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古城めぐり(山梨) ブログトップ
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吉田城山(山梨県富士吉田市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6677.JPG←土塁のある主郭
(2021年2月訪城)
 吉田城山は、まだ駿河の今川氏親の大将として活動していた伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が、甲斐侵攻の際に布陣した城である。『勝山記』によれば1502年9月18日、甲斐に侵攻した宗瑞は、吉田城山と小倉山に布陣した。20日には合戦が行われた。武田信縄は国内勢力を動員して対抗し、宗瑞は10月3日夜に退陣したと言う。この甲斐侵攻は、武田氏の内訌への今川氏による介入に基づくものと考えられている。また1515年には上野城主大井信達が武田信虎に反旗を翻して内戦が起こり、翌16年7月に大井氏に呼応した今川勢が甲斐に侵攻して吉田城山を占拠したと言う。その後、小山田氏の部将小林宮内丞が吉田城山の奪還を図り、武田勢の総攻撃も加わって今川勢は1517年正月に撤退した。

 吉田城山は、鎌倉往還(現在の国道138号線)の北側に位置する標高874m、比高40m程の南北に長い丘陵上に築かれている。この山は、南方の忍野鐘山、小倉山と共に、吉田地域へ入る東南の関門の役割を果たしていた。吉田城山の丘陵は、南半分がホテルの跡地となっていて破壊されている。しかしそれより北側に遺構が残っている。特に明確な登道はないが、私は北端から登城した。ここだと、すぐ近くにベイシアがあるので、そこの駐車場に車を停めることができるので便利である。但しスーパーが近いため、すぐ脇を通る車道は車の通行量が多いので、丘に取り付く際に怪しまれないように注意しないといけない。北端部は細尾根になっているが、段曲輪らしい平場が何段かあり、形状はややはっきりしないが虎口らしい地形も見られる。尾根を登って南に進むと、広い平坦地が広がり、その中央に切岸で囲まれた二ノ郭がある。二ノ郭とその南の尾根の東側には帯曲輪らしい平場がはっきりと確認できる。更に南に進むと、途中に堀切状の窪みがあり、その南に3段ほどの平場群があり、最上段が主郭と考えられる。主郭の後部には土塁が築かれ、背後に切岸があり、そこから東に向かって片堀切が落ちている。しかしその南のホテル跡地は伐採が進んでいて、どうも何かの建設が行われそうな感じである。伐採が主郭の際まで迫っているので、遺構の破壊が心配である。遺構としては以上であるが、実はこれらの一部は、後世の耕作・植林のために削平された可能性があるらしい。破壊された部分もあるので、全体としてどのような縄張りの城だったのか、明確でないところがあることは留意すべきである。
二ノ郭と腰曲輪→DSCN6626.JPG
DSCN6664.JPG←堀切状の窪み

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.470570/138.802718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名・伊勢宗瑞 (角川選書)

戦国大名・伊勢宗瑞 (角川選書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/08/26
  • メディア: 単行本


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忍野鐘山(山梨県忍野村) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6564.JPG←東の堀切と虎口
(2021年2月訪城)
 忍野鐘山は、鐘撞堂を備えた烽火台であったと推測されている。山裾を鎌倉往還(現在の国道138号線)が通っており、北方1.6kmにある吉田城山、西方1kmにある小倉山と共に街道を監視する要地であった。この付近では、1495年、1502年と駿河今川氏の大将として伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が甲斐に侵攻して布陣しており、忍野鐘山も陣場になったと言われている。また鐘山の山裾にある熊野大権現の社伝では、この地は今川・武田両軍が戦った城山古戦場であったとあり、戦没者供養塔も建てられている。

 忍野鐘山は、杓子山から続く山地の西端部の比高50m程の小山に築かれている。前述の通り南西麓に熊野大権現があり、そこまで車で行くことができる。大権現の背後の山が忍野鐘山の西尾根の曲輪に当たり、高さ10m程度なので大権現裏の斜面を直登した。鐘山と言うが普請は山城そのものである。山頂の三角形の主郭を中心に、西・北・東の三方の尾根に曲輪を配した縄張りとなっている。登ってきた西尾根は主郭と斜面だけで区画され、尾根上は2段の平場で構成されているが、段差の切岸はあまり明瞭ではない。しかし北・東の曲輪は普請がしっかりしており、主郭北では堀切が穿たれ、その先に縦長の北1郭があり、更にその北に堀切が穿たれて北2郭が構築されている。この北郭群の東側から東郭の北側にかけて大きな腰曲輪が築かれている。前述の北郭群の2本の堀切の東端部は、いずれもこの東腰曲輪に接続している。主郭東側も堀切で区画されているが、堀切の手前に内枡形の虎口が構築されている。このことから東尾根が大手であったことがわかる。東の堀切の先には東郭が置かれている。また堀切の北端は東腰曲輪に接続している。以上が忍野鐘山の遺構で、堀切は中規模でしっかりと穿たれている。城の北にある通りは「鐘山通り」と言うなど周辺地名にその名が残っている。
 尚、北西麓にはクレー射撃場があるため、山の西側には「立入禁止キケン」と書かれたロープが張られている。西側にはあまり近づかない方が良いだろう。
東腰曲輪→DSCN6546.JPG
DSCN6541.JPG←東腰曲輪から見た堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.457830/138.807846/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 山梨編

甲信越の名城を歩く 山梨編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本


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谷村烽火台(山梨県都留市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6434.JPG←烽火台跡のピーク
(2021年2月訪城)
 谷村烽火台は、郡内の領主小山田氏が築いた烽火台と考えられている。西麓の谷村には小山田氏の居城谷村城があり、1532年に小山田越中守信有が中津森館から谷村城に居城を移して以後、郡内地方の政治の中心地となった。構築時期は不明であるが、その立地は谷村防衛の上で欠くことのできない位置にあることから、小山田氏の勢威が強かった頃に、急を郡中に告げる烽火台であったと推測されている。

 谷村烽火台は、標高658mの蟻山(音岩、茶臼山、獅子岩などとも呼ばれる)に築かれている。ただでさえ狭い山頂には、現在電波塔・テレビ中継施設が所狭しと建てられており、主郭部の遺構はかなり改変を受けている。蟻山の登山道はいくつかあるようだが、北西の尾根筋から登るのがわかりやすい。登り口は尾根先端北側の金毘羅神社の脇にある。ここから登っていくと、尾根上に至るが、尾根先端付近は平場になり、側面には腰曲輪状の平場があり、遺構である可能性がある。またここから東に登っていくと、途中の標高562mの峰やその先に曲輪・堀切・物見台らしい地形も見られ、これらも遺構である可能性がある。もしこれらが本当に遺構であるとなると、かなり広い範囲を城砦化していたことになる。そのまま尾根伝いに登っていくと、標高620mの峰辺りから城域に入る。蟻山の北尾根には、物見台状のピークや細尾根の平場があり、途中に合計3本の堀切が穿たれている。主郭は蟻山山頂にあるが、前述の通り電波塔などが建っていて、その背後に当たる東側のピークが烽火台跡と現地表記されている。烽火台のピークから西に向かっては大きく地形が傾斜しており、そこに電波塔・テレビ中継施設が建っているが、建設の際に削平したのか、元々遺構として曲輪群があったのかはわからない。上段のテレビ中継施設の西側にわずかな石列・石塁があるが、遺構の可能性がある。主郭の北から東にかけて数段の腰曲輪が築かれている。東側では2段の腰曲輪の下に舌状曲輪が伸び、その先を堀切で区画している。その先は細尾根となっている。この他、主郭の南西にも腰曲輪がある可能性があるが、改変が多くはっきりしない。以上が谷村烽火台の遺構で、普請の形跡ははっきりしているが、他の郡内地方の烽火台と比べると堀切が比較的多い一方で、曲輪が小規模で少々見劣りする。『甲斐の山城と館』では小山田氏の要害城(詰城)との見解を示しているが、遺構の規模から考えると少々無理がある見解の様に思う。
北尾根の3つ目の堀切→DSCN6395.JPG
DSCN6446.JPG←腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.552471/138.916100/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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猿橋の城山(山梨県大月市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6289.JPG←二ノ郭、奥は主郭
(2021年2月訪城)
 猿橋の城山は、歴史不詳の城砦である。西方には隣接するように駒橋御前山砦があり、西北西3.4kmの位置に岩殿城がある。猿橋の城山は東方の桂川流域の監視を担い、急を岩殿城へ伝えたと推測されている。

