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古城めぐり(山梨) ブログトップ
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田安陣屋(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2972.JPG←陣屋跡に建つ水上稲荷社
 田安陣屋は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗が創設した御三卿の一、田安家の陣屋である。吉宗の次男田安宗武は、1746年に甲斐・武蔵・下総・和泉・摂津・播磨6ヶ国に合計10万石の領地を与えられた。この中で甲斐に置かれたのがこの陣屋である。この地には、かつて1615年の大坂の役で戦死した旗本関金平正之の屋敷があったと言い、そのため関金平屋敷とも呼ばれる。

 田安陣屋は、水上稲荷社付近にあった。現在は遺構は湮滅しており、明確な遺構は見られない。現地解説板によれば、陣屋を囲む濠の一部が北部・西部に残るというが、稲荷社の北にわずかな水路が見られるだけであり、明確な濠跡とは感じられなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.664435/138.679841/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


徳川吉宗―日本社会の文明化を進めた将軍 (日本史リブレット人)

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  • 作者: 大石 学
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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西ノ原堡(山梨県甲州市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2899.JPG←重川に臨む西ノ原堡の段丘
 西ノ原堡は、歴史不詳の城砦である。伝承では、平安時代に古代豪族三枝守国の一族牧野氏が築いたとも、別説では遠藤某が城主であったとも言われるが、いずれも確証はない。特に三枝守国伝説については信憑性がないとされる。

 西ノ原堡は、重川東岸の段丘上にあったらしい。段丘上は改変されているため遺構は全く無く、残っているのは急崖に面した地勢のみである。大きくカーブした坂道の途中に、城址の石碑が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.688350/138.731897/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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本栖石塁(山梨県富士河口湖町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8829.JPG←信玄築石(石塁①)の石積み
 本栖石塁は、謎の溶岩石塁である。構築時期は不明だが、本栖城と関係のある遺構と推測されている。一説には武田信玄が中道往還をはじめとする国境防衛のために築いたとも、1582年の天正壬午の乱の際に徳川方によって築かれたともされるが、別説では獣を避ける猪垣や溶岩止めの石塁とする説もある。

 本栖石塁は、本栖城のある城山周辺の平地の数ヶ所に散在している。その内代表的なものを踏査した。尚、各石塁には散策路があるのでアクセスは容易である。
 まず城山北麓の中道往還脇に築かれた石塁①は、「信玄築石」と呼ばれ、鉤型にクランクした石塁である。クランクしているということは横矢を意識したものでろう。またこの石塁は、東面(駿河側)は普通に積まれているが、西面(甲斐側)は4段のひな壇状に石を積んでいる。これらのことから、この部分は街道防御のために甲斐側の勢力によって築かれたと考えてほぼ間違いないだろう。
 次に城山南麓のものを順に見ていく。石塁②は、中道往還の両側を石塁で防御した木戸口が築かれ、南側のものはL字型の石塁となっている。ここも片側だけ4段のひな壇状に石を積んでいるが、ひな壇状になっているのは①と逆で駿河側である。これは少々理解に苦しむ。
 石塁③は、石塁で外周を囲んだ方形空間となっている。関所などの建物があったのだろうか?
 石塁④は、石塁③の少し西にある。石塁で築いた大型の枡形虎口となっており、何らかの防御構造であることは明瞭である。
 石塁⑤は、国道139号線の南の平地にある。私が歩いた限りでは全長470mにも及ぶ一直線状の長塁で、結城長塁や常陸小幡城の外郭線の類例のようにも思える。ただ防御施設としては石塁の厚みが薄く、足で蹴れば簡単に崩れそうな感じである。但し、ここの石塁も1ヶ所だけわずかなクランクがあり、猪垣や溶岩止めと考えるにはちょっと疑問が残る。
 結局のところ、明確な見解を出すことはできないが、中道往還の街道防衛のために築かれた施設と考えるのが妥当なように思える。
L字型の石塁②→DSCN9072.JPG
DSCN9088.JPG←方形区画の石塁③
枡形虎口の石塁④→DSCN9113.JPG
DSCN9150.JPG←一直線の石塁⑤
石塁⑤のクランク部→DSCN9165.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【石塁①】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.473104/138.610897/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【石塁②】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.470343/138.610189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【石塁③】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.469644/138.610597/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【石塁④】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.469452/138.610210/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【石塁⑤】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.466341/138.609459/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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本栖城(山梨県富士河口湖町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8934.JPG←主郭の真っ黒な石垣
 本栖城は、武田氏が築いた甲駿国境地帯の最前線の城である。創築時期は不明であるが、天文・永禄年間(1532〜70年)には武田氏関係の文書に現れる。甲斐駿河を結ぶ重要街道である中道往還を押さえる要衝で、西之海衆と呼ばれる土豪達によって守られていたものと推測されている。1582年に北条・徳川両氏が武田遺領をめぐって争った天正壬午の乱の際には、渡辺囚獄佑(ひとやのすけ)ら九一色衆17騎は徳川氏に従属し、徳川方としてこの城を守り、北条軍別働隊の侵攻を撃退した。

 本栖城は、標高1056m、比高120mの城山に築かれている。南東麓の国道139号線脇から登道が付いており、迷うことなく登ることができる。登道が尾根上に達した後、更にしばらく尾根を辿っていくと、最初の四重堀切が現れる。この多重堀切群はなかなか見応えがある。その上には小郭1つと舌状の三ノ郭・二ノ郭が前衛として築かれており、その上に主郭がある。主郭は細長い長円形の曲輪で、城内で最大の広さがある。これらの曲輪の塁線には真っ黒い溶岩を積み上げた石垣が築かれている。真っ黒な石垣というのはちょっと特異である。主郭周辺には特に至るところに石垣が散在しているので、往時は石垣で囲まれた主郭だった可能性がある。主郭手前には小型の枡形虎口が築かれ、石塁で補強されている。主郭の後ろには細長い四ノ郭があり、その最後部には石塁で築かれた土壇があり、烽火台とされている。四ノ郭の背後の細尾根には3本の堀切が穿たれて、搦手を防御している。また主郭の北側下方には広い腰曲輪が築かれている。腰曲輪から見上げた主郭切岸の斜面には、崩落した石垣の石が散乱している。この腰曲輪の北西辺には、坂土橋状の石塁が残っている。以上が本栖城の遺構で、比較的小規模な城とは言うものの厳重な縄張りは、この城の重要性をよく示している。
 尚、この城の石垣は、どこも急斜面に築かれているので、一つ間違えれば滑落の危険もあり、撮影が大変である。
四重堀切→DSCN8859.JPG
DSCN8993.JPG←腰曲輪の坂土橋状の石塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.472790/138.608730/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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松山館(山梨県富士吉田市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8807.JPG←土塁跡に建つ小祠
 松山館は、郡内小山田氏の家臣小林氏の居館である。1539年に小林刑部左衛門が築館したと伝えられる。1582年の織田信長による武田征伐の際、小林和泉守は武田勝頼を裏切った小山田信茂と共に誅されたと言う。
 松山館は、現在松尾神社の境内となっている。松尾神社は、1523年に小林和泉守二郎実吉が小林家の守護神として創立したと伝えられている。境内南側にはわずかに土塁跡が残っている。土塁上には、小林和泉守の霊を祀った小祠がある。また境内は周囲よりわずかに高くなっており、屋敷地であったことをうかがわせる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.486419/138.795680/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


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天上山烽火台(山梨県富士河口湖町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8762.JPG←主郭
 天上山烽火台は、歴史不詳の城砦である。伝承や史料は不明ながら、『日本城郭大系』で烽火台として紹介されている。山頂からは、西は河口湖畔の村々、北には御坂城のある御坂峠、東には吉田の市街地が一望できることから、富士北麓と国中地域とを結ぶ烽火台網の内の重要な位置を占めていたと推測されている。また『甲斐の山城と館』では名称の天上山について、詰城や砦の山を「御天上」「御殿上」「御殿城」と呼ぶ例が多いことから、烽火台が置かれた可能性が高いと推測している。

