SSブログ
古城めぐり(栃木) ブログトップ
前の30件 | 次の30件

久我城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02983.JPG←主郭周囲の大空堀
 久我城は、常真寺の裏の台地上に築かれた平山城である。築城年代や築城者は定かではなく、天文年間に京都の久我大納言清道の末孫久我式部大輔常真が勅勘をこうむって当地に下り居城したとも、佐野氏一族の久我盛綱が築城したとも言われている。私の個人的見解では、戦国後期の貴族が地方に下って城を築く力などなかったのではないかと思うので、佐野一族の説の方が妥当だと思う。その後の経過も諸説あるが、一般的には久我氏は1587年まで当地を領したが、滅亡して廃城になったという。
 城は主郭をはじめとする複数の曲輪を大きな空堀で分断した縄張である。各曲輪はほぼ四角形の形状を成している。この城は面白いことに、主郭が一番低く、しかも久我地区の入口方向である東側に位置している。しかし、本丸の東側は江戸時代に削り取られているとのことで、もう少し何かの防御施設があった可能性はある。主郭周囲は土塁が取り巻き、その外側は大きな空堀が周囲を囲っている。この空堀はすばらしい。幅は15m程、深さ10m近くもあるのである。二ノ郭の空堀には横矢が掛かっていて土塁上の櫓台から迎撃できるようになっている。更に西側の三ノ郭と四ノ郭の間には段差が付いていて、坂虎口が築かれていたようである。四ノ郭の西側にも規模は小さいが横堀と帯曲輪が作られている。城の北側にもかつては遺構があったようだが、土取りで湮滅したとのことで堀も途中で消えており、まだ何かの遺構があった可能性がある。
 平地に近い地形に築かれた城ということであまり期待していなかったが、この見事な堀はどうであろうか。上南摩城といい、加園城といい、鹿沼の城の何とすばらしいことか。これらを史跡指定することもなく放置している鹿沼市の無作為には、ただただ呆れるばかりである。
ニノ郭堀の横矢掛り→DSC03004.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.591032/139.654191/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平山城

金ヶ沢城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02830.JPG←南尾根の堀切と竪堀
 金ヶ沢城は、別名大芦城とも呼ばれ、久我城の詰城と言われている。比高280mほどの峻険な山上に築かれている。城の歴史は不明である。
 登城道はないので、事前に地形図を使って注意深く登城ルートを選定するほかはない。東に延びる尾根筋を延々と登っている先達もあったが、私は距離の短い南尾根筋を登るルートを選択した。このルートでは、久我城東から山中の砂防ダム建設用に作られた道で途中まで車で行くことができる。2つ目の砂防ダムの上に作業者の駐車場らしい広場があるので、そこで車を降りてしばらく歩くと未舗装の小道が左に曲がっていくところにぶつかる。ここを曲がらず、正面の沢筋をちょっと登ってから右側にそびえる尾根の斜面に取り付き、この尾根筋から登っていくのである。この尾根筋をしばらく登っていくと尾根が消えて、一面の斜面が眼前に広がるようになる。ここで斜面を大きく右にトラバースしていくと、やや縦溝のようになった地形がある。実はこれが金ヶ沢城の竪堀の一つで、これを登っていくと尾根筋に作られた堀切に到達する。ここからが城域になるのだが、しばらくはほとんどそのままの斜面でできており、建物を立てられるような場所ではない。2本目の堀切を越えると、やや傾斜は緩くなるが、やはり曲輪であったかは疑問である。更に登るとようやく曲輪らしい平場に到達する。主郭以外での平場はここが一番広く、ニノ郭と考えられる。
 主郭は楕円形状で面積は大きくはなく、この城が砦程度のものであったことを物語っている。主郭周囲はぐるりと横堀が取り巻いている。主郭に虎口らしい部分はあるが、土橋と言うよりはただの平場状になって横堀を塞いでいる。その下の尾根筋にも2本の堀切があり、更にその北側の尾根にも小さな段曲輪と堀切がある。主郭の西側は隣の山に繋がる尾根が延びているが、そちら側にも曲輪と堀切がある。そのほか斜面には何本かの竪堀も見られる。堀切も竪堀もきっちりと掘り込まれていて、峻険な山上の砦にしては充実した遺構である。
南東尾根の2本の堀切→DSC02934.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.604338/139.654380/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世山城

独鈷山城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02647.JPG
 独鈷山城は、加園城の支城である。本城である加園城の1kmほど南の山上に築かれており、かつては南の平野部から侵攻する敵から本城を守るための出城であったのだろう。残念ながら現在は石灰岩採掘の山となっていて、既に山の形自体が変わってしまっており、遺構は湮滅しているという。かつては5段ほどの曲輪と尾根筋に3本の堀切があったようである。現在では変わり果てた城の姿を遠目に見る他はない。

 お城評価(満点=五つ星):-(行くこともできないので評価なし)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.553193/139.699037/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世山城