 猿橋の城山は、標高544.5m、比高210m程の山上に築かれている。城郭本などでは東麓の妙覚寺の裏から登るルートを紹介しているが、北麓から北西尾根に取り付いて登る登山道が整備されており、そちらを登った方が良い。妙楽寺ルートは、山頂近くで道が消失しているからである。北麓ルートは、猿橋小学校の西の脇を登る車道を南に登っていき、突き当たりの笹薮に埋もれかけた柵にある出入口が登り口となっている。小学校北側の県道脇には「天王山参道」と書かれている。前述の柵を入っていくと、西に登っていくルートとなり、その後は城山の北西の尾根を直登するルートとなる。途中に小祠を祀った神社があるが、その先は岩場の登りとなる。途中に傾斜のきつい登りもあり、健脚者向きの城砦である。城域北端の岩場を越えると、何本かのアンテナが立つ細尾根の平場があり、その背後に堀切がある。その先をちょっと登れば主城部に至る。猿橋の城山は頂部に主郭を置き、北に二ノ郭、北西に腰曲輪を配置し、東にやや降ったところに東郭がある。いずれの曲輪もきれいに削平されており、主郭の後部には櫓台のような土壇があり、ここに三角点が設置されている。主城部は杉林で覆われていて眺望が利かないが、城域北端の岩場は物見台であったらしく、ここからは岩殿城と駒橋御前山砦を間近に見ることができる。城砦としては規模が小さいが、ここも普請の手はしっかりと入れられており、重要な軍事施設であったことがうかがわれる。
主郭の櫓台状の土壇→DSCN6309.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.607164/138.982383/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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駒橋御前山砦(山梨県大月市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6217.JPG←山頂の御前岩と富士山
(2021年2月訪城)
 駒橋御前山砦は、歴史不詳の城砦である。『甲斐国志』では、郡内地方に多い「御前山」と呼ばれる山は、いずれも烽火台跡であろうとしており、駒橋御前山砦も烽火台跡と考えられている。但し『甲斐の山城と館』では、駒橋御前山砦がかなり高所に築かれていることから、単なる桂川流域での情報伝達ではなく、桂川流域から山影になる地域へ情報伝達する必要性からこの山が選ばれたと推測している。即ち、小沢川の谷筋から朝日地区・都留地区への重要な間道があり、その道筋の村々への伝達が必要であったとの見解を示している。

 駒橋御前山砦は、標高730m、比高380mの峻険な山上に築かれている。北西の谷筋の奥の標高400m地点まで車で行くことができ、そこから国土地理院地形図にも描かれている登山道が整備されているので、迷わず登ることができる。ちなみに標高400m地点までのアクセスは、大月バイパス駒橋交差点西側のオーバーブリッジの道を登るのが良い。この道は一部未舗装路となるが、途中からまた舗装路になり、道幅もしっかりしている。一方、駒橋交差点の50m東にも登道があるが、このルートは道幅が狭くSUVやミニバンは通ることができないだろう。
 車道の奥の登り口(厄王山の鳥居がある)から高さ150m程登ると、駒橋御前山の北尾根に到達する。ここに浅い片堀切が穿たれている。そこから更に登っていくと、厄王山の祠を経由して駒橋御前山の西の尾根に至る。砦はそのすぐ目の前にある。頂部に南北に長い主郭を置き、その北に舌状の二ノ郭、また主郭の西斜面に腰曲輪と、西尾根に三ノ郭を配置した縄張りとなっている。主郭の背後には御前岩と呼ばれる岩塊があり、そこが山頂となる。御前岩からの眺望は最高で、富士山もよく見えるし、桂川流域も一望できる。自然の岩塊のままなので、そのまま物見として使われたのだろう。主郭内部には塚状の土壇と穴蔵状の窪地がある。二ノ郭は主郭と切岸で区画され、西に竪堀が落ちている。二ノ郭の北は自然の細尾根である。主郭西の腰曲輪は、中間に竪堀状の一段低い窪地があり、即ち曲輪内部を段差で区画している。三ノ郭の基部の南北には竪堀が落ちている。遺構としてはこれだけで、簡素な城砦であるが普請は明瞭である。
二ノ郭と主郭切岸→DSCN6243.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.602070/138.960282/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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比志城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6120.JPG←二ノ郭の上にそびえる主郭
(2021年2月訪城)
 比志城は、比志の城山、比志の烽火台とも呼ばれ、塩川流域に築かれた烽火台の一つである。ここから信州峠を越えて信濃佐久に通じる小尾街道が通り、南には大渡烽火台獅子吼城、北には前の山烽火台があり、信濃の情報を伝達する烽火通信の重要な中継地点でもあった。近くの比志神社の造営に関係したのは土豪の日向大和守是吉の一族とされ、東麓の徳泉寺には日向大和守兼繁の墓があるので、比志城も日向氏との関係が深いと考えられている。

 比志城は、徳泉寺の北東にそびえる標高909.6m、比高130m程の城山に築かれている。市の史跡となっているが、現在明確な登道は途絶している。徳泉寺の奥に登っていく林道の途中から薮を突っ切って北にトラバースし、背後の尾根に取り付いて登れば城に至る。南北2郭しかない小城で、尾根を登っていくと最初に現れるのが舌状の二ノ郭である。その上にそびえるのが主郭で、不等辺四角形をしており、秋葉神社と三角点がある。二ノ郭に通じる虎口にわずかに土塁の痕跡があるが、ほとんどただの平場である。比志城は大渡烽火台よりも普請はわずかで、城というより単なる烽火台という方が合っていると思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.845013/138.492697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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大渡の烽火台(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6094.JPG←土塁のある主郭
(2021年2月訪城)
 大渡の烽火台は、塩川流域に築かれた烽火台の一つである。ここから信州峠を越えて信濃佐久に通じる小尾街道が通り、また南の小森川上流の岩下集落から観音峠を越えて御岳方面に通じる間道があり、それらを押さえる交通の要地であった。烽火台のある山の背後を鳥井峠が通っており、峠道を押さえる砦でもあり、小尾衆が管掌したと推測されている。ここから南には獅子吼城、北には比志城前の山烽火台があり、信濃の情報を伝達する烽火通信の重要な中継地点でもあった。

 大渡の烽火台は、塩川曲流部に東から突き出た城山に築かれている。県道23号線の鳥井坂トンネルの上に当たる。東の尾根鞍部を貫通する鳥井峠の古道が残っており、そこから尾根に取り付いて登れば城域に至る。山頂に東西北の三方を土塁で囲んだ細長い主郭を置き、その東尾根に何段もの腰曲輪を築いている。主郭内には秋葉社などの祠5基と石灯籠1基がある。また主郭の西側には堀切が穿たれ、その先に細尾根が伸びている。堀切を南に下ると主郭の下を迂回する武者走りが残っており、東側の腰曲輪に通じている。小規模な城砦であるが普請は明瞭で、重要な役割を負っていたことがうかがわれる。
主郭西側の堀切→DSCN6093.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.843186/138.482312/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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獅子吼城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5827.JPG←二ノ郭外周の石積み
(2021年2月訪城)
 獅子吼城は、北条・徳川が争った天正壬午の乱で、徳川勢が攻め落とした城である。徳川方の記録には江草小屋と記載されている。元々、鎌倉末期には信田小右衛門実正・小太郎実高父子の居城であった。応永年間(1394~1428年)には武田信満の3男江草兵庫助信泰(信康)の居城となった。しかし信泰は若くして没し、その跡を弟の今井信景が継ぎ、以後今井氏が続いた。1532年、武田信虎は獅子吼城を落城させ、城主今井信元は信虎に臣従した。武田信玄の時代には烽火通信の重要な中継地点であった。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に武田遺領をめぐって北条・徳川が争った天正壬午の乱の際には、若神子城に本陣を置いた北条氏が、後方守備と信州峠を越える街道を扼する拠点として兵を置いて押さえていた。しかし徳川勢との長期対陣中の9月初旬、武田氏遺臣の津金衆小尾監物祐光・津金修理進胤久らと服部半蔵正成率いる伊賀衆で構成された徳川方の別働隊によって奇襲されて陥落した。北条方は直ちに3000余の軍勢で奪還を図ったが、津金衆・伊賀衆は逆に不意打ちして撃退した。これに先立って大豆生田砦が陥落しており、更に獅子吼城の失陥によって北条方の中尾城は徳川方に囲まれて完全に孤立することとなった。逆に徳川方は獅子吼城を確保したことで、信州峠を越えて佐久方面へ侵攻することが可能となり、佐久の北条方諸城を攻略して北条方の補給路を断った。更に真田昌幸の離反によって窮地に陥った北条氏は、徳川氏と和睦して乱が終結した。

