪の場となった城である。元々、室町中期頃迄は深沢城主阿久沢氏らの黒川郷士は独立した武士団となっていたらしく、この地にはその中の一人、松島氏が築いた崖端城の五覧田の砦があったらしい。しかし桐生氏が黒川谷に進出すると黒川郷士は桐生氏に服属し、桐生氏が滅亡すると、金山城の由良氏の勢力下に入った。この頃由良氏は小田原北条方で、越相同盟が破れたため、1574年、上杉謙信は深沢城と共に五覧田城を攻略したが、翌75年には由良氏によって五覧田城は奪回された。1579年には、北条氏政は由良国繁と協定を結び、深沢城と五覧田城は由良国繁に預け置かれた。しかし1584年、由良氏が北条氏から離反し、それを契機に佐竹・宇都宮両氏を主軸とする北関東連合軍と北条の大軍が下野国沼尻で110日間に渡って対峙した時には、北条氏は阿久沢氏を調略して敵勢の切り崩しを図り、阿久沢・前原・目黒氏ら在地衆に命じて五覧田城を攻略した。その際北条氏直は深沢城主阿久沢彦二郎の戦功を賞し、北条氏照は彦二郎に五覧田城の普請を命じた。従って、現在残る五覧田城の遺構は、北条氏の命で阿久沢氏が改修した姿である。以後、北条氏と対立する沼田方面の真田氏と佐竹氏・宇都宮氏ら北関東諸豪との連絡路(根利通)を遮断するため、引き続き重視されたと推測される。

 五覧田城は、標高593.1m、比高293mの要害山に築かれている。麓からまともに登ったら大変な高さだが、幸い標高520m付近まで林道が付いており、そこまで車で登れるので、訪城は容易である。五覧田城は、T字状になった尾根に曲輪群を築いた、連郭式の細尾根城郭で、堀切で要所を分断しているいるが、縄張りは基本的に古風なものである。三角点のある山頂に主郭を置き、三方に伸びる尾根にそれぞれ東郭群・北郭群・西郭群を築き、各尾根筋をそれぞれ数本の堀切で分断している。しかし堀切の規模はあまり大きくはなく、細尾根という地勢の制約もあってか、技巧性も見られない。普請も割と大雑把で、綺麗に削平された感じではない。この他、『日本城郭大系』の縄張図にはないが、東郭群の先に東出曲輪があり、その途中に堀切が穿たれている。この堀切の南側は円弧状の横堀となり、先端で直角に折れて竪堀となって落ちている。また東郭から北西に伸びる尾根にも段曲輪群と堀切・竪堀が確認できる。史料に残る重要性に比すると、貧弱な縄張りの城で少々期待外れであるが、沼田方面への間道を押さえる高所の要害としては、これで十分だったのだろう。また桐生城の様に整備された城を期待していたが、東郭群以外は薮がちょっと多いのも少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.518932/139.290204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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三ヶ郷城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2236.JPG←主郭背後の堀切
 三ヶ郷城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、東宮修理の城であったとも、或いは永禄年間(1558~70年)に東宮丹波守が築いた城とも伝えられる。時期的には黒川谷が桐生氏の影響下にあった時代で、一方で越山した上杉謙信や金山城主由良氏の勢力が伸びて政情が流動的になっていた時代でもあった。こうした不穏な情勢から、東宮氏は山城を構築したのかも知れない。

 三ヶ郷城は、標高490m、比高160mの山上に築かれている。南尾根が大手で、ここから登っていくが、途中までは林道がある。南尾根の先端近くに電波の反射板(白い色の大きな金属板)があるので、よい目印になる。この先を登っていくと、小堀切の先の大手郭に至る。この大手郭は、虎口もあり、周りに低土塁も築かれているが、内部はほとんど自然地形の斜度のある尾根で削平されておらず、あまり普請は明確ではない。更に尾根を登ると、前面に堀切が穿たれた主郭が見えてくる。三ヶ所郷城は、ほとんど単郭の小規模な城で、主郭は南側がやや広がった曲輪で、前後を堀切で穿って防御し、主郭周囲には腰曲輪を築いている。主郭には後部のみに土塁が築かれ、南西と北東の2ヶ所の虎口が開かれ、それぞれ腰曲輪に繋がっている。また堀切の外にはそれぞれ小さな堡塁が置かれて尾根筋の監視と防御の拠点となっている。この他、『日本城郭大系』の縄張図によれば、北の尾根の先や南東尾根にも曲輪群が連なるとされるが、北尾根を見たところほとんど自然地形で遺構は明確でなく、南東尾根については遠目に見た限り期待薄だったので確認しなかった。いずれにしても小規模な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.533209/139.320545/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本城郭史

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  • 作者: 齋藤 慎一
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タグ:中世山城
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小中城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2185.JPG←城址付近の現況
 小中城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、松島淡路守の城と伝えられる。松島氏は、深沢城主阿久沢氏と並ぶ黒川衆の旗頭的存在で、五覧田を本拠としていたが、小中城の松島氏はその一族であったと思われる。一説には、小中松島氏が本家であったとも言う。それ以外の詳細は不明であるが、黒川谷に桐生氏が進出すると桐生氏に服属し、桐生氏滅亡後は由良氏に属し、由良氏が1583年に小田原北条氏から離反すると、北条氏に服属したのだろう。

 小中城は、比高50m程の広い段丘上の一角にあったらしい。しかし現在段丘上は一面の耕地となっており、遺構は全く見られない。居館を置くには好適な地勢だが、遺構が見当たらない以上、どこに居館が構えられていたかも判断できない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.537157/139.336746/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:居館
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神戸城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2154.JPG←虎口
 神戸(ごうど)城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、小曾根筑前守の城と伝えられる。その他の詳細は不明。しかし他の黒川衆と同様、黒川谷に桐生氏が進出すると桐生氏に服属し、桐生氏滅亡後は由良氏に属し、由良氏が1583年に小田原北条氏から離反すると、北条氏に服属したのだろう。

 神戸城は、みどり市立東中学校が建っている渡良瀬川北岸の段丘の、南西隅部に築かれている。山城以外の黒川八城では唯一、わずかではあるが明確な遺構を残している。大部分は耕地化で改変されているが、南西角に竹林があり、そこを探索すると隅部に虎口と小郭群が見られ、小堀切も確認できる。この先は川まで降りてしまうので、おそらく川の水を汲むための城道で、水場を監視する物見台があったのだろう。台地上には主殿の建つ曲輪があったと思われるが、そこには明確な遺構は見られない。
堀切と物見台→IMG_2156.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535916/139.350049/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城のつくり方図典

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  • 作者: 三浦 正幸
  • 出版社/メーカー: 小学館
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タグ:中世崖端城
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