加園城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02723.JPG←主郭周囲の横堀
 加園城は、加園地区に勢力を持っていた土豪渡辺氏の居城である。渡辺氏は小土豪の常として、周辺勢力の宇都宮氏、壬生氏、皆川氏、小山氏などの間を揺れ動きながら生き延びていたようである。1523年に行われた宇都宮忠綱と皆川宗成の一大決戦、河原田の戦いでは当初宇都宮方として参加していたが、皆川氏を支援する小山氏・結城氏の同族連合は、宇都宮勢の背後に回り込み、加園城・南摩城の奪取を目論んだ為、渡辺右衛門尉は小山氏に降ったと言う。(皆川正中録)その後は小山氏に従っていたらしく、1561年に上杉謙信が関東に出陣すると、渡辺右衛門尉忠之は小山氏に従って出陣し、碓氷峠で討ち死にしたらしい。その後の事績は不明である。
 加園城は鹿沼の加園地区の後背を押さえる山城である。比高は70m程であるので、それほど峻険な城という感じではない。民家の裏から登るとすぐに道が消えてしまうので、仕方なく斜面を直登するが、この山は石灰岩採掘場になっているだけあって、急斜面に石灰岩の破片がゴロゴロしていて登り辛い。ようやく登りきるとそこはもう加園城の城域で城の西側曲輪群に当たる。城は主郭を中心とし、その南に縦長のニノ郭を置き、左右両側に曲輪群を配置していたようである。特に西側の曲輪群は独立した櫓台を持ち、その周辺に腰曲輪と土塁をめぐらしている。かつての大手道はこの西側曲輪群とニノ郭との間を通っていたようで、大手道に沿って広い曲輪と木戸跡らしい小土塁を見ることができる。主郭の周囲には規模の大きい横堀が一周し、その外を土塁が取り巻いていて、主郭切岸の高低差も大きくなかなか壮観である。主郭も周囲を大きな土塁が取り巻いており、重厚な備えを示している。主郭内部には石組みの井戸跡を見ることもできる。主郭周囲の横堀はそのままニノ郭の東側を走っていて、更にその東側にも曲輪や堀などの遺構があるようであるが、藪がひどくそこまでは行かなかった。主郭背後には横堀を挟んで小さな曲輪と櫓台、堀切などがあるが、こちらも藪がひどく遺構の確認が容易ではない。
 遺構が良く残る見事な城で、特に主郭周囲の横堀は圧巻である。しかし全体に冬場でも藪が多いのが惜しまれる。夏場の訪城は無理であろう。ニノ郭南側は石灰岩採掘で削り取られているが、今後遺構は保護されるのであろうか?不安である。
西側曲輪群とそこへ延びる土塁→DSC02661.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.563193/139.697222/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世山城

下南摩城上の城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02614.JPG←四ノ郭の南側の横堀
 下南摩城上の城は、下の城のところで記載した通り、1576年に南摩秀村が滝尾山頂に新たに構えた詰城である。ただ詰城とは言っても比高100mに満たない低山なので、防御力にはおのずから限界があろう。
 下の城の四重堀切を越えて登る尾根筋には、途中小堀切が1本ある程度でほとんど防御構造らしいものはない。山頂に近づくと小さな坂虎口に至るが、それを越えるともうそこは上の城の主郭である。主郭の背後にニノ郭があり、主郭切岸との間に小さな横掘を伴っている。主郭東側には三ノ郭、四ノ郭があり、主郭から繋がる虎口やニノ郭に至る武者走りの形状が明瞭である。四ノ郭の南側には横堀があり、そこから麓に向けて搦め手道があった様である。詰城にしてはそこそこの広さを持ち、それなりの居住性が確保されていた様なので、もしかしたら戦国末期には下の城から上の城に城主居館を移していたのかもしれない。
三ノ郭から見た主郭と虎口→DSC02626.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.523766/139.710833/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世山城

下南摩城下の城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02516.JPG←主郭背後の堀切
 下南摩城は、滝尾山城ともいい南摩氏の居城である。南摩氏には二流あり、上南摩を領した佐野氏系南摩氏に対して、下南摩を領したのは皆川氏の家臣筋の流れを引く南摩氏である。下南摩郷はもともと皆川氏家臣の高木讃岐規衡の領地であったが、主家皆川氏と不和になり佐野氏の庶流赤見広孝を迎え入れて城主とし、広孝は姓を南摩に改めて滝尾山の麓に居を構えたと言う(おそらく下南摩城下の城のこと)。孫の南摩百十郎秀村は1576年に滝尾山頂に新たに城を構えた(下南摩城上の城)。秀村が病没すると南摩氏は壬生氏の配下となったが、1590年に小田原の役で北条氏に組した壬生氏が廃されると、下南摩城も廃城となった。
 下南摩城は、滝尾山麓にある下の城と山頂に築かれた上の城があり、二城が連携して別城一郭の構えを成して防御性を高めている。こういう城は栃木県内では珍しい。上南摩城も上・下の城があるが、まるで南摩地域の土豪は別城一郭についてのこだわりでも持っているかの様で面白い。下南摩城下の城はおそらく居館に当たると思われるが、その構えは完全に山城の形態で、土塁で囲まれた主郭を中心に何段もの腰曲輪が周囲を取り巻いている。特に傾斜の緩やかな西側斜面には、横堀や明確な虎口を持った腰曲輪が展開しており、家臣団の居館もあったのではないだろうか?主郭背後には上の城につながる尾根筋を分断する見事な四重堀切もある。その内の1本は、屈曲して横矢まで掛かると言う念の入りようである。なかなか充実した縄張で一見の価値がある。
腰曲輪の虎口→DSC02528.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.520919/139.709614/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平山城

上南摩上の城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01066.JPG←主郭虎口の内枡形
 上南摩上の城は、上南摩を領した佐野氏系南摩氏の居城である。上南摩下の城のところでも記載したが、遺構の規模から考えて上の城が本城で、下の城が出城と考えられる。
 城は広厳寺背後の山上に築かれているが、広厳寺裏からではなく、寺から少し東に離れた南の尾根筋から登城した。このルートは最初の20~30mは道が無いので適当に斜面を直登するしかないが、尾根筋に出てしまえば、冬場ならば藪も少なく非常に楽に登ることができる。この尾根筋の中腹には、小さな堀切と枡形虎口の遺構らしきものも見られた。ちょっとした平場もあり、番所などが置かれた曲輪の可能性もある。
 山上に到達すると、主郭を中心とした充実した遺構群が待ち受けている。主郭虎口には、下の城よりも一回り大きな、明確な内枡形が築かれ、その前面には横堀を挟んで土塁が横たわる。これも下の城同様、木橋で連結されていたものと考えられる。主郭は背後にわずかな土塁があるほかは周囲を巡る土塁は無く、思いのほか無防備である。主郭の周囲には、2段の腰曲輪が取り巻いている。この腰曲輪は、主郭背後では堀切状になっており、腰曲輪下の大堀切と合わせて、斜面に沿った三重堀切に近い構造になっている。その先にも尾根筋に沿って、広めの曲輪が堀切と交互にそれぞれ4つほどある。こちらの堀切は大した規模のものではない。
 一方、城の中枢部より北の斜面には屋敷地と思われるような平坦な地形が数段にわたって展開している。家臣団の屋敷があった内小屋であろうか。もしそうだとしたら、南側に主郭がそびえているので、真夏以外はほとんど日が差さない。こんな所に住まわされたら、家中カビだらけになるわ、洗濯物は乾かないわで、さぞ暮らしにくかろうと思ってしまう。この先は山麓まで緩斜面となっているようなので、こちらにも登城道があったのかもしれない。そのほか、主郭の南東側には数段の段曲輪も見られる。
 下の城と基本的な縄張りは非常に似ているが、かなり規模が大きく、居住性も併せ持った山城であった。