 獅子吼城は、塩川東岸にそびえる標高788.8m、比高140m程の城山に築かれている。以前は東の尾根から登れたらしいが、現在は西麓から新しい登山道が整備されている。岩山に築かれた城であるため、城内と周辺には多数の石が散乱しており、石垣も多数散在している。但し一部を除いて積み方は乱雑なものが多いので、あまり石積み技術を持たなかった北条勢力が、城の防備を強化した際に築いたものとも考えられる。縄張りは長円形の主郭の周囲に二ノ郭を廻らし、南西と北西の尾根に腰曲輪群を築いている。これらの切岸には石積みが多数見られ、石段で城道を構築しているため、城内通路がよく残っている。北東の腰曲輪群の先には円弧状横堀が穿たれ、堀は南側で一直線状に降っている。この横堀は、末端に綺麗な枡形虎口が構築されており、城内通路を兼ねていたことがわかる。横堀の北側下方にも何段かの腰曲輪が築かれ、竪土塁・竪石塁が見られる。城の背後に当たる東尾根にも曲輪群と堀切がある他、北側斜面に大きな竪堀も落ちている。獅子吼城は、「小屋」と言われるほど小規模な城ではなく、縄張りも比較的技巧性があり、中々見応えがある。
石積みのある腰曲輪群→DSCN5867.JPG
DSCN5904.JPG←北東の円弧状横堀
竪堀→DSCN5999.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.818570/138.465446/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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旭山砦(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5731.JPG←主郭虎口
(2021年2月訪城)
 旭山砦は、1582年の武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際に、小田原北条氏が築いた陣城である。元々この地には武田氏の烽火台があったと言われる。本能寺の変が起きると、神流川の戦いで織田氏の部将滝川一益を破った北条氏直は、上州から佐久へ侵攻し、川中島での上杉勢との対峙を経て、甲斐・信濃の徳川勢を撃破するため大門峠から諏訪に入り、南下して8月6日に甲斐の若神子城に本陣を置いた。一方、徳川家康は同月10日、新府城に本陣を進めて北条の大軍と対峙した。以後、同年10月下旬に両者で和睦が結ばれるまで、2ヶ月半に渡る長期対陣となった。この間、両者によって多数の城砦が修築、或いは新造された。旭山砦は、この対陣中ではなく、和睦成立後に北条方が信濃に軍を撤退するに当たって、背後を監視するために築いたと伝えられる。しかしこれを知った徳川家康は、和睦をしたばかりなのに砦を築いて敵意を示すとは言語道断と怒り、全軍に北条軍追撃の準備を命じた上で北条氏直に使者を派遣して砦普請を詰問させた。氏直は家康に陳謝し、旭山砦を放棄したと言う(平山優著『天正壬午の乱』)。

 旭山砦は、標高911.8mの旭山に築かれている。旭山は佐久往還を押さえる要地で、なだらかな丘陵地で要害性が高いとは言えないが、南の敵勢に備えるには絶好の位置にある。砦のすぐ北の尾根まで車で行くことができ、散策路もあるので訪城は容易である。南北2郭で構成され、北側が主郭、南側が二ノ郭となっている。自然地形を土塁と切岸で囲んだ城砦で、内部の削平は甘く、二ノ郭では西に向かって大きく傾斜している。主郭は北側に横堀を穿ち、南側に土塁を築いた南北に長い曲輪で、西と東には帯曲輪が廻らされている。主郭内はほとんど削平されておらず、地山のままである。南中央に虎口があって、二ノ郭に通じている。二ノ郭は直線的な塁線で囲まれた曲輪で、外周に土塁を築き、更にその外側に空堀を穿ち、南東部には横矢の張出しを設けている。前述の通り二ノ郭は西に大きく傾斜しているため、南西部の土塁・空堀も傾斜に沿って降っているため、竪土塁・竪堀状となっている。虎口は東西の中央部と南東の張出し部側方の3ヶ所に築かれている。現在残る遺構は、見るからに築城途中で放棄された状況を示しており、北条・徳川両氏の和睦成立後に短時日で築城・放棄されたことが事実であることがわかる。尚、旭山砦は散策路があるものの全体に薮が多いのが少々残念である。
二ノ郭南西の土塁・空堀→DSCN5686.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.853587/138.427187/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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源太ヶ城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5553.JPG←主郭群
(2021年2月訪城)
 源太ヶ城は、甲斐源氏の祖新羅三郎義光の孫、逸見冠者黒源太清光が創築したと伝えられる。佐久往還を押さえる要衝で、戦国時代には古宮城を本拠とした津金衆が詰城としていた。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に武田遺領をめぐって北条・徳川・上杉3氏が争った天正壬午の乱の際には、若神子城に本陣を置いた北条氏の後方守備の拠点となったと考えられている。

 源太ヶ城は、大門ダムによって形成された清里湖の南にそびえる、双峰の源太山に築かれている。ウッドペッカー・キャンプ場を抜ける車道が山の南東中腹まで付いており、そこからは歩きになるが、登山道が峰の近くまで整備されているので訪城は容易である。東西に並んだ双峰にそれぞれ独立した曲輪群が築かれている。東が主郭群、西が二ノ郭群で、いずれの曲輪群も頂部の曲輪を中心にその周囲にわずかに削平された腰曲輪・段曲輪を連ねただけの簡素な構造で、普請もささやかなものである。主郭群は、北東と南東の二方向に段曲輪群が築かれている。二ノ郭群は北西の尾根にだけ段曲輪群が連ねられている。両曲輪群を比較すると二ノ郭群の方が曲輪が広く、切岸などが明瞭である。以前は二ノ郭に模擬烽火台が建っていたが、現在は解体された残骸だけが残っている。この他、主郭群・二ノ郭群の間の鞍部には堀切が穿たれている。現状の遺構を見る限りでは、天正壬午の乱の際に使われたにしても、街道を押さえるための守備兵を置いただけで、積極的な普請はされていなかった様である。古い形態を留めた城である。
二ノ郭群→DSCN5571.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.870699/138.442787/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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筑前原の塁(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5501.JPG←わずかに残る土塁
(2021年2月訪城)
 筑前原の塁は、歴史不詳の遺構である。伝承では堀田筑前という武士の居宅跡とも言われるが、定かではない。城郭遺構であるかどうかも不明で、近くには甲斐国分寺・国分尼寺があり、古代甲斐国の政治・文化の中心地であったことから、古代の官邸跡との見方や古代の軍団駐屯地の跡との見方もある。

 筑前原の塁は、一宮西小学校の南に遺構の一部が残っている。往時は東西約140m、南北約90mの範囲に縦横に土塁が残っていたというが、現在はわずかな範囲に二重土塁が残存しているに過ぎない。残っている土塁も未整備の竹薮になっているので、全体形状はよくわからない。謎の多い遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.647035/138.680645/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:塁跡
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小山城(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5463.JPG←南東の隅櫓台
(2021年2月訪城)
 小山城は、武田氏の一族穴山氏が城主であった城である。1450年には穴山伊豆守が小山城主で、武田信重が黒坂太郎を討伐中に、小石和の信重館を攻撃し、信重を自刃に追い込んだ。その後、1504年には穴山伊予守信永が小山城主であり、1523年3月に鳥坂峠を越えて侵入してきた南部下野守と花鳥山で戦った後、小山城で防戦したが、二ノ宮常楽寺へ落ち延びて自刃した。その後、小山城は南部氏に守られていたが、1548年に罪を得て城を捨て、小山城は一旦廃城となった。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際には、御坂城から徳川勢の背後を窺う北条氏の別働隊(北条氏忠隊)に対し、新府城に本陣を置いた徳川家康は鳥居彦右衛門元忠に小山城を修築させ、騎馬130・雑兵600人をもって守らせたと言う。元忠は、小山城から出撃して御坂城の北条勢を黒駒合戦で討ち破り、徳川氏の優勢を決定付けた。

 小山城は、笛吹川の支流浅川扇状地の北端の緩斜面上に築かれている。この地は、鎌倉街道の通る御坂路と鳥坂峠を越える若彦路が南北を通り、西にある中道往還(甲斐・駿河を結ぶ重要街道)にも近い交通の要衝である。大土塁で囲まれた方形城で、南辺の土塁の一部が削られているものの、遺構がよく残っている。市の史跡に指定され、公園化されている。東側に虎口が開かれ、外周には空堀がよく残っている。空堀の外には、東以外の3面に土塁も築かれていて、いわゆる比高二重土塁となっている。特に北側では、外土塁と空堀は周りの平地より高い位置に築かれていて、腰曲輪の様になっている。北西と南東の角には隅櫓台が築かれ、特に南東の櫓台は東に張り出して大手虎口に対して横矢を掛けている。なお、大手虎口には石組が残っていると解説板に書かれているが、どれのことか今一つよくわからなかった。
北側の空堀→DSCN5436.JPG
DSCN5442.JPG←西側の比高二重土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.617980/138.656548/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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勝山城(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5360.JPG←丘陵東側の堀跡
(2021年2月訪城)
 勝山城は、甲斐・駿河を結ぶ中道往還を押さえる交通の要地に築かれた城である。郡内の勝山城と区別するため、曽根の勝山城とも呼ばれる。永正年間(1504~21年)に甲斐守護武田信縄の異母弟油川彦八郎信恵・同四郎縄美が勝山城に拠ったと伝えられる。信縄の父信昌は信恵を後継者に望んだが、信縄はクーデターを起こして実力で家督を継ぎ、信昌は隠居した。しかしその後も油川氏との間で家督をめぐる争乱は続き、一旦和睦するが、信縄が1507年に病死すると内訌が再燃し、結局1508年10月に信縄の後を継いだ若き信虎によって油川氏は滅ぼされ、乱が終息した。1515年、上野城を拠点に西郡一帯に勢力を持っていた庶流の大井信達・信業父子は駿河の今川氏親の援助を受けて、信虎に反抗した。信虎は大井氏討伐のため上野城を攻撃したが、大敗した。また大井氏を支援した今川勢は、郡内の吉田城や中道の勝山城に拠って信虎方に攻撃を加えた。しかし1517年、信虎は勢力を盛り返し、勝山城の今川勢を孤立させ、今川氏と武田氏が和睦し、大井氏も信虎に降った。1521年9月、今川氏の部将で遠州土方城(高天神城)主福島正成が1万5千の大軍を率いて甲斐へ侵攻したが、この時勝山城は今川勢に占拠されている。時代は降って1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際には、中道往還を通って甲斐に入った徳川家康が、勝山城を修築し、服部半蔵に伊賀組を添えて守らせたと言う。