 天上山烽火台は、河口湖畔の南東にそびえる標高1139.9mの天上山にある。比高300mもある山だが、ロープウェイがあるので苦労することなく登ることができる。ロープウェイを降りると、天上山の西の尾根上にある展望施設がある。この辺りは観光施設建設で大きく改変されている。ここから東に小道を登っていくと、途中の平場に烽火台を模した展望台がある。更に東に上ると山頂で、小御嶽神社が祀られている。ここが主郭と考えられ、周囲には若干の腰曲輪らしい平場がある。遺構としてはそれだけであるが、この山からの眺望は素晴らしく、晴れていれば眼前には富士山の雄大な姿を見ることができるだろう。
御坂城遠望→DSCN8786.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.503505/138.780466/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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笹尾砦(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8589.JPG←二ノ郭北側の円弧状堀切
 笹尾砦は、笹尾城・笹尾塁とも呼ばれ、武田信虎が築いた城砦である。1531年、逸見の有力国人今井氏等が諏訪頼満と結んで信虎に反乱を起こした際に、信虎は諏訪勢の侵攻に備え、諏訪を追われた諏訪下社の大祝金刺昌春に笹尾砦を築かせて守らせた。その後、甲斐の騒乱が収まった後には、武田氏家臣の笹尾石見守や小田切某の居城となったと伝えられている。1582年の武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際には、小田原北条氏が笹尾砦を使用したと考えられている。即ち、本能寺の変が起きると、神流川の戦いで織田氏の部将滝川一益を破った北条氏直は、上州から佐久へ侵攻し、川中島での上杉勢との対峙を経て、甲斐・信濃の徳川勢を撃破するため大門峠から諏訪に入り、南下して8月6日に甲斐の若神子城に本陣を置いた。一方、徳川家康は同月10日、新府城に本陣を進めて北条の大軍と対峙した。以後、同年10月下旬に両者で和睦が結ばれるまで、2ヶ月半に渡る長期対陣となった。この間、両者によって多数の城砦が修築、或いは新造されており、笹尾砦は北条氏によって改修されたと推測されている。

 笹尾砦は、釜無川北岸にそびえる七里岩台地から突き出た細い半島状台地の上に築かれている。この地は甲斐信濃国境に近く、甲斐防衛のために重要な地であった。砦跡は現在城山公園となって整備されている。南端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭・六ノ郭と並んだ連郭式の縄張りとなっている。この内、公園として整備されているのは主郭・二ノ郭である。主郭は東辺以外を土塁で囲んだ細長い曲輪で、二ノ郭との間は主郭土塁と二ノ郭土塁とで挟まれた堀切形状としている。二ノ郭も主郭と繋がる南側以外を土塁で囲んでいる。二ノ郭北辺の塁線は円弧状となっていて、その下に穿たれた堀切も円弧状となっている。二ノ郭の北西には虎口が築かれている。また二ノ郭の東西には帯曲輪があり、西のものは主郭との間の堀切に繋がっている。前述の円弧状堀切の東端部は台地を掘り切っておらず、東に突出した腰曲輪の基部を狭くして土橋を構築している。三ノ郭・四ノ郭は堀切もろとも消滅し、駐車場に変貌しているが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、既に耕作地として破壊されてしまっていた様である。駐車場の北には五ノ郭が丘となって残っている。ここは未整備で、内部は自然地形の平坦地となっている。五ノ郭の北には堀切が残り、更に六ノ郭の丘がある。六ノ郭もほとんど自然地形で、北側に堀跡がわずかに残っている。以上が笹尾砦の遺構で、主郭・二ノ郭はきれいに残っているが、それ以外はあまり城跡らしさを残しておらず、期待してたのに少々残念だった。
 尚、主郭の南から東にかけてかつては散策路があったが、現在は老朽化で遊歩道がかなり壊れて立入禁止となっている。最近でも相変わらず山林を全面伐採したり、遊歩道を作ったりと、城跡を公園として整備する事業が各地で行われているが、整備するなら長期的な維持のことを考えてやってほしいものである。
土塁が築かれた主郭→DSCN8612.JPG
DSCN8655.JPG←五ノ郭~六ノ郭間の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.834750/138.319963/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




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柳沢氏屋敷(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8570.JPG←石碑、奥の水田地帯が屋敷跡
 柳沢氏屋敷は、弥太郎屋敷とも呼ばれ、甲斐武田氏の家臣柳沢氏の居館である。柳沢氏は、釜無川流域の地域武士団「武川衆」に属した一族で、甲斐守護で武川衆の祖となった一条時信の6男青木十郎時光を祖とする家系で、時光の6世尾張守安遠の次男弥十郎信興が柳沢村に分封されて柳沢氏を称した。以後、弥太郎貞興・信景・信房・信兼・信久・信俊と歴代の居館となった。1433年、柳沢氏一族の法名立阿が、同じ武川衆の山寺・牧原氏と共に武田信満の子八郎信長に従って、「荒川合戦」で守護代跡部氏と戦い、討死した。戦国時代には武田氏の元で活躍し、1567年の「下之郷起請文」には武川衆有力者7人の一人として柳沢壱岐守信勝が連署している。1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。この時柳沢氏は武川衆の一員として徳川家康に服属した。8月29日、徳川方として中山砦を守っていた武川衆が花水坂で北条勢と戦い、北条の間者中沢某を討ち取り、山高宮内・柳沢兵部が首級を得たと言う。1590年に徳川氏が関東に移封となると、兵部丞信俊は徳川氏の旗本として武川の諸士と共に武蔵国鉢形領に移り、1614年に采地で没した。信俊の孫が吉保で、吉保は5代将軍徳川綱吉の側近となり、側用人として絶大な権勢を誇ったことは広く知られている。

 柳沢氏屋敷は、大武川南岸の平地にあったと言う。しかし大武川の度重なる水害によって地形が変わり、その痕跡は残っていない。県道612号線沿いに柳澤氏発祥之地と刻まれた立派な石碑が建っているが、その南西にあったらしい。今は一面の水田地帯となっている。尚、付近には柳沢氏が開基したという柳沢寺跡に残る六地蔵石幢があり、柳沢氏の足跡を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.786931/138.353995/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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星山古城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8542.JPG←背後の堀切
 星山古城は、武川の住人の逃げ込み城と伝えられる。地域武士団「武川衆」の一人柳沢兵部が隠れた場所とも伝えられるが、柳沢氏にのみに留まらず武川衆に関わる人々や付近の村民が戦乱を避けた避難所と推測される。1582年の織田勢の甲斐乱入の際にも使われたのだろう。