 ところで上南摩上の城は、色々な城郭サイトで非常に登城のきつい城として書かれている。その為、この冬の目標の一つともして覚悟していたのだが、幸いにもHYDさんのサイトに南尾根筋からの攻略法が書かれており、大変役に立った。この場を借りてお礼を述べたい。貴重な情報をありがとうございました。
南尾根中腹の枡形虎口→DSC01033.JPG
DSC01086.JPG←大堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.547153/139.678781/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世山城

上南摩下の城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC00953.JPG←主郭内枡形とその前方の横堀・土塁
(残念ながら藪でほとんどわからない)
 上南摩城は、佐野氏系南摩氏の居城である。南摩氏には二流あり、上南摩を領したのは佐野盛綱の子、郷綱に始まる佐野氏系南摩氏であった。応永年間に南摩城を築いて以後、上南摩地方を治めたが、詳細な歴史は不明である。戦国後期になると、宇都宮氏と皆川氏が戦った激戦、河原田合戦の中などで登場する。宇都宮氏、壬生氏、皆川氏などの下野の中小大名の狭間で生き延びていたようである。
 上南摩城は上の城、下の城の2つからなる。遺構の規模から考えると、上の城が本城で、下の城は出城だったらしい。下の城は、山城とは言っても比高は30mほどしかない。しかも山の斜面は比較的なだらかで、斜面を直登して城域に到達することが可能である。主郭を中心にして2段程度の腰曲輪があり、主郭背後には堀切を挟んで数段の曲輪と堀切が交互に直線状に連なる。主郭の手前には横堀と土塁があり、主郭虎口側には小さな内枡形が設けられている。余湖さんのHPで記載されている通り、土塁と内枡形が木橋で連結されていたのだろう。
 遺構はよく残っているが、冬場でも藪が結構あって、見通しの効かない部分もあるのがやや難である。とは言えコンパクトだが、充実した山城遺構である。出城と言っても砦レベルのものではなく、れっきとした城郭レベルである。本城である上の城の前衛をなす防衛陣地として整備されたものだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.540607/139.687628/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世山城

榎本城(栃木県大平町) [古城めぐり(栃木)]

DSC00210.JPG←土塁と堀跡と思われる遺構
 榎本城は、1558年に小山氏の一族榎本高綱が築いたと伝わる平城である。城のあった場所が、ちょうど戦国の諸勢力の接壌地帯だったため、度々戦乱に巻き込まれた。上杉謙信にも攻められ、また北条氏政にも攻められるという、正に関東戦国の荒波をもろに受けた城である。北条氏が滅びると、榎本城は結城領となったが、1605年に江戸幕府の重鎮本多正純の弟忠純が入封した。しかし1640年に無嗣断絶となって、城は廃城となった。
 城はかつては壮大な規模を持っていたようだが、街中の平城の宿命で、この城も宅地化と耕地化で遺構の大部分が隠滅している。わずかに一部の土塁と空堀が残存しており、特に北城と呼ばれる曲輪の堀と土塁は規模が大きく見事である。また、この遺構の北にある民家の庭には、櫓台と思われる遺構が残っているのが、外目にもわかる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.327608/139.726717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

小薬城(栃木県小山市) [古城めぐり(栃木)]

DSC00170.JPG←水堀跡?
 小薬城は、単に御城とも言い、梶原景時の八男景則が小山朝政の庇護を受けて居城としたという。
 かつては三重の堀に囲まれていたというが、現在は住宅地に埋もれてしまい、遺構は壊滅的である。一部に堀跡が残っているようだが、住宅地の中だし、歩いたのがちょうど平日の小学校の下校時間で、小学生が帰宅中の真っ只中だったので、このご時勢を考えると、そんな中をカメラ持ってうろついてたら、速攻で警察に通報されること必定なので、あまり見て回ることができなかった。それでも水堀跡らしいものが藪の中に確認できた。本丸跡には現在、御城稲荷が祀られている。その周囲は一段低くなっており、かつての本丸堀跡だったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.363107/139.773002/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

箕輪城(栃木県下野市) [古城めぐり(栃木)]

DSC00084.JPG←主郭北の空堀と土塁
 箕輪城といえば、落ち目の関東管領上杉憲政を最後まで助けて奮戦した長野業政の居城(群馬県)が有名だが、これはそれとは全く別の栃木県内の城である。
 箕輪城の築城時期や築城者には諸説あるようだが、一説には小山高朝が1462年に築いたと言われている(現地解説板による)。また「とちぎの古城を歩く」では、1462年に壬生胤業が壬生城の支城として築いたという説と、鎌倉時代に小山氏が築いた説を載せている。また廃城時期もわかっていないらしく、1558年5月とも、1590年の小田原北条氏滅亡に伴って小山氏も滅亡した時とも言われている。