 勝山城は、標高271m、比高20m程の独立した低丘陵に築かれている。丘陵の東側は果樹園担っているが、それ以外は未整備の薮に埋もれている。南から果樹園となった腰曲輪を登る道があり、それを登っていくと丘陵の東側を南北に区画する幅広の空堀に至る。空堀の西端に虎口があり、その上に二ノ郭、更に先に主郭がある。主郭と二ノ郭は段差だけで区画されている。主郭はほとんど自然地形に近く、郭内はお椀状に傾斜している。主郭・二ノ郭の外周には腰曲輪が築かれているが、ほとんどが激薮に埋もれており、二ノ郭周囲の腰曲輪だけが果樹園となっていて形状が確認できる。北側の腰曲輪には竪堀があるらしいが、遠くから薮が凹んだ形になっていることでわかる程度である。勝山城は、歴史的に重要な城であるが、あまり大規模に普請された形跡がなく、縄張りにも見るべきものが少ない。ちょっと残念な城である。
虎口跡→DSCN5377.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.602402/138.596038/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


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浅利与一館(山梨県中央市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5318.JPG←薮に埋もれた館跡碑
(2021年2月訪城)
 浅利与一館は、源平合戦で名高い浅利与一義遠の居館である。義遠は、甲斐源氏の源清光の十一男で、弓の名手であり、『平家物語』では壇ノ浦の戦いで遠矢で勇名を馳せた。佐奈田与一(義忠)・那須与一(宗高)とともに「三与一」と呼ばれたとされるが、那須与一については実在が証明されていない。浅利与一は、源頼朝の奥州合戦にも従軍して軍功を挙げた。

 浅利与一館は、浅利川西岸にある丘陵の北端にあったらしい。丘陵先端が一段低く抉れた台地となっていて、ここが居館伝承地となっている。北側の県道29号線脇に館跡の石碑があり、登道が付いているが、途中からは薮道になっていて、館跡の台地も耕作放棄地で一面の大薮に覆われている。薮の中にも館跡の石碑があるが、倒木で裏の解説文全体が見れないほど未整備となっている。台地内部は何段かの平場に分かれているが、薮がひどくて形状を追いきれない。台地の東端部に切通し状の登り口もあったが、これは耕作地の登道だったと思われ、遺構かどうかは不明である。結局の所、平場以外に明確な遺構は確認できなかった。
館跡の台地→DSCN5321.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.576349/138.549496/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新版 平家物語(一) 全訳注 (講談社学術文庫)

新版 平家物語(一) 全訳注 (講談社学術文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/04/11
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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最勝寺砦(山梨県富士川町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5185.JPG←二ノ郭背後の堀切
(2021年2月訪城)
 最勝寺砦は、歴史不詳の城砦である。古くから亭候(ものみ)を置いた場所と推測されている。

 最勝寺砦は、畔沢川と三枝川の合流点に西から突き出た比高120m程の山稜上に築かれている。南を通る県道420号線から、擁壁に架かった鋼製階段を登り、そこから山道を登っていけば砦に至る。但し階段の上は、尾根上に到達するまで急斜面で落ち葉が多く道も崩れている。従って滑落の危険性があり、キャッスリング上級者向けの城であろう。尾根上には緩斜面が広がっており、いくつかの平場に分かれ、部分的に石積みが見られる。これらは三ノ郭群と考えられるが、昭和期まで耕作地が広がっていたので、どこまでが往時の遺構で、どこからが耕作による改変なのかはよくわからない。しかし形状としては城の腰曲輪の雰囲気を漂わせており、往時の曲輪をそのまま耕作に転用している可能性もある。三ノ郭群の奥には斜面がそびえ、その上に物見台状の二ノ郭が築かれている。その裾に当たる、三ノ郭群の西端部にも石積みが見られる。二ノ郭は、後部に土塁を築き、背後に堀切を穿った独立性の高い物見台で、周囲に腰曲輪も築かれている。本格的な城域はここから始まる。堀切の西側には尾根上に曲輪が続き、奥の一番高い所に主郭がある。主郭の背後の鞍部には浅い二重堀切が穿たれている。その先の尾根にも掘切が穿たれて城域が終わっている。一方、主郭の南側には腰曲輪が付随しており、ここから南斜面に多数の腰曲輪群が築かれている。ここにも石積みが散在しているが、耕作に伴うものかどうかははっきりしない。以上が最勝寺砦の遺構であるが、各所に残る石積みは縄張り的には不合理はなく、往時も砦の番士によって耕作されていた可能性も考えられ、遺構である可能性も十分あると思う。
主郭背後の二重堀切→DSCN5219.JPG
DSCN5266.JPG←南腰曲輪群の石積み(耕作地跡?)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.551179/138.441821/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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須沢城(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5094.JPG←城跡とされる広い緩斜面
(2021年2月訪城)
 須沢城は、1350年に生起した室町幕府の内乱「観応の擾乱」の際に、高師直の一族高播磨守師冬が滅亡した城である。城主は、当時西郡地方を支配していたと思われる逸見孫六入道と言われている。これより先、足利尊氏の次男で幼少の基氏が関東の押さえとして鎌倉府に置かれ、その執事として尊氏党の高師冬と直義党の上杉憲顕の2人が就いていた。しかし観応の擾乱が生起して両党が争い始めると、関東でも1350年11月12日、上杉憲顕の子能憲(師直に殺された上杉重能の養子)が常陸国信太荘で師冬討伐に挙兵した。12月1日、憲顕も守護を務める上野国に下向して挙兵した。坂東八平氏・武蔵七党らは皆上杉方に付いた上、旗印であった基氏を直義党に奪われたため、寡兵の師冬は甲斐国へ落ちて須沢城に立て籠もった。1351年1月4日、上杉憲将が数千騎の軍勢を率いて師冬を倒すため、甲斐へ発向した。須沢城には上杉勢と下諏訪の祝部の軍勢が攻め寄せ、3日3晩の激戦の末に1月17日に64人の武者と共に自刃したと言う。

 須沢城は、御勅使川北岸にそびえる山地の上にある標高700m付近の広い緩斜面にある。この緩斜面は一面の畑となっており、明確な遺構は確認できない。南東に石祠の祀られた塚があるが、遺構かどうかは不明である。この横には倒れた解説板があるが、解説文は既に判読できない状態である。緩斜面の最上段には善応寺があり、観音堂の脇に城主のものとされる宝篋印塔が残っている。善応寺の寺伝では、高師冬滅亡の際に善応寺も被害を受けたとあることから、南北朝期によくある寺院城郭であったのかもしれない。いずれにしても、現在では畑地の段以外に城跡を思わせるものはない。
南東にある塚→DSCN5095.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.656538/138.409796/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


高一族と南北朝内乱 (中世武士選書32)

高一族と南北朝内乱 (中世武士選書32)

  • 作者: 亀田俊和
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/03/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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湯村山城(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5038.JPG←主郭腰曲輪の石積み
(2021年2月訪城)
 湯村山城は、武田信虎が築いた山城である。『高白斎記』に1523年に信虎の命で築城されたことが明記されている。それに先立つ1519年8月~12月に躑躅ヶ崎館を築館して信虎は本拠を移し、1520年に要害城が、23年に湯村山城が立て続けに築城されている。このことは、躑躅ヶ崎館を中心とした府中防衛構想の一環として築城されたことを物語る。一方、信虎の築城以前からこの地に砦があったとの説もある。