 星山古城は、大武川の支流石空川の西岸にそびえる標高969mの尾根先端部に築かれている。東西に北に突き出た山稜があり、それらより奥まった位置にあり、いかにも逃げ込み城らしい立地である。北東麓の緩斜面の台地に別荘地があり、その一番奥から登道がある。しかし途中までほとんど消失しているので、別荘地背後にある北東に突き出た小丘を西側に迂回し、丘の裏の鞍部に回り込めば、そこから堀底道状の登道が明確に残っている。山上に近づくと、北西斜面に穿たれた長い竪堀に至る。主郭はその上にそびえているが、登道は主郭背後の堀切に繋がっている。この堀切は主郭背後の尾根を長く穿っている。山上の主郭は平坦だが小規模で、物見の砦という趣である。主郭背後には細尾根の小郭が続いている。この前面の砦に対し、前述の堀切の南西には広大な平坦地が広がっている。ここは村人の避難場所とされている。この前面の砦と後部の避難所の平地という組み合わせは、城砦の規模は違うものの陸奥柳沢大楯と同じ構造である。縁者や村民を暴兵から守るための必死の抵抗は、どこでも同じだったのだろう。
主郭→DSCN8527.JPG
DSCN8515.JPG←北西斜面の竪堀
後背地の避難所の平地→DSCN8545.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.758589/138.331186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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中山砦(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8405.JPG←土塁で囲まれた主郭
 中山砦は、釜無川流域の地域武士団「武川衆」が守った砦である。武川衆は、一条信長(武田信光の子)の孫時信の諸子が分立して形成した武士団で、青木・折井・山高柳沢・牧原・教来石・白須・山寺・横手等の諸氏が知られる。戦国期には武田氏配下の一勢力で、1561年の第4次川中島合戦では武田典厩信繁の麾下で戦った。1582年3月の武田勝頼滅亡の際には武川衆は戦う機会を失し、主家の終焉を見送る結果となった。しかしそのわずか3ヶ月後に本能寺で織田信長が横死し、北条・徳川両氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が勃発すると、徳川家康はいち早く武川衆の有力者折井市左衛門尉次昌・米倉主計助忠継との接触を図り、武川衆は徳川方に付いて中山砦を守備して北条勢と対峙した。『甲斐国志』によれば、8月29日、中山砦を守っていた武川衆が花水坂で北条勢と戦い、北条の間者中沢某を討ち取り、山高宮内・柳沢兵部が首級を得たと言う。中山砦は、甲斐国の北方を防衛する重要な砦であった。

 中山砦は、釜無川と大武川の間にそびえる標高887.3mの中山の山頂に築かれている。北西の中山峠から登山道が整備されており、迷うことなく登ることができる。途中にある中山の西の峰には展望台が建っているが、この峰も砦の出曲輪であったらしく、北尾根に堀切が穿たれている。この峰から東に尾根を辿ると二重堀切があり、その上に主郭がそびえている。主郭は外周を土塁で囲んだ繭型の細長い曲輪で、両端が円弧状となっている。内部は土塁で南北2郭に分かれ、2郭を仕切る土塁には中央に虎口がある。また北郭の東側には虎口が築かれ、帯曲輪を経由して主郭南側の半月型の腰曲輪に通じている。この腰曲輪の下方には円弧状横堀が穿たれている。この横堀を三日月堀と呼ぶ城郭本もあるが、この呼称は疑問である。他地域の山城でもこうした円弧状横堀はあるが、そこでは三日月堀と呼ばれることはない。武田の城だと、実態から離れてすぐ三日月堀と呼びたがるのは悪しき風習だと思う。この円弧状横堀から尾根を少し下ると、そこにも堀切が穿たれている。また主郭の東斜面には3段の帯曲輪があり、竪堀も落ちている。中段の帯曲輪は北東尾根まで伸び、ここでも北端部に竪堀が落ちている。その上には腰曲輪、下方の北東尾根の先にも小郭と堀切がある。北東尾根には更にしばらく行った先にも腰曲輪群が築かれている。
 中山砦は、大きな城砦ではないので、籠められる兵数は多くはないが、信州往還の道筋を眼下に押さえる要地であり、重要性がよく分かる。
円弧状の横堀→DSCN8439.JPG
DSCN8380.JPG←西の峰北側の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.793667/138.338664/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 山梨編

甲信越の名城を歩く 山梨編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本


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深沢砦(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8337.JPG←北辺部の土塁
 深沢砦は、1582年に北条・徳川両氏が武田遺領をめぐって争った天正壬午の乱の際、北条勢が築いたとされる砦である。本能寺の変が起きると、神流川の戦いで織田氏の部将滝川一益を破った北条氏直は、上州から佐久へ侵攻し、川中島での上杉勢との対峙を経て、甲斐・信濃の徳川勢を撃破するため大門峠から諏訪に入り、南下して8月6日に甲斐の若神子城に本陣を置いた。一方、徳川家康は同月10日、新府城に本陣を進めて北条の大軍と対峙した。以後、同年10月下旬に両者で和睦が結ばれるまで、2ヶ月半に渡る長期対陣となった。この間、両者によって多数の城砦が修築、或いは新造された。北条勢は若神子城を中心に七里岩台地上の各所に砦を築いているが、深沢砦もそうしたものの一つと考えられている。『甲斐国志』によれば、8月29日、徳川方に付いて中山砦を守っていた武川衆(釜無川流域の地域武士団)が花水坂で北条勢と戦い、北条の間者中沢某を討ち取り、山高宮内・柳沢兵部が首級を得たと言う。花水坂は、七里岩台地上の日野から釜無川と大深沢川との合流点に架かる花水橋に至る古い信州往還の道筋であった。花水橋は台ヶ原へ通じる交通の要衝で、深沢砦はこの花水橋を眼下に押さえる要地であり、花水坂合戦と関連する砦であったと推測されている。
 尚、一説には、深沢砦は元々武田氏の家臣深沢民部の城砦であったとも伝わるが、詳細は不明である。

 深沢砦は、釜無川と大深沢川との合流点の北側にそびえる城山と言う峰にある。砦とされる遺構は、南北に走る尾根の3ヶ所にあるとされるが、『甲斐の山城と館』によると明確な遺構が見られるのは真ん中の峰だけということなので、そこだけ踏査した。峰のすぐ側まで車道が通っているので、簡単に登ることができる。峰上には広い緩斜面の平場があり、一部に土塁も見られる。特に北辺部の円弧状土塁は明瞭である。また南端部はほぼ自然地形ではあるが平坦な緩斜面が舌状に伸びていて、物見としても好適な地であったことが伺える。
南端の平坦地→DSCN8353.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.811071/138.358544/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣城
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長坂氏屋敷(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8314.JPG←主郭の土塁
 長坂氏屋敷は、釣閑屋敷とも言い、武田氏の重臣長坂氏の屋敷と伝えられる。長坂氏は、武田氏の一族栗原氏の庶流で、1504年以降に長坂郷に入部して長坂氏を称した。長坂氏2代大炊助虎房は、1542年9月の武田信玄と高遠頼継との合戦の際、頼継の弟蓮芳を討ち取る功名を上げた。1548年、虎房は諏訪郡代となって上原城に入り、諏訪の経営に当たった。虎房の子釣閑斎光堅も行政手腕に優れ、騎馬40騎・足軽45人を率いて足軽大将として信玄に仕えた。信玄死後は武田勝頼の側近となって跡部大炊助勝資と共に活動したが、『甲陽軍鑑』では武田家没落の原因となった奸臣として評されている。1582年3月、織田信長の武田征伐の際、勝頼滅亡に殉じて甲府で自刃した。『甲斐国志』では、北条・徳川両氏が武田遺領をめぐって争った天正壬午の乱の際、北条勢が長坂氏屋敷を修築して砦としたと解釈している。しかし街道筋から離れて存在しているため、北条氏の利用については疑問視する意見もある。
 尚、屋敷地としても、集落から離れて丘陵上に単独に存在するため、実際の屋敷は別の場所にあったとの説もある。

 長坂氏屋敷は、長閑原と呼ばれる比高10m程の丘陵上に築かれている。西麓から丘陵に登る道が付いているが、屋敷跡の遺構は薮の奥に存在するため、場所がわかりにくい。ちょっと薮の薄そうな所を選んで突っ切ったら、ようやく遺構に辿り着けた。基本的に単郭の城館で、全周を土塁で囲み、南辺の中央部に虎口を設けている。主郭の西・南と東の半分ほどは外周に空堀が廻らされ、前述の虎口の外には土橋が架かっている。主郭は西と南は直線形の塁線であるが、東から北にかけては大きく弧を描いている。この弧の部分の外側には帯曲輪が築かれている。遺構としてはこれだけで、主郭内はある程度薮払いされているものの、土塁上や外周は薮がひどい。丘陵上は一面の雑木林と草薮で、目印になるものもなく、遺構を見つけるのも大変である。
薮に埋もれた空堀→DSCN8330.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.814411/138.377792/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田氏滅亡 (角川選書)