 箕輪城は、思川の支流の一つ、姿川右岸の河岸段丘上に築かれており、周囲を空堀で囲まれたほぼ真四角な主郭と、その南の第2郭からなっている。主郭はその周囲の土塁と空堀が非常によく残っており、虎口の土橋も明瞭である。特に北側の堀は規模が大きくすばらしい。主郭内にはわずかな堀跡(溝?)が残っており、おそらく主郭に建っていた御殿の周囲を区画していたか、御殿の排水溝であったのだろう。そして比較的大きな空堀をはさんで南に第2郭があるが、ここの堀はかなり埋まってしまっておりだいぶ浅くなっている。この堀の東端に土橋があり、それを防御するように土塁にわずかな横矢が掛かっている。第2郭内は現在畑となっており、ビニールハウスなども設置されているため、幾分破壊を受けているようである。西側は住宅地になっているので、土塁も堀もかなり湮滅してしまっているが、南から南西にかけての土塁と空堀はよく残っている。2つの曲輪は共にそこそこの広さがあり、ある程度の兵力を置くことができたと思われる。全体的な縄張りは、小山氏の拠点の一つ、鷲城によく似ているので、やはり小山氏が築いた城ではないかと感じられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.399368/139.830959/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

椿田城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

DSC09318.JPG←堀跡
 椿田城は1560年に福地寧久が唐沢山城の支城として築いた平城である。河越城忍城館林城などの小田原北条氏に対する押さえの役目を負っていた。福地氏は16代の仲久のとき佐野盛綱に客将として招かれ、以来信任が厚かったという。1614年に佐野氏が改易になると椿田城も廃城となったが、福地氏はそのまま名主として城跡内に屋敷を構えて居住し、現在に至っているという。
 北条氏に対する押さえというが要害堅固な城というわけではなく、単郭方形居館であったらしい。土塁は明確には残っておらず、廃城後に削平されてしまったのかもしれない。周囲に堀跡が残っているのが唯一の遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.282613/139.557009/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

唐沢山城 その2(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

DSC09379.JPG←巧妙な虎口遺構(本城南東)
 新年の再訪城郭第3弾は唐沢山城である。正確には再々訪になる。masakiさんの主催する「栃木県の中世城郭」というサイトに山麓等の遺構に関する詳細な学術的研究報告が載っており、まだ見ていない遺構があることがわかったため再訪したのである。(残念ながら先ほどそのHPを見たら、唐沢山城の研究報告がまるごと削除されてしまっていた。残念!)

 まず山麓遺構。唐沢山城の西の山麓に、台所屋敷と呼ばれる大きな削平地や、唐沢門・下小屋門という門跡があるという。
 台所屋敷は大きな平場が広がっていて、現在は畑になっているが、確かに居館等を建てるには絶好のロケーションである。一部で発掘調査が進められているようだった。
 唐沢門跡は一部改変の様子が伺われるが、土塁などが残存し、どうも枡形を形成していた節がある。そこから山上に向けて大手道が通っていたようであるが、大手道の両側には緩い傾斜の広い削平地が広がっており、家臣団の屋敷があったのではないかと想像される。

 山麓遺構で一番見事なのは下小屋門で、土塁や水堀、虎口、門に付随する番所か何かが置かれた削平地が明確に残っている。行った時はどうも遺構調査が公的に行われた前後のようで、薮がきれいに伐採され、遺構の見事な状態をよく見て回ることができた。下小屋門には、水堀の上に木橋が掛かっていた様である。番所か何かの削平地には若干の段差があり、奥の高い部分に建物が建っていたのであろう。この削平地へは門内の平場から登る傾斜道まで付いており、まるで当時の状況が目に浮かぶような遺構である。ただの番所にしては削平地が広すぎるので、もっとほかの機能を持った建物が建っていたのかもしれない。

 以上が山麓遺構であるが、次は山上の「南城」と呼ばれる曲輪の更に南東側に展開する遺構群である。ここには主郭をはじめとする城の中枢部の遺構群とは異なる様相を呈している。南城から斜面を下っていくと、堀切で分断した数段の腰曲輪があり、その先に丘のような地形が見えてくる。この丘の辺りはハイキングコースが整備されているので、開けていて歩きやすい。その丘を越えると、大きく横矢の掛かった豪快な横堀が、更にその先に巧妙な虎口遺構が存在する。この虎口は、横堀と竪堀を組み合わせて90度屈曲した土橋を設けたもので、先の横矢掛りの明確な横堀といい、唐沢山城中枢部の遺構群とは明らかに性格が異なっている。特にこの虎口は、その形状が武蔵天神山城(北条氏邦が藤田氏に入嗣した際の当初の居城)の東出郭の虎口遺構と形状が酷似している。masakiさんは北条氏忠入嗣後の小田原北条氏による構築ではないかと推測されているが、おそらく正しい見解であろう。同じ虎口パターンは、武蔵青山城などでも見られるのである。
 これらの見事な遺構群の先は薮化しているが、更に東に斜面を下っていくと薮の中に土塁が現れる。ここには単純な坂虎口がある。ただ右側にも虎口のような跡があり、どちらが虎口だったのかははっきりしない。

 以上がこれまで見逃していた遺構群であるが、本城東側に展開する虎口関連の遺構は特に素晴らしい。ほとんどの城郭サイトや文献でも触れられていない、知られざる遺構群であるが、これを見ないと唐沢山城の魅力が半減するほどのインパクトがある。masakiさんに大感謝!
下小屋門の土塁、水堀、虎口→DSC09141.JPG
DSC09357.JPG←豪快な横矢掛りの横堀

長沼城(栃木県二宮町) [古城めぐり(栃木)]