 湯村山城は、躑躅ヶ崎館の西方2.3kmにある、標高446mの湯村山に築かれている。現在は東麓からハイキングコースが整備されており、地元の人が朝の運動で数多く登っている。城内は大きく3つの曲輪で構成されている。南に主郭・二ノ郭が東西に並び、その北側に三ノ郭が置かれている。『日本城郭大系』等の縄張図では、南西の曲輪を主郭としているが、南東の曲輪の方が高所にあるので、南東のものが主郭である。岩山を削って城としたため、各所に石積みが多数散在している。主郭・二ノ郭間は長い仕切り土塁で区画されている。主郭・二ノ郭の外周には土塁が築かれ、後部にも土塁が築かれている。二ノ郭では後部に枡形虎口が築かれ、虎口周辺には石積みが残っている。主郭・二ノ郭と三ノ郭の間は堀切で区画されている。三ノ郭には枡形虎口が堀切に接続する形で構築されているが、三ノ郭内部は岩が多く、物見以外に機能しない曲輪である。主郭の南東に虎口があり、その下方に2段ほどの腰曲輪が置かれ、塁腺に石積みがある。主郭・二ノ郭の南側にも腰曲輪が広がり、二ノ郭の西側には帯曲輪が築かれている。帯曲輪の西側下方には採石跡と思われる窪地があり、石塁もあるので遺構と勘違いしそうで紛らわしい。この他、三ノ郭の北側斜面に円弧状の腰曲輪が築かれて、尾根筋を防衛している。湯村山城は適度に整備されており、遺構が完存する一方で薮が少なく遺構が見やすい。
二ノ郭の枡形虎口→DSCN4962.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.684063/138.552318/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 山梨編

甲信越の名城を歩く 山梨編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本


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穴山氏館(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN4908.JPG←土塁らしい土盛り
(2021年2月訪城)
 穴山氏館は、武田氏の一族穴山氏の居館と伝えられる。穴山氏は、14世紀の中頃に武田信武の5男義武がこの地に分封されて穴山氏を称した。15世紀前半に南部氏の旧領であった河内地方に進出し、下山に居館を移した。『甲斐国志』によれば、次第窪・重久の間に桟敷場と呼ばれる地があり、そこが穴山氏の発祥の地であるとされる。

 穴山氏館は、七里岩台地の上の丘陵の一角にあったらしい。丘陵の西側登り口に標柱・解説板があり、そこから北東に向かって小道が伸びている。小道の先を行くと、『甲斐の山城と館』に記載されている土塁が確認できる。丘陵の北東辺縁部にも土塁らしいものが見られる。また、前述の小道は、丘陵東側で堀状になっている。これらが遺構であるかどうかは即断できないが、一応ここでは館跡の痕跡としておく。
堀状の小道→DSCN4924.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.765310/138.418272/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本



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能見城防塁(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN4688.JPG←北尾根の竪堀
(2021年2月訪城)
 能見城防塁は、新府城北方に築かれた外郭線である。築城時期には2説あり、武田勝頼が新府城を築城した際に、新府城の北方からの敵を想定して一緒に構築したとするもの、或いは、天正壬午の乱の際に新府城に本陣を置いた徳川家康が、若神子城を中心とする北条氏直の大軍に備えて構築したとするもの、という見解がある。また防塁の中で一番東の端に位置する堂坂砦は家康が北条勢に備えて築いたと伝えられているが、これも武田氏の防塁を修築したものとの見解もある。いずれにしても1581~82年にかけてのごく短時日の間に築城されたものと考えられている。

 能見城防塁は、七里岩台地の上にある標高590mの山を中心として、台地を分断するように東西に長く築かれている。能見山の山頂には防塁の中心となる能見城があったとされるが、後世の改変が多く、明確な遺構は確認できない。防塁は、現在残っているのは6つの区域に分かれる。
 一番東にあるのが前述の通り堂坂砦で、車道脇に解説板が立ち、その南に堀跡や土塁らしい跡が残るが、形はあまり明瞭ではない。
 堂坂砦の西270mの所にあるのが御名方神社付近の遺構で、神社のある丘を取り巻くように空堀と土塁が廻らされている。空堀の東側は竪堀となって落ちている。
 御名方神社の西の民家・ソーラーパネルの西側に墓地があり、この墓地裏にもわずかに遺構が残っている。土塁と堀状の低地が見られるが、薮で形状がわかりにくい。
 能見城のある山の北側に残る遺構が、防塁の中核的な遺構である。山の北東から北に突き出た尾根に竪堀と連続枡形の遺構が残る。枡形は規模大きく、防塁中の重要な関門として構築されていたことがうかがわれる。ここにある竪堀は最上部で横堀となり、山の北辺を西に向かって延々と伸びている。この横堀は、中央からやや西寄りのところでクランクしており、枡形遺構と解釈されているが、近代の改変もあるようで役割が少々掴みづらい。
 能見城の山の西側の住宅地内に、車道の東西に土塁が残っており、西枡形とされる。遺構が断片的である上、改変も受けているので、往時の形状は想像するしかない。
 JR中央本線の西側の台地辺縁部にあるのが、西曲輪(西砦)とされる。北辺に低土塁が残り、北斜面に腰曲輪が数段見られる。西曲輪の郭内は、平坦な平場が広がっている。南端部は幅広の土塁となっている。

 能見城防塁は、全体に遺構は良く残っているが、御名方神社付近以外は薮が多く、ちょっと残念な状態である。特に山の北尾根の連続枡形遺構は出色のものであり、今後整備されて保存されていくことを望みたい。
御名方神社周りの横堀→DSCN4638.JPG
DSCN4723.JPG←北尾根の連続枡形の土塁
山の北辺の横堀→DSCN4750.JPG
DSCN4770.JPG←北辺横堀の屈曲部
西枡形の土塁→DSCN4842.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【能見城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.751101/138.418422/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【堂坂砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.754671/138.425138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【御名方神社付近の遺構】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.754619/138.422177/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【墓地裏の遺構】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.754427/138.420439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【北尾根の竪堀・連続枡形遺構】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.752842/138.418744/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【西枡形】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.749847/138.416040/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【西曲輪】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.749482/138.413572/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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新府城(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN4237.JPG←大手虎口の丸馬出
(2021年2月訪城)
 新府城は、甲斐武田氏最後の居城である。武田氏の居城は、信虎による甲府開府以来躑躅ヶ崎館にあったが、長篠合戦で大敗した後、迫りくる織田・徳川の脅威に対抗するため、武田勝頼の命で1581年2月に築城が開始された。この地への築城の献策は、武田親族衆の重臣穴山梅雪によると言われ、普請奉行には真田安房守昌幸が任じられた。勝頼や昌幸の書状によれば起工の日は2月15日、領国内に10軒に1人の割合で30日間の人夫を供出させる総動員体制で、昼夜兼行の突貫工事が行われた。その最中の3月22日には遠江の要衝高天神城が落城し、武田氏を取り巻く情勢は更に緊迫化した。しかも勝頼は、高天神城への後詰めを行わず見殺しにしたことで、その権威は大きく失墜した。9月にはほとんどの築城工事が完了し、勝頼はその落成を友好諸国に披露した。勝頼が新府城へ移転しようとしていた矢先、北条氏家臣で伊豆戸倉城主笠原新六郎範定(北条家筆頭家老松田憲秀の次男)が武田方に降伏してきた為、その仕置のために伊豆に出馬し、帰国後の12月24日に新府城への移転を決行した。躑躅ヶ崎館のあった古府中を去るに当たって、心残りの無い様に館や家臣屋敷を悉く打ち壊したと言う。また城下町を形成する余裕がなく、家臣団の屋敷を集住させるだけで精一杯であったが、一方で城の北方に能見城を中心とする外郭線を築き、城のある七里岩台地を分断する長城を備えていたとされる。勝頼は1582年の正月を新府城で迎えたが、正月早々に武田親族衆の木曽義昌が織田信長に通じて反逆した為、1月28日に木曽義昌追討の兵を発し、自らも2月2日に新府城を発って諏訪上原城に本陣を置いた。一方、武田領侵攻の準備を進めていた信長は、木曽氏の反乱を契機として2月3日に侵攻作戦を開始した。この時信長は朝廷を動かして、勝頼を朝敵と認定させることに成功し、武田討伐の大義名分を整えた。織田軍の侵攻が開始されたその日、更に勝頼にとって不運なことに浅間山が大噴火を起こし、人心が激しく動揺した。こうして、ただでさえ疲弊していた武田方の前線はまたたく間に崩壊し、重臣の穴山梅雪も駿河江尻城を徳川家康に明け渡して降伏した。勝頼は、上原城から急いで新府城に戻った。3月2日、実弟の仁科信盛らが守る高遠城が激戦の末に落城すると、新府城へ織田軍が迫ってくる状況となった。勝頼は評定を行い、未完成の部分があった新府城での防戦は無理と判断、真田昌幸の岩櫃城撤退策と小山田信茂の岩殿城撤退策を受けて、最終的に岩殿城へ退くことを決断、3月3日早朝に新府城に火を放って岩殿城に向かった。勝頼の新府城在城は、わずか3ヶ月余であった。結局、笹子峠に差し掛かったところで小山田氏の裏切りに遭い、進退窮まった勝頼は3月11日に日川渓谷沿いの田野で北条夫人・嫡子信勝らと共に自刃し、甲斐の名門武田氏は滅亡した。しかしわずか3ヶ月後に織田信長が本能寺で横死し、武田遺領の織田勢力は一挙に瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。この時、若神子城に本陣を置いた北条氏直に対して、徳川家康が本陣を置いたのが新府城である。数カ月に及ぶ長期対陣となったが、黒駒合戦など各地の局地戦で勝利を挙げた徳川勢が北条の大軍を逼塞させ、また北条方にあった真田昌幸を寝返らせたことで、家康は北条勢の背後を脅かすことに成功した。しかし寡兵の徳川勢に北条の大軍を撃破する力はなく、結局徳川方の優勢下で北条氏と和睦し、乱は集結した。こうして新府城は、その短い役目を終えた。