武田氏滅亡 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/02/24
  • メディア: 単行本



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深草城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8241.JPG←虎口のある仕切り土塁
 深草城は、武田氏の家臣堀内氏の居城である。堀内氏は源(逸見)清光の家臣で、代々深草城を居城としたらしい。戦国後期には堀内下総守が城主で、その子主税助の時に落城したと伝えられる。この落城時期は明確ではないが、戦国後期に甲斐国内で戦乱が起きたのは1582年の織田信長の武田征伐か北条・徳川両氏が争った天正壬午の乱の時だけなので、1582年頃と推測される。

 深草城は、周囲を水路で取り巻かれた台地の縁を利用して築かれている。内部は北郭・南郭の2郭に分かれている。北郭の方が南郭より高い位置にあるのでこれが主郭であろう。北郭はほぼ五角形をした曲輪で、全周に土塁を築いて防御している。南東の土塁は、南郭との仕切り土塁になっていて、中央に虎口が築かれている。南郭も東西両辺に土塁が築かれているが、南には土塁がなく、直接水路の水堀に接している。ちなみに南郭にはかつては仕切り土塁があって、更に2つの曲輪に分かれていたらしい。城の外周には水路の水堀が流れ、唯一台地続きとなっている北端部分には堀切が穿たれている。以上が深草城の遺構で、横矢掛かりも塁線の屈曲も枡形虎口もなく、平易な作りの土塁囲郭の城である。解説板も城址標柱もないが、地主さんが城内を綺麗に薮払いしてくれており、ありがたいことである。
北辺の水堀→DSCN8268.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.846370/138.383671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 山梨編

甲信越の名城を歩く 山梨編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本


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前の山烽火台(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8198.JPG←主郭周囲の石積み
 前の山烽火台は、塩川流域に築かれた烽火台の一つである。ここから信州峠を越えて信濃佐久に通じる小尾街道が通っている。また塩川の支流本谷川流域に鉱山があり、烽火の中継と共に鉱山との関係もあったものと『甲斐の山城と館』では推測している。南には比志城大渡の烽火台があり、信濃の情報を伝達する烽火通信の重要な中継地点であった。

 前の山烽火台は、塩川ダムの南にそびえる標高990mの山上に築かれている。この山の北にあるダム湖「みずがき湖」にはかつて塩川集落があり、そこに根小屋があったものと推測されている。前の山烽火台への登り道は、東麓の県道610号線脇にあり、迷うことなく登ることができる。登り道は山の北東の尾根に至り、尾根上の2ヶ所の平坦地を越えて、山頂の主郭に至る。主郭には朽ちかけた烽火台の標柱がある他、石碑2基とアンテナ設備が建っている。主郭の周囲には石積みがあり、往時の遺構ではないかと思われる。また主郭の南斜面には、数段の腰曲輪群が確認できる。遺構としてはそれだけで、堀切もなく、簡素な構造の烽火台である。
主郭の標柱→DSCN8191.JPG
DSCN8205.JPG←南斜面の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.856735/138.498942/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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勝山古戦場(山梨県甲斐市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8164.JPG←勝山の丘陵か?
 勝山古戦場は、1538年7月18日に武田晴信(後の信玄)が諏訪頼重・小笠原長時の信濃連合軍を韮崎に迎撃した際、武田氏の部将原加賀守が勝山に布陣し、遊軍を率いて進撃し大勝を得たと言う。

 勝山古戦場は、塩川東岸の段丘上の丘陵にあるらしい。一応市の史跡になっているのだが、周辺を探索しても石碑も解説板も見つけることができなかった。後でネットでもう1回調べてみたが、結局何もないらしい。とりあえず、丘陵地だけ撮影して終わりにした。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.698005/138.470167/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史 (県史)

山梨県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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白山城北砦(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8135.JPG←主郭背後の堀切
 白山城北砦は、北烽火台とも言い、歴史不詳の城砦である。白山城のすぐ北の尾根の標高602m峰に位置しており、白山城よりも40m程高所に築かれている。白山城の南には白山城南砦があり、北砦と一対となっている。これらの砦が白山城と同時代に機能したかは不明であるが、普通に考えれば白山城の防衛網の一翼を担う城砦と推測される。実際に武田氏の城砦には、平瀬城塩田城等の様に本城を中心に両翼の尾根に小城砦を築いて連立させるものがあり、白山城もその様な形態の城だったのではないだろうか。

 白山城北砦は、白山城と共に国指定史跡となっているが、明確な登山道は整備されていない。武田八幡神社の境内に北砦の解説板があり、獣避けフェンスの出入口から少し北に進み、比較的斜度の緩い斜面を直登する。城域は大きく2つに分かれ、最初に現れるのが東の腰曲輪群である。いくつもの段が築かれ、最上部に物見台の様な小郭がそびえている。その背後の蟻の戸渡りの様な細尾根を通ると、ようやく砦の中心部に至る。主郭は細長い曲輪で内部は2段に分かれ、後部に土塁を築いている。その背後には堀切が穿たれている。以上が白山城北砦で、比較的簡素な構造の小城砦である。南砦と比べると縄張りに大きな違いがあり、それぞれの役割の違いを表している様である。
 尚、主郭に通じる尾根は前述の通り両側が絶壁となった蟻の戸渡り状態だし、東の曲輪群も北側がコンクリートで固められた絶壁でなかなかスリリングである。健脚の人向けの城砦で、老人には危険であろう。細尾根は、そのうち崩れて登れなくなるかもしれない。
東の腰曲輪群→DSCN8110.JPG
DSCN8126.JPG←主郭

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.704435/138.416566/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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白山城南砦(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8041.JPG←二重竪堀
 白山城南砦は、ムク台烽火台とも言い、歴史不詳の城砦である。白山城のすぐ南の尾根の標高695m峰に位置しており、白山城よりも130m程高所に築かれている。白山城の北には白山城北砦があり、南砦と一対となっている。これらの砦が白山城と同時代に機能したかは不明であるが、普通に考えれば白山城の防衛網の一翼を担う城砦と推測される。実際に武田氏の城砦には、平瀬城塩田城等の様に本城を中心に両翼の尾根に小城砦を築いて連立させるものがあり、白山城もその様な形態の城だったのではないだろうか。尚、ムク台とは古くはモク台と呼ばれ、煙がモクモク上がったことから付いた名と伝えられる。

 白山城南砦は、白山城と共に国指定史跡となっており、登山道が整備されている。砦に近づくと、途中に2本の堀切が散発的に現れる(但し最初の1本は、登山道が堀底を通っている形なので、横掘という方が正確かもしれない)。更に登るともう1本の堀切と北東の2段の腰曲輪を経由して主郭に至る。主郭は三角形の形をしており、南辺に土塁を築いており主郭後部まで取り巻いている。主郭の内部には、烽火台の窪みも残る。主郭の後ろには細尾根上の細長い小郭があり、その先端は堀切で分断されている。この堀切から落ちる竪堀は、西側斜面で短い竪堀と並列になっていて、二重竪堀の形状となっている。この二重竪堀から主郭西斜面にかけて武者走りが通っている。背後の尾根上には小さな平場があり、東斜面に竪堀が落ちている。以上が白山城南砦の遺構で、砦の内部は草木が間伐されて整備されているため、遺構が非常に見やすくなっている。所々にパウチされた案内図が掛かっており、初心者でも見やすいと思う。主郭から眼下には白山城が見える。
主郭の土塁→DSCN8031.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.693212/138.420771/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 山梨編