DSC09020.JPG←宗光寺遠景
 長沼城は、藤原秀郷の後裔で小山三家の一つ長沼氏の初期の居城である。藤原秀郷は天慶の乱で平将門討伐において武功を挙げ、鎮守府将軍に叙せられた。その後、子孫は広く北関東一帯に繁栄したが、中でも嫡流と目せられる小山氏の系統は勢力が強かった。鎌倉初期、小山氏の祖政光とその子供達は源頼朝に従って多大な功績を挙げ、下野で最大の豪族となった。政光の後は嫡男朝政が小山氏を継ぎ、次男宗政は長沼氏、三男朝光は結城氏の祖となり、これら三家を合わせて小山三家と称され、戦国時代終わりまで栄えた。長沼氏からは陸奥長沼氏や下野皆川氏の系統が出、結城氏からは白河結城氏(後の白川氏)が出るなど、北関東から東北地方にかけて一族が分布した。そうした内の長沼氏の系統の本貫の地がこの長沼城であった。
 城跡は現在では畑や宅地に変貌し、遺構は完全に湮滅して当時の縄張りを知ることはできない。ただ城跡の南に隣接すると思われる宗光寺の周囲には堀跡が残っており、長沼城築城以前の居館跡だったとされる。長沼氏の嫡流は室町時代前半には陸奥に移ったため、この地は早くにさびれたのだろう。今となってはかつての栄華を偲ぶよすがもない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.363038/139.931037/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城

川崎城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSC08901.JPG←本丸西側の大空堀
 川崎城は、宇都宮氏の庶流塩谷氏の本城である。塩谷氏は宗家の宇都宮氏を支えた有力な一族で、もともと源姓塩谷氏がいたが、嗣子がなかったため宇都宮業綱の二男を養子として迎えた。これが塩谷朝業で、実質上の塩谷氏の祖である。朝業は和歌に秀で、同じく和歌に秀でた鎌倉3代将軍の実朝の寵遇を受けた。当初は平城の御前原城を居城としていたが、後により要害性の高い平山城の川崎城を築いて、ここを本拠とした。その後塩谷氏は、宇都宮家中の跡目争いで一度は滅びるが、再び宇都宮氏17代の成綱の弟孝綱によって再興された。このころは戦国乱世で那須氏と宇都宮氏が争っており、塩谷氏は宇都宮氏の重鎮として前線で戦った。孝綱の二男の孝信は倉ヶ崎城代(喜連川)となったが、兄で当主の由綱と争い、それ以降、本流の川崎塩谷氏は宇都宮方、庶流の喜連川塩谷氏は那須方に付いて干戈を交えた。由綱の子、義綱は豊臣秀吉の小田原征伐に際して、重臣岡本讃岐守を派遣したが、その岡本が義綱の反逆を秀吉に訴えたため、塩谷氏は改易された。義綱は縁戚である常陸の佐竹氏を頼り、関ヶ原の合戦後、佐竹氏が秋田に移るとそれに従って移り、家老格となって幕末まで存続した。

 川崎城は、東北自動車道のすぐ真横にある城址で、カーナビの画面にも表示されることが多いので、気付いた人も多いだろう。宮川右岸の丘陵上に築かれている。城域は広大で、特徴ある三日月形の形状をした本丸を中心に、二ノ丸、三ノ丸、東出丸、南曲輪、その他多くの曲輪群で構成されている。主郭の西半分周囲は、巨大な空堀で防御されている。二ノ丸と三ノ丸の間も空堀で区画されている。この空堀は東の麓まで伸びて、城全体を大きく南北に分断している。三ノ丸の東側には、これまた半月状の小曲輪が2~3段構築されている。その北は水の手曲輪になっていて、現在でも湧き水が流れ出している。更にその北側は新城部分となるが、高速道路建設でかなり破壊されたようである。また薮もひどそうだったので、今回はそこまでは行かなかった。城は大部分は公園化されているが、公園とは名ばかりで夏場はかなり雑草が伸び放題になっていて、大空堀も薮化していて歩くのが大変である(蛇も出る)。冬場に行く方がよいだろう。

 一方、この城のある丘陵地の南の続きには、大堀切を越えて堀江山城がある。近接した位置にあるので、出城として機能したのだろう。
 有力な宇都宮支族の名に恥じない、重厚な城である。
南曲輪西面の段曲輪→DSC08885.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.787532/139.919579/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
nice!(3)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鷲宿城(栃木県さくら市) [古城めぐり(栃木)]

DSC08877.JPG←寺の裏手の土塁
 鷲宿城は、喜連川と矢板を結ぶ街道(現在の県道74号線)沿いにある平城で、おそらくは単郭の居館だったと思われる。応永年間(1394~1427年)に宇都宮氏の庶流喜連川塩谷氏の塩谷朝宗(塩谷朝業の曾孫)が築城したと伝えられている。系図では、朝宗の子に鷲宿四郎貞朝の名が見えるという。
 城跡は現在、松岩寺の境内となっている。寺の周囲や墓地の手前に土塁跡と思しき遺構が残るが、堀跡はあまり明瞭ではない。表の県道から境内につながる参道は登り坂になっていて、周囲より数m高い位置にある。参道の両側は低地になっているので、もしかしたらかつての堀の名残かもしれないが、あまり明確な遺構ではないので、想像するほかはない。単郭居館跡が寺院になっている例は数多いが、そうした中では遺構の状態はあまり良い方ではない。残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.746656/139.982128/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

乙畑城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSC08828.JPG←三重堀切
 乙畑城は、明応文亀年間(1501年)に喜連川塩谷氏が、宇都宮氏と同族でその傘下でもあった川崎塩谷氏(本拠は川崎城)に対する第一線の防衛拠点として築かれたという。喜連川塩谷氏は元々川崎塩谷氏の分家であるが、この時代によくある通り宗家と対立する間柄であったらしい。1522年には宇都宮氏や川崎塩谷氏と戦い、翌年には和睦して、この城を川崎塩谷氏に明け渡したという。1559年(永禄2年)には結城晴朝の軍勢に包囲されて落城し、城将の乙畑孫四郎(川崎城主塩谷孝綱の子)が討死にした。1585年には喜連川塩谷氏を傘下に置く那須資晴がこの城を攻め、乙畑城は降伏、喜連川塩谷氏に属する事となった。そして1590年の豊臣秀吉の関東仕置きに伴って廃城となった。