 新府城は、七里岩台地の西縁にある比高60m程の独立丘陵に築かれている。山頂に広大な面積を持った長方形の本丸を置き、その西側に南北に並んだ方形の区画を挟んで二ノ丸がある。ちなみに南北に並んだ方形区画の内、北側のものは本丸西虎口の外枡形となっている。二の丸も長方形の曲輪で、南には馬出しとされる土塁の囲郭があり、南に食違い虎口が築かれている。本丸の南下方には仕切り土塁で東西に区画された三の丸が広がっている。しかし三の丸は薮が生い茂り、北東に虎口があるが確認は困難である。三の丸外周には腰曲輪・帯曲輪が築かれ、南東に大手虎口が築かれている。大手虎口は、前面に丸馬出と三日月堀を設け、その内側に土塁で方形の区画を築いている。この方形区画は、動線は屈曲せず、内側・外側の門跡が一直線に配置されている。この形状は、搦手の乾門跡も似た構造であり、躑躅ヶ崎館の虎口も同じ構造である。この点では、武田氏の虎口構造は近世城郭に見られる枡形虎口とは構築思想が異なっていることがわかる。一方、二の丸から搦手虎口に至る間には帯曲輪や井戸跡が残っている。丘陵最下方の北から東にかけては帯曲輪が廻らされ、特に北側では土塁が築かれ、2ヶ所に出構と呼ばれる突出部が、外周の堀跡に突き出している。出構の機能には諸説あるが、鉄砲陣地と考えるのが自然だろう。搦手には東西に細長い独立郭が設けられ、南は土橋、東は木橋で連絡している。但し、木橋は現在は無く、橋台だけが現存している。北側には堀跡が低地の畑となって残り、西側では水堀が現存している。これらの堀の上に切岸がそびえ、帯曲輪が構えられている。
 新府城は、一つ一つの曲輪が大きく、いずれの曲輪も土塁で囲まれて防御を徹底していたことがわかる。中でも北面は重厚な防御線を構築しており、ここで最後の決戦を挑んでいたら、どれ程の損害が織田軍に出たか、想像したくなる。しかし東側の防御は脆弱で、その点が新府城が未完成であったとされる所以であろう。

 尚、新府城は国の史跡となっているが、城が大きいため整備の手を行き渡らせることができず、ところどころ薮が多くなっている。しかも過去に樹木の全面伐採と薮払いがされたが、その後未整備が続いたため、現在では進入困難な薮も多い。中でも三の丸・二の丸南の馬出し・本丸西虎口の外枡形は激薮で、かつ茨が多く辟易する。以前にも他の城の記事で書いたが、継続的な整備ができないならば、樹木の全面伐採はやめて欲しい。樹木がなくなると日当たりが良くなって、雑草が猛烈な勢いで伸びて、人の背丈を超えるほど茂ってしまうからである。間伐され手入れされた山林のままにしておくのが、城にとっては良いと思う。
広大な本丸→DSCN4380.JPG
DSCN4524.JPG←搦手の乾門跡の方形区画
北側に突出した西出構→DSCN4547.JPG
DSCN4531.JPG←北西の水堀と切岸

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.735653/138.425063/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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白山城(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN4045.JPG←西斜面の放射状竪堀
(2021年2月訪城)
 白山城は、鍋山砦とも呼ばれ、武田氏の支城である。創築は甲斐源氏武田氏の初代信義によるとされ、武田庄に築いた居館に対する要害城(詰城)として築いたと伝えられる。信義が失意の中で没し、孫の信長が伯父一条忠頼(信義の嫡男)の跡を継ぐと、信義の遺領は一条氏が相続した。信長から2代後の時信の諸子は分立して武川衆という地域武士団となって蟠踞した。その中で十郎時光が青木氏を名乗った。青木氏8代信種は、武田信縄・信虎・信玄3代に仕え、鍋山砦(白山城)を守って1541年に没したと言う。青木氏から庶流の山寺氏が分出して鍋山を領有すると、鍋山砦は山寺氏が守備することになった。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に天正壬午の乱が生起すると、武川衆は徳川方に付いて活躍しており、山寺氏も徳川氏に臣従しているので、白山城も徳川方の防衛網の一部として機能したと推測されている。

 白山城は、標高561.1mの鍋山(城山)に築かれている。城は国指定史跡となっているので、南東麓の白山神社脇から登道が整備され、城内も薮払いされているので、遺構をよく確認することができる。ほぼ四角形をした主郭を中心に、北と東に腰曲輪を廻らし、南に二ノ郭、北の腰曲輪の先に堀切を穿って、土橋で連結した台形状の三ノ郭を配置している。主郭・二ノ郭・三ノ郭はいずれも枡形虎口を備え、特に主郭と三ノ郭では内枡形が明瞭である。主郭は全周を土塁で囲み、主郭の北側の腰曲輪にも土塁を築いている。二ノ郭は、東西で2段の平場に分かれ、下段郭は土塁を廻らし、上段郭は主郭との間に横堀を穿ち、横堀西端部を土橋で連結している。三ノ郭の北側と二ノ郭の西の尾根にも堀切が穿たれ、守りを固めている。西尾根には合計2本の堀切があるが、内堀は堀底が平坦で曲輪となっている。この城で出色なのは、武田氏の山城によく見られる放射状竪堀で、やや小さく浅いものの形はよく残っており、前述の堀切と組み合わせて効果的に山腹の敵兵移動を遮断していることがわかる。南東の大手道では、2本の竪堀で挟まれた扇形の斜面に土塁と横堀で木戸口を防御し、また北の搦手では、三ノ郭に向かって右は土塁、左は竪堀群で障壁を作っている。また三ノ郭の両翼には横堀を穿ち、枡形虎口と組み合わせて巧妙な防御を施している。白山城は、小規模な城ながら、戦国後期の武田流の築城技術が遺憾なく投入されており、出色の城である。
 尚、白山城の南北には北砦(北烽火台)南砦(ムク台烽火台)が残っており、白山城と共に国指定史跡になっている。
三ノ郭の内枡形→DSCN4018.JPG
DSCN4094.JPG←二ノ郭虎口~主郭虎口の導線
二ノ郭上段郭の横堀・土橋→DSCN4155.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.700828/138.422016/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


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古渡城山(山梨県都留市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3938.JPG←堀切跡の窪地
(2021年2月訪城)
 古渡城山は、古渡城山の烽火台とも言い、歴史不詳の城砦である。『甲斐国志』によれば陣鐘を懸けて東は谷村へ、また西は吉田・船津へ急を告げたとされる。