甲信越の名城を歩く 山梨編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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扇子平山城(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7967.JPG←土塁で防御された主郭
 扇子平(おうぎだいら)山城は、武田氏の一族で重臣であった甘利左衛門尉昌忠の要害城である。甘利氏の居館があった大輪寺近くにある解説板によれば、甘利氏の祖行忠が甘利庄に居館を構えた際に、西方の旭山の山裾にある丘陵に要害を築いたと言う。昌忠の時には亭候(物見)が置かれたと言う。尚、その山形が扇を開いた形に似ていたので扇子平と言われていると言う。

 扇子平山城は、標高620mの山裾の尾根上に築かれている。北東の尾根の先に小曽根集落の奥に伸びる車道があり、獣避けフェンスを越えてすぐの所を左の山林に入り、尾根を目指して登っていけばよいが、道はかなり不明瞭なので山城歩きに慣れていない人は迷うかもしれない。尾根に辿り着くと、若干の平坦地や竪堀状の地形が見られ、これらも遺構と思われるが、『甲斐の山城と館』の縄張図では遺構と認識されていない。尾根筋を登っていくと上方に城域先端の烽火台が見えてくる。烽火台はわずかに土塁を築いた小曲輪で、後ろに蟻の戸渡りの様な細尾根で本城に繋がっている。更に尾根を登っていくと堀切が穿たれ、その上に三ノ郭がある。三ノ郭は何段かの曲輪群で構成されており、扇子平の名の通り東に向かって扇状に開いた形をしている。北辺に土塁も見られるが、削平は甘くざっくりした普請である。三ノ郭の上方は自然の斜面になっており、その上に二ノ郭が築かれている。二ノ郭は、東西に土塁を築いており、内部はいくつかの段差で分かれているが、これもざっくりした普請で削平が甘い。二ノ郭の背後には堀切が穿たれ、その上に主郭がある。主郭は細長い曲輪で、北辺から西側後部にかけて土塁を築いている。また南北に帯曲輪を付随させている。主郭の背後の尾根には堀切を穿っているが、他の堀切よりも規模が大きい。その先は細尾根であるが、物見台の様な平場がある。以上が扇子平山城の遺構で、三ノ郭や二ノ郭に枡形虎口の様な地形も見られるが、全体に普請が大雑把で構造があまり明瞭ではない。北北西2kmの位置にある白山城と比べると、その違いは明らかで、信玄・勝頼の時代に甲斐武田氏が強盛を誇った時期には、伝承の通り物見が置かれた程度の役目しか負っていなかったのだろう。
二ノ郭背後の堀切→DSCN7948.JPG
DSCN7979.JPG←主郭背後の堀切
尾根先端付近にある竪堀→DSCN7905.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.682982/138.428432/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


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御前山城(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7824.JPG←北尾根の横堀の土塁
 御前山城は、御前山砦、御前山の烽火台とも言い、歴史不詳の城である。御前山城の南東麓には夕狩沢古戦場がある。1465年、19歳の武田信昌は専横の振る舞いが多かった守護代跡部景家と夕狩沢で戦って撃ち破った。御前山城は、この武田信昌か跡部景家と関わりがある可能性が考えられる。

 御前山城は、標高776m、比高400mの峻険な御前山に築かれている。登道がよくわからず、『甲斐の山城と館』には北尾根を登るのが楽とあったので、460m付近まで車で東斜面の山道を登り、そこから歩いて北尾根を目指した。ところが明確な道は途中で消失してしまい、斜面直登することになった上、結構傾斜はあるし、且つ尾根筋が長くてあまり楽な道ではなかった。北尾根から城に近づくと、最初に円弧状に土塁を築いた横堀が現れる。これが御前山城で最も明瞭な遺構である。更に登ると北東斜面の腰曲輪に至る。この腰曲輪は外周に低土塁を築いた、円弧状の曲輪である。主郭はその上の山頂にあると考えられるが、主郭内は巨岩だらけでほとんど曲輪の体をなしていない。主郭の南東の尾根には段曲輪群が数段連なり、更に尾根を下っていくと平坦な尾根となり、その先に一段高くなった平場があり、これも曲輪と思われる。内部は2段に分かれており、その先の尾根には浅い小堀切がある。堀切の先には2段の尾根上の平場があるが、あまり普請は明瞭ではない。一方、主郭背後の北西の尾根には、巨岩がゴロゴロした斜面の先の尾根鞍部に浅い小堀切が穿たれている。以上が御前山城の遺構で、全体に普請が雑と言う印象である。もしかしたら、信昌の攻撃を受けた跡部景家が、急遽城砦を築いて立て籠もったのだろうか?それにしても、ちょっと登山の苦労を考えると、ちょっと苦労が報われない城だった。また私が登った時、城内をモトクロスで走り回ってる人達が3人おり、そのため段曲輪や切岸にタイヤの跡が付いていた。遺構の損壊がちょっと心配である。
北東斜面の腰曲輪→DSCN7831.JPG
DSCN7873.JPG←巨岩だらけの主郭
南東尾根の堀切→DSCN7857.JPG
DSCN7889.JPG←北西尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.696123/138.640734/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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小田野城(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7796.JPG←北尾根の堀切と小郭
 小田野城は、甲斐源氏の安田遠江守義定の居城と伝えられている。小田野城の南東麓には義定の御所館があったとされる。義定は、1180年、甲斐源氏の中ではいち早く以仁王の平家追討の令旨に呼応して挙兵し、その後兄の武田信義と共に富士川の戦いを始め、平家追討に功をたてた勇将であった。しかし、甲斐源氏の勢力増大を恐れた源頼朝によって、1194年に滅ぼされた。義定が自刃した場所は、放光寺とも小田野城であったとも言われる。その後、室町時代には甲斐守護代の跡部氏の詰城となった。1417年に甲斐守護武田信満が上杉禅秀の乱に荷担して滅亡した後、甲斐が守護不在状態となったことから、室町幕府は在京していた信満の弟武田信元(穴山満春)を甲斐守護に任じ、信濃守護小笠原政康に命じて信元を甲斐へ帰還させた。この時、小笠原氏の庶流跡部明海・景家父子が信元補佐のため守護代に任じられて甲斐に入国したと考えられている。跡部氏は守護武田氏を凌ぐ勢威を有し、信元の死後に6代将軍足利義教の命で武田信重が甲斐守護として入国してからも、跡部氏が実権を握っていた。1455年に信重の孫信昌が守護となった時には、信昌が幼少であったため跡部氏は専横を極めたとされる。1464年に明海が死去すると、翌年信昌は夕狩沢合戦で跡部景家を破り、景家は小田野城に敗走して自刃した。