 乙畑城は、矢板市乙畑にある熊野神社の北に広がる台地突端に築かれた平山城である。一部耕地化して破壊を受けているものの、本丸周辺は遺構が良く残っている。本丸周囲を空堀と土塁をめぐらして防御し、主郭東に続く台地上には三重堀切を構築して厳重に防御している。本丸北西には先端を堀切と段曲輪で防御された平坦地が広がるが、二ノ丸であろうか。また本丸北東には畑化した平坦地が続いていおり三ノ丸だったようだが、改変を受けている可能性が高く、往時がどのようであったのかは定かではない。
 全体に規模はそれほど大きくなく、要害性もそれほど高くなさそうなので、第一線に築いた防御陣地としては弱い印象を受けた。
 なお城の東側を国道のバイパス線を通す工事が進められているが、城址は避けられているようなので破壊を免れラッキーである。
二ノ丸先端の段曲輪→DSC08860.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.738506/139.958138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

阿久津城(栃木県高根沢町) [古城めぐり(栃木)]

DSC08756.JPG←東側の横堀と土塁
 阿久津城は、太平記に名高い宇都宮氏9代公綱の家臣野沢若狭守が1348年に築いたと言われている。宇都宮城北方の防衛拠点であった勝山城の支城として機能したと思われる。しかしこの城に関する記録は極めて少ないようで、最終的には1597年の宇都宮氏の改易に伴って廃城になったという。
 城は、宝積寺台地が南北に伸びる内の、一番くびれて幅が狭くなった部分に築かれている(一番狭い部分の幅は100m程しかない)。台地上に築かれる大抵の城は台地の先端を利用して、三方が崖という地勢に築かれるものだが、この城は非常に変わっており、南北に長く台地が続く真ん中に位置している。それゆえ縄張りも独特で、南北に曲輪を連ね、主要な曲輪の間を横堀で分断している。東西の斜面には何本かの竪堀を作り、特に東側には帯郭や横堀、土塁を構築して防御に力を入れている。城域の南東端近くには八幡宮があるが、その北側の裏手にも土塁と空堀が残っている。主郭ははっきりしないが、どうやら中央の曲輪らしい。しかし特に主郭を重点的に防御しようという意思もないようである。北に続く台地は横堀で城域と分断しているが、南続きの台地にはそれがなく、この方面はあまり防御を意識していないようだ。この城は、一部の曲輪が畑になっているほかは深い薮に埋もれていて、冬場でも曲輪の全貌を捉えることができない。主郭と思われる曲輪も、とても中に突入できる状態ではなかった。しかも、この城の中央を南北にJR宇都宮線が通っているため破壊を受けており、線路の左右の曲輪が一つの曲輪だったのか、元々二つに分かれていたのかも定かではなく、結果として、もともとの曲輪の数も特定できない。全体的に防御思想のはっきりしない城で(こういう縄張りを「求心性がない」というらしいが)、群郭式のような縄張りに思える。
 破壊を受けていない部分は遺構の残りが良いだけに、深い薮が恨めしい城である。
東斜面の竪堀→DSC08761.JPG
DSC08774.JPG←第2郭?奥の林が主郭らしい
主郭北側の横堀→DSC08788.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮の分、減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.642580/139.976978/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

岡本城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSC08684.JPG←本丸の空堀
 岡本城は、宇都宮北東、鬼怒川の支流の小河川である九郷半川に臨む段丘上に築かれた崖端城である。宇都宮城北方の防御のため、芳賀高名(禅可)の弟富高をこの地に封じ岡本氏を称した。岡本信濃守富高は、芳賀氏の一族として宇都宮氏麾下の軍事集団、紀清両党の清党の一翼を担った。足利家の内紛である観応の擾乱では、宇都宮公綱の配下として駿河薩埵山の合戦で戦い討死した。その後の岡本氏の事跡はその子正高が武蔵野で討死と伝わるだけで、はっきりとは残っていないらしい。いつの頃からか岡本城には玉生氏が入った。1597年に宇都宮氏が改易されると廃城となった。

 城跡は現在の岡本北小学校の北にあり、現在は本丸を除く一面のほとんどが畑となっている。本丸は薮化しているが遺構が良く残っていて、周囲を囲む土塁と南側の虎口、そして横矢の掛かった空堀が明瞭に残っている。堀は規模が大きく、深さ5m以上はあろう。ただ西側はかなり埋もれているのか、やや浅くなっている。そのほかに本丸南側の崖沿いに土塁と空堀の一部がわずかに残っている。空堀は畑の横に2本残っているが、もう一つ、岡本北小のすぐ北を通る道も堀跡であろう。国土変遷アーカイブの昭和20年代の写真を見ると、本丸の空堀以外に4本の堀があるのを見ることができるので、もとは5本の堀が取り巻いていたようである。直線的な堀で幾重にも囲んだ縄張りは、岡本富高の兄芳賀禅可の居城飛山城との類似性を感じさせる。
 あまり期待していなかったが、本丸の空堀の規模が大きく予想外にダイナミックな遺構が残っていたのでビックリした。こんな素晴らしい遺構が、宇都宮中心からさほど離れていない住宅地の脇に眠っているとは・・・。
畑の脇に眠る三ノ丸土塁→DSC08673.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.615166/139.950972/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※2010年度の発掘説明会の様子はこちら