 古渡城山は、鹿留川曲流部に突き出た標高583mの独立丘に築かれている。主郭に住吉神社があるので参道が整備されており、登城はたやすい。L字型の丘陵上に築かれており、北の先端部に主郭、その南に二ノ郭、東に突き出た尾根先端に三ノ郭が築かれている。主郭の西辺には土塁が残り、主郭の先の尾根にも数個の小郭があり、主郭の付け根にわずかな堀切跡の窪地が見られる。二ノ郭にも先端部近くの両側に土塁が築かれ、二ノ郭南側に段状に腰曲輪群があり、東斜面にも明確な腰曲輪群が見られる。二ノ郭から三ノ郭に至る途中の尾根も段々になっていて、三ノ郭の周囲にも腰曲輪が確認できる。私はこれらの腰曲輪群は遺構と考えているが、『甲斐の山城と館』によれば「全山耕作されているのではっきりしない点が残される」としており、畑地跡である可能性もある様だ。いずれにしても比較的小規模な城であるが、谷村と富士吉田方面を繋ぐ中継地点として重要な役目を負っていたことがうかがわれる。
二ノ郭東側の腰曲輪群→DSCN3916.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.534173/138.877133/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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勝山城(山梨県都留市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3857.JPG←本丸北斜面の石垣
(2021年2月訪城)
 勝山城は、平地の谷村城に対する詰城である。築城時期は不明で、『甲斐国志』では1594年に浅野長政の家老浅野左衛門氏重が築いたとしているが、近年では1532年に小山田越中守信有が歴代の居館中津森館から谷村城を築いて移った際に、勝山城も築城されたのではないかと推測されている。いずれにしても越中守信有以降、小山田氏は出羽守信有・出羽守信茂と3代に渡り谷村を拠点として郡内の支配に当たった。1582年の武田氏滅亡の際、信茂は武田勝頼を裏切って織田信長に出仕したが、処刑されて小山田氏は滅亡した。信長横死後に生起した天正壬午の乱では、小田原北条氏が郡内地方を制圧したが、徳川氏との間で和睦が成立すると、徳川氏の重臣鳥居元忠が谷村城に入城して郡内を支配した。1590年の北条氏滅亡後、徳川氏が関東に移封となると、郡内は羽柴秀勝の領地となり、その家臣三輪近家が、次いで加藤光吉・浅野氏重が相次いで谷村城に入った。その後、鳥居成次・本堂茂親の後、1633年に秋元泰朝が上州総社城から谷村城に移封となった。勝山城は谷村城と桂川に架かる内橋で連絡され、両城一体となって機能していたらしい。秋元氏支配時代には、宇治から江戸に運ばれる将軍家御用のお茶壺を保管する茶壺蔵が勝山城内に置かれた。秋元氏が3代続いた後、1704年に秋元喬知が川越城に移封となると、谷村城と共に勝山城も廃城となり、天領(幕府直轄地)となって谷村代官が置かれ、谷村陣屋が造営されて幕末まで続いた。

 勝山城は、標高571.3m、比高120m程の城山に築かれている。現在は公園となって整備されている。山頂の本丸には櫓台が築かれ、東照宮が建てられている。本丸の南側に腰曲輪状に二の丸・三の丸が築かれている。二の丸は本丸の西側まで帯曲輪となって廻らされ、三の丸も東側まで帯曲輪となって続いている。また北・東・南の三方の尾根には舌状曲輪群が配置され、各尾根の先端には大沢見張り台・源生見張り台・川棚見張り台が置かれた。勝山城には堀切が少なく、北尾根にのみ堀切が穿たれている。一方で、西から南西の山腹に横堀が延々と穿たれ、南端では竪堀となって南尾根側方を落ちており、この方面の防御を重視していたことがわかる。この他、本丸の北斜面の城道脇に石垣が築かれ、北尾根の曲輪群の城道にも石列、また二の丸から本丸への登り道にも小さな石垣が構築されている。本城部から離れた南西麓には竪堀・竪土塁があり、南の平地には外堀跡が低地となって残っている。この外堀は西側まで続いていたらしいが、現在は中央道が建設されているため破壊されている。
 以上が勝山城の遺構で、現在残る縄張りや遺構を見る限り、武田氏時代の城というより、豊臣時代の近世的山城の側面が強い様に感じた。しかし武田・北条間で軍事的緊張の強かった時期に、小山田氏が平城の谷村城しか築いていなかったとは考えにくく、横堀などはその時代の名残かもしれない。
三の丸と南の郭群→DSCN3654.JPG
DSCN3731.JPG←北尾根曲輪群の石列
西側山腹の横堀→DSCN3792.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.554426/138.903998/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 山梨編

甲信越の名城を歩く 山梨編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本


タグ:近世山城
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与縄館(山梨県都留市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3581.JPG←主郭西の空堀
(2021年2月訪城)
 与縄館は、歴史不詳の城館である。伝承では谷内(口)豊後守という武士の居館であったと言うが、その事績は不明である。郡内の領主小山田氏の本拠中津森館に近いことから、小山田氏に関連する城館との見方もある。

 与縄館は、旭川南岸の段丘上に築かれている。段丘崖に沿って東西に3つの曲輪が並んでおり、中央に方形の主郭があり、空堀を挟んで西に西郭、同じく空堀を挟んで東に東郭が並立している。主郭は前述の通り東西を空堀で分断されており、現在は畑となっている。北側には2段ほどの腰曲輪が築かれている。西の空堀は幅が広い箱堀で、北斜面では中央に土塁を残した二重竪堀となって落ちている。東の空堀は薮がひどく形状が確認できない。西郭は耕作放棄地で薮に覆われている。東郭は木が生えた空き地で、北の腰曲輪らしい平場は宅地になっている。西郭の西側と東郭の東側は、共に深い沢で隔絶されている。これらの遺構群の後ろ(南側)には防御構造がなく、そのまま緩斜面に接している。与縄館は、遺構は残っているが、後世の改変のせいもあるのか縄張りは少々中途半端である。
主郭東の空堀→DSCN3571.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.560099/138.940905/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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岩殿城(山梨県大月市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3488.JPG←馬場曲輪と富士山
(2021年2月訪城)
 岩殿城は、甲斐東部を守る武田氏の重要な支城であり、岩櫃城久能山城と並ぶ武田三堅城の一に数えられる。元々岩殿山には9世紀の末に、天台宗の岩殿山円通寺が開創されたと伝えられる。10世紀初めには三重塔、観音堂、僧房その他の建物がならび岩殿は門前町を形成した。13世紀に入ると、円通寺は天台系聖護院末の修験道場として栄えた。16世紀に入ると武田信虎が甲斐を統一し戦国大名化していく中で、相模の北条氏に対する防衛と、独立性の強かった小山田氏に対する目付的な任務を帯びて、武田氏直轄の重要な支城として岩殿山が城砦化されたと考えられている。1581年には武田勝頼の命で、荻原豊前守の寄子・同心が岩殿城の在番と普請を命ぜられている。1582年、織田信長による武田征伐が開始されると、武田氏の勢力は各地で総崩れとなり、諏訪上原城から新府城に撤退した武田勝頼は、小山田信茂の進言を容れて岩殿城を目指して退去した。しかし勝頼一行が笹子峠まで来たところで、信茂は勝頼を裏切って道を塞ぎ、進退窮まった勝頼は天目山で自刃し、甲斐源氏の名門武田氏は滅亡した。武田氏滅亡後の武田遺領は信長の支配下に入ったが、勝頼滅亡のわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死すると、甲斐・信濃を支配していた織田氏の勢力は瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が勃発した。この時、北条氏は津久井城主内藤綱秀を甲斐国都留郡に派遣し、岩殿城を接収して守備させた。天正壬午の乱は、北条・徳川両勢力が長期対陣の末に徳川方の優勢下で和睦した。甲斐を手中に収めた徳川家康は、鳥居元忠に都留郡を与え、元忠は最初岩殿城に入り、後に谷村城に移った。以後、岩殿城は歴史に現れなくなり、江戸時代初期には廃城になったと見られる。

 岩殿城は、中央高速のすぐ北側にそびえる標高634mの峻険な岩殿山に築かれている。一枚岩の大きな岩盤(鏡岩)がむき出しになった目立つ山で、その上に城が築かれている。散策路が何本か整備されているが、近年の崩落などで南中腹の丸山公園からのルートは通行禁止になっているので、北側の畑倉登山口から登城した。このルートは城の搦手だったらしく、物見台のある馬蹄形曲輪と、途中の尾根にも段曲輪数段が見られる。このルートを登り切ると山頂の主郭に至る。主郭は東西に細長い曲輪で、西側に烽火台とされる土壇があり、中心部にはテレビの電波塔が建てられている。主郭の東端には堀切2本と小郭がある。城内では堀切はここにしかないが、城の周りが絶壁で囲まれているので、堀切を必要としなかったのだろう。主郭から西に降っていくと、蔵屋敷(二ノ郭?)などの曲輪を経由し、城内で最も広い馬場曲輪に至る。馬場曲輪から上の蔵屋敷に通じる虎口は小規模な枡形を形成している。馬場曲輪は、広いが郭内に起伏があり、あまり大きな建物はなかっただろう。馬場曲輪から南東に降ると亀ヶ池・馬洗池という井戸がある。円通寺時代から使われた水の手だったのだろう。馬場曲輪の西は高台となっており、そそらく往時の櫓台で、乃木希典の石碑が建っている。更にそこから西には細尾根上の小郭と帯曲輪があり、その先に西の物見台とされる曲輪がある。その南に大岩で囲まれた細い通路の揚城戸と番所の小平場がある。この他、南中腹の丸山公園の部分も大手の曲輪だった様である。以上が岩殿城の遺構で、縄張りにはあまり技巧性はなく、山自体の持つ峻険さだけが武器の城だった様である。
主郭東側の堀切→DSCN3459.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.621678/138.949875/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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小菅城(山梨県小菅村) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1076.JPG←主郭後部の櫓台
(2020年12月訪城)
 小菅城は、この地の領主小菅遠江守信景の居城と伝えられる。信景は、武田氏13代信昌の家臣で、一族衆でもあったらしい。甲武国境の警備に当たると共に、丹波黒川金山を支配していたと言う。信景以後の歴代の居城となった。小菅氏は武田氏に仕え、信玄・勝頼の時代には侍大将・足軽大将として活躍した。しかし1582年の織田信長による武田征伐で、武田氏が滅亡すると、一族の小菅五郎兵衛尉忠元は甲斐善光寺門前で小山田信茂らと共に織田信忠に誅殺された。またその他の一族では、天正壬午の乱で徳川方に付いて郡内に進攻した北条勢を撃退した小菅又八郎信有・同次郎三郎信久・同九兵衛等があり、徳川氏の旗本となったと言う。