 小田野城は、標高883mの小田野山に築かれている。東麓の普門寺の墓地に登り口の表示があり、そこから登山道が付いている。以下、曲輪の番号は『甲斐の山城と館』に従って呼称する。墓地裏から高さ50m程登ると蔵王権現等が祀られた東出曲輪(5郭)に至る。祠の背後を取り巻くように土塁が築かれている。出曲輪の南は平坦ではあるがほとんど自然地形の幅広の尾根で、どこまでが曲輪かはっきりしない。出曲輪から西に尾根を登ると、すぐ先に小堀切がある。その先の尾根をしばらく登ると、段曲輪群と堀切が見えてくる。ここからが小田野城の東尾根曲輪群となる。更にその上に細長い4郭を中心とした曲輪群が築かれている。4郭の上には巨岩がゴロゴロしており、それを突っ切ると、細尾根上の3郭に至る。3郭の後ろにも巨岩がゴロゴロしているが、その裏に小堀切がある。その上には1郭がある。1郭は2段の平場に分かれているが、段差はあまりはっきりしない。主郭の南に末広がりの腰曲輪の様な2郭がある。1郭の南西部の2郭との接続部がやや窪んだ地形になっていて、枡形のようにも見えるが形状はあまりはっきりしない。2郭から南に伸びる尾根にも南尾根曲輪群があり、段曲輪群が連なっている。先端付近に細長い6郭があり、その先に腰曲輪が数段あって城域が終わっている。一方1郭の背後の北尾根にも小郭と小堀切がある。更に細尾根が続いた後、竪堀と8郭があって城域が終わっている。
 以上が、小田野城の遺構で、曲輪群が構築されているが堀切は浅く、縄張りに技巧性もあまりなく、古風な造りの城である。戦国期には城郭としてはほとんど使用されていなかったと思われる。
 尚、この城の東の尾根道は、結構傾斜が急である上、まだ3月中旬で薮もないのに、ズボンにマダニが多数くっついていた。ちょっと注意が必要な山である。
主郭→DSCN7757.JPG
DSCN7685.JPG←東出曲輪の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.742568/138.674659/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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下釜口烽火台(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7639.JPG←腰曲輪の石積み
 下釜口烽火台は、甲斐武田氏が甲斐国内に配置した烽火台網の一つで、武蔵との国境を繋ぐ雁坂道(秩父往還)沿いに築かれ、雁坂峠方面の異変を伝達する役目を負っていた。武田氏の家臣でこの地の豪族荻原豊前守が守備していたと言う。荻原氏は、甲斐守護武田信昌の後裔と言われる。豊前守の父荻原常陸介は、武田信虎が幼少の時に弓矢を指南したと言われ、1521年の飯田河原合戦の際には片山の上に疑兵を飾って勝利に貢献したと言う。武田信玄の重臣飯富兵部の伯母婿でもあったらしい。

 下釜口烽火台は、上荻原集落の西にある標高760mの城山に築かれている。烽火台は城山公園として整備されており、以前は南東麓のスポーツ広場から螺旋階段を通る登道が整備されていた様だが、現在は螺旋階段は立入禁止となっており、その上の斜面も崩れたものを修復したらしく、シートが貼られて道が途絶している。そんなわけでちょっと取り付きが難しいが、斜面を直登していくと、ようやくかつての登道が現れるので、そこを登って行けば良い。烽火台と言われるだけあって小規模な城砦で、山頂に長円形の主郭を置き、その南下方に段曲輪、更に下方に腰曲輪を築いただけの簡素な構造である。主郭の後部には石で囲まれた土壇があり、主郭内には展望台が建てられている。段曲輪には鉄塔が立っているが、曲輪の形状はそのまま残っている様である。その下の腰曲輪には明確な石積みがあり、かなりしっかりと積まれている。この他、主郭背後の尾根には2本のかなり小さな堀切が穿たれている。石積みだけが唯一の見所であるが、貴重な戦国時代の烽火台遺構であろう。。
主郭→DSCN7649.JPG
DSCN7658.JPG←主郭背後の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.790030/138.737122/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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中野城(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7457.JPG←土塁で防御された虎口
 中野城は、甲斐源氏の一族秋山太郎光朝が築いた詰城と言われている。光朝の事績については秋山光朝館の項に記載する。尚、中野城の南東の支尾根の先には支城とされる雨鳴城があるが、中野城のことを雨鳴城と呼ぶこともあったらしく、古くから両城は一体のものとして認識されていたふしがある。従って光朝が鎌倉勢に攻められて最期を遂げた雨鳴城というのも、この中野城であった可能性がある。

 中野城は、標高1020.6mの城山に築かれている。山の西側に桜池の脇を通る車道が通っており、城山の北西麓の車道脇から登山道が整備されている。山頂にほぼ三角形をした主郭があり、その周囲に腰曲輪が廻らされている。腰曲輪には、東部分の北辺と西側部分に土塁が築かれ、南辺には両側を土塁で防御した虎口が築かれている。しかし主郭内も腰曲輪内も傾斜しており、削平は甘い状態である。主郭から北には断崖上の細尾根が伸び、細尾根上には展望台がある。ここからの眺めは最高で、釜無川流域と富士山がよく見える。更に細尾根を北に辿ると、やがて幅広の尾根となる。ほぼ自然地形の平場であるが、一応曲輪として機能したらしく、東辺には土塁が見られる。また北端には腰曲輪が築かれている。この他、主郭の南東下方にも緩斜面の平場があり、曲輪であったと見られる。中野城は、全体にざっくりとした古い形態の城で、秋山光朝が築いた鎌倉初期の城という伝承は事実ではなかったかと推測される。
主郭腰曲輪の土塁→DSCN7470.JPG
DSCN7520.JPG←北端の腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.591828/138.416437/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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雨鳴城(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7398.JPG←主郭の土塁
 雨鳴城は、甲斐源氏の一族秋山太郎光朝が築いた中野城の支城と言われている。光朝の事績については秋山光朝館の項に記載する。しかし現在残る遺構からは、戦国時代に普請がなされたものと推測されている。

 雨鳴城は、中野城のある城山から南東に張り出した支尾根に築かれている。雨鳴城から南に下った尾根上に天満宮があり、南西麓の車道脇から参道が付いているので、それを登って天満宮まで至り、そこから北に尾根を登っていけば城に至る。南東端に主郭を置き、そこから北西に伸びる尾根上に二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭を配置した連郭式の縄張りとなっている。主郭は南東に向かって開いた四角形の曲輪で、外周を土塁で囲み、北側に虎口を築いている。その背後に浅い堀切を介して二ノ郭がある。二ノ郭と三ノ郭の間も堀切が穿たれ、古道が通っている。三ノ郭と四ノ郭は段差だけで区画され、四ノ郭は物見台のような小郭となっている。二ノ郭・三ノ郭は削平されているが、土塁もないただの尾根上の平場である。この他、主郭の南尾根に土塁を伴った腰曲輪が築かれている。雨鳴城は、縄張りとしては素朴なもので、戦国前期より以前の城だった様に思う。
主郭背後の堀切→DSCN7418.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.586838/138.421651/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国期の城と地域―甲斐武田氏領国にみる城館 (中世史研究叢書)

戦国期の城と地域―甲斐武田氏領国にみる城館 (中世史研究叢書)

  • 作者: 山下 孝司
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2021/07/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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古城山砦・古城山烽火台(山梨県市川三郷町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7296.JPG←古城山砦の主郭の土塁
 古城山砦・古城山烽火台は、『甲斐国志』によれば、武田氏の家臣跡部蔵人が守備したと伝えられる。また1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際には、徳川氏の先鋒として市川に駐屯していた大須賀康高の陣営から守兵が出て古城山砦を守備したと言う。

 古城山砦・古城山烽火台は、標高868m、比高600m程の峻険な山上に築かれている。北東麓から登山道が整備されているので、迷うことなく登ることができる。また高い山ではあるが、稜線が長いので、時間は掛かるがゆっくり登ればそれほどきつい山ではない。登り口はいくつかあるようだが、碑林公園脇からの登路がわかりやすいだろう。
 中核となる古城山砦は、登山道からちょっと北に突き出た標高720mの峰に築かれている。登山道が尾根上に出たところに「浅間社 古城山の砦 ←」と書かれたプレートがあり、そのすぐ北側に南端の堀切がある。その先の自然地形を歩いていくと、その先に2つ目の堀切があり、そこから北側に砦の遺構がある。方形の主郭を中心に、北・東・南に腰曲輪を築いている。主郭は高さ2m程の切岸で囲まれ、東と南に土塁を築いている。主郭内には石碑がいくつも建っていて近世には信仰の山となっていたことがわかる。腰曲輪は北東に広く突き出た形で、内部は段差でいくつかの区画に分かれている。この中には天水溜めと思われる池がある。この他、東西の斜面にいくつかの竪堀が穿たれており、このあたりの築城思想は旭山城大野城と同じである。
 古城山烽火台は、古城山砦から更に150m程登った峰にある。東西に並ぶ2つの峰があり、烽火台とされているのは東の峰であるがほとんど自然地形で、西端に烽火台跡の土壇がある。ここからは甲府盆地全域が一望でき、眺望は最高である。一方、『甲斐の山城と館』で烽火台と推測しているのは西のカライシ山という峰で、山頂部に数段の平場群が見られ、普請の形跡が確認できる。
 以上が古城山砦・古城山烽火台の遺構で、砦はしっかりした普請がなされた城砦で、旭山城・大野城よりも曲輪の規模が大きく、それなりの兵数を置いたことがわかる。それにしても、碑林公園からだと烽火台のある最高所まで比高570mもあり、私が登った中で歴代3位タイの高さの城砦であった。
竪堀→DSCN7290.JPG
DSCN7328.JPG←砦の主郭北東の腰曲輪
砦の腰曲輪内の池→DSCN7320.JPG
DSCN7285.JPG←堀切
古城山の烽火台跡→DSCN7371.JPG
DSCN7358.JPG←カライシ山の平場群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【古城山砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.544876/138.508490/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【古城山烽火台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.539150/138.510936/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【カライシ山】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.539691/138.509392/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