石川城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC04800.JPG←石川城遠景、土塁も見える
 石川城は、千渡城茂呂城などと同じく、戦国末期に宇都宮国綱が対壬生氏の城塞群の一つとして築いた城である。宇都宮氏家臣の石川内膳正(ないぜんのかみ)が城主を務めた。北犬養中学の南が城域に当たるようで、根裂神社横の道も、虎口に通じる道だったような雰囲気がある。周囲は畑や宅地になっているが、そんな中に一直線に伸びる空堀と土塁がある。しかし遺構としてはっきりわかるのはそれぐらいで、それ以外はすべて湮滅している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.524036/139.800060/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

茂呂城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC04778.JPG←茂呂城遠景
 茂呂城は、戦国末期に宇都宮国綱が鹿沼城を本拠とする壬生氏に備えて、府所城深津城千渡城石川城などとともに築いた城の一つといわれている。市田備中守が城主を務め、現在城跡に居宅を構えているのはその御子孫だそうだ。下野の戦国大名に関する膨大な情報量を有するサイト「下野戦国争乱記」によれば、市田備中守はかなりの猛将だったようで、鹿沼城攻めで大活躍したようだ。
 城跡は東北道のすぐそばにあり、宅地の周りに土塁や空堀の跡が残るが、破壊を受けたのかかなり規模は小さく、あまり城という印象は持ちにくい。まぁ個人宅なので、あまり文句は言えないところだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.533623/139.793000/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※下野戦国争乱記
  http://www.geocities.jp/shimotsuke1000goku/index.htm

坂田山城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC04762.JPG←横堀跡
 坂田山城は鹿沼城のすぐ北にある山城で、もともと鹿沼氏はこの地に城を築いた。しかし小規模な山城であるため、鹿沼氏を滅ぼして鹿沼に入った壬生氏は隣接する御殿山に新たに城を築いて居城したという。しかし立地的に鹿沼城の背後を押さえ、しかも鹿沼城主郭より高所にあるので、物見台としては機能し続けたものと考えられる。
 城は、坂田山頂上の主郭の平場の周りをぐるりと取り囲む横堀があり、虎口につながる通路には土橋が築かれている。主郭跡にはいくつかの祠と稲荷神社が置かれているが、何しろほとんど未整備のため夏場は草木がぼうぼうで全容が良くわからなかった。単郭の、かなり小規模な山城だったようだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.569701/139.741266/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

鹿沼城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC04704.JPG←主郭西方の大空堀
 鹿沼城は、当初鹿沼氏、後には壬生氏の本拠となった城である。壬生氏はもともと壬生城を本拠としていたが、永正年間(1504~20年)に勢力伸張に伴って鹿沼氏を破り、本拠を鹿沼城に移した。壬生氏の戦国期の動きは非常に複雑でわかりづらい。元々はおそらく宇都宮氏の家臣、または一族筋であったのだが、かなり独立領主的傾向が強く、先の通り鹿沼氏を滅ぼしたり、主家宇都宮家乗っ取りをしたりする一方、宇都宮氏重臣として動いていた時期もあったようである。戦国後期になると壬生氏は小田原北条氏側について後援を受け、北条氏より板橋将監親棟が派遣されて板橋城を占拠し、宇都宮領を北西方から圧迫するなど、反北条方で佐竹氏の後援を受ける宇都宮氏とは深刻な対立関係となった。しかし最終的には豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条氏に味方して時の当主壬生義雄が小田原城に詰めたが酒匂川の陣中で陣没したため、後嗣なく断絶した。
 そんな戦国下野の動乱の縮図のような壬生氏の本拠である鹿沼城は、現在の御殿山公園にある。鹿沼の中心地にあり市街化が激しく、主郭跡は野球場となるなど公園化も著しいので全く期待していなかったのだが、かなり城跡らしい遺構が残っていたのには驚いた。特に主郭西方には横矢の掛かった大規模な空堀が残り、一見の価値がある。空堀の上には櫓台がそびえて、外部から近づく敵を威圧している。また野球場が作られた主郭周りにも往時のものと思われる土塁がほぼ全周に渡って残り、その外側にも帯曲輪らしい跡がある。テニスコートや武道館が築かれている部分も曲輪跡のようである。真岡城と同様、街のど真ん中にしては素晴らしい遺構である。
 鹿沼市は史跡保護に全く興味を示さない残念な自治体であるが、この素晴らしい遺構は是非保護して後世に残してもらいたいものである。
主郭周囲の土塁と帯曲輪→DSC04666.JPG
DSC04718.JPG←大空堀の北端付近

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.568149/139.742403/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

千渡城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC04629.JPG←西面の空堀と土塁
 千渡城は、戦国末期に宇都宮国綱が鹿沼城を本拠とする壬生氏に備えて、府所城深津城茂呂城石川城などとともに築いた城の一つといわれている。宇都宮氏家臣の宇賀神氏が城主であったという。
 城跡は現在、宝性寺になっており、背後に山を控え、前面に武子川を天然の堀とした構えを取っている。基本的に単郭方形居館跡にしか見えないがこれは本丸跡に過ぎず、もう少し城域は広かったと思われる。単郭方形居館では、戦国末期に築いた支城群にしてはあまりに頼りない城郭だからである。もともとあった居館を拡充して城としたというところであろう。本丸周囲の四辺の土塁と空堀は良く残っていて、南側の虎口跡と思われる部分の土橋は、そのまま寺の入口になっている。また駐車場横の土盛りと、寺の100mほど手前を走る市道沿いには土盛りと小さな池があるが、これも土塁と水掘の遺構のようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.573819/139.783452/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

桜町陣屋(栃木県二宮町) [古城めぐり(栃木)]