 小菅城は、小菅川と宮川の合流点東側の比高60m程の山上に築かれている。山間のかなり奥地にある城で、南麓の小菅小学校の校地辺りが「御屋敷」と呼ばれ、平時の居館が置かれていたらしい。その西側の保育園の脇に解説板があり、その奥から登山道が整備されている。3つの曲輪を堀切で分断した連郭式の縄張りとなっている。南端にあるのが主郭で、内部は上下2段の平場に分かれ、上段曲輪の東辺に土塁を築き、その延長上の主郭北側に櫓台を築いている。主郭の北側には堀切が穿たれ、その先に細尾根上の二ノ郭、更に堀切を挟んで、三ノ郭が築かれている。三ノ郭も上下2段の平場に分かれている。三ノ郭と北東の尾根は斜面だけで区画されている。この斜面は切岸と言うほどの傾斜はなく、現地の縄張図等では堀切とされるが、実際には堀切は確認できない。この他、主郭の外周と二ノ郭・三ノ郭の東西の斜面には帯曲輪が1段廻らされている。帯曲輪は部分的に武者走りに近いぐらい狭くなっている。主郭周囲の帯曲輪から南に降った所には小平場があり、城門があったらしい。遺構としては以上で、単純な構造のかなり小規模な城である。
主郭櫓台から見た堀切・二ノ郭→DSCN1062.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.761714/138.939704/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
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駒宮砦(山梨県大月市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0929.JPG←三ノ郭から見た堀切と主郭
(2020年12月訪城)
 駒宮砦は、御前平の烽火台とも言い、歴史不詳の城砦である。一説には、この地に土着したと伝えられる相馬氏の後裔の居城との推測もある。しかし岩殿城の後背部を押さえる位置にあることから、岩殿城の北方を防衛すると同時に、小菅・丹波山地域と岩殿城を結ぶ烽火台的役割を担っていたものと、普通には考えられている。

 駒宮砦は、葛野川曲流部に東から突き出た標高496mの山稜上に築かれている。この城へは、北東麓の駒宮集落の南端最上部から城山の北東尾根の天神峠に登る道があるのでそれを登り、尾根上の峠に出たところで道を逸れて南西に登っていくと城域に至る。東西に曲輪を並べた連郭式の縄張りで、それぞれの曲輪間を合計4本の堀切で分断した構造となっている。中央にあるのが主郭で、前後に土塁を築き、南に虎口を設け、そこから繋がる南西斜面に腰曲輪を築いている。主郭の前後は堀切が穿たれ、西に二ノ郭、東に三ノ郭が置かれている。二ノ郭は後部に土塁を伴う土壇を築いており、櫓台があった可能性がある。また二ノ郭の南西には意図が不明な短い横堀がある。或いは水の手か雨水溜めであろうか?二ノ郭の先にも堀切が穿たれ、その前に先端の堡塁が築かれている。一方、三ノ郭も北から東にかけて土塁を築き、北斜面に帯曲輪、三ノ郭の先端には堀切を穿っている。いずれの堀切もやや円弧を描く様に穿たれ、両端から竪堀をしっかり落としている。この他、各所の土塁上には礫石が散乱している。駒宮砦は、しっかりと普請された城砦で、単なる烽火台ではない。しかしそれほど堅固な構造でもないので、少数の兵で守備した繋ぎの出城と考えられる。
主郭切岸と西側の堀切→DSCN0989.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.653164/138.964938/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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大倉砦(山梨県上野原市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0826.JPG←二ノ郭の上の主郭
 大倉砦は、歴史不詳の城砦である。甲相国境に近いこの地域では、桂川・鶴川・仲間川の流域に、南から栃穴御前山砦牧野砦四方津御前山砦長峰砦・大倉砦が南北に並んで相模勢に対する防衛線を形成しており、大倉砦はその北端に当たる。現在残る縄張りからは、在地土豪層の要害と言うより、武田氏や小山田氏などによって甲斐一国の防衛構想の中で管理された砦ではなかったかと、『甲斐の山城と館』では推測している。

 大倉砦は、標高536mの要害山に築かれている。独立した円錐形をした独特な山容で、中央道からもよく見える。東の小倉集落の最上部から登道が整備されており、迷うことなく登ることができる。山頂に縦長長円形の主郭を置き、その北側以外の三方を囲むように二ノ郭を廻らし、西尾根に段状に6段ほどの曲輪群を築いている。主郭はコの字状の土塁を三方に廻らしており、郭内には秋葉大権現が祀られている。主郭からの眺望は抜群で、上野原市街から前述の諸城砦までを眼下に一望できる。主郭西側の二ノ郭からの登り口には、小さな土塁と空堀が構築されて虎口を防衛している。二ノ郭の東端には明確な内枡形虎口が形成され、その下方には小堀切が穿たれて前面の障壁としている。また西側尾根の曲輪群はきれいに削平され、曲輪群を区画する切岸や削り残しの竪土塁も明瞭である。また土塁と堀状通路を使った枡形虎口も構築されている。上野原の城砦群の中では、牧野砦と並ぶ立派な城郭遺構で、大倉砦の重要性がよく分かる。
西尾根の曲輪群→DSCN0867.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.646556/139.087365/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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四方津御前山砦(山梨県上野原市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0807.JPG←東端の物見台
(2020年12月訪城)
 四方津(しおつ)御前山砦は、四方津御前山の烽火台とも言い、歴史不詳の城砦である。甲相国境に近いこの地域では、甲斐の武田信虎と相模の北条氏綱が1524年から6年にわたって抗争を繰り返しており、軍事的緊張が強い状態が続いていた。この付近には御前山の名が付いた烽火台や城砦が多いが、これらの諸城砦はこうした情勢下で構築されたと考えられ、四方津御前山砦も国境警備の任に当たっていたと推測されている。

 四方津御前山砦は、牧野砦の西の尾根続きの標高461mの山上に築かれている。いくつか登道があるようだが、私は南西麓の登道を利用した。三角点のある主郭を中心に、東西に伸びる尾根上に曲輪を配置している。しかし西側の曲輪群は薮に埋もれ、広い平場が広がっているらしいことはうかがえるが、薮でとても入っていく気になれない。その他の曲輪も、一応段はあるが自然地形に近く、普請はささやかなものである。主郭の東の尾根鞍部には堀切があるとされるが、これも自然地形に近い。東端は高台となり、現在は電波塔が建っているが、いかにも東方を監視する物見という感じである。牧野砦と比べると随分と普請が大雑把で、どちらかと言うと村の城的な感じの城砦である。
堀切とされる尾根鞍部→DSCN0795.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.618372/139.084189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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牧野砦(山梨県上野原市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0770.JPG←堀切と東端の曲輪
(2020年12月訪城)
 牧野砦は、歴史不詳の城砦である。『甲斐国志』では郡内小山田氏が国境警備のために築いたと推測しているが、近年では上野原城主加藤氏の部将牧野氏が守備したとの説も提示されている様だ。

 牧野砦は、栃穴御前山砦から桂川を挟んで北に位置する東西に長い山稜の東半部に築かれている。南麓から東の尾根に登る道が付いており、一番東の曲輪には高圧鉄塔も立っているので、簡単に登ることができる。細尾根上に細長い曲輪を並べ、それらを6本の堀切で分断しただけのシンプルな縄張りである。城の中心になるのは山頂の主郭とその東にある二ノ郭で、いずれも前郭含めて3段程の平場で構成されている。主郭の東西は堀切が穿たれ、特に背後に当たる西側のものは岩盤を断ち切った城内最大の堀切となっている。二ノ郭も前後を堀切で防御している。シンプルな縄張りではあるが、普請はしっかりされており、堀切もしっかりと穿たれている。眼前には、先程登った鶴島御前山と栃穴御前山砦がそびえ、北東には上野原城を眼下に収める要地であることがよく分かる。尚、牧野砦の西の尾根続きには四方津御前山砦が築かれている。
主郭背後の堀切→DSCN0759.JPG
DSCN0726.JPG←二ノ郭前面の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.619349/139.094639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


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