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三枝土佐守虎吉屋敷(山梨県中央市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7245.JPG←館跡の段丘
(2021年2月訪城)
 三枝土佐守虎吉は、武田氏の家臣である。三枝氏は古代の名族であったがその後断絶し、武田信虎の時代に石原守種の次男丹波守守綱が三枝氏の名跡を継いで再興したと言われている。守綱の子が土佐守虎吉である。虎吉の長男勘解由左衛門尉守友、次男源左衛門守義は、長篠合戦で討死した。3男平右衛門昌吉は、父虎吉と共に天正壬午の乱以降、徳川家康に仕えた。昌吉は後に東向村の館に本拠を移して三枝氏の本家筋となり、昌吉以外の子は独立して各地に散り、それぞれ徳川氏に仕えて繁栄したと言う。

 三枝土佐守虎吉屋敷は、七覚川の支流の小河川沿いの高内と呼ばれる段丘先端部に築かれている。かつては4つ程の曲輪が南北に並んだ縄張りであったらしいが、現在館跡は民家と畑に変貌しており、明確な遺構は見られない。ただ段丘の東西には堀跡の低地があり、館の地勢はよくわかる。尚、民家裏の段丘辺縁部に館跡の石碑と祠があるが、民有地の中なので遠くから眺めることしかできなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.575477/138.564516/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 山梨編

甲信越の名城を歩く 山梨編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本


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右左口砦(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7189.JPG←主郭
(2021年2月訪城)
 右左口(うばぐち)砦は、甲斐・駿河を結ぶ重要街道である中道往還を押さえる砦である。1582年の天正壬午の乱の際、徳川家康は中道往還を通って甲斐に入り、北条氏直の大軍と2ヶ月半に渡って長期対陣した。黒駒合戦などで勝利を積み重ねた末、徳川方の優勢下で和睦が結ばれ、乱が終結したのが同年10月下旬である。乱終結後の11月4日に「うは口筋ニ取手普請候」と『家忠日記』にあり、その1ヶ月後の12月7日に「普請出来候」とあるのが右左口砦のこととされる。松平主殿助家忠が翌年まで中道筋の警護のために右左口砦を守備したと言う。しかし平山優著『天正壬午の乱』では、乱の最中に右左口砦は金刀比羅山砦と共に服部半蔵正成ら伊賀衆が守備し、中道往還の監視に当たったとしている。尚、砦の西麓には、武田氏を滅ぼした織田信長が駿河経由で凱旋するに当たり、徳川家康が整備したと言われる右左口宿がある。

 右左口砦は、右左口宿の背後にある標高537mの丘陵上に築かれている。幸い県道113号線が砦の背後まで通っているので、車で近くまで行くことができる。今冬は雪が少なかったので、まだ2月末にも関わらず県道を通行できた。県道から南斜面の桑畑を突っ切ると、山頂の主郭に至る。主郭は三角形に近い台形状の平場で、周囲を切岸で囲み、北西と東に腰曲輪を伴っている。また北西斜面は斜度が緩く、ここに竪堀群が見られる。しかし形状や意図がわかりにくく、謎の竪堀群である。遺構としてはそれだけで、耕地化による後世の改変もあるのだろうが、『家忠日記』にある1ヶ月も普請に要した城砦とは考えにくい。おそらく右左口砦と対となる金刀比羅山砦と合わせての普請だったと想像される。
謎の竪堀群→DSCN7206.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.566122/138.595394/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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大野城(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7094.JPG←土塁のある二ノ郭
(2021年2月訪城)
 大野城は、歴史不詳の城である。昭和61年の県教育委員会の調査で確認された城とされるが、『甲斐国志』には烽火台の記述があり、また山名の別名も「城山」で、城砦があったことは古くから知られていた様である。隣接する花鳥山で行われた1472年と1523年の合戦が、この城に関連すると推測されている。1472年、小山城主穴山伊豆守は信濃の大井氏と花鳥山で戦った。また1523年3月には、小山城主穴山伊予守信永は鳥坂峠を越えて侵入してきた南部下野守と花鳥山で戦った後、小山城で防戦したが、二ノ宮常楽寺へ落ち延びて自刃した。こうしたことから、大野城は小山城主穴山氏と関係が深く、小山城の詰城であった可能性も指摘されている。

 大野城は、標高675mの小物成山に築かれている。登り口は北北西の尾根の先端にある。果樹園脇の獣除けの柵の扉を開けて尾根に取り付き、尾根伝いに南に登っていけばよい。大野城は近傍にある旭山城と同様に、最高所の標高693mの峰から北北西に伸びる尾根上に合計4ヶ所に渡って遺構が散在している。前述の登り口から高さ70m程登ると、最初に現れるのが大手の曲輪群で、2段の段曲輪と背後の堡塁で構成されている。2つ目の遺構は、そこから更に細尾根を登った標高615mの峰にあり、小さい平坦地で物見台と思われる。ここには祠と石仏が祀られている。この峰から主城部近くまでの尾根には、山林の境界を示す網が張られている。尾根の鞍部には堀切が穿たれ、その先は急傾斜の尾根となる。3つ目の遺構は大野城の中核となる主城部で、標高675m の峰にある。尾根を登りつめると4段の段曲輪群が現れ、その奥に土橋を架けた堀切があり、その上に二ノ郭がそびえている。二ノ郭は東西に長い長円形の曲輪で、南北両辺に低土塁が築かれている。二ノ郭の東側には土橋状の細尾根が繋がり、その先に三角形に近い不整四角形の主郭がある。二ノ郭の南西尾根には6段の段曲輪群が連なり、主郭の北尾根にも堀切の先に4段の段曲輪群が築かれている。但しこの堀切は、外側に土塁を築いて横堀のような形状にしている。主郭の背後に当たる南尾根には2つの堀切と段曲輪、更にその先の細尾根の曲輪に2つの堀切が穿たれている。主城部の各尾根の段曲輪群は高低差が大きく、登り降りが大変である。4つ目の遺構は南尾根を登った先の標高694mの峰にある。城内では最高所にある曲輪群である。遺構の前には鉄塔が建っていて、訪城した時は鉄塔の碍子交換の工事を行っているらしく、そのための搬送レールなどの機材が曲輪群の横に多数設置されていた。ちょっと遺構の損壊が心配な状況だったが、草木が伐採されているため、遺構は見やすくなっていた。最高所に2段の曲輪があり、西の支尾根に堀切1本、南の尾根に堀切の先に数段の曲輪群を築いている。最高所の2段曲輪の周囲には竪堀が穿たれている。以上が大野城の遺構で、曲輪群を広範囲に散在させ、主城部の背後の峰にも烽火台等の曲輪を築き、大手筋の途中の峰に物見台を配し、堀切・竪堀を多用しているなど、旭山城との類似点が多い。
大手曲輪群→DSCN7047.JPG
DSCN7059.JPG←物見台から見た主城部遠望
主郭北尾根の横堀状堀切→DSCN7105.JPG
DSCN7149.JPG←竪堀
最高所の2段曲輪→DSCN7154.JPG
DSCN7165.JPG←最高所背後の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【大手の曲輪群】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.605978/138.679186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【標高615mの物見台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.604984/138.678650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【主城部】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.603518/138.680023/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【最高所の曲輪群】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.601477/138.680495/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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旭山城(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6987.JPG←主郭の背後の石塁
(2021年2月訪城)
 旭山城は、一般には旭山烽火台と呼ばれ、御坂道を監視する城砦である。単なる烽火台にしてはかなりしっかりした普請がされていて、実質的に城郭として機能したと考えられるので、『戦国 武田の城』(中田正光著)の表記に従って、ここでは旭山城と記載する。1487年に武田信昌が広厳院に出した寺領寄進状に「南ハ城山之峰をきり」とあり、この時には旭山城が存在していたことが確認される。『甲斐国志』では寄進の意味から、この時には既に廃されていたと推測しているが、現在残る遺構や立地の重要性から、戦国期や天正壬午の乱の際にも使われていたのではないかと考えられている。