DSC04484.JPG←陣屋の枡形
 桜町陣屋は、名将二宮尊徳の居城である。なーんてのはもちろんウソで、どこの町の小学校に行っても校庭に銅像の建っている二宮尊徳(金次郎)が、農村復興のため居住した陣屋跡である。もともと小田原藩で、富士山の宝永大噴火後の農村復興に尽力し、大きな成果を挙げたとこと見込まれて、小田原藩の分家である旗本の宇津家の桜町領(現二宮町)の復興を任された。
 現在二宮尊徳の住んだ陣屋跡が国指定史跡となり、陣屋が復元されて一般開放されている。面白いのは、陣屋敷地入り口に土塁があるが、枡形虎口になっているのである。太平の世になんで?と思うが、江戸期には軍事的要請を度外視してしきたりとしてそのように作るようになっていたのであろう。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.408211/140.014572/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:陣屋

御前城(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

DSC04425.JPG←堀跡?
 真岡の御前城は、宇都宮氏の重臣芳賀氏の初期の居城である。当初は京泉館を居館としていたが、芳賀氏7代高親が、源頼朝の奥州合戦(奥州藤原氏攻め)に従軍して活躍した後に、この城を築いて本拠としたと言う。御前城は平城であったため、戦国後期により要害性の高い真岡城を築いて本拠を移したというが、真岡城の築城年代にはいくつかの説がある上、芳賀氏にはもう一つ要害性の高い重要な城、飛山城があって、南北朝時代から重要拠点として攻防を繰り返しているので、御前城がいつごろまで重要性を持っていたのか疑わしい。実際、飛山城の近くの同慶寺には芳賀氏累代の墓があり、こちらの方が本拠であったように思われる。
 城は真岡東中学校の西側にあたる地域にあったようだが、現在では宅地と畑に変貌しており遺構は湮滅している。わずかに堀跡と思しき地形があるが、はっきり言って良くわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.437511/140.021138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

真岡城(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

DSC04372.JPG←本丸北西の空堀跡
 真岡城は芳賀城ともいい、宇都宮氏麾下の勇猛な軍事集団紀清両党の一翼を担った芳賀氏(本姓清原氏、故に清党という)の居城である。芳賀氏の家系は古く、天武天皇の皇子、一品舎人親王を祖とするが、後に子孫が罪を受けて下野に配流、その後、高澄のときに初めて芳賀氏を名乗り、前九年の役で源頼義に従軍して戦功を挙げて祖先の罪を許された。芳賀氏は長いこと平城の御前城を本拠としていたが、1577年に23代高継が小田原北条氏の圧迫を受けて、新たにより堅固な平山城の真岡城を築いて本拠としたという。従って城としての歴史は新しく、宇都宮市東方の飛山城の方が芳賀氏の城としては遥かに歴史も古く、歴戦の城としても有名である。
 城跡は真岡市の中心地、行屋川沿いにあり、真岡小学校の敷地や公園になってしまっているので、当時の姿はかなり消えてしまっている。しかし全く湮滅しているわけではなく、本丸外周には土塁が残り、特に本丸の東と西北側に残る土塁や空堀、櫓台跡などは、周囲は宅地化しているものの城郭の雰囲気満点で、市街化した城としては予想以上に遺構の残りが良い。全体に城の東側は公園化ですでに城跡という雰囲気は消えうせているが、西側は横矢の折れも残り、平野部との段差の切岸も往時そのままな斜度で残っており、申し分のないものである。
 予想以上に良い城跡だった。
本丸東側の櫓台→DSC04354.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.444071/140.007405/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

【2009年1月追記】
 国土変遷アーカイブで戦後間もなくの航空写真で確認したところ、一番北の曲輪は小学校を建てた際に北東部分を若干拡張したようである。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

簗館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSC04305.JPG←北東部の土塁跡
 簗館は、宇都宮氏の一族多功氏の庶流、簗朝光が1369年に築いた居館跡である。多功城の東北東約1kmの地点、田川の右岸沿いにある。現在は民家になっているので敷地内に入ることは出来ないが、田川沿いのサイクリングロードなどから土塁と堀跡を見ることができる。ただ、全周残っているのではなく、北東部分の土塁が一番残っているほかはかなり湮滅しているようだ。堀跡も埋め立てられて畑になってしまっている。それでも北東部の土塁に横矢が掛かっているのがわかる。方角的に考えて鬼門避けの入隅であろう。宅地の奥の方にも土塁らしき跡が見られたが、遠目で良くわからない。史跡指定はされていないので、見学の際は家主の方に迷惑をかけないよう心掛けたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.435129/139.886985/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

渋垂館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSC04298.JPG
 渋垂館はその名の通り渋垂氏の居館跡であるが、遺構は良くわからない。写真の場所がおそらくそうではないかと思われ、土塁らしきものも見られたが、いかんせん民家の敷地であるので覗くことも出来ない。また近辺には最近、新興住宅地が出来たため、カメラを持ってウロウロすることもこのご時勢ではできないので、しかたなく撤収した。まぁ、もう一度来るほどの価値のある遺構ではないだろう。
 なお、周囲の道路が曲線を描いており、堀跡であった可能性がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.303039/139.466543/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:居館

小滝城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSC04195.JPG←主郭北側の土塁と堀跡
 小滝城は、那須氏の一族小滝氏の築いた城である。那須資藤の五男資信が1370年に小滝郷に封ぜられて小滝氏を名乗った。慶長年間(1596~1615年)に小滝信定は福原氏に仕え福原城に移ったので、小滝城は廃城になった。
 城は「相の川」という小川を天然の外堀として築かれた平城で、当初は単郭の方形居館であったものが複郭の城に発展したらしい。現在は宅地や水田になっているので、県道南側の「外城」という地名のあたりには城の痕跡を見出すことはできないが、主郭に当たる「中城」の北半分には民家の周りを囲むように土塁と空堀が残っている。「那須の戦国時代」という本によれば、昭和初期までは主郭南に食違い虎口も残っていたらしいが、現在では湮滅している。せめて主郭全周の土塁と堀だけでも残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.895032/140.063603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
前の30件 | 次の30件 古城めぐり(栃木) ブログトップ