 旭山城は、御坂道の東にそびえる標高842m、比高380mの峻険な旭山に築かれている。山頂から金川に沿って並走する北西の尾根上に合計4ヶ所に渡って遺構が散在している。北西麓から登山道が整備されているので、迷うことなく登ることができる。最初に現れるのが大手中段の標高611m地点にある蚕影山の物見台で、切岸で囲まれた円形の平地となっていて、蚕影山の石碑が建っている。2つ目の遺構は、主尾根から北に派生した支尾根の先の標高735m地点にある出丸で、尾根上の平場とその先端に2段の腰曲輪がある。腰曲輪の両脇に竪堀があるとされるが、現状からではあまりはっきりしない。3つ目の遺構は旭山城の中核となる主城部で、標高809.4mの三角点のある峰にある。長円形の主郭を中心に周囲に腰曲輪1段を廻らしている。更に北西の大手筋に竪堀で側方防御した腰曲輪が置かれ、更に下方に尾根上の平場があり、付け根の両側を竪堀で穿っている。主郭の背後の切岸には石塁の残欠が見られ、竪堀もある。後部の尾根には浅い堀切が穿たれている。ここの主郭からは蜂城がよく見える。ここから更に登った旭山山頂にあるのが4つ目の遺構で、台形状の平場となっている烽火台である。この背後の尾根には合計3本の小堀切が穿たれている。尚、これら以外にも、途中の細尾根には竪堀で刻まれたS字型の土橋状の部分も見られる。遺構はよく残っているが、残念なことに旭山城の主城部や山頂の烽火台付近は、茶臼山烽火台と同様に強風による倒木で遺構が損壊しており、堀切に倒木が落ちて遺構が見にくくなっていたりもする。
 それにしても旭山山頂までは遠い登道で、参考にしている『甲斐の山城と館』の著者宮坂氏は御老体でよく登ったなぁと関心することしきりである。
蚕影山の物見台→DSCN6912.JPG
DSCN6936.JPG←北支尾根の出丸の腰曲輪
主城部の竪堀→DSCN6961.JPG
DSCN7018.JPG←山頂烽火台の堀切
登り途中のS字土橋と竪堀→DSCN6917.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【蚕影山物見台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.620492/138.703068/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【北支尾根の出丸】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.618486/138.707489/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【主城部】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.615834/138.709184/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【山頂烽火台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.614177/138.712059/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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蜂城(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6885.JPG←主郭背後の二重堀切
(2021年2月訪城)
 蜂城は、武田氏一族の岩崎氏が詰城として築いた城と推測されている。岩崎氏は武田惣領家に匹敵する勢力を持った一族で、その事績は岩崎氏館の項に記載する。1457~8年の守護武田信昌と守護代跡部景家との戦いに巻き込まれて岩崎氏が滅亡すると、岩崎氏の遺領は栗原氏の支配下に入り、蜂城も栗原氏の管理下にあったと考えられている。

 蜂城は、標高738m、比高290mの蜂城山に築かれている。主郭には蜂城天神社があり、そこへの参道が東麓から整備されているので、迷うことなく登ることができる。標高680m付近まで登ると鳥居があるが、その下方には長い竪堀が穿たれている。また鳥居の上は急に傾斜が緩くなっていて、この緩くなった傾斜地に10数段にも及ぶ多数の帯曲輪群が築かれている。しかしこの帯曲輪群には、木が乱伐され、伐った丸太を乱雑に放置しているため、遺構がわかりにくくなってしまっている。しかも表土が崩され、遺構が損壊している部分もある。山梨県は元来山の国なので、山の手入れには気を遣っていると思っていたのだが、この状況はちょっといただけない。山頂には北側に腰曲輪を伴った主郭があり、前述の通り蜂城天神社が建っている。神社の後ろには土塁が残り、その後ろには土塁で囲まれた小さな窪地がある。ここから南東の尾根には浅い二重堀切と単発の堀切1本が穿たれ、更にその先の尾根には削平された痕跡が残り、脇には帯曲輪が築かれている。以上が蜂城の遺構で、縄張り的に技巧性はなく、主郭の前面の緩斜面を夥しい数の帯曲輪で防御しただけの、古風な縄張りの城である。尚、『日本城郭大系』の縄張図では多数の竪堀があるように描かれているが、実際にはほとんどはっきりせず、竪堀とは認識できないものがほとんどだった。
大手の長い竪堀→DSCN6801.JPG
DSCN6817.JPG←帯曲輪群
主郭後部の土塁→DSCN6855.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.636398/138.719398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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茶臼山烽火台(山梨県甲州市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6744.JPG←西尾根の堀切
(2021年2月訪城)
 茶臼山烽火台は、歴史不詳の城砦である。伝承では、勝沼氏の詰城であったとも言われる。勝沼氏は郡内小山田氏の目付であったので、勝沼氏がこの烽火台の管理に当たったとの説もある。また位置的には笹子口に備えた烽火台と推測されている。

 茶臼山烽火台は、標高948m、比高440m程もある峻険な山上に築かれている。以前は西麓から登山道が整備されていたが、近年の台風による倒木などで荒れており、登山道入口に「倒木危険 登山禁止」と掲示されている。茶臼山に登った人がネットに載せている記録の中に、本来の登山口から更に林道を奥に進み、標高670m付近から登ったものがあったので、そのルートを辿ることにした。しかし実際に訪れてみると、その付近では山林伐採が現在進行形で進んでいて、わずかにあるとされた踏み跡は、荒れ果てたガレ場に変貌していた。従って、道も消失しており、きつい斜面を高さ200mも直登することになった。そんなわけでキャッスリング上級者向けの城砦であることを最初にお断りさせていただく。苦労してようやく標高850m付近の尾根に出て、そこからは尾根に沿って東に登っていけば、やがて烽火台に至る。しかしこの尾根上も倒木が多数あった。また私が斜面直登で登り付いた地点から西の尾根は倒木でジャングルジム状態になっており、元の登山道は登攀困難だと思う。山上の烽火台は、小規模な城砦で、主郭の周囲に腰曲輪が廻らされ、東と北東の尾根には1本ずつ堀切が穿たれ、南の尾根だけ2本の堀切が穿たれている。縄張りとしてはそれだけの、単純な構造である。主郭には「大龍王」の石碑が建っているが、これは雨乞いのものであるらしい。遺構はよく残っているが、各曲輪の内部や堀切にも根こそぎ倒れた木がたくさんあり、城内はかなり荒れてしまっている。最近の連年の自然災害により、こうした城郭遺構が失われていく危機を目の当たりにした思いである。
山頂の主郭→DSCN6766.JPG
DSCN6764.JPG←主郭周囲の腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.636189/138.738452